取り消しの利かぬ愛(ネロ晶♀) むず痒い体温の気配に誘われ、重たい瞼を僅かに開ける。どうやら彼女は今朝も、飽くことなくしきりに俺の髪に触れているらしい。目先で鈍色が混じる水色の前髪は細い指先になぞられていて、同じ朝を迎える度にカーテンを開ける時もこんな風に優しい仕草だったなと思う。
ネロは薄目を開けながら、柔らかなシーツと静寂に身を任せる。前髪に指を通す彼女のあどけない表情を盗み見ては、身に余る幸せを噛みしめつつ。
本来ならばいつまでも、こうして彼女を慈しんでいたいものだが。
「……はよ」
「おわっ」
頃合いを見ながら声をかける。晶は驚きに目を丸めながら、彼の前髪から指を離した。もう少し眺めていたい気もしていたけれど、今日も今日とて魔法舎に住む面々のために朝食を拵えなければならない。それに、彼女が寝ぼけ眼を見開きながら驚く様を逃さず見届けることは、ネロにとってのささやかな恋人特権のひとつとも言えた。
「もう……びっくりするじゃないですか」
「はは。わりー」
ちっとも反省の色を浮かべない甘さを孕む声は、晶を赤面させるのに充分だったらしい。目を逸らしながら少し尖らせた唇が今日も愛おしいと、ネロはいつまでも言葉にすることができずにいる。
「今日はずっと前髪触ってたのな」
「……まあ、はい。前髪に寝癖がついていて」
「げ。まじ?」
慌てて額を抑えるネロに、晶はどこか名残惜しむような表情を浮かべる。
「はい……あの、それで直らないかなって前髪触っていたのですけど」
気まずそうに言い訳をする晶に言わせるとこうだ。
「何と言いますか、おでこが見えるのが新鮮で、その……格好良かったと言いますか」
「……そうか?」
「はい」
見てくれに変化があったからとて、だれが何の得になるのだろう。格好良いと称賛するに値する人物はもっと沢山いるはずだ。仮に魔法舎内に限定したところで、見目の麗しいヒースや人たらしな言動が様になるカイン、圧倒的な色気を纏うシャイロックなど、褒めるべき者は他にもたくさんいる。いるはずだというのに。
「私は、ネロが良いんです」
一方的に賢者の役目をされた彼女はそれでも、これほどまでに情けない男にまで、無防備に心を開いてしまうのだ。
「……ほんと、見る目ないよな。あんたも」
「そんなことありませんよ」
衣擦れの音と共に背中に腕を回し、晶は逞しい胸板に耳を押し当てる。柔らかな質感の寝間着越しに胸の鼓動を聞いている。
「また明日も、寝癖、直しますね」
きっと建前なのだろう。おそらく、ネロを直視するための。
「……賢者さんが、先に起きたら、頼むわ」
「ふふ」
俺の顔なんか、そんなに良いもんじゃないよ。
それは掛け値などない本音ではあったが、彼女の前では口に出せそうにもなかった。たとえ愛らしい彼女に、本当は愛される資格などなかったとしても。自らの膜の内側を見せられる彼女を今更手放せるほど、適当な想いを傾けているつもりもなかったので。
昇り始めた朝陽は少しずつ枕元に差し込んで、慌ただしい一日の始まりを告げようとしている。