フィガロ・ガルシアは大魔女の葬式に出られない毒花のごとく麗しく、蛇のように狡猾で、太陽のように鮮烈な大魔女――チレッタが死んだ。
その報せは瞬く間に大陸全土に広がった。
あのチレッタが死んだ! 石と化した彼女を食らえば強大な力を手に入れられる!
野心ある魔法使い・魔女たちは色めき立った。西の国で酒場を営む店主は憂いを帯びたため息をつき、東の国の料理屋は眉を潜めてしかめっ面をした。
チレッタのマナ石を巡って血で血を洗うような略奪と闘争が起きることを、多くの者が予見し、震え上がった。
そして力を求める魔法使い・魔女たちは箒にまたがり、我先にと南の国を目指した。
戦いの火蓋は誰にも知られず、ひそかに切って落とされようとしていた。
■
オギャア、オギャアと生まれたばかりの赤ん坊が隣の寝室で泣いている。
「母様……母様ぁ……っ!」
元気な泣き声に混じって聞こえてくるのは悲痛なすすり泣きだ。母親を亡くしたばかりの子供が、まだ温もりの残っている体にすがりついて肩を震わせている姿を想像し、フィガロは目を伏せた。
今日は穏やかで静かな夜とは程遠い。
外では強風が吹き荒れて窓をガタガタと揺らしている。テーブルに置かれたランプの炎が居間をぼんやりと照らしているが、四隅には真っ暗な闇が滞っている。
灯りが届く範囲は限られており、居間の広さに比べると炎は小さくいささか頼りなかった。
これから雲の街に訪れるであろう嵐を予見しているような薄気味悪さが、あちこちに漂っているような気がする。
(チレッタが死んだことは、すぐに世界中に広まるだろう)
フィガロの知己であり、世界中に名をとどろかせていた大魔女チレッタは赤ん坊の命と引き換えに息を引き取った。
産婆に取り上げられた赤ん坊が産声をあげる姿を見た直後、チレッタはどこまでも透き通った微笑みを浮かべてマナ石となった。
あとは頼むわね、フィガロ――。そんなふうに一方的にフィガロに面倒事を押し付けて、彼女はこの世から去ったのだ。
「参ったなあ……。今の俺は南の優しいお医者さんなのに」
チレッタのマナ石は強大な魔力を秘めている。それを求めて各地の同族たちは一斉に動き出すだろう。放っておけば惨劇が起きる。この国が、この街が、火の海になる。
そんな事態は避けたい。南の国に人が住めるようになるまで、長い時間と労力を割いたのだから。
「フィガロ先生」
呼ばれて物思いにふけっていたフィガロは我に返った。寝室と居間の境目にチレッタの夫が立っている。彼の顔には色濃く疲労がにじんでいた。たったの数時間ですっかり老け込んでしまったように見える。
赤ん坊の泣き声はいつの間にか止んでいた。産婆が低くしわがれた声で子守唄を奏でているのが聞こえる。
「失礼するよ」
フィガロはひょいと指を振った。食器棚からワイングラスが二つ、床下にある貯蔵庫からワインボトルが飛び出してきて音もなくテーブルに着地する。
「とりあえず飲むといい。ひどい顔だよ、きみ」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
フィガロがワインをグラスに注ぐと男はかすかに笑った。自分のグラスにもワインを注ぎ、ステムに指を添えて持ち上げる。
「乾杯」
「乾杯」
渋みの強い赤ワインを一気に飲み干して、フィガロはふうと嘆息した。
「ルチルは? 大丈夫かい?」
「疲れ果てて眠ってしまいました……。しばらく辛い思いをするでしょうが、ルチルは強い子です。すぐには無理でも……立ち直ってくれると信じています。私もチレッタも」
「その様子だとちゃんとお別れはできたみたいだね」
「ええ……。愛する妻の最期を看取れたのは、とても幸せなことです。彼女は残された時間で、精一杯のことをしてくれた。ならば私はそれに応えなければ。――フィガロ先生」
「頼み事をしたいって言うんだろう?」
「ご明察の通りです。……これを受け取っていただけますか」
男が手の平に握りしめていたマナ石をテーブルに置く。ランプの炎を浴びて石はつややかな光を放った。
「マナ石になったチレッタです。この石を求めて争いが起きると妻は言いました。私の手には余ります。だからあなたに託したい」
「……その石の使い道を俺の一存にゆだねると?」
「強欲な連中に好き勝手されるのは我慢がなりません。ですがフィガロ先生の決めたことになら、従います。……私たちを守っていただけますか、フィガロ先生」
この男が自分の生き様をどこまで知っているのか、実のところフィガロは知らない。だが妻のマナ石を家族でもなんでもない赤の他人に託そうというのだから、フィガロが強い魔法使いであることは知っているのだろう。
万が一のときには自分を頼るようにチレッタが生前言い含めていたのだと容易に想像がつく。
フィガロがマナ石を見つめたまま動かないでいると、男は困ったように眉尻を下げた。
「ずいぶんと身勝手な振る舞いをしている自覚はあるのです。私たちにはあなたに返せるものが何もない。美酒も金銀財宝も貴重な魔道具も私たちは持っていない。フィガロ先生に大変なことをお願いしておきながら、私たちにできるのは温かな家で心のこもったもてなしをするくらいです。気を悪くされるのは当然です。断っていただいても、構いません。ですがどうか……ルチルとミチルだけは助けてやっていただけませんか」
お願いします、と男が頭を下げる。テーブルに額を押し付ける。乗せられた両手はわずかに震えていた。
