うちゅうのどっかでしゃる、うぃー、だんす「やあ、小松くん。久しぶり!」
何度聞いたかそのセリフ。
ミニマムシェルを停泊させたどこかの星にて、降り立ったトリコと小松を出迎えたのは未知なる生物などではなく。
死んでいるか、眠っているだけか、動かない未知なる生物の山積みを背後に、片手を上げて爽やかに笑うターバンの優男がひとり。
美形の顔立ちに見覚えがあり、またその口から発せられる穏やかな声色にも聞き覚えがあった。
「お前っ……ココぉ!?」
「こっ……ココすわぁ〜ん!?」
「リンちゃんには行き先と日程伝えたのか? 食いしん坊ちゃん」
男はおもむろに片膝をつき腕を広げた。
言うなればパブロフの犬──染み付いたクセは抜けないもので、小松は吸い寄せられるようにそこへ駆け込む。
「おい待て小松ゥ! ここは何があるか分からねー宇宙だぜ? 擬態してる危険生物かもしれねぇ」
小松が男の胸に飛びついたのはトリコが言うより先だった。
正確には違う。忠告を聞いた小松は少し手前で立ち止まってトリコを振り向き、戻ろうとした。それをすかさず筋肉質な腕が捕まえたのだ。
「お前は食林寺で餓死寸前になってまで何を学んできたんだ。占いでよく知った顔との再会があると出たから、着陸予測地点の安全を確保してやったのに……ニセモノかホンモノかくらい嗅覚で分かるだろ?
ま……分かっていることより分からないことの方が断然多い場所だ。警戒しておいて損をすることは少ないさ。そうは思わない? ねぇ小松くん」
51kg、世間一般的に持ち上げるとなれば軽くはないはずの体を予備動作無しで抱き上げられ、小松は咄嗟に男の肩を掴む。
ああ、これココさんだ。間違いない。
視線をトリコから小松へ移す途中で呆れ顔と微笑を器用に切り替えつつ、双方へ棘を刺す優しい口ぶりに小松は確信した。
「世界って広いのやら狭いのやら……」
鬼気を霧散させたトリコは頭を掻きながら小松をひっぺがした。
🌟🌟🌟
どうだい、フルコースは埋まったか。言い出しはトリコから。各々宇宙で見つけた新食材の情報を出し合い、もうひとり宇宙旅行中の悪友の痕跡を感じる星もいくつかあったからうかうかしてられないなんて話題には小松も苦笑いを浮かべたり。
「小松くんを借りてもいいか? 少しだけ、ふたりきりで話したいんだ」
幼少期から知り合う仲の話にはどこか横入りしずらい独特の雰囲気がある。小松は合槌をうって話を聞くことに専念していたのだが、どういう話の流れか自分の名前が出てきて、初対面時にココからフォロー(になっていない毒舌)を浴びせられたときと同じような品性の欠片もない声を出してしまった。
トリコが了承したために、乗ってきたミニマムシェルを離れて小松はココと二人、初上陸の星を歩いている。
「キミの反応はいつ見ても新鮮な気持ちになるよ小松くん」
皮肉か本心か、会話をぶった切ってあっちへこっちへ走っていく小松にココは楽しげな声を降らす。
そうだった、いま一緒にいるのはトリコさんじゃなくてココさんだったと猛省した小松は、立ち止まって待っている優男の隣へ駆け戻る。
「すみません、見たことない食材が次から次へと目に入ってしまって……」
「いいんだよ。食運が無くなっても変わりなくて嬉しいくらいさ」
「ココさんが嬉しいならなによりです……えへへ……ところでなんの話してましたっけ……」
作り笑いで言いにくいことを聞いた小松に対し、ココの表情は柔らかくも眼差しは冷ややかだ。なるべく離れないよう気をつけようと心に決めたが、小松の目は勝手に食材ないし食材かもしれないものへと誘われてしまう。
「それで、話の続きだけど」
喋りだしてすぐ言葉を止めたココは須臾の沈黙の後に口を開く。
「──前に、豪華客馬に乗ったときのこと覚えてる?」
