TOAR/アルシオ 叩きつける雨足と、低く響く音。宵闇を裂く閃光、数拍遅れて何かをひっくり返したかのような形容し難い大音声が降り注ぐ。
「……今のはどこか落ちたかな」
一年を通じ温暖で過ごしやすいメナンシアにも気候が不安定になる時期は存在する。季節の変わり目の今時分がちょうどそれで、普段であれば穏やかな風は唸り声を上げ、日暮れ頃から立ち込めていた曇天は雷鳴と大粒の水の塊を生成し地上に叩きつけ――つまり窓の外は大嵐だった。
床に就いたはいいものの、安らかな睡眠とは縁遠い。アルフェンは息を吐き、自身の左腕を、正確にはそれにしがみつく彼女を見遣った。
「大丈夫か?」
「平気よ。……ちょっと落ち着かないだけで」
言葉とは裏腹に、また一つ下った落雷の咆哮に身をすくませ、シオンは両腕で抱える力を強くする。
たぶん大丈夫じゃないんだろうな、というのは思っても口にはしなかったが。
「雷なんてめずらしくもないんじゃないか。リンウェルだってしょっちゅう落としているだろ」
「星霊術とは違うわよ。それにリンウェルは私に落としたりしないもの」
「シオンにはな」
例えばロウが迂闊に口を滑らせたとき、威嚇にしては際どい位置に稲妻が走ったことは一度や二度ではなかった。
そう言えば、とアルフェンはシオンと向き合うように顔を動かす。
「レネギスには雷ってなかったのか?」
「そういう無為なエネルギーの放出はしないの。雨だって決められた日時で予定降水時間だけ降るものだったし」
人工の大地ではすべてが定められた通りに為される。不合理なものなど存在する余地がなかったのだとシオンは言う。
「だからダナに来てから、こんなに変化があるものなのかと思ったわ。昼と夜とか、晴れと雨とか、そういうはっきりとした違いだけではなくて……晴れているのに雨が降ったり、同じように暑い地域なのにカラグリアとガナスハロスでは全然違うし」
「ああ……そうだな。ガナスハロスのは、何て言うか、やっぱり違うんだよな」
乾燥した砂埃が絶えないカラグリアに対して、ガナスハロスは水源に恵まれた多湿の国だ。降水量も比較にならない。
「じめっとした感じとか、一日の終わりの疲れやすさとか」
風景は良いんだけどな、とアルフェンが苦笑すると、シオンも同じように返す。
「湿度の違いね。レネギスはどこへ行っても同じような場所だったから……」
ダナは本当に不思議、とシオンは窓の外に視線を向ける。幾分遠くで聞こえるようになった雷鳴に、シオンはアルフェンの腕を抱く力を緩めた。それから少しだけ弾むような声で問いかける。
「ねえ、覚えている? いつだったか急に大雨になって洞穴で夜を過ごしたことがあったでしょ」
「ああ……。あったな、そう言えば」
あれはミハグサールだっただろうか。想定通りにいけばその日の夕方には集落にたどり着けるはずだった。
「あれはあそこでズーグルに出くわさなきゃ屋根の下で眠れたよな」
「そうね。ちょっと手間取ってしまったわね」
思いの外大型のズーグルに出会ってしまったのが運の尽きだ。果たしてその巨体が地面に沈み動かなくなった頃にはそれまで晴れていた空はにわかに暗くなり、希少素材を剝いでいる内にぽつりと空から降る水を感じ、そこから土砂降りになるのは瞬く間だった。慌ててその場を離れ、けれど街までは遠く。
「よくまあ都合良くあんなところがあったよな」
およそ人が通りかからない場所だったが、火の跡はそれほど前のものには思えなかったし、岩に囲まれた空間は見た目以上に深く広く、ズーグルが巣にしていた形跡も見当たらなかった。ここで休んでいけと言わんばかりのおあつらえ向きな場所だった。
『まともに考えて、こんな大雨の中街まで行っても風邪引いてブッ倒れるのがオチだろ』
ロウが身も蓋もない、しかし至極真っ当な正論を述べ、そこで一泊することに反対する者はいなかった。幸い手持ちの食料もそれなりに豊富だった(と言うより、たとえ野営になってもシオンを満足させるだけの食料品は常備していた)。
『こんな日は温かい汁物がいいな』
