すくう人 後半「うう……せっかくの食事が美味しくない……」
目にも鮮やかな海鮮パスタを口に運びながら、晶はさめざめと泣いた。実際には泣いていないが、泣きたい気持ちなのは本当だ。
みんなに嘘をついてしまった罪悪感と、嘘をついてまで自分を守ろうとしている情けなさで、胸がずきずきと痛んでいる。
クロエと別れてルチルに絵本を返すのを諦めたあと、晶は自室にこもった。ベッドに横になって、ぼんやり天井を見上げている内にいつの間にか眠ってしまった。
ふと気が付くと外はすっかり暗くなっていて、夕食の時間になっていた。
お腹は空いているけれど、食堂に行って魔法使いたちと顔を合わせるのは気が進まない。
晶がどうしようかなあ、と悩んでいると、誰かが控えめにドアを叩く音が聞こえてきた。
「はい、なんでしょう?」
晶がノックに応えると、「賢者さん、俺だけど」とすぐにくぐもった声が返ってきた。どうやら来客はネロだったらしい。晶はベッドから降りると、部屋のドアを開けてネロを出迎えた。
ネロが晶の頭部を見て、お、と目を丸くする。
「もしかして昼寝の邪魔しちまったか? だったら悪い」
「確かに寝てはいましたけど、ネロが謝ることじゃないです。むしろ起こしてもらえて助かりました。誰も来なかったらきっと朝まで起きなかったですよ、俺」
寝癖がついてぼさぼさの髪を晶は無意識に撫で付けながら言う。
「そうか? まあ、寝すぎるのもあんま良くないって言うしな」
「ですです。それでネロはなぜここに?」
「夕食の時間だってのにあんたが食堂に来ないから呼びに来たんだよ」
まったく、世話の焼ける奴だぜ、あんた。そう言ってネロが肩をすくめながら笑う。目尻がほどけて、普段ネロがまとっている硬質な雰囲気が一気にやわらかいものへと変わる。
春の雨垂れみたいに優しくて穏やかな笑顔を向けられて、晶は奥歯を噛みしめた。
必要以上に他者との関わりを持とうとしないネロは、時々びっくりするほど上手に晶の心をくすぐる。
てらいのない好意を差し出されて親切にされると、晶はどうしたって嬉しくなってしまうし、喜んでしまう。ネロにもっと近付いてみたい。仲良くなってみたいと思ってしまう。
けれどきっと彼は晶が少しでも距離を詰めたら、すっと後ずさって何食わぬ顔で離れようとするのだ。それがネロのずるいところだ。
自分の目線より高い位置にあるネロの顔を見上げて、晶は少しだけ考え込み、意を決して口を開いた。
「実はですね……昼寝をしてしまったせいで、今日の分の仕事がまだ終わってなくて、なので……そのう……」
晶が上目遣いになって口をもごもごさせていると、ネロはみなまで言うなとばかりに両手を持ち上げて降参のポーズをした。
「わかったわかった。部屋で食いたいって言うんだろ? ――アドノディス・オムニス」
ネロが呪文を唱えると風が吹いて晶の髪の毛がふわりと浮かんだ。髪の毛の最後の一本が元の位置に戻る頃には、目の前に海鮮パスタがたっぷり盛られた深皿があった。
滑るように廊下を飛んできた深皿が晶の胸元でぴたりと停止したのである。晶は思わず「お見事」と拍手をした。
深皿を真上からのぞき込み、晶は鼻の穴をこれでもかとふくらませる。
「美味しそう……っ!」
出来立ての海鮮パスタはほかほかと湯気を立てていて、香ばしい匂いを漂わせている。名前のわからない色とりどりの貝や、海藻や、海老っぽいものがオイルに濡れて、つややかな光沢を放っていた。
「食べ終わったら洗い物回収しに来るからさ。仕事に集中しすぎて、メシ食わないなんて真似だけはやめてくれよ?」
「了解です。ちゃんと残さずきれいに食べます。俺を信じてください、ネロ」
――信じてください、なんてよくも言えたものだ。面の皮が厚いにもほどがある。
心の機微に敏いネロは人の虚勢を見抜くのも上手い。おそらく彼は今まで何度も他人に裏切られてきたのだろう。騙されて、傷付いて、疲れて、人に期待するのをやめてしまって。
それでも人との関わりを断てず、料理という手段を用いて、誰かを喜ばせるのが好きなお人好しの魔法使い。
それがネロだ。
そんなネロに仕事が終わっていないなんて嘘をついてしまった。自分の弱さを見せるのが耐えられなくて、ネロが最も嫌がることをしてしまった。
(気付かれませんように)
晶は胸の内で祈った。どうか、どうか、ネロに気付かれませんように。彼が晶に騙されたと知って、傷付きませんように。――幻滅されませんように。
「んじゃ、あとでな」
晶の祈りが天に通じたのか、ネロはあっさりと踵を返して去って行った。
ネロの背中が見えなくなるのを待って、晶は深々と息を吐き出す。今日はなんだか似たようなことばかりしている。
まぶたの裏にヒースクリフや、シノや、クロエの背中がちらついて、晶はぶんぶんと首を横に振った。
ドアを閉めて部屋の中に戻った晶は深皿を机に置いて椅子に腰かけた。真っ直ぐ背筋を伸ばして「いただきます」と手を合わせる。
けれど魔法使いたちに会いたくないという理由だけで嘘をついてしまった罪悪感がひどく、海鮮パスタは一向に喉を通らなかった。
そして冒頭に至る――というわけである。
「俺って本当に駄目だなあ……」
賢者なのに子供じみた感傷でみんなを避けている。誰の身内にもなれない疎外感が辛くて、殻の中に閉じこもろうとしている。