「ああ、ハイ。ゼブラさんに会いに行くためって、トリコさんから理由も聞かされないで乗ってましたね。一泊二日だけじゃなく、もっと乗っていたかったです……」
いきなり降りると急かされたときのことを思い出し、小松はがっくり肩を落とす。
「仕方ないさ、あいつはゆっくり旅行を楽しむようなやつじゃないからね。地球に帰ったら行くといいよ。ボクも足代わりに2ヶ月だけ乗ったけど、予約5年待ちする価値はある。尤も、刺激の強すぎる旅をしてきた今のキミには退屈かもしれないが……」
「そんなことありません……うらやまじですココさぁん……ボクだって乗りたいですけど、頼んでトリコさんが首を縦に振ってくれるかどうか分かりませんし……あ、そうだ。リンさん経由で頼んでもらおう! 新婚旅行まだなんですよ、あの二人」
なぜトリコが出てくる──
微かに空気を吐く。唇を動かしただけともとれる囁き。
ああでも前みたいに途中で降りるって言い出したらどうしよう、まだ提案すらしていないのに頭を悩ます小松の耳には入らなかった。
「ま、頼んでみればいいんじゃない? 望み薄だろうけど。それより話の続きを聞いてもらえるかな」
「アッ、はいどうぞ!」
「……小松くんはサニーと踊っていたね。ダンスの時以外でも、サニーが隣を陣取っていたっけ。弟分とも言えるあいつが楽しそうにしていたからあの時は譲ったけどね」
ココは前触れなくひざまずいて手を差し出す。
「ボクは小松くんと踊りたいと思っていたんだ。あのときからずっと」
膝をついただけではココの顔は小松の真っ直ぐ前にある。背中を丸めることで、ようやく小松を見上げる位置になる。
「こんな話、なかなか言い出す機会もなかったからね。ご馳走もドレスコードも無いし、音楽はオーケストラの演奏じゃなくて、うろ覚えのハミングになるけれど……ボクと踊ってもらえないだろうか」
何も置かれていない手と、普通に生活していたら見下げることがまずないであろう美丈夫の顔とを見比べる。
相棒の昔馴染で、自分にとっても優しい友人であるココの誘いを断る理由も見当たらなかったため、小松は片手を置いた。
「いいですよ。ボク、へたっぴなのでココさんの足踏んづけちゃうかもしれませんけど」
小松は大きな手のひらに片手を置いたまま、ばつが悪そうに後頭部に手をやる。
サニーと踊ったとき、何度足を踏みつけたか分からない。「やりやがったな松?」と眉と口角を吊り上げたサニーに見えない触手でコマみたいにぶん廻された回数も同様。
「料理長は表舞台に出るものじゃないからね。慣れないダンスを頑張って踊ろうとしなくても、ボクがリードするから心配しなくていいよ」
背を丸めていた巨体がすっくと立ち上がった。
🌟🌟🌟
一曲目は小松にも聞き覚えがあった。
二曲目になると聞いた気がするな程度に記憶が薄れ、三曲目と続いた頃にはどれだけ頭を捻っても思い出せない。
サニーの楽しそうな声が被さっていた、慣れないステップに戸惑って演奏を聴く余裕が無かったなど要因はあれど、せっかく乗れた豪華客馬の思い出がもはや風前の灯火となっていることが嘆かわしい。
柔らかな声音は小松を童話の音読を聞く子供のような気分にさせる。
「よく覚えてますね。ボクなんかもうほとんど思い出せませんよ」
「小松くんは二日……ほぼ一日しか乗っていなかったからね。二ヶ月も乗っていたら意識しなくても耳にこびりついてしまうよ」
「いいなぁ〜……そういえばココさんはトリコさんと踊ってましたけど、あの後誰かと踊ったんですか?」
背に添えられていた手が離れ、小松の手を取っていた腕が上がる。ああ、回るんだなと意識して動こうとしたときには既に景色は一回、二回、三回転しており、ふらつきかけたところを腰に添えられた腕が受け止めた。
そのまま足を地面から数センチ浮かされ、体を反ることとなる。
「フフ、上手だよ小松くん」
「びっくりしましたよココさぁん!!」
