コードギアス/ルルC 特に五感を刺激するようなものもなく、足元から伝わる音と振動は情景の一部でしかなかった。旧ブリタニアの租界を走るような最新鋭の静音車両にはないそれは、奇妙な眠気を誘う。
こんなに何も考えない時間など、果たしていつ以来だろうか。
脳を遊ばせている状態というのは、少なくとも自分の体感としてはおよそ数年振りだ。謀に明け暮れ、頭脳を酷使した十代後半、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとしての晩年。今はまるで反動のように、頭の中は真っ白だった。もう計略に思考を巡らす必要もなく、ただぼんやりと景色を眺めている。
乗車した駅はアジアの内陸部で、岩山の他は青い空しか見えないという清清しい景色に、これはこれで良いな、と思いながら乗車したが、いつの間にか車窓の向こうにはヨーロッパの平野部の緑の平原が広がっていた。同じような景色が何時間も続くが、注意深く見ていれば時折地名のヒントが現れる。類推される名前に、この一帯がユーロピア有数の穀倉地帯であることを思い出す。広大な牧草地にぽつぽつと点のように見えるのは馬の親子だった。サラブレッドであるならば、今の季節が親子で共にいられる最後の時期のはずだ。秋になれば子どもは親から離されて、走り抜く強さを求められる競走馬としての運命に踏み出す。けれど今はまだ何も知らず、ただ母親の庇護の下で遊び、安らぐ。
ブリタニアの皇子であった頃、おそらく自分もそういうものだったのだろう。
世界の広さも残酷さも知らず、与えられたものだけを享受することが当然の、ただの子どもでいられた時間。
果たして、無条件に注がれていたはずの母の愛情が、自分の求めていたものと同じだったのか、今はもうわからない。ただ両親が願ったものの中に自分は入れなかったのだという結果だけが残っている。その願いが正しいかそうでないかは知らない。けれど自分は到底受け入れられないものだった。あれほど酷薄に思えた父の願いが人の世を憂うが故のものだったとしても。その選択をする前に、今を生きる人間として、親としての情を子に与えなかったという事実は変わることは無い。もっともそんなことを自分は最早望んでいないし、彼らの望む世界を壊したのも自分だった。後悔したことは一度もないし、きっとこの先もない。けれど、もし仮に両親が今の世界で自分たちと生きることを選んでいたのだとすれば。
あるいは、この世界は今と違ったかたちだったのかもしれない。
詮無いことを考えるのは止めようと、ルルーシュ――それは人としてのものであり、人ならざるこの先の生はL.L.のものであって、遠からず封じられる名であった――は、視線を車窓から車内に向