そんなのはとっくのとうに成人した大人が取る行動ではない。きっと前の賢者ならこんなふうにうじうじ悩んだりはしない。
前の賢者はずいぶんさっぱりした気性の人間だと賢者の書の文章から伝わってくる。きっと彼なら、「お前らがどっか行くなら俺も行く! 連れてけ!」と気兼ねなく言えるのだろう。
けれど晶にはそれができない。
中央の国で革命記念祭が行われている間は、賢者の魔法使いという使命を忘れてみんなに自由に過ごしてほしい。そのためには晶が一緒にいてはならないのだ。
晶が一緒にいたら、彼らの最優先事項は自分のことではなく、晶になってしまう。だから晶は一人で魔法舎に残ることを選んだ。
自分で決めたことなのに、一人にされるのが寂しいなんて思うのは我がままにもほどがある。誰かを羨ましいと思うなんて筋違いだ。
「俺って最低だ」
晶はゆっくりと時間をかけて海鮮パスタを平らげた。ネロが作ってくれた料理を残すのは死んでも嫌だったので、途中で満腹になっても晶は黙々と手を動かし続けた。
「うぅ……きもちわるい……吐きそう……」
今にもはち切れそうな腹をさすりながら、晶はゲホと咳き込んだ。喉元まで込み上げてきた酸味をつばを飲み込むことで押し戻し、涙目で空になった深皿を見つめる。
「ネロは回収しに来るって言ってたけど……」
またここまで足を運んでもらうのはいささか申し訳ない。晶は少しだけ逡巡し深皿を持ち上げた。その拍子に中にあるカトラリーが動いてカチャリと音を立てる。
部屋のドアからおそるおそる顔をのぞかせてみると、廊下に人の気配はなく水を打ったように静まり返っていた。
もうみんな自分の部屋に帰って寝支度を始めているのだろうか。それともシャイロックのバーで酒盛りに興じているのか。もしかしたら夜の街に繰り出しているのかもしれない。
なんであれ晶にとっては好都合だ。
ドアの隙間からするりと部屋の外に抜け出し、晶は小走りで廊下を移動した。
幸運にも階段を下りて食堂に辿り着くまで晶は誰とも会わなかった。
「……はあっ」
無人の食堂に足を踏み入れた晶は詰めていた息を吐き出し、歩く速度をゆるめる。何度か深呼吸を繰り返し乱れた息を整えた晶は「よし」とつぶやいて、キッチンへと続くドアを押し開けた。
「アドノディス・オムニス……アドノディス・オムニス」
キッチンでは椅子に腰かけたネロが歌うように呪文を唱えていた。ネロが魔法を使う度に床やコンロやシンクやオーブンにこびりついた汚れが落ちて、本来の輝きを取り戻していく。
洗い物はもう済んでしまっているようで、カトラリーや食器はすべてきちんと戸棚に収納されており、晶はネロに声をかけるのをためらった。
今ここで手にしている深皿とカトラリーをネロに差し出したら、せっかくきれいになったシンクがまた汚れてしまう。
「うーん……でもキッチンの片付けが終わってから、俺の部屋に来るつもりだったなら……」
今返却したところで差し障りはないだろう。最初から二度手間になることも織り込み済みで、ネロは掃除をしているに違いない。
考え事に集中していた晶は呪文を唱える声が止んでいることにも、頭上から人影が覆いかぶさってきたことにも気付かなかった。
なんだか視界が暗い。そう思って目線を上げた晶は至近距離にあったネロの鼻に頭をぶつけそうになり、思いきり背中を仰け反らせる。
「うわっ!?」
「っ賢者さん!」
足がもつれて後ろ向きに倒れそうになる。しかし寸でのところでネロに腰を抱えられ、晶はなんとか転倒をまぬがれた。
「アドノディス・オムニス」
晶の腰を抱いたままネロがつぶやく。と、晶の膝裏に何かが当たった。ちらりと一瞥すれば、先程までネロが座っていた椅子が晶の背後に移動していた。
ネロの意図を察して晶は体から力を抜く。晶が椅子に座って動かなくなるとネロがふう、と安堵の息をついた。
「悪い悪い。賢者さんを驚かせるつもりはなかったんだ。ただあんたがちっとも動かないから、どうしたのか気になって」
「俺のほうこそ、すみません……。お皿と食器を返しに来たんですけど、もう掃除が終わりそうだったので、返していいのか迷ってしまって」
「あんた、それでぶつぶつ言ってたのか? へえ……」
「な、なんですか。その珍獣を見るような目つきは」
「いや別に。ここでそんな気遣いをするのは賢者さんくらいだと思ってさ」
そう言ってネロがくつくつと喉の奥を鳴らして笑う。これは完全にからかわれている。晶はむっとして唇をとがらせた。
「そんなことないです。同じ状況になったら、ヒースとかクロエくらいは俺と似たようなことを言うと思います」
「でも少数派なのは間違いないだろ」
「……ネロは意地悪です」
「ん? なんだ? へそが曲がっちまったか?」
「むむむ」
やり込められたのが悔しくて晶はわざと勢いをつけて立ち上がった。にやにやと笑っているネロに背を向けて、深皿をテーブルに置く。
「とにかくご馳走様でした。海鮮パスタ美味しかったです。ネロが洗ってくれるって言うなら、お皿をここに置いて、俺は部屋に戻ります。ありがとうございます。おやすみなさい」
「ちょい待ち! 賢者さん、俺が悪かった。あんたの反応が面白くて遊びすぎた。……謝るからもうちょっとここにいてくれねえか。あんたに聞きたいことがあったんだ」