「今ここにいない男の名前を出したキミが悪い」
ココは小松を地面に降ろしてステップを踏み始める。
「それで質問の答えだけど、あの後ボクは誰とも踊っていないよ。長く隠遁生活をしていたせいか、人がたくさん居るところは落ち着かなくてね」
「えぇ〜! じゃあ、ずっと部屋にこもりっきりですか!? 勿体ないなぁ」
「そうでもないよ。ボクの目にはあっても無くても変わらない壁と扉一枚向こうで昼夜問わず人が動き回っているんだから、ずっと部屋にこもっていても外にいても同じことさ」
「確かに……ココさん外に出て大丈夫でした? あの、女性が集まってきたりとか」
グルメフォーチュンで目撃した壮観を思い浮かべた小松が聞くと、ココの形良い眉が下がった。
「サニーが乗っている間は代わりに手酷く追い払ってくれたけど、あいつは先に降りたから……今はそういう気分じゃない、移動手段として乗っているだけ、探せば他に良い人いますよ、あと……ああ、ちょうど部屋に戻ろうとしていたも言ったかな。
誘いの断り方のレパートリーがずいぶんと増えたよ」
「ボクらが降りた後でそんなことが……」
小松の頭には、きらびやかなドレスを着た女性に囲いこまれて身動きが取れなくなるココの映像が思い浮かぶ。
「小松くんの思うほどのことは起きていないよ」
何を考えているのか電磁波で読み取ったか、あるいは当てずっぽうか。ココは口に出してもいない小松の想像を否定した。
「あそこにいた女性は基本的に品性ある貴婦人って感じで、占いの客ほど情熱的じゃなかったから助かったよ。
でもひとり粘り強い人がいたね。きれいな人だった。たぶん名家のご息女で、たくさんの男となんらかの関係をもっている電磁波が見えた……きっと、誘いを断られたこともなかったんだろう」
「その人と踊って……ないって言ってましたね。どうやって諦めてもらったんですか?」
「どう、か……説明が難しい。ちょっと長くなるけど、やってみようか?」
音楽が無くとも一定のリズムを刻んでいたココのステップが止まった。
指の叉にするりと骨張った長い指が通され、小松の両手を握り込む。内緒話をするように寄せられた顔はにこやかに微笑んでいる。
「──レディ、美食四天王ココという名前に聞き覚えはありますか。
ところで話は変わるようだが、蛇の毒は傷口から入ると危険でも、たいていは経口摂取する分には無害といいます。健康マニアの富豪の中には積極的に取り入れる者もいるとか……ボクはあまりおすすめはしないが……。
フグ鯨もそうだ。毒袋を取り出すときは素手で行うわけだから、毒化したのを触る分には体に影響は出ないでしょう。でも触った後の手で目を擦ったり、ものを食べたりすると、どんな危険があるか分からない……まあ、誰かの手で無害化されたものしか口にしないだろう貴女には関係の無い話ですね。
おっといけない、話が逸れてしまった。美食四天王ココについてでしたね。
彼の持つ毒は自然界にあるそれらをルーツにしているが、混合して生み出されたモノはまるで異なるものだ。例えばたったの一滴、触った箇所からたちどころに皮膚組織を腐食させ肉に至り骨すら残さず溶かし、それが一分と経たずに全身に回る激毒。自然界に存在しない新しい毒ですから抗体も血清も存在しません。
それを易々作りだせる、野放しにされた第一級危険生物……貴女はずっと、世界で最も有害な毒の塊を触りたがっていたんですよ。
そんなものと手を取り合い防護服にもならない布数枚挟んで身を寄せ合い命を委ねる勇気があるならば、ボクは喜んで誘いをお受けしましょう──」
進むごとに抑揚が薄くなっていく話し方。
それに付随して視界を埋め尽くさんばかりに寄せられた顔から表情、感情がひとつ、ひとつずつ失せていく。
見つめ返していると虚無感に襲われるほど琥珀色は空虚であるのに、手を握り込む力が徐々に強まっていくのが異質さを際立たせた。
