初心忘るべからず俺にはもう付き合って十年以上になる彼女がいる。
十代後半で出会い一目惚れした俺が半ば無理矢理に恋人にした。
控えめな性格だった🌸は最初こそ怖がっていたものの数年も経てば対等な関係になった。
社会から外れた仕事をすることを伝えずに離れようとした時でも「蘭ちゃんは嘘つくとき口元を手で隠す癖があるからバレバレだよ」と笑って見せた。
俺がいればそれでいい、と俺に着いて来てくれたことが本当に嬉しかった。
が、付き合いが長くなればどうしても言葉にするのが億劫だったり行動に移すのが面倒になることもある。
幹部という立ち位置もあるがここの所本当に忙しい日々が続いている。
まともに休めたのは何日前だったか…。
帰れない、連絡ができない、なんてざらにあった。
どんどん🌸への対応が雑になっていることも理解していた。
なんとか埋め合わせを…なんて考えているとまた別の仕事が上司である三途から言い渡される。
まだあんのかよ!と三途を睨みつけたが俺に睨まれていることにも気づかないほど疲れているらしい。そうなると睨んでいるより今手元に来た仕事を終わらせるほかなかった。
「やっと帰れる…」
部下に家の前まで送らせ数日は休むから迎えはいらないと伝え帰らせる。
玄関を開けただいまと言うと奥から🌸が走って出迎えてくれた。
「おかえり!」
嬉しそうに出迎えてくれるが疲れているせいで今はそれすらも鬱陶しく感じてしまう。
「ただいま、悪いけど疲れてるし寝るわ」
冷たくあしらうと🌸の横を通り抜けた。
「蘭ちゃん、お風呂だけ入んない?すごい香水の匂い…」
ああ、そういえば夕方に管轄の風俗でトラブルあって見に行ったな…と思い出したが今は否定するのさえも億劫だ。
「仕事だから仕方ねえだろ、そんくらい分かれよ」
「う、うん…ごめんね」
うつむいてる🌸にさらにイライラしながら寝るわ、と告げ寝室へと向かった。
次の日の早朝、枕元に投げ捨てるように置いてあったスマホから振動が伝わり起こされた。
回らない頭でスマホの画面を見ると九井からだ。
「なに…」
「朝早くに悪いな、ボスから招集がかかった」
嘘だろ、最悪だ。昨日終わったと思っていたのに…
わかった、と返事をして電話を切り、スマホを握りしめたまま体を起こし項垂れていると隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
あんなに冷たくしたのにソファで寝ずに隣にきたのか。
すやすやと眠る🌸の髪を撫でると出かける準備を始めた。
今日は早く帰って二人で美味いもんでも食いに行こう、最近かまってやれなかったお詫びに🌸の好きなもん買って二人でゆっくりしよう。そう決意して重い扉を開けた。
昼頃にはある程度終わりが見えてきた。
限界突破したのかソファで座ったまま眠る竜胆に毛布をかけてやると一服するかと喫煙所へと向かった。
煙草に火をつけどこを見るわけでもなく思考を放棄していると携帯にメッセージが入った。
『蘭ちゃん、おはよう。お見送りできなくてごめんね』
仕事が終わりそうで気持ちに余裕が出てくると変わらず気遣ってくれる🌸の優しさが、ここ最近の対応から生まれた罪悪感に拍車をかける。
『おはよ、すげえ朝早くに出たからな
今日は夕方には帰れるし、明日からしばらく休めるから』
『本当!?嬉しい!』
『晩飯食いに行くか?』
『蘭ちゃんのリクエストあれば作るよ!』
『マジ?🌸の作ったハンバーグ食いてえ』
『わかった、任せて!』
🌸の嬉しそうなメッセージについ口元が緩んでしまう。
もう一踏ん張りすれば🌸のところに帰れる、そう思いながら吸い終わった煙草を灰皿に押し付け喫煙所を出た。
夕方には終わるだろ、と思っていたが計算が甘かったらしい。
すでに時刻は17時だ。
書類を終わらせる片手間で🌸に素早くメッセージを送った。
『悪い、ちょっと遅くなるかも
また連絡する』
それだけ入力するとすぐにスマホを閉じて仕事に戻った。
結局全て終わりボスからもう帰っていいと言われたのは20時に近かった。
夕方には帰る、なんて言っておきながらかなり遅くなってしまった。