男の言葉はすべて真実だ。彼はくだらない感傷と、自分たちの身の安全のためにフィガロを一方的に利用しようとしている。魔法使いであるフィガロをただの人間が搾取する。
昔から飽きるほど繰り返されてきた光景だ。
けれど。
「チレッタのマナ石を守るために、俺はたくさんの誰かを殺すかもしれないよ。それでもこの家に迎え入れてくれるのかい?」
「当たり前でしょう」
顔を上げた男は力強く言い切った。フィガロを真っ直ぐに射抜く男の眼差しは、澄みきっていて迷いがない。
「たとえ何があってもフィガロ先生はフィガロ先生です。……人殺しはいけないことです。できれば可能な限り穏便な方法でチレッタを守っていただけると嬉しいのですが……私たちのためにそうするというのなら、フィガロ先生に罪はありません。責められるべきは、弱く、愚かで、あなたを頼ることしかできない私たちであって、フィガロ先生ではありません。もし誰かが何かを目にして、あなたの悪口を言っていたなら、私がぶっ飛ばしてやります」
「……ふっ、あははは! それはちょっと見てみたい気もするなあ」
「フィガロ先生! 私は真面目に話を、」
「もういいよ。わかったから」
「え」
自分たちのために他人に攻撃をしろという。力を振るって敵を排除しろという。その醜悪さを目の前の男はわかっている。知っている。魔法使いであるフィガロにすべてをなすりつけるのではなく。いいことも悪いことも分かち合おうという。
魔法使いであっても人間であっても、同じ心がある生き物だから。
さすがはチレッタが選んだ男だ。度胸がある。物の道理も心得ている。フィガロがずっと望んでいた形のひとつがここにある。
「チレッタのマナ石はきみたちのものだ。誰にも奪わせないから、どうするかはきみたちで決めるといい」
「では――」
男の顔がにわかに輝く。フィガロは苦笑しながら頷いた。
「チレッタの葬式がつつがなく終わるよう――全力を尽くすと約束するよ」
そのためには自分一人では手に余る。
(引きこもりのあいつが呼び出しに応じてくれるとは思えないけど……チレッタの弔いとでもいえばさすがに出てくるだろ)
最後まで誇り高く美しかったチレッタの死にケチをつける輩を捨て置くつもりなど元からない。
彼女は最後まで南の国の魔女として丁重に扱われるべき人だ。チレッタの葬送が終わるまで誰にも邪魔はさせない。
それが古い友人のためにフィガロができる唯一のことだった。
■
ザアザアと雨が降っていた。バケツを引っ繰り返したような土砂降りだ。大きな雨粒が容赦なく地面をえぐり、畑に植えられた苗を次々と押し流していく。
雲の街の全貌を見下ろせる小高い丘の上に立ち、フィガロは「あーあ」と呟いた。
この雨で街の住人が数日前にせっせと植えていた球根はすべて腐ってしまうだろう。台風が過ぎ去ったらまた一からやり直さねばならない。
「まあでも……南の国の住人は打たれ強いからね」
畑が何度駄目になっても、家が何度壊れても。この国の人間は決して腐らない。嘆いていたって仕方がないと。みんなでやればなんとかなると。明るく笑って畑を整え、家を直し、日々の営みを楽しんでいる。
「人間は何もできないなんてさ、俺たちの思い上がりでしかないんだよね」
「おい……。さっきから何をぶつぶつ言っている」
フィガロの隣に立つオズが不機嫌そうに睨んでくる。
――チレッタが死んだ。すぐに身の程知らずな連中が大挙して押し寄せてくる。おまえはどうする?
フィガロが魔法で連絡を取り、チレッタの訃報を告げるとオズは束の間瞠目し、言葉を失った。あのチレッタがこんなにも早く死ぬなど、オズにとっては青天の霹靂だったに違いない。
双子だけは何もかもお見通しだったようで、やりすぎるなよ、と既に忠告をもらっている。
「来いとは言ったけど、おまえが本当に北の城から出てくるとは」
「……チレッタには世話になった」
「……うん、そうだね。俺もだよ」
だからフィガロもオズもここにいる。チレッタのマナ石を食らおうなどと傲岸不遜な欲を抱いた奴らを一網打尽にして、根絶やしにするために。
チレッタの葬式は先程無事に終わったようだ。今頃街の住人たちはフローレス家に集まってチレッタの死を偲ぶため、飲めや歌えやの大騒ぎを繰り広げているだろう。
チレッタはにぎやかで華やかな場所が好きだった。だからきっと今頃はあの世で喜んでいるだろう。
「――来た」
ぴりぴりとした殺気と研ぎ澄まされた魔力が肌を突き刺す。フィガロは目を凝らした。箒にまたがった魔法使い・魔女の大群が黒雲となって押し寄せてくるのが遠くに見える。
「街の住人が気付く前に終わらせるぞ、オズ」
「造作もない」
「終わったら美味しい料理と酒とダンスを楽しもうじゃないか。おまえの正体を明かしても、ここの人たちは驚くだけで逃げ出したりしないんだろうな」
「それは都合の良すぎる妄想だ」
「ところがそうでもないんだよ」
フィガロは何もない空間からオーブを取り出して掲げた。オズもまた杖を出して強く握る。先頭を飛ぶ魔法使い・魔女たちが二人に気付いて、「ひ……っ!」と悲鳴を漏らした。
――オズだ! オズがいるぞ!
――どうしてフィガロ様がこんなところに!?
――逃げろ! 殺される!
隊列が崩れる。箒と箒がぶつかり合って少なくない人数が落下していく。その様を眺めてフィガロは冷たく笑ってみせた。
「――ポッシデオ」
「ヴォクスノク!」
雷鳴がとどろき、雨粒が氷刃と化して敵を貫く。誰にも知られず始まった彼らの戦いは、しばらく終わりそうになかった。