小松が思わずヒッと息を吸うと、ココは柔らかく笑った。
「うん、確かそんなことを言ったかな」
ココの背筋が伸ばされる。
今しがた別の生き物のように思えた顔がよく知る優しい顔に戻って安心した小松はココの手を握り返した。
「ひ、ひぇ〜……! めちゃくちゃ怒ってたんですかってくらいの言いよう……どんな反応でした?」
「かわいそうなくらい顔を青ざめさせて泣きながら逃げていったよ。それ以降、ボクにダンスを申し込む人はいなくなった。
降ろされては困るから彼女にしか聞こえないよう言ったつもりだったけど、尋常じゃない逃げっぷりを見て皆怖がってしまったらしい」
「ココさん自覚あるか分かんないですけど、ココさんみたいな人が無表情になるとスゴく怖いんですよ……? 毒を使うときと使わないときでちゃんと制御できるって知ってるボクでもゾクゾクしましたもん」
「フフ……やっぱりキミって変わってるよ小松くん。こんな話をしても情熱的に手を握れる人は普通いないものだよ?」
「え? ……わっひゃぁ〜!! すみません、気が付かなくて!!」
手を組む形のままだったことをすっかり忘れていた。
情熱的と言われて遅ればせながら恥ずかしくなって小松は指を離す。
「気にしてないよ。あのまま続けてもよかったくらいさ」
まばゆいばかりの笑みとともにポジションを組み直され、話している間停まっていた曲が再び流れだす。ココのハミングに小松はやはり聞き覚えがなかった。
🌟🌟🌟
かろうじて記憶にある曲から知らない曲に移り変わり、知っている曲に戻り。
知らない曲だなぁがさっき聴いた曲だなぁに変わってきたループが何周したか、途中から気にかかって数えたため正確な回数は不明だ。小松が意識し始めてカウントした回数は、今でちょうど五回目となる。
「宇宙に来てから、フルコースを決めるの早すぎたんじゃないかと思うことがあるよ。そっちはどう?」
「ボクが乗ってきたキャンピングモンスターはキッスが入れるほど大きくないから地球に残してきたんだ。小松くんとこのウォールペンギンは元気にしてるかな」
「ゼフラとの約束ってまだ生きてるの? フルコース揃えたらコンビを組むってさ。あれを超えられるメインなんてそうそう見つからないだろう……それを見越しての口約束なら、意地悪にも程があるんじゃない小松くん。実質嘘ついたのと変わらないじゃないか」
ココとふたりきりになってどれくらい経ったか。
体感ではかなりの時間が経過している。
小松は焦った。この星へ来る直前に巨大な生物との戦闘があったのだ。撤退の判断が早かったため大きな怪我こそなかったが、それでも消耗しているのは確か。そのうえ、今ミニマムシェルにある食材はどれも特殊調理食材と思しきもので、トリコひとりでは食べることもできない。
とどのつまり、小松はトリコの元へ戻りたかった。
ちょっとのつもりで話し込んじゃいましたけど、時間ってどのくらい経ちましたか?
ちょうど聞こうとしたタイミングでココが話しかけてきて、その話題が膨らんでいくため小松はずっと言い出せずにいた。
昼も夜も無く、調理以外で気にする必要もないのもあって時間を確認するものは持っていない。
「小松く」
「すみませんココさん、ボクそろそろ戻らなきゃ」
ならば方法はひとつ。ココが話し出そうとするところへ口を入れるのみ。
小松は胸中を申し訳なさでいっぱいにして言い放った。
「……あーそうだね。ちょっとのつもりが、思ったより時間が経ちすぎたようだ」
ぴたりと曲が止む。
ココはおもむろに片膝をつくと、小松の肩に手を置いた。
「でも安心して、小松くん。トリコならボクに促されてキミを連れて地球へ向かったよ。急いで戻ってくるようサニーから連絡が来たんだ」
小松は己の耳を疑った。
どういうことだ?