この通りだ。とネロが両手を合わせて頭を下げる。こうも真剣に謝罪されてしまっては、晶としても子供っぽい振る舞いを続けるわけにはいかない。
そもそも素っ気ない態度を取ったのはただのポーズのようなもので、本気で怒っているわけでもない。
晶はふっと眉間のしわをほどいて、何事もなかったかのようにネロに問いかけた。
「聞きたいことってなんですか?」
「ああ、うん……。俺がここいなくなったらメシ作る奴がいなくなるだろ? 日持ちする料理をいくつか作り置きしとこうと思っててさ。なんかリクエストあるか?」
「それって……お休み中に俺が食べる分の料理を用意しておいてくれるってことですか?」
「まあ、そういうこと。なんでも作ってやるから遠慮しなくていいぞ。食いたいもんあったら言ってくれ」
「…………そう、ですか」
にこにこと笑うネロを見上げて晶は眉尻を下げた。自分が嬉しいのか悲しいのかわからない。
ネロは純粋な親切心から晶を気遣ってくれている。自分が魔法舎を離れている間、晶が食事のことで苦労しないようにと配慮してくれている。
だから晶は本来ならば「ありがとうございます」と感謝を述べるべきなのだろう。屈託のない笑顔でネロの申し出を受けるべきなのだろう。
けれど今は。今だけは――ネロの優しさが痛かった。どうして、と思ってしまった。
(そんなことを言うくらいなら、ここに残ってくれたっていいのに)
ネロの作る料理は頬が落ちそうになるくらい美味しくて。みんなの幸せそうな顔を見ながら、わいわい談笑しながら、食事をする時間が晶はとても大好きだ。
けれどみんなが魔法舎からいなくなってしまったら、晶は独りぼっちだ。あの広々とした食堂でたった一人。ネロが作ってくれた料理を食べる。
晶以外に誰もいない食堂では料理の感想を分かち合えないし、お喋りを楽しむことだってできない。そして晶は思い知るのだ。自分にはその程度の価値しかないのだと。
自分の孤独に寄り添ってくれる人は誰もいないのだと。
そんなのは――想像しただけで胸が張り裂けそうになる。
「おーい、賢者さん?」
物思いにふけっていた晶は呼びかけられてハッと我に返った。ネロが心配そうに自分の顔をのぞき込んでいるのに気付き、慌てて口を開く。
「俺のこと、気にかけてくれてありがとうございます。でも、大丈夫です」
声はとがっていないだろうか。震えていないだろうか。ネロを相手に上手く誤魔化せているだろうか。
晶は脳味噌をフル回転させながら言葉を紡ぐ。こんなところで自分の本心を悟られるわけにはいかない。ここで晶が涙を見せたら、ネロは、魔法使いたちは、自分を責めるだろう。
彼らは優しいから。優しすぎるから。晶が泣いたら自分たちのせいだと思い詰めるだろう。
そんな事態に発展させたくはない。だってそうしたらばれてしまう。
真木晶という人間がどうしようもなく醜いことが。魔法舎以外の居場所がある彼らをひがんでしまうような心の狭い人間で、賢者なんて肩書きはまったくの不釣り合いであるということが。
(嫌だ)
お前のような賢者なんていらないと言われてしまったら。前の賢者のほうがよかったなんて言われてしまったら。晶は本当に居場所を失くしてしまう。
そうならないために、晶は虚勢を張るしかなかった。ばらばらになりそうな心を必死に繋ぎとめて、平気な振りをしてネロに笑いかける。
「俺もちょっとなら料理はできますし、革命記念祭の間はグランヴェル城に出かけて屋台で買い食いするのもいいなあってこっそり計画してたんです。だからネロは何も気にせず、自分のやりたいことをやってください。そのための休暇なんですから」
「……賢者さんがそこまで言うんなら、作り置きはやめとくよ。でも本当に大丈夫か? あんたなんだか……」
ネロの手がこちらに向かって伸びてくるのがスローモーションで見えた。晶が無意識に後ずさると、ネロは苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「あっ……」
やってしまった。ネロが傷付くような態度を取ってしまった。彼は今何を思っているだろう。心臓がバクバクと鳴り響く。冷や汗がだらだらと背中を伝う。晶が動けずにいるとネロがふっと息をついて、表情を切り替えた。
「悪い。すっかり遅くなっちまったな。あんたはそろそろ部屋に戻ったほうがいい。これ以上起きてるのは体に毒だぜ」
「……そう、ですね。それじゃあお言葉に甘えて。おやすみなさい、ネロ」
「ああ、おやすみ――賢者さん」
ネロが口元を笑みの形にする。先程彼がショックを受けたような顔をしたのは、晶の目の錯覚だったのかもしれない。そう思ってしまいそうなほど透き通った笑顔を向けられて、晶は急に切なくなった。
(どうしてそんなふうに笑うんですか、ネロ)
知りたかった。けれどこれ以上ネロのそばにいたらきっとボロが出てしまう。迷って、ためらって、晶は結局踵を返した。背中にネロの視線が突き刺さるのを感じながら、晶は脇目も振らず、自室へと駆けていった。
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少しずつ小さくなっていく晶の背中をネロは穏やかな眼差しで見送った。
