残照 昼前から激しさを増した戦闘の勝敗が定まり、砦のすべての門が開かれたのは、川向こうの森に傾いた陽の端がかかるころであった。
残党狩りの指揮をトルグリムとアトリに命じ、アシェラッドは物見櫓にかかる梯子を昇る。背後には、ビョルンが影のように付き従っていた。いつもなら、残党狩りも金目のものの探索もビョルンに任せるのだが、なんとなく今日はそうしなかった。その理由はおぼろげに判っているが、あえてそこには焦点を絞らず、梯子を昇りきる。弓に当たって死んだ守備兵の死体を下に落とし、梯子を昇ってきたビョルンの手を取って、引き上げた。
物見櫓の上は、さすがに眺望がきいた。砦の搦手門のあたりで残党が最後の抵抗をみせているらしく、アトリが指示を飛ばす声が聞こえる。
と、その背後から矢のように飛び出した、小さな影があった。ビョルンがあ、と声を上げる間もなく、影はするすると敵に接近し、あっという間に二人斃してしまう。
「トルフィン、あいつ……やりやがるなァ。最近はナイフの扱いが堂に入ってやがる」
「ふん、堂に入るどころじゃねェだろ、ありゃ」
だがな、と継ぎながらも、つい舌打ちしてしまった。トルフィンがこちらを見上げたのが、はっきりとわかったためだ。案の定、それで隙ができたせいで、敵に撃ち込まれている。しかしすぐに体勢を立て直し、喉笛を掻き切って三人目を片付けた。
「クソガキめ、オレの目を気にしているようじゃ、まだまだだ」
「そりゃ仕方ねェよ。手柄を立てたら決闘に応じてやるって言ったのはアシェラッド、あんただぜ」
――だから、そういうのが気に喰わねェんだ。
そのひとことは呑み込み、視線を遠くへと転じた。
長い夏の陽は、ようやく森の彼方へと没してゆこうとしていた。西の空は毒々しいほどの夕映えに染まり、群雲が燃えるようだ。その苛烈な色は手前の川面をも染めあげ、砦の中すらも焔に灼かれているようにみえる。
――地獄だな。
砦の中に視線を落とし、黙したまま、足下で起こっている阿鼻叫喚を眺めた。残党狩りはもうじき決着がつくだろう。倉庫に火の手が上がっていたが、それも鎮火されそうだ。生き残りの兵を縛める者たち、下働きの女たちを追い回し、髪を掴んで引き倒す者たち。すぐ近くで、絹を引き裂くような悲鳴が上がった。物陰で、早くも蛮行に走る連中がいるのだろう。
――地獄だ。
なぜ、こんなときにキリスト坊主の説教が思い出されるのか。アシェラッドは奥歯を噛みしめる。もう二十年近くも昔、ウェールズにいたころに聴いたきりだというのに。
――祈りなさい。悔い改めなさい。地獄の業火に灼かれぬように。この世と同じ苦しみが、未来永劫続かぬように。
坊主どもにそう説かれ、善良な人びとは素直に頭を垂れる。しかし祈ったからといって、救いが訪れる訳ではない。祈りの最中に教会ごと焼かれた者たちを知っているし、母もまた、礼拝の最中にデーン人に襲われ、連れ去られた。犯され、孕まされ、使い捨てられた。その挙げ句に、産み落とした子は父殺しに手を染め、長じては悪党の頭目になって、子分どもに狼藉の限りを尽くさせている。
――燃えてしまえ。
陽が没し、いっそう苛烈さを増す残照に、指の先が染まる。燃えてしまえ。いっそのこと、業火に灼かれてほんものの灰になってしまえばいい。そうすれば、もう真の王を待たずにすむ。むごいこの世を救う王を見定め、仕えるためだけに、身をやつし心を偽り、待ち続ける苦しみからも解き放たれる。
そのときだった。そっと肩を引き寄せられ、抱きしめられたのは。
「なにも、言うな。アシェラッド」
低く、静かな声が耳朶を撫で、抗おうとして固めかけた拳が緩んだ。男の手がアシェラッドのうなじを覆う。大柄な男の腕の中に、アシェラッドはすっぽりと包み込まれてしまった。ビョルンの胸に額を押しつける格好になり、アシェラッドはなすがままに任せることにした。
「なんて顔してんだ。見てられねェよ」
「……」
「どうせ、理由を訊いたって答えちゃくれねェんだろ。だから、訊かねェ」
「……判ってんじゃねェか、ビョルン」
苦笑がこぼれる。吐息が頬にわずかに当たったが、いやではなかった。
腕の中に静もっていると、眼に映るものは、男の着ているチュニックと、肌着の袖の色だけになった。何かに縋りたいと思ったことはないが、今だけはこの男の腕に、守られていたかった。背を向けたまがまがしい残照の色は、もう追いかけてこない。周囲の物音も遠くなってゆく。
男の掌が、そっと髪を撫でてくる。その掌にさりげなく頭を押しつけて、アシェラッドは眼を閉じる。男が小さく息を呑んだのが聞こえたが、ただ黙して、彼の匂いとぬくもりに身を浸す。聞こえるのは吹き過ぎてゆく風の音と、すこし速度を増した男の心臓の鼓動のみ。ひたひたと忍び寄る夕闇に、ふたり紛れてしまえばいいと思った。
了