ココは先程からずっと小松と一緒にいたし、小松もココと一緒にいた。どちらもトリコのところに行っていないはずだ。
それ以前の問題として、トリコが自分を置いて行ってしまったということが小松には信じられなかった。
しかし、目の前にいる男が冗談を言っている風にも見えない。
内心穏やかでない小松にひきかえ、微笑みすら浮かべるココはフ、と柔らかく息を吐く。
「生命毒……能力や感情まで本物と何一つ変わらない動きをする生物を生み出す。そんな力がボクにはあるんだ。結構便利なものだよ。
ねえ小松くん。攻撃されて砕け散るボクとお前が相手をしていたのは毒人形だとネタバラシするボク、ふたつのボクを戦闘中に見かけた場合、どっちが本物だと思う?」
「……後から出てきたココさん、だと思います」
ココが紡ぐ言葉とトリコが自分を連れて帰ったこととの関連が見えてこないまま小松は答える。
納得に値する応答だったらしく優男が頷く。
「そうだね。前者が毒人形で後者が本物だと思うだろう。けれど、もしその役割が逆転していたら、そのことに気がつける者はいるだろうか?
ボク自身も気がつけないかもしれない。そもそも自立して動くそれらに毒人形だという自覚ってあるんだろうか。感情含め再現できるわけだから、そいつは自分に感情さえも再現する人形が作れる力があることは解っているんじゃないかとは思う。
でもね、その力で作られたと知覚できるかは別問題じゃない?
さっきも言ったように見た目も感情もどう動くかも再現してしまうから、形を保てなくなって溶け落ちてしまうまで見分ける術もないんだ。だからきっと、間違ってボクが死んだとしても、身代わりのはずだったそいつはすり替わったと気が付かないままボクのふりして生活するだろう……」
肩に置かれていた手が滑るように移動し、首を経由して頬を包んだ。
ココは親指だけを動かして小松の目元を撫でる。
そこまで聞いてようやく話に繋がりが見えてきて、小松はぞっとする。
「ボクはずっと小松くんと踊っていたのに、紛れもない事実としてトリコはボクと話した。どうだい、小松くんの目に映るボクは本物のココであるか、疑わしくなってきたろ?
小松くんの形をしたものがボクと話していて、また同時にトリコのそばにも存在しているわけだけど……
ここでちょっとしたなぞなぞを出そう。ねぇ小松くん、キミはどっちだろう。どちらだと自信をもって答えられるかい?