『🌸、ごめんな。今終わったからすぐ帰るな』
送信しながらそういえば一つ前のメッセージに返事が来ていないことに気付いた。なんなら未読のままだ。
いつもはすぐに既読もつくし必ず返事が来るのに…。
『🌸?どうした?』
何度か電話もかけてみるがコール音は鳴るものの応答がない。
背中にぞくりとした感覚が走る。
慌てて部下に車を出すように指示し、急いで家へと向かった。
眠ってしまっていた、たまたまスマホが不調だった、そうであってくれと願いながら玄関を開けると真っ暗だった。
🌸には出かける時にはどんなに近場でも必ず連絡するように言ってある。
もし家にいて、家中が暗いってことは昼間からずっとスマホを触れない状況だったってことだ。
このマンションのセキュリティ的に拉致されたとは考えにくい。
しかし侵入者がいないとも言い切れない。
監視カメラ設置しとけばよかったな…そう思いながら、靴を履いたまま銃を構えそっと室内へと入る。
リビングにもいない、具合が悪くて眠ってしまったのなら寝室か、とも思ったが誰もいない。
一通り見た、後は…
「🌸?いるのか?」
トイレの扉をノックするが返答はない。
もちろん明かり窓も暗い、そして鍵もかかっていない。
連れ去られていたなんて思いたくなくて、ここにいてくれと願うと同時に、何時間もここにいるなら…考えたくない最悪の状況を想像してしまい、ここにいないでくれとも願った。
ーーーー引き戸を開けると床に倒れている🌸がいた。
心臓が握り潰されたかのように締め付けられる。
手の力が抜けゴトリ、と銃が床に落ちた。
足元がおぼつかない。倒れるように膝をつき🌸の体に触れる。
「生きてる…」
冷たくない、硬くない。首に触れればトクントクンと鼓動が伝わってくる。
すぐに部下に病院を手配するように連絡し、竜胆にも車を回すように伝えた。
「🌸、🌸…っ!」
そっと🌸を抱き上げると違和感を覚えた。
こいつ、こんなに軽かったか?
最近は忙しさで一緒に食事もとっていないし夜も触れ合うことがなかった。
いつからこんなに体重が減っていたのか、いつから体調が悪かったのか、今考えても仕方のないことばかりが頭を支配する。
玄関の開く音がしてドタバタと竜胆が入ってきた。
「兄貴!?何座り込んでんだよ!早く車乗せて!」
竜胆の言葉にハッと現実に引き戻され急いで🌸を車に乗せ病院に向かった。
2週間、もう🌸が倒れてから2週間経つ。
一向に目覚める気配のない🌸の体にはたくさんの管が繋がれている。
無邪気に笑っていた🌸の面影はなく痩せ細って痛ましい姿だ。
🌸の隣に置いてある機械からピッピッと一定の速度で聞こえてくる🌸の心音だけが生きているかの判断材料になるくらい🌸は静かだった。
いくつかの病院で体の隅々まで調べさせたが、原因が分からないと言う医者ばかりだった。
24時間ここで🌸が目を覚ますのを見ていたいが仕事が溜まっていると九井から連絡がきた。
いくつか竜胆に変わってもらったが限界なんだろう。
「ちょっとだけ仕事行ってくるな」
そう🌸に伝えそっとキスをして病室を出た。
あらかた仕事を終え、喫煙所にいると竜胆に「一旦家帰ったら?ずっと帰ってないじゃん」と心配そうに言われた。
何かあれば部下に連絡をするように伝えている、一度家に帰るか、と車を走らせた。
久しぶりの我が家だ。
忙しくてハウスキーパーに掃除も頼んでいないからかホコリが積もっていた。
玄関を開けてもおかえりと出迎えてくれる声はない。
冷たく暗い部屋を見渡し🌸の痕跡を辿る。
キッチンを見ると「蘭ちゃん、おはよ!コーヒー飲む?」と聞いてくれる🌸が目に浮かぶ。
リビングのソファを見れば「この映画早く公開されないかな〜楽しみ!」と笑う🌸が目に浮かぶ。
パタパタと洗濯物を干している🌸がベランダにいて、目が合ったような気がした。
彷徨うように家の中を徘徊して🌸の自室の扉を開けるとテーブルの上に一冊のノートが置いてあった。
ノートを手に取りベッドに腰をかけパラパラとページをめくる。