キサラが具材を見繕い、それぞれが今夜の食事と寝床の準備にかかった。ちょうど手頃なサーモンと根菜があったので、それをミルクで煮込んだロヒケイット。火傷しそうなくらいに熱いそれが冷えた体を温めてくれた。岩肌の隙間の土にめり込んだ陶器の破片のようなものはよく見ると精緻な模様が描かれていて、レナ侵攻以前のダナの様式と思しきそれにリンウェルが目を輝かせた。
『くり返しこの文様が描かれているが、何か意味があるのだろうか』
『願い、祈り……みたいなものかな。皆が無事で過ごせますように、とかそういう意味を込めているんだと思う』
今はもう誰にも忘れられた遺物を手に、テュオハリムとしきりに語り合っていた。
『またやってら……』とロウが呆れ半分でそれを眺め、キサラが熱いお茶を淹れてくれる。少し距離がある洞穴の入り口からは降り続く雨と時折稲妻が見えたが、焚火のところまで入り込むことはなかった。食事も終わり、めいめいが片付けや明日の準備をしながら寝床に潜り込む。
『本当はくっついて眠ると一番あったかいんだけど』
ね、とリンウェルは傍らのフルルを撫でながら少し残念そうにしていたが、その頃は<荊>を宿していたシオンは『気持ちだけもらっておくわ』と出来る限り近くで横になり、キサラも一緒に三人で眠る。そんな風にその一日は終わった。
あの旅の中で、特別でもないありふれた一日。そういう時間をいくつも重ねてきた。
「……外はひどい天気だったのに、全然怖いことなんてなかった。何故かしらね」
「皆が一緒だったからだろ」
アルフェンが事も無げにそう言うのを聞きながらシオンは瞬きをくり返し、納得したかのように笑った。
「そう、そうだったわね……。皆一緒だったものね」
小さなその呟きは懐かしむような、それでいてどこか沈むような響きを伴っていたので、アルフェンは声を掛ける。
「……寂しい、とか?」
「寂しくないと言ったら嘘になるかもしれない。あんなに賑やかな時間、私にとっては初めてのことだったから。……そうね、また皆と旅ができたら楽しいでしょうね。ただ世界を巡るだけの」
今となってはそれも夢のようなことだった。だからこそ振り返ってみたときに、あれは得難い、何にも代えられない時間だったのだと思い出すことができる。
でも、とアルフェンの肩にシオンは額を押しつけた。
「今も怖いことなんてないの。あなたがいるもの」
シオンの両腕が、緩くアルフェンの左腕を包み込む。互いの掌が合わさって、指を絡めると二人の温度の違いはより明白で、自分だけでは生み出せない熱を伝えてくる。
守られているのは、どちらだろうか。ひとりではないことを知ったのは、シオンだけではなかった。
アルフェンは空いている右手でシオンの頬に触れる。
「……俺の腕一本差し出してるけど」
もう怖くないか? と少し含みを持たせて訊けば、アルフェン、と咎める声で返された。
「怖いわけではないの。本当よ」
「わかってる」
左腕はシオンに預けたまま、もう片方の腕で自分よりずっと小さな背中を抱きしめる。
「……俺も、怖くない。シオンがいるから」
首筋に顔を埋める。その応えのように細い指先がアルフェンのうなじをなぞり、髪を梳くようにその手のひらは頭を抱く。
「……眠れなくなるわ」
心臓の音がするから、とアルフェンの左胸に伸ばされたシオンの手は、けれど制止の意味を持たなかった。
「眠らなくても……」
途切れた先は音にならなかった。唇は言葉を紡ぐ代わりに互いを結び、幾度も触れては離れることをくり返す。
「雨、ね」
遠雷を聞きながら、けれどまだ雨は止む気配を見せない。
「じきに雨も止むよ」
いいえ、とシオンはアルフェンの頬を両の手で包んだ。
「やまないで」
星霊術を使っているわけでもないのに、その澄んだ水底のような瞳はどこか煌めいて見えた。
「止まなくて、いいの」
あなたが降らせてくれる雨は、とシオンは再び口付ける。先刻より深く重ねられたその感覚に、酔う。触れ合う度に生まれる熱に、この夜の長さを悟った。
アルフェン、と名を呼ぶ声を合図に沈む思考の片隅で、嵐が過ぎた後の夜明けのうつくしさを思った。