ボクが崩れろと手を叩けば、キミという人型は溶けて毒の塊になるかもしれない。トリコが小松くんだと思って連れて行った方が崩れてしまったら大騒ぎになるね。うっかり操縦が狂って……やみくもに不安を煽るようなことはこのへんでやめておこう。
まずは答えを聞かせてもらおうじゃないか。考えてみて、時間はたくさんあるから」
やや傾けられた顔は優しく微笑むことをやめない。
頬を包んでいた手が離れてココの顎の下で組み合わされる。小松が何か言うのを待っているようだった。
トリコと一緒に不時着してココと再会、ふたりきりで話したいと連れ出されてから今に至るまで、ココの行動を近くで見た連続した記憶が小松の頭にある。故にホンモノである。
言ってしまえば完全なコピーを作り出してしまえるのだ。連続した記憶があるからといって確固たる証拠とはならない。そのうえ小松が食材に吸い寄せられていた間ココは視界から外れており、そこにすり替えのチャンスはあった。故にニセモノかもしれない。
小松は答えられなかった。
「考えはまとまらなかったようだね。じゃあ手っ取り早く正解発表といこうか」
組み合わさっていた手が離れて空間ができる。
ぱちんと鳴った瞬間指が落ち、崩れた輪郭から目玉が零れ落ちる……その様を小松は幻視した。
これまで命の危機を何度も味わってきて、そのうちの一回や二回くらいは実際に落としてきた。いずれも物理的な攻撃により肉体を傷つけられての死という意味で共通する部分がある。
しかし、今回はどうだ。トリコとともに味わってきたおいしかったたくさんの食材の記憶は確かに自分のものか? 記憶も感情もココによって完全に再現されているだけの全く違う生物であるかもしれない。崩れ落ちたならば、現在地点に立つ小松が小松ではなかった証明になる。
存在の否定、無理やり言うなれば人の手で精神的に殺されるというのは初めてだった。
小松は「うわぁああ」と悲鳴をあげて目をかたく瞑り両耳を塞いだ。無音の暗闇に立つ体はいつまで経っても崩れなかった。
恐る恐る目を開き、耳から手をどかす。
あり得ないものを見たとばかりに驚きを貼り付けた表情のココと視線がかち合った。
「悲鳴で旨味が増すって悪趣味だと思ってあまり信じないようにしていたけど……どうやら事実と向き合わなければいけないようだ。
なんだったかな、ストレスを和らげようと……いやこの際理屈なんかどうだっていい……とにかく今の小松くんは旨味が大幅に増しているはずだ。ボクの食欲がそう言ってる」
話す最中にココの手や顔の一部分が斑模様に変色する。唇をちろりと舐めた舌先まで変貌しており、一度見た光景ではあったが、小松はしゃくりあげるように悲鳴を漏らした。
くつくつとココが笑う。
「品が無いことこの上ないが、事実は事実だ。今の小松くんは絶対に美味しくなっている。とはいえ、まだ所見でしかないから確かめないとね」
「……どう確かめるんですか」
「確かめてもいいの?」
小松が大きく一歩後ろへ踏み出すが早いか、変色した左腕に捕まった。
伏せられた睫毛が肌を擽るほどに近づけられた唇は、しかし触れ合うことなく離れていく。
相棒の昔馴染で優しくて頼れる友人は、これまでに一度だって見たことのない表情をしていた。
「小松くんには幸せでいてほしい。……でも、小松くんが望んで選んだ道の上にいるのは後にも先にもトリコだ。吉日なんて最初から無かったんだ、オレには──」
不自然なほどにつり上がった口角、対照的に顔の上半分は泣くのを堪えるかのように歪んでいる。吸い込む空気量に見合わぬか細い声で何を抑えつけようというのか。
斑模様の右手が前髪ごとターバンを掴んでぐしゃぐしゃに乱した。
顔が見えなくなったココの幅の広い肩が震える。左腕による拘束は緩まない。
泣きじゃくる子供に縋りつかれているかのような錯覚を小松に引き起こさせたが、隠れていた琥珀の双眸に涙が滲みだすことはなかった。
「……ボクが思うに、キミはもっと美味しくなるはずだよ小松くん。キミもよーく知るようにボクは美食屋だ、美味しいものがもっと美味しくなるなら妥協なんてしたくない。この感覚は料理人のキミにも分かるだろ?