【今日は蘭ちゃんが早く帰って来てくれる!最近ずっと忙しそうで心配だったから家でゆっくりしてほしい。マッサージしてあげたいな】
一番新しいページに書かれていた文章を見ると、🌸が倒れた日の日付が書かれていた。
「日記…?」
短いが日記のようだ。一言だけだったり、その時嬉しかったことを書いているようだった。
【最近体が重い、立ち上げるとフラフラする。貧血かな?蘭ちゃんに病院行ってもいいか聞いてみよう】
新しい日付からさらに遡って10日程前のものだった。
きっとこれだ、かなり前から辛かったのだろう。
俺が仕事で忙しくてろくに家にも帰らず、連絡もとっていない時期と同じだった。
自分が🌸を蔑ろにしたせいだ。
全てを捨て自分についてきてくれたたった一人の女の子を苦しめたのは自分だ。
大事にすると、幸せにすると言ったあの時の俺の言葉を信じついてきてくれた🌸を裏切ったのは他でもない、自分自身だ。
【蘭ちゃん最近女物の香水の匂いがする…聞きたいけど鬱陶しいって思われたくないな…】
【今日は蘭ちゃんと付き合って12年目の記念日。蘭ちゃんは仕事が忙しいみたいで帰って来れないみたい。わがまま言いたくないけどちょっと寂しいな…】
さらに前のページを見ていくとずっと前から🌸に我慢させてきたことや記念日まで忘れていたことを知る。
「俺、ほんと何やってんだ…」
神様なんか信じちゃいないがきっと罰が当たったんだ。
悔やんでももうどうにもならない。
ただ🌸が回復してくれることを願うばかりだった。
「なあ🌸、まだ俺にもできることあるかな」
そう呟いた俺の言葉に返事をしてくれる人はいない。
俺はノートを持つと車へと急いだ。
「あ、兄貴。大丈夫か?一旦家帰っ…何?その紙袋?」
病室に戻ると🌸の様子を見に来ていた竜胆に怪訝な顔をされた。
「何って…プレゼント」
家から病院に戻るまでに🌸が好きだった小物や服に靴、カバン、アクセサリー…とにかく手当たり次第買ってきた。
どさりとテーブルに置くと可愛らしくラッピングされた袋からふわふわとしたぬいぐるみを出してきて🌸の枕元に置いてやる。
「🌸、お前このブランドのぬいぐるみ手触りが良くて好きだって言ってたよな」
すやすやと眠る🌸の髪を撫でてやるといつもと何ら変わらないような気さえしてくる。
「他にもな、この前記念日だったろ?ごめんな、忘れてて。ずっと🌸に似合うと思ってたワンピース買ってきたんだ、早くこれ着てデート行こうぜ。後は…」
🌸に話しかけながら持ってきた大量のプレゼントを開け並べていく兄の姿に竜胆は胸が締め付けられる思いだった。きっと平常心で入れるようにいつも通りの振る舞いをしているんだろう。
目の下にクマができて少し痩せた兄が心配でたまらないが、きっと自分に出来るのは兄が少しでもこの病室に居られるように仕事を変わってやるくらいだ。
「兄貴、明日の仕事俺変わるから」
「サンキュ」
「うん…俺もう行くね」
そう言って病室を出て行った竜胆に視線を移す時間も惜しい。
「🌸、新しく出来たカフェ行きたがってただろ。いつでも予約取ってやるからな。
そういえば旅行もしたいって言ってたな…あんまり自由にさせてやれなくてごめんな。そうだ、いっそ海外旅行でもするか?🌸はしゃぎすぎて迷子になりそうだな〜
あ、🌸が前に可愛いって言ってたネックレスあるだろ?あれの新作今度出るってさっき店員が言ってたわ、買ってやるからな、楽しみに…して、て…ぅ、ぐっ…🌸、🌸っ…」
堰を切ったように溢れ出す涙が🌸の顔に流れ落ちていく。
ごめん、ごめんっ、俺がもっと余裕のある男なら🌸はこんなことにはならなかったんだ、もっと話していれば…長い付き合いだからって甘えてたんだ。
暗い部屋で🌸を抱きしめながら声を押し殺した。
「俺もうお前がいない生活がどんなだったか思い出せねえよ、どうやって飯食ってたのかも、どうやって寝てたのかも…だから、早く目覚ましてよ…」
「🌸、おはよ。今日は寒いな〜🌸は冷え性だから足冷たいだろ?モコモコの靴下買った来てやったぞ」
あれから1年経った。
以前目覚める気配ない。
