侵入者誰に何を言われても、誰かに負けても、誰かに勝っても、卒業式を迎えても、泣かなかった。笑い転げて泣きそうになったことは何度もある。自分の頬に涙が伝っていく記憶はもう久しくない。
兄弟子に褒められても、師に褒められても、呆れられても、泣かなかった。
そうしてこうして、今日までなんとなく生きてきて、二十数年間。
泣きたくなったことは何度かある。その原因は全て初恋の相手、牛島若利にある。
兄弟子に夜を誘われて、断る理由もなく遊んでみた。西洋人の体の作りに惚れ惚れしたものだが、やはりあの全身バネのような筋肉が恋しくなる。牛島若利のあの体で遊べたことはない。遊ぼうだなんて思ったこともないのだが。体で遊んでくれるようなタイプでもない。健全な高校生をしていたのだ。
遊ばれたら、どんなによかったことか。
初恋の相手が、いつ童貞を捨てたのかは少し気になる。けれど、その相手の顔は少しも思い浮かばない。想像ができない。ただひたすら、自分の体をまるで愛してくれているかのように愛撫して、そして力強く押し入り、荒々しい呼吸で自分の名前を呼んでくれる。そんな姿しか想像ができなかった。
そんな想像をして、何度慰め、何度自分を哀れに思ったことだろう。
自分の童貞も処女も随分早くに捨ててみたが、最初の相手はよく覚えていない。こんな男に、牛島若利は不釣り合いで健康にもよくない。
ただ、何かの免疫が落ちて、時折弱った顔を見せてくれてもいい。
自分だけには。
マブダチぐらいには。
いいじゃないか。
そうも思う。
何にも染まらず、何にも曲げられず、何にも屈指ない男。そんな男をつついてみれば、生真面目なリアクションを与えてくれるそんな男に、心も体も惹かれないはずがない。
「天童ってゲイなの。」
そう誰かに囁かれるようになって、気味悪がられたのも懐かしい少年時代の一ページ。囁かれても呟かれても直接言われても、本当のことだから否定はしなかった。その事実を初恋の相手が知っていたかはわからない。
自分の素性のことを、若利は知っていただろうと思う。馬鹿素直なだけで、馬鹿なわけではない。努力と自分の資質に素直なだけだ。人の心を想像できないだけで、知ることがないわけでもないのだ。だからこそ、あの男に惹かれたのだ。
まさに楽園だった。白鳥沢学園のバレーボール部は、自分が自由に何かを表現出来る場所だった。仲間達は、自分の素性を知っていようと、チームメイトとして最後まで振舞ってくれた。可愛い後輩たちが知っていたかは知らなくてもいい。今では本当に可愛くて愛おしい存在だ。
余計な騒音がない、賢い獣が集まるあの楽園が、好きだった。
やがて大人になって、騒音に塗れて、騒音に染まっていく。いつしか初恋は薄らいで、歳をとっていくのだと思っていた。それが出来れば、あの男を自分の中で綺麗なままにしておけたのに。
西洋人に塗れて、程々の快楽を渡り歩いて過ごせたはずだった。
それでよかったはずなのに。
一体互いと時差はどのくらいあるのだろう。今日本に居るとのだろうか。それとも、チームの寮にでもいるのだろうか。スマートフォンの向こうからは、何も聞こえなかった。
「天童。」
「若利くん!元気ー?」
日本語を話したものも、いつぶりだろうか。
「…、」
掛けてきたくせに、沈黙を作る。珍しいパターンに、自分の眉間が寄ったのを理解した。
「元気じゃないの?」
時折見せる、免疫力低下の時。若利は微熱と疲労に魘される。何だかそんな時代を思い出して、寄った眉間が緩んでいった。
「ああ、元気が出ない。」
素直なところは何も変わっていない。声のトーンも変わらない。けれど、言葉の前と後ろに、少しだけ沈黙を含ませる。
「調子悪い?聞いてあげよっかー」
「……、」
その沈黙はまるで、何かの言葉を探しているように、焦りを感じさせる。この男が焦るとは、どんな難敵が現れたのだろうか。世界のバレーボール情勢はそれとなく知っているし、聞かされる。この男に負けない男がどんなものかは興味がある。
この男が負けて、いつしか自分を倒した男に傾く日が来るのではないか。
そんなふうに思ったり、思わないようにしたり、それならそれで流れていけばいいとだけ思うようにした自分を思い出す。
「今年は、まだお前から何も届かない。」
「は?」
若利のために溜めた言葉に、心当たりがないわけがない。誕生日、クリスマス、それからバレンタインデー。練習作と言っては送り続けていた拙い味のショコラ達。初恋の人に何かを贈れるには十分な程の季節行事。それらに理由をつけて、贈り続けていた。
兄弟子のひとりに関係を公開する交際を求められた時後のクリスマスに、何も贈らなかった。