キッチンから晶の姿が見えなくなると、ネロはおもむろに目の前の椅子に腰かける。木でできた無骨な椅子にはまだ晶の温もりが残っていた。
「一日の締めくくりに賢者さんと会えるなんてついてるな」
ネロにからかわれてふくれっ面をしている晶は文句なしに可愛かった。素直で真面目でおちょくりがいのある弟分ができたようで、リケやミチルと同じように言葉を交わすだけでネロの疲労を癒してくれる。
ネロはふんふんと鼻歌を歌いながら指を振る。その動きに合わせて、晶がテーブルに置いて行った深皿が宙に浮かび上がった。
シンクから飛んできたスポンジに磨かれ、深皿とカトラリーが水道の蛇口から膨れ上がった水の玉目掛けて突っ込んでいく。
後片付けには魔法を使わない主義だが、たまには楽をしてもいいだろう。
「アドノディス・オムニス」
最後に風を吹かせて水滴を乾かしてしまえば、掃除は完了だ。スポンジも、食器もあるべき場所に戻り、キッチンには夜の静寂が訪れる。
どこか遠くでホウホウとフクロウの鳴く声が聞こえた。椅子の背もたれに体重を預けて、ネロはそっと目を閉じる。
「俺のやりたいことをやれ、か……。そんな気遣いしなくてもいいってのにな」
前の賢者がどんな人間だったのかネロは知らないが、少なくとも今の賢者の人となりは気に入っている。晶が困っているときは助けてやりたいと思うし、心を預けてもいいと思う。
晶はネロが魔法舎で料理を振る舞うことを当たり前だと考えていない。料理人の役割を押し付けてこようとしない。
ネロの料理を食べるときは必ず「イタダキマス」と「ゴチソウサマ」をして感謝の念を示してくれる。料理はネロの仕事でもなんでもなく、好きでやっていることで。誰かに親切にしてもらったなら感謝をするのが最低限の礼儀だと晶はきちんとわきまえている。
つまみ食いばかりするどこかのバカ野郎とは大違いだ。
まっすぐな好意を向けてくる相手にほだされるのは仕方がない。
魔法使いだから、ではなく。自分の得意分野で晶を笑顔にしてやれるのが存外嬉しいらしいと気付いてしまってから、ネロは境界線を引くのを諦めた。
異世界からやってきたただの人間は、たまに自分の命さえ省みず、誰かを、何かを助けようとする。
奇跡と不思議で満ちているこの世界を恐れることなく、愛して守ってくれている。魔法使いでもないただの青年が。
長生きをしている魔法使いたちからすれば、晶など赤ん坊のようなものだ。非力でちっぽけで何もできない青年が、なんの関係もない自分たちのために死線をくぐる覚悟を決めている。
そのまぶしい命の輝きにおそらくネロは心を奪われた。それはほかの奴らも同じだろう。
目を離せばすぐ無理をして無茶をする晶をぐずぐずに甘やかしてやりたいし、陽だまりのように包み込んでやりたいと思っている。
「だからメシの作り置きを、と思ったんだが。振られちまったな」
まぶたを持ち上げてネロは苦笑する。いらないと言われてしまった以上、ネロにしてやれることはもう何もない。
「けどなんか引っかかるんだよな……」
ネロが触れようとしたとき、晶は明らかに怯えていた。顔は笑っていたがどうにもぎこちなかった。
晶が差し出してくれた優しさがこそばゆくて。おやすみの挨拶を交わせたのが嬉しくて。何か重大なことを見落としているような気がする。
嫌な予感がする。これは無視してはならない警告だと、普段はネロの中で眠っている生存本能がささやいてくる。
北の国で魔法使いとして生まれ、今まで生きてこられたのは、ネロがこの野生の勘に忠実に従ってきたからだ。
「先生辺りにでも話しておくかねえ」
この時間ならばファウストはまだ起きているはずだ。立ち上がり、隅に置いてあった手燭を取り上げて、ネロはキッチンをあとにした。
■
居室を訪ねるとファウストは留守だった。ファウストは東の魔法使いたちの指南役で、魔法舎からいなくなるときはなんだかんだ律儀に連絡をよこしてくれる。
今夜出かけるという話は聞いていないから、彼は舎内のどこかにいるはずだ。
魔法を使って魔力の痕跡を探れば、ファウストの居場所はすぐにわかった。彼はどうやら真夜中に商売する兄ちゃんのところで飲んでいるらしい。
「うげ、マジかよ……。あそこにはあんまり近づきたくねえんだけどなあ……」
シャイロックのバーは魔法使いたちの溜まり場になっていることが多く、ときとしてネロの鬼門になる。
ミスラやオーエンに絡まれた場合は、手料理で釣って関心の矛先を逸らせるので苦労はしない。だがオズ、フィガロ、ファウスト、レノックスの四人が揃うと居心地の良い空間が地獄へと様変わりする。
過去に何があったか知らないが、オズ以外の三人が毒舌と嫌味と皮肉の応酬を繰り広げるため、空気がぴりつくし、美味いはずの酒と料理がまずくなる。
そのくせあの三人――特にフィガロは若い魔法使いたちの前では猫をかぶりやがるので、薄気味悪いことこの上ないのだ。
だからといってネロが晶に対して抱いた違和感を放置するわけにもいかない。ネロは渋々ながらシャイロックのバーへと向かう。
バーのドアは誰でも歓迎しますという店主の意思を示すかのように、大きく開け放たれていた。今夜は繁盛しているらしく、入口に近付くにつれ、がやがやと喧騒が聞こえてくる。
「みんな休暇を目前にしてうっきうきじゃのう」
「楽しそうで何よりじゃのう」