これからするのは、小松くんが毎日しているのと同じことさ」
ターバンを取り去った右手が首を掴み、喉仏を強く押し込む。
気道を塞ぐ異物感に小松は思わず口を開ける。それを狙っていたかのように顔を上向きにさせられ、食道へぬるりと何かが入り込んだ。
咽頭を圧迫された生理現象で潤む目で小松が見たのは、目をぎらつかせたココと斑模様の舌だった。
どろりとした液が食道を滴っていく。
息ができない苦しさと喉を粘液が伝っていく違和感。それが何かを頭が理解するより先に体が排出を試みていた。小松はココの腹を叩きながら激しく嘔吐いたが、深く差し込まれた粘膜を締め付けることにしかならなかった。
爪が皮膚を破るほど握りしめていた拳が斑模様の手により解きほぐされる。
「致死性のものじゃないから怖がらないで。記憶が混濁する副作用もあるけど、コンビのトリコと旅した大切な思い出に影響はないから安心してほしい。
……ああ……そうだ、毒が回るまで少し時間があることだし、小松くんの不安を解消してあげよう。ま……聞いたところで忘れてしまうけどね。
まず第一に。小松くんもボクもここから一歩も動いていないし、トリコはまだこの星にいるよ。
体感時間は長かっただろうけど、実際にはあれから一時間も経っていないはずだ。品のない言い方になるが、死ぬほど食い溜めしてきたんだよ。それでも生命毒と依存毒どちらも使う余裕はなくなったさ。トリコやゼブラほど食欲旺盛じゃないんだよボクは。
……それにしても、トリコがキミを置いて帰っただなんて本気で信じたの?
だとしたら薄情な人だね小松くん。それともボクへの信頼の証かな。光栄で反吐が出るよ。
ちなみにサニーからの急報だけど、これは本当。まだトリコには知らせていないけどね……ボクの占いによればリンちゃんに受難があると出ている。長く苦しい闘いになるが、母子の無事は97%の確率で保証しよう。地球へ帰ったらめいっぱい腕をふるってお祝いしてあげるといい」
力の入らなくなった手を握りこまれる。指の叉、皮膚の薄い場所を撫でられた微弱な電流が増幅されて小松の脊髄を迸った。
太腿がヒクンと痙攣を起こす。
ココが話す音は鼓膜を通った瞬間、聴いたこともないような雄大かつ感動的な音楽に変わる。言葉の意味はほとんど解らなかった。
だらしなく弛緩した口から唾液が溢れていくが、喉は嚥下をやめない。
中心が熱をもった脳は恐怖や苦痛の類を忘失し、小松の全身に多幸感のみを送り出す。舌が引き抜かれる、喉粘膜を擦りあげる痛みすら得体の知れない官能に書き換えられた。
立っていられなくなった小松はココに体重を預け、自然としなだれる体勢をとった。
ココは痛みを堪えるように顔を歪める。
「出来上がる前の料理に口をつけるのは品が無い行為だが……味見だと思って許してほしい」
首筋に鼻先が寄せられ、ふわりとかかる吐息のこそばゆさに思わず斜め上を向いてしまう。
小松が自覚しないまま喉元をさらけ出す形となったが、ココは唇の表面で首筋をさっと撫でる程度に触れると離れていった。
「ボクがしたのはあくまでも調味料を揉み込むまで……いわば下味付けさ。最終的な仕上げはキミに任せよう。もし、予定通りに動いてくれたら──地球に戻ったらボクと豪華客馬で踊ろうね、小松くん」
🌟🌟🌟
ぼんやりと意識を開く。ベッドの上、布団を被せられて手を握られていた。
青い髪の巨漢が椅子に浅く腰掛け、ほんの少しの変化すら見逃すまいと小松を覗き込んでいる。
「小松! 気がついたか……!」
沈痛をこれでもかと表していた顔がパッと明るくなった直後、トリコは大きな手で小松を抱き起こした。
窓の外では星々がゆっくりと流れていく。光の速度を越えて航行するミニマムシェルが移動しているときに見られる景色である。
「トリコさん……? ココさんは……ていうか今どこに向かってるんですか……?」
「急ぎ地球に向かってるとこだ。あいつはゼブラを探しに行った」
「なんで地球に? なんでゼブラさんを探しに……あれ、ボク何してたんだっけ……」
小松は寝言でも言うようにぼんやり呟く。どこかの星に不時着したことは覚えているが、そこから今に至るまでの記憶がはっきりしないのだ。