熱心にリヨンソーに通う少年に愛を語られた頃のバレンタインデーに、何も贈らなかった。
別な兄弟子から体を迫られた時は、若利の誕生日が近かった。そして何も贈らなかった。
そうやって少しづつ離れていくことで、自分のことを綺麗なままいつか思い出して欲しかった。それこそ「マブダチ」を完遂して欲しかった。それ以上でも、それ以下でもない最高の肩書きに酔いしれることができたのに。
「天童。」
「ーーああ、ごめんねぇ。売れっ子になってきちゃったから、どうしてもそういうシーズンに入るとねぇ。」
自分はもう、こんなにも誰かの手垢で汚れている。無垢では無いけれど、純血という言葉も似合う、この牛島若利には、触れないままの「マブダチ」でいて欲しかった。そうでなければ、初恋という強烈な存在から、自分で自分を慰めることしかできないままで朽ちていく。
折れることなく、挫けることなく、泣くことなく、フェードアウトできたらよかった。
そう、思っていた。
「…、そうか。」
「うんうん、若利くんもーー」
適当に誤魔化そうとして、またひとつ思い出す。この男に、誤魔化すということが効かないことを。
「いくらなら、買えるんだ。」
「、」
そんなふうに、言って欲しくなった。牛島若利が汚されるような発言は誰からも、本人からだって聞かされたくなかった。そんなことは許されない。
断じて、許さない。
「誕生日。」
「、」
「クリスマス。」
「…、」
「バレンタインデー。」
「若利くん、」
「それらはいくらでなら、祝ってもらえるんだ。」
許さない。
リヨンソー、天童覚のショコラに、そんな不躾な値段をつける発言は許さない。
身を焦がして発情した相手、本人だって、許さない。
「若利くん。」
「天童、」
話を聞いて、いい子だから。
「わか」
「覚。」
「、」
名前を呼んで。
お願いだから。
そう願った時は、何度あったことだろう。
こんなふうに、怒った声で呼ばれる想像はしなかった。
「気づくまでが、長すぎた。すまない。」
「は?いや、なに?」
声が震える。
「チームメイトに、不機嫌だと注意された。」
「、」
「それを何故か考えた。お前から何も贈られない日が来るとは、思わなかったからだ。」
若利くん。
「何故なにも送られて来ない?何かあったのか、そう考えて、会いに来た。」
若利くん。
振り返る。
ここはフランス。
綺麗だけれど、少し汚れた古いアパートメント。屋上は住人が洗濯物を干すんだ。そんな場所に、風が吹く。懐かしい匂いを運んでくる。まるでこのアパートメントが崩壊しそうなくらい、目の前には大きくて逞しい体がある。
振り返る。
手からスマートフォンが滑り落ちる。それを間髪入れず、拾ってくれるあの大きな手。
「若利くん、」
「すまない、住人に入れてもらった。」
手が伸びてくる。腕が伸びてくる。影が縮んでいく。
「覚。」
抱き留められる自分の体。発情手前の、雄の匂いがした。
「終わらせないで欲しい。」
恋を。
そう言っているんじゃないかって、思ってしまった。
「今年は…、受け取りにくる。だから、」
至近距離で目が合う。瞳が光る。圧倒される、あの瞳。やはり、雄の匂いに目眩がする。
「終わらせるな。」
「なにを、」
それが答えられないような男でもない。答えがあるから、こんなところまで来たのだろう。
「好きだ。」
「、」
睫毛がやたらと重い。
「好きだと、言って欲しい。」
何度も想像した、この男に呼ばれる声。求められる声。それをこんな時に、聞かされるとは思わなかった。
「あの頃のお前を、今のお前を、全て理解できる機会を、終わらせるな。」
この男らしいというか、なんというか。
「終わらせたいから、終わりにしたのに。」
待ったって、贈らなくなったって、牛島若利は生きているのだから。コートの中で、世界の真ん中で、生きているのだから。
「それを終わらせるなと言ったんだ。」
なんで。どうして。
声にならずに、ただ胸がうるさく叫ぶ。
「俺も、好きだと、やっと気づくことができたから。」
この男は世界を駆けて、恋をしていたようだ。
ごめんね、若利くん。
この手はもう、テーピングはしていない。
もう綺麗でもないし、汚いほうの体だから、それなりに互いに遊んでて欲しかった。
「若利くん、童貞でしょ。」
「だからどうした。」
笑ったつもりでいたのに、ほんの僅か、視界に何も映らなかった。暗くなって、代わりに唇に何かを感じた。声はない。でも、体温があった。
いつか夢見た、あの体温。
やっぱり睫毛が、とても重い。
瞼を落として、唇の熱に酔ってみる。
「ごめんね、若利くん。ごめんね、大好き。」
睫毛が重いのは、涙を含んでいたからだった。
終わり