「でもね、我らちょっとみんなひどいんじゃない? って思ってたりして」
「もしかしてもかしなくともみんな気付いてない感じだったりするのかな?」
「賢者ちゃん、捨てられた子犬のようになっとったというのに」
「賢者ちゃん、一人で寂しそうに泣いておったというのに」
「「あれじゃあ賢者ちゃんが可哀想でしょー!」」
は、とこぼれた吐息はネロのものだったかもしれないし、ほかの誰かのものだったかもしれない。ともかく「賢者ちゃんが泣いていた」という双子の唐突すぎる爆弾発言に、ネロとバーにいる全員の時間が止まった。
バーの中が重苦しい静寂に包まれる。永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのはファウストだった。
「泣いていた、とは、どういう……?」
彼は珍しく動揺をあらわにしていて、声が若干上ずっている。ネロがいる位置からはバーの内部がうかがえないため、ファウストがどんな表情をしているのかまではわからない。
ファウストの疑問に答えたのはシャイロックだった。
「賢者様は痩せ我慢がお得意なようですから。おおよその想像はつくでしょう。意地らしいといえば意地らしいことですけれど」
「俺は賢者様が甘えてくれるのを待ってただけだよー」
押し黙ってしまったシャイロックの代わりに、フィガロが飄々とした口調で語り出す。どうやら今夜のバーには各国の指南役が終結しているらしかった。
「だってさ、せっかく賢者様が俺たちが自由に過ごせるように、って作ってくれた休暇だよ? 俺たちが気を遣って一緒にいようとしたら、あの子は絶対に気付く。気にしないでと言っても、賢者様の性格じゃあ無理だろう。だから向こうから来てくれるのをぎりぎりまで待ちたかったんだけど……」
「だからって賢者ちゃんに何も言わないのはどうかと思うぞ!」
「賢者ちゃんが我らのこと嫌いになっちゃったらどうするんじゃ!」
「つまり、なんだ? 僕らが魔法舎を離れる間、賢者は誰ともどこにも行く予定がないということか?」
「なぜ、そうなる」
「ファウストもオズも今頃気付いたの? そりゃあ俺たちとあの子の関係は、あくまで仕事仲間ってだけだしね。俺たちからの働きかけがなかったら、一歩引いちゃうのも、わがままが言えないのも、当然だと思わない? 俺としてはあの子とはもうちょっと親しい間柄だと思っているよ。……だからこそ負の感情をさらけ出すのが怖いっていうのもわかるんだ」
「あの方があの方だからこそ、私たちは賢者様をお慕いしているのですけれど。課せられた使命が重すぎて真実が見えなくなってしまうことは、よくあります。これまでの賢者様と同様に」
「私は……かつて賢者に役目に囚われるなと」
「それ、紙に書いて部屋に貼ってあげたらいいんじゃない?」
「フィガロ! こんなときに笑えない冗談を言うな! おまえはなんだってそう、」
「ファウストや。気持ちはわかるが今はこらえてくれんかのう」
「フィガロちゃんも茶々を入れるのはやめるのじゃ」
「はいはい」
「わ、悪かった……」
会話が途切れてバーが再び静まり返る。ネロは誰にも気取られぬよう、細心の注意を払って踵を返した。
人気のない舎内を早足で移動する。自室へ戻る道すがら、ネロは先程目にした晶の様子をひたすら反芻していた。
食事を用意しなくていいと言い切った晶は、鉛を飲み込んだような顔をして笑っていた。顔色が悪いような気がして、ネロが手を伸ばしたら晶は大げさなまでにびくついた。単純に疲れているのかと思って就寝を促したが、それは間違いだった。
晶は自分の虚勢がはがれることを恐れていた。魔法舎を閉鎖すると決めて、魔法使いたちに一時の自由を与えて、自分は一人でいることを選んだ。
休暇を間近に控えた魔法使いたちが浮足立っている光景を輪の外から見続けて、晶がどんな気持ちになったのか想像するのはたやすい。
行こうと思えばどこにでも行ける魔法使いたちが、妬ましかっただろう。羨ましかっただろう。晶はこちらの世界の常識も、歴史も、文化も知らない。文字の読み書きもままならない。
賢者という肩書きもなく魔法舎から放り出されてしまえば、異世界からやって来た人間は食うに詰めてのたれ死んでもおかしくはない。
家族や友人に会えるのがずるい。家に帰れるのがずるい。自分は元いた世界にいつ帰れるのかもわからないのに――。
そんなふうに割り切れない感情を抱えて。けれど誰かに吐き出すこともできなくて。寂しいのも苦しいのも辛いのも、たった一人で抱え込んでやり過ごそうとしている。それを年嵩の魔法使いたちは気付いていながら放置していたのだ。
下手に踏み込めば晶を傷付けてしまうから。見て見ぬ振りをするのも優しさの一つだと知っているから。
(……あー、失敗した。賢者さんにまずいこと言っちまった)
自室に帰り着いてネロは迷わずベッドにダイブした。枕に顔を埋めて低く唸る。後ろめたさがひどすぎて、頭がどうにかなりそうだ。
食事を作り置きしておく、というネロの提案は大いに晶を落胆させただろう。
(あんなこと言われたら、自分だけのけ者にされたって考えるに決まってんだろ)
冷たくなっている料理を温めて、席に着いて、一人で黙々と食器を動かす。その合間に晶は考えるだろう。今頃みんなは何してるんだろう。楽しんでるといいなあ。どこかで美味しいもの食べてるのかなあ。