体に問題はない、🌸が俺に会いたくなくて目を覚まさないのか?そんなことを考えながら今日もまたプレゼントを持って🌸のところに顔を見に来る。
一番大きい個室を用意させたがそろそろプレゼントで部屋が埋まりそうだ。
ベッドの横に置いてある椅子に座りながら🌸の手を握り話しかけていると遮るように竜胆に話しかけられた。
「なあ、兄貴」
「何?」
「部屋埋まりそうだしそろそろプレゼントやめない?」
「🌸が寝てる間に何ヶ月も経ってるからな、置いていかれてるみたいに感じたら可哀想だろ?」
「でも…」そう言って竜胆が蘭を見ると静かに目が合った。
「何?竜胆でもふざけたこと言ったら殺すからな」
殺気を放つ冷たい視線に体がすくむ。
「別に諦めろとかそういうことじゃないけど、でも、兄貴のことも心配で…」
無言の時間が過ぎていく。
ふぅと蘭のため息にびくりと体を強張らせる竜胆に蘭が立ち上がり竜胆の横をすり抜け病室を出て行く。
「兄貴…?」
「トイレ。🌸の事見てて」
蘭が出て行くといくらか空気が軽くなる。
竜胆は先程まで蘭が座っていた椅子に座り🌸の手を握る。
「🌸、早く起きてやってよ。兄貴待ってるよ?」
そう言って手をぎゅっと握ると🌸の手が微かに動いたような気がした。
「え…?🌸?」
もう一度🌸の手のひらに指を近づけると微かにだが握られる感覚があった。
「🌸っ…!?ら、蘭っ!!」
慌てて病室の扉を開け廊下を歩いて戻って来る蘭に叫ぶ。
「蘭!!🌸がっ!!」
🌸に何かあったのかと急いで病室に戻り🌸の側へと駆け寄る。
「い、今!🌸が手を握ったんだ!」
そう聞いて🌸の手にそっと自分の手を握らせるように繋ぐ。
「🌸…?起きて…?」
祈るように自分の額へと🌸の手を添えた。
蘭の手にピクリと動く🌸の手の感覚が伝わってくる。
「ぅ……」
酸素マスクの中で小さく掠れた声がし、ゆっくりと🌸の目が開いた。
「🌸…おはよう」
自然と溢れる涙を拭うことも忘れ🌸を抱きしめた。
「ただいま〜!」
あれから数ヶ月後、まだ筋力が戻っていないため杖は付いているものの無事に回復しすっかり元気になった🌸は俺と一緒に、同じ家に帰ってきた。
「思ったより早く帰って来れてよかった〜」
壁を伝いながら歩こうとする🌸を抱き上げスタスタとリビングに入りソファへと座らせてやる。
「もう…自分であるかないリハビリにならないでしょ」
「いいんだよ、俺がしたいの」
座ってな、と言い残して持って帰ってきた大量の荷物を運び入れる。
「蘭ちゃん買いすぎだよ…こんなにたくさんどうしよう」
ソファに座っている🌸を見るだけで本当に安心する。
同じ家にいて会話をしている、なんて幸せなんだろう。
安心すると同時に🌸が倒れてしばらくしてから、🌸が目覚めたら話そうと思っていたことを決行する。
「🌸、ちょっと良いか?」
「なに?」
🌸が座る前に行き膝をついて🌸の目を見る。
「あのさ、ほんとにごめん…」
「また?もう意識戻ってから何回も聞いたよ。私はこうやって無事だし大丈夫だから、ね?」
あれから何度も謝罪し、愛してると毎日のように言い続けた。でも、
「俺はこんな仕事だし、🌸ももう何年も行方不明の扱いだ。だから役所に届けたりは出来ない」
「?何の話…」
「俺と、結婚してください」
そう言って小さな箱を開け中身を🌸に見せる。
「え、これって…」
「もう二度とお前を傷つけない、大事にする。これからも一緒にいてほしい」
こんな真剣に愛を伝えるなんて🌸をこちらの世界に巻き込むと決めた時以来だ。
勝率は五分五分だ、でも一緒に帰ってきてくれた。ならこの気持ちを伝えたかった。
「いいの…?私、重荷にならない?面倒臭くない?」
「重荷なんて思ったことねえよ、面倒臭いなんて思わねえから」
ぽろぽろと泣き出してしまった🌸の手をそっと握る。
「🌸、返事ちょうだい?でないと🌸のこと抱きしめてやれねえよ」
うつむいて泣いている🌸の顔を覗き込むように問いかけると勢い良く俺に飛びついてくる🌸を受け止める。
「蘭ちゃ、ん!うれし…っ、ありがとう…!」
「俺の方こそ、ありがとな」
じわりと目頭が熱くなる。
最近の蘭ちゃん泣き虫だね、と笑う🌸に誓いのキスの予行練習を。