熱帯夜はあ、と溢した吐息は寝苦しさを紛らわせるには程遠い。
湿度の高い空気が部屋にこもり、お陰で寝汗が引かない。窓は開け放してあるが、酸素を取り込めるのが精々で、風のない今夜は内も外も気温はさほど変わらない。
ラーハルトはうんざりしつつも、とりあえず水を飲んで一息つこうと寝台から身を起こし、ふと窓の外を見遣る。賑やかに響く歌声と楽器の音、笑いさざめく人々の歓声。方々に点った灯りが夜の町を明るく照らし出している。
この街には昨日に着いた。老いも若きも何やら賑やかに犇めく人の群れに、何事かと宿屋の主人に聞いたところ、祭りがあるのだと。
この街では年に一度、夜店を開き花火を上げ、夜もすがら歌って踊って過ごすらしい。それがちょうどこの日であると。
異常事態かと構えていたヒュンケルはホッと肩の緊張を和らげ、人混みの苦手なラーハルトは片眉を僅かにしかめた。
「眠れないのか」
寝入っていたと思っていた相方の声が、掠れた響きで問うた。
「ああ。こうもやかましい上に蒸し暑くてはな」
驚くでもなく、ラーハルトは窓の外に顔を向けたまま応える。
「お前は案外暑さに強いのだな」
「オレの育った地底魔城は休火山だったからな…これくらいならまだ爽やかな程だ」
意外そうな声を返され、ヒュンケルは友の背中を眺めて口許を緩めた。外の灯りを跳ね返して、ラーハルトの黄金色の髪が艶やかに煌めく。
「眠れないなら、外に出てみるか?」
「外に?何を言う。オレは人混みは好かん」
予想通りの言葉に苦笑いしつつヒュンケルは寝台を降りた。窓から床に差す灯りが、ヒュンケルの足の白さを照らし出す。
「……おい、何を」
「どうせこうしていてもお前は気が休まらんだろう」
「馬鹿なことを、お前は体を休めろ。明日ここを出られんぞ」
「なに、延長するさ。幸い路銀には余裕がある」
長旅のうちに見せるようになった友のふてぶてしさと、彼がそれだけ打ち解けて――心を許している事実に喜びを感じている自分に呆れつつ、ラーハルトは壁に掛けた服を下ろす。言い出したら梃子でもきかないのはこの男の性分だ。
「まったく。ちょっとでもフラつくようならすぐに取って返すぞ」
「それは困る。お前の手を焼かせないようにしなくてはな」
窓の桟に足を掛け、眼下の通りを見下ろしながらヒュンケルは身を乗り出す。
大胆な手口で外に消えたヒュンケルをやれやれと見送りつつ、羽根飾りのついた帽子を目深に被ってラーハルトも後に続いた。
赤、青、黄、白。広場を照らし出す灯りの洪水。空間を賑やかに埋め尽くす、楽器の音色。銘々に着飾った人々が、地元民も旅の客も関わりなく踊り、歌う。
ラーハルトはその人いきれにやや圧倒されながらも、手を振るヒュンケルの姿を追った。
「遅いぞ、こっちだ」
人々の密度がやや薄い広場の隅、夜店で買ったとおぼしき二人分のジョッキを手にヒュンケルが物申した。
「オレは人の多いところは慣れておらんのだ、分かってるだろう」
溜め息をつきつつ、満更でもなさげなラーハルトへジョッキが押し付けられる。
「ほら、お前の分だ」
「お前の奢りか?」
と、帽子の鍔で塞がっていたラーハルトの視界が明るく広がり、ヒュンケルの吐息が近づいたかと見た刹那、唇に柔らかな感触が触れた。
「これで返したことにしてやるさ」
一瞬唖然と固まったラーハルトの顔を、愛しい友が楽しげに見つめる。
――まったく、生真面目かと思えば大胆で、オレはこいつにやられっぱなしだ。
愛しさと僅かに悔しさの絡み付いた楽しさを胸に、ラーハルトは麦酒の満ちたジョッキを呷る。負けじとヒュンケルも続き、二人は剣槍の手合わせの様にニヤリと好戦的な笑みを交わした。
「私と踊っていただけますかな?剣士殿」
ラーハルトがおどけて、しかし真摯な光を瞳に湛え手を差し出す。
「喜んで。陸戦騎様」
ヒュンケルが、闘志を受けて立つように、そして陶然と見とれるように目を細め、外套の裾を摘まみ上げる。
互いに手を取り合い、白い陶器のような指と藤紫のしなやかな指を絡めて、扇情的な旋律と歓声に沸き立つ中へ二人は縺れるように身を投じた。