そんなふうに疎外感にさいなまれながら食べる料理が美味しいはずがない。にも関わらずネロはそういう状況を作り出そうとしていたのだ。
「ごめんな」
ごろんと寝返りを打つ。無機質な天井を見上げながら、ネロはつぶやいた。晶が自室で夕食を摂りたいと言ったときに、もっとちゃんと話を聞いてやるべきだった。注意深く観察すれば、晶が何を思い詰めているのか、どうして部屋から出てこないのか、すぐに気付けたはずだ。
「誰も嫌ったりなんかしねえのにな……」
妬ましい。羨ましい。憎らしい。寂しい。苦しい。恐ろしい。どうして自分がこんな思いをしなくちゃいけないんだ。賢者なんかやらなくちゃいけないんだ。
そんなふうに負の感情をぶつけられたってネロたちは平気だ。もっともな言い分だと冷静に受け止めて、巻き込んですまないと頭を下げるだろう。誰も晶を嫌ったりしない。幻滅なんかしない。
晶が縁もゆかりもないこの世界のために、どれだけ身を粉にして働いてくれているか、自分たちはこの目で見てきた。
吹けば飛ぶような儚い命を持つ人間が、魔法使いたちのために力を尽くしてくれることがどれだけ嬉しいか――きっと晶にはわからない。
「さて、どうするかねえ……。大勢で寄ってたかって問いただすわけにはいかねえし」
なるべく晶を刺激せず、自己嫌悪を抱かせず、本音を聞き出す方法とくれば――やはりあの手段しかないだろう。
「休暇が始まるのは明後日からだろ? ファウストに頼み込んで、明日特訓すればなんとかなるか?」
魔法舎のキッチンを預かる料理人として、賢者の食が細くなりそうな事態は見過ごせない。
がむしゃらに頑張るだとか、ひたむきに努力するだとか、暑苦しいのはネロの苦手分野だ。
けれど晶が自分たちの知らないところで泣くのを阻止するために、できる限りのことはしてやりたかった。
■
カーテンを透かして窓から差し込む朝日で目が覚めた。晶は重たいまぶたを必死に持ち上げて、窓辺に置いてある時計を仰ぎ見る。
「んん……いまは……9時……9時っ!?」
時計の短針が9と10のちょうど真ん中辺りを指しているのを確認して晶は飛び起きた。時計が壊れていないのであれば現在時刻は9時45分。これは完全な寝坊である。
晶のいつもの起床時間は7時だ。30分で身支度を整えて、7時半から8時半の間に朝食を食べ、9時から事務仕事なり、現場仕事なりに着手する。いつの間にかそんなタイムテーブルが定着していた。
「なんで誰も起こして……っ! っていうかネロに謝らないと……っ!」
慌てふためきながら普段着に着替え、髪をとかし、晶は部屋を飛び出した。廊下を全速力で駆け抜けながら、あれ? と首を傾げる。
この時間帯であれば舎内は既に活気づいているはずだ。朝に眠って夜に起きる魔法使いたち以外はみんな起き出して、魔法の訓練をしたり、勉強をしたりしていて、舎内は喧騒に満ちている。
けれど今日は誰の気配もしない。誰かの笑い声も、話し声も、足音も聞こえない。怖いくらいに静かで、まるで幽霊屋敷を歩いているように心許ない。
「あっ……」
食堂に辿り着いた晶は壁にかけられているカレンダーを見て顔色を失った。今日が何日かを思い出して、根っこが生えたようにその場から動けなくなる。
すっかり失念していたが今日は――革命ウィークの初日だ。魔法舎はよほどの大事件がない限りは閉鎖。賢者の魔法使いたちは滅多にないバカンスを楽しむため、里帰りや旅行でここを留守にしている。
クックロビンとカナリアも早朝に発つと言っていた。つまり今魔法舎に残っているのは自分だけだ。
「そっか……。みんながいないから、こんなに静かなんだ……」
どうりで食堂に来るまで誰とも会わなかったわけだ。晶は納得して「はは」と乾いた笑い声をこぼした。
「ばかだなあ、俺……。焦らなくてもよかったのに」
魔法使いたちが帰ってくるまでは賢者の仕事もしなくていいのだ。何時に起きても誰にも咎められはしない。それなのに泡を食ってここまで走ってきてしまった。滑稽以外の何物でもない。
「ネロもいないんだから、好きなときに好きなもの食べればいいんだよな」
基本的にネロはまだ成長途中の子供、若い魔法使い、晶が食事を終えるまではキッチンにいてくれる。いつまで経っても食堂に来なかったら呼びに来てくれて、強制的に食事を食べさせられる。不摂生と怠惰を理由に若者たちが食事を抜くことを、ネロは決して良しとしなかった。
ネロをいつまでも待たせるのは悪い。だから晶はなるべく彼の迷惑にならないよう、決まった時間に食堂に行くことにしていたのだが、そんな配慮もネロが不在の間は必要ないのだ。
「……あんまり食欲ないかも」
腹を撫でさすり、どうしようかな、と晶はつぶやく。発した声はどこか空虚で頼りなかった。
「一食くらい抜いてもいいよね」
だって誰もいないんだし。お腹すいてないし。まだ眠たいし。――誰もいないんだし。
晶はそろそろと後ずさった。あとでネロにバレたら絶対に叱られる。悪いことをしている自覚があるだけに、動きは緩慢になる。
晶が食堂に背を向けようとしたそのときだった。ニャアン、とかわいらしい鳴き声が足元から聞こえてきた。
晶はハッと目を見開く。この声は間違いない。
(猫!!!!)