トリコは椅子からベッドへ尻の置きどころを移した。
「起きたとき混乱してるだろうからきちんと説明してやれ、か……ココの言った通りになったな。んじゃ、教えてやるよ。あのあと何があったか」
──だいたい一時間くらいだったな。ココがお前を連れてってから戻ってくるまで。
危険になりそうなのはあらかた片付けたとも言ってたし、あいつがついてるなら安心だろうと判断したんだが……久しぶりに懐かしい顔を見たから、オレも気が緩んでたのかもしんねぇ。ここは地球の危険区じゃなく、何があるかひとつも分かっていない宇宙なんだ。
お前らを待ってる間に腹減ってきたけど、取ってきた食材全部ただ焼いただけじゃ食えねぇからどーすっか。そうだ小松を探しに行こうと思ったら、ちょうど戻ってきたんだよ。ぐったりしたお前を抱えたココがな。
オレが見た感じ、顔色も呼吸も安定していた。けど臭いがおかしかったな。ココが深刻そうな顔してたんで、オレも気が気じゃなくなって何があったのか聞いたんだ。
チョウチンアンコウに似た生物に襲われたんだって、あいつはそう言ってたぜ。極上の食材を釣り餌にして獲物を誘い出すんだとよ。小松、お前はそいつの罠に引っかかって危うく食われかけたんだ。
攻撃の寸前まで安全な食材の電磁波が出ていたらしい。ココの目でも分からない擬態……宇宙ってのは何があるか分からねーもんだな。
気が付いて倒したが、助け出した小松にはそいつの毒針が刺さっていたんだと。初めて見る生物で抗体を作るまでどのくらいかかるか分からない状況で、小松の容態はどんどん悪化していった。
そこであいつは解析と抗体の投与を同時進行……簡単に言やあひとつ成分が判明したら、それを打ち消す成分を一個一個投与するって方法をとったらしい。
ココの毒が大量に入っちまった……いや、今回は薬だな。臭いがおかしいと感じたのはそのせいだったんだろう──
「なんとか解毒できたらしいが、記憶の混濁とか副作用が出るかもしれないから注意深く様子を見てやれってことでオレはずっと小松をみてた。……ま、そんなとこだ」
話し終わるまで小松は黙って聞いていたが、トリコの話が一区切りつくとすぐさま口を切る。
「そんなことが……ということは、もしかして地球に戻るのって病院で診てもらうために……?」
小松からすると四天王一優しい男であるココなら言いそうなことだ。
自分のために宇宙旅行を中断させてしまった申し訳なさでトリコの顔が見えなくなったが、
「その必要はねぇって、ココはそう言ったぜ。美味いもん食わせて休ませてやれってさ」
あっけらかんと否定されてしまった。
「え、じゃあなんで地球に?」
「あー、それはな。ココが1分後にサニーから大事な連絡来るってんで待ってたら、ほんとに携帯が鳴ってよ。出てみたらリンが破水したって……鼓膜破れたかと思ったぜ」
「リンさんが、破水……ってェトリコさん!? お嫁さんが妊娠してるのに宇宙来てたんですか!? 行き先も言わないで!?」
愕然としすぎて顎が外れそうになった。
己に人差し指さし向けて声を荒らげる小松を見て、トリコはようやく安心したようで表情が和らいだ。
「サニーもついてるし、初挑戦だから今の力が通用するか試すつもりで来たからな。リンに美味いもん食わしてやりたかったのもある。それよか、いつもの調子に戻ってきたな〜小松ぅ」
「帰ってからお二人に怒られても知りませんよ。まったくもう……あのそれでココさんは……」
「ゼブラ捕まえてからそっち行くからお前は先に帰ってな、だとさ」
「連絡すればよかったじゃないですか。トリコさんはサニーさんからの電話で知ったんですよね?」
「バッカ小松お前……ゼブラのやつが通信機器持ち歩くとこ想像できるか?」
小松はほんの一瞬考えた後無言で首を横に振った。
「だろ?」
「……はい」
コンビ揃って意見が合致し、トリコは朗らかに笑い声をあげた。
小松も腹を抱え大声出して笑う。
ココさんに会いたい──目が覚めてからこの方、胸中を渦巻いていた強迫観念を吹き飛ばすように。