晶がバッと下を向くと、そこにはやはり猫がいた。四つ足を揃えてお行儀よく座っている姿が大変愛らしい。先程まで頭を占めていたやるせなさが一瞬で吹っ飛ぶ。
きらきらと目を輝かせて晶は猫に話しかけた。
「わー! わー! きみ、見かけない顔だけど新入りさん? それとも迷い込んできちゃったのかなあ。俺は真木晶っていいます。ちょっとだけ触らせてもらってもいいかなあ? 何もしないから。ねっ、ちょっとだけ!」
両手を合わせて頼み込む。と、猫は自ら頭を晶の足首にこすりつけてきた。
「かっっっわいい……っ! 待って、死ぬ、ファンサがすごい、死んじゃう……。こんなに人懐っこい子なら、野良じゃないな……。毛並みもきれいだし、やっぱり迷子かなあ……」
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、晶は猫の背中を撫でる。猫の毛はまじりっけのない白色で、瞳は小麦のような黄金色をしている。晶は「あれ?」と首を傾げた。
(この目の色、どこかで見たことあるような……)
晶が記憶を探っていると撫でられるのに飽きたのか猫がするりと離れていく。
「あっ」
思わず未練がましい声をあげてしまう。猫はそんな晶を一瞥し、ごろごろと喉を鳴らした。
廊下を進んでは振り返り、廊下を進んでは振り返る猫を見て、晶はぴんと閃く。
「もしかして俺について来いって言ってる……?」
「ニャウ!」
大正解とばかりに猫が鳴く。晶は満面の笑みを浮かべて足を動かした。猫は晶が自分のあとを追ってきているのを確認しながら、とっとこ廊下を歩き、階段を上がっていく。
3階まで上がると猫はネロの部屋の前で立ち止まった。晶は目を瞬かせる。ネロはいないはずなのに、彼の部屋のドアはわずかに開いていた。
「あっ、そこは――」
入っちゃ駄目、と言う前に猫はドアの向こうに消えてしまった。晶がどうしようか逡巡していると、「ニャアン」と鳴き声が聞こえる。おいでおいで、と言われているような気がして、晶はゆっくりとドアに近付いた。
勝手に人の部屋に入るのは非常識だ。けれどネロの部屋に猫を残して素通りするのはまずい。ネロは料理人らしく、衛生管理にとても気を遣っている。猫が室内で毛を落としたり、ゲロをしたり、糞尿をまき散らしたりしたら大変だ。それに病気を持っているかもしれないし、体がノミやダニの巣窟になっているかもしれない。
「うう、すみません、ネロ。お邪魔します……っ! んっ……!?」
覚悟を決めて晶は勢いよくドアノブを引いた。部屋の中央に座り込んでいる猫を抱き上げようと手を伸ばす。その瞬間、しなやかなフォルムがぐにゃりとゆがんだ。
「え、え、え!?」
「ははっ。賢者さん、驚きすぎ」
「ね、ねろぉ!?」
瞬きをした刹那の間に白猫はいなくなり、目の前にはネロが立っていた。仰天している晶を見て、ネロが声をあげて笑う。
「え、ど、どうして? ネロはここにいないはずじゃ……猫は? 猫はどこに!?」
「落ち着けよ、賢者さん。さっきの猫は俺。変身魔法で俺が猫に化けてたんだ」
「へんしんまほう……じゃあ、あのかわいこちゃんはどこにもいないと……」
とても愛くるしくつぶらな瞳をしたあの猫は現実には存在しない。事実を知った晶がしょんぼり肩を落とすと、ネロは苦笑を浮かべて言った。
「そこまでがっかりされると、悪いことしたような気分になるな」
「いや、そんな! 滅相もない! 猫が消えたのは悲しいですけど、ネロに会えたのは嬉しいです! でも、どうしてまだ魔法舎にいるんですか……? 早く出発しないとお昼になっちゃいますよ! 休暇中、ネロは雨の街に滞在する予定でしたよね?」
「あーそれなんだけどさ。予定、変更しようかと思って」
「え、どうしてですか? 何か問題ありました?」
晶が尋ねるとネロは「んー」と煮え切らない返事をよこした。視線を宙にさまよわせて考え込んでいるネロを晶はじっと見つめる。
「ちょっと賢者さんのことが気掛かりでさ」
「っ……!」
ネロと目が合って指先がぴくりと震えた。真っ直ぐな視線に射抜かれて自然と呼吸が浅くなる。一抹の不安が脳裏をかすめて、晶は今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「さっきも食欲ないとか、一食抜くとか言ってたし。俺がいないと賢者さん、面倒くさがってまともに食事しないんじゃねーかなって」
「それ、は、」
しくじった。まさかさっきの独り言を聞かれていたなんて。晶は思わぬ事態に動揺した。言い訳をしたいのに舌がもつれて言葉が上手く出てこない。
「畑の世話するだけなら、エレベーター使って移動すりゃいいしな。マナ石は自分の使うしさ。雨の街で法律に縛られて過ごすんじゃ、ろくに息抜きもできなさそうだ」
ネロの言い分は真っ当だ。真っ当な主張を並べているように思える。けれど晶には今語られていることがネロの本音だとはとても思えなかった。
彼は嘘と真実を巧妙に織り交ぜて話している。そんな気がしてならない。
ネロが一旦言葉を切って、短く呼吸する。――来る。晶はぐっと奥歯を噛みしめた。
「昨日賢者さん、ちょっと様子おかしかったし心配になったんだよ。五日間もここに一人ぼっちで過ごすとか――寂しいだろ、普通。賢者さん以外の奴らはみんな、つるんでどっかに出かけたってのにさ」
「…………」
そんなことはないですよ、といつもの晶なら否定しただろう。大丈夫です。平気です。一人で過ごすことには慣れてます。ちっとも寂しくないですよ。そんなふうにネロを安心させるための言葉を紡いだだろう。
けれど今日は駄目だった。頭が真っ白でなんの言葉も浮かばない。だってネロはもう気付いている。晶が自分にも魔法使いたちにも嘘をついていたことに。晶の本音に気付いたからこそ、彼は魔法舎に残ったのだ。
これ以上ネロを騙すことはできない。
ひく、と喉が引きつる。唇がわななく。
「さ、寂しくないわけ、ないじゃないですか……」
晶の意思に反して唇は勝手に動いた。隠そうとしていた気持ちがぽろぽろとこぼれて、あふれて、止まらない。目尻に涙が盛り上がり、次々に頬を伝い落ちていく。
「でも、言いたく、なかったんですよ。だ、誰にも、し、知られたくなかったんです。リケが残ってくれたらよかったのにとか、みんなのことが少し、だけ、嫌いになりそう、とか」
ヒースもクロエもデリカシーないなとか。俺は家族にも会えないし、家にも帰れないの忘れてるのかなとか。地理もろくに把握してないから、一人で街に出るのはまだ怖いのにとか。
「こっちから、言わなくても、俺がしんどいの気付いてくれたらい、いいのにとか……そんなふうに考える度に落ち込んで。俺がいいよって。自分からみんなに休んでくださいって言ったくせに最低だって。こ、こんなふうに考えてるの知られたら、ぜったい、嫌われるって……っ!」
だから誰にも言いたくなかったのに。晶はその場にしゃがみ込んで、膝を抱えた。両方の膝頭に額を押し付けてひそやかに肩を震わせる。えぐえぐと泣く晶にネロはしばらく何も言わなかった。
「そうだな……。今の賢者さんが言ったことは結構幼稚だと思う」
ため息まじりに聞こえてきたネロの台詞がナイフのごとく胸に突き刺さる。痛い。心臓が痛くて息ができない。
(ほら、やっぱり)
全部自分が悪いのだ。こんな自分勝手な賢者は嫌われて、見下されて当然なのだ。
「でも誰にも嫌な思いさせないようにって頑張ってた賢者さんを、馬鹿にする奴なんかいないよ」
「え……」
ネロの思いがけない言葉に晶は目を丸くした。おそるおそる顔を上げる。視線が噛み合うと、ネロはふっと笑って床に片膝をついた。目線が同じになって、ネロの表情がよく見える。
ネロの眼差しに侮蔑は含まれていなかった。嫌悪も呆れも感じられない。晶の予想よりもずっと和やかで穏やかで凪いだ顔をしていた。
「賢者さんから責められたら、誰だってきついんじゃねえかな。俺たちは頭下げるしかないよ。こっちの事情に異世界人のあんたを巻き込んですんませんってさ。<大いなる厄災>と戦う使命を強いられてるのは俺たちだって同じだ。だから多少は苛立たしく感じるかもしれない。……でもさ、賢者さんの寂しさをわかってくれる奴は……いないだろ。他の奴らには仲間がいる。家族がいる。自分をわかってくれる奴がいる。でも、賢者さんは、そうじゃない。それは……どう考えたってしんどいだろ。たまには泣き言吐いたって……いいと思うけど」
「あ…………」
ネロの言葉は慈雨のごとく晶のひび割れた心に染み込んでいった。
泣き言を吐いたっていい。子供っぽく八つ当たりをしてもいい。それを受け止めるために、自分たちはここにいるのだとネロが全身で語りかけてくる。
ぷつりと張り詰めていた神経の糸が切れる音がした。何を言ってもいい。理不尽な怒りをぶちまけてもいい。恨み言をぶつけてもいい。自分は彼らに甘えていい。それを許されているのだと理解して、安堵した瞬間、どっと涙があふれた。
「う、ああ、あああァあああ……っ」
「おー、よしよし。こうなるまでよく我慢したなあ」
ネロの胸にすがりついて晶はわんわんと泣いた。胸の中で凝っていたどろどろの塊が溶けて消えていく。晶が膿をすべて出し切って泣き止むまで、ネロはずっと背中をさすってくれていた。
涙が止まって、真っ赤に腫れたまぶたを冷やしながら「ネロ、お腹がすきました」と晶が小声で訴えると、ネロはにっと笑って頭を撫でてきた。
「座って待ってなよ。すぐになんか作ってやるから」
「はい……」
成人してからあんなふうに恥も外聞もなく泣き喚いたのは初めてで、晶は少しだけ恥ずかしかった。けれどネロに対して気まずさは感じなかった。
ネロは東の国の魔法使いだ。誰かの痛みに敏感で、誰かの孤独に寄り添う術を知っている。優しくて、情が深くて、とても素敵な魔法使い。
ネロが作ってくれたオムライスを、ネロに見守られながらもぐもぐと頬張る。口を動かしながら、晶は思った。
(ネロが好きだなあ)
恋をして結ばれるなら、ネロみたいな人がいい。
「ばっ! 賢者さん、あんた、何言って……っ!」
「え、今の声に出てました……?」
胸の内でつぶやいたつもりだったけれど、どうやら漏れてしまったらしい。真正面から好意をぶつけられて、ネロの顔はゆでだこみたいに真っ赤になっている。
――これは押せばイケる。ネロの反応を見て、晶はそう確信した。
「ネロ」
「……ナンデショウカケンジャサン」
「賢者ではないただの真木晶は、あなたの友達になれますか……?」
とりあえず距離を縮めるところから始めよう。そう決めて晶はにっこりと笑った。
「賢者さん、振り幅でかすぎねえ……?」
ネロは晶の変わり身の早さに恐れおののいているようだった。頬を引きつらせて、背中を反らして、戸惑っている。「あー」とか「うーん」と散々言葉を濁したあと、ネロは照れ臭そうにしながらこう言った。
「別に……賢者さんのことは嫌いじゃない。もし賢者さんがこの先路頭に迷ったら……俺の店で給仕として雇ってもいい。死ぬまで面倒見てやる。それくらいには……気に入ってるよ」
ネロはどうやら料理の才能だけではなく、晶を幸せで殺す才能も獲得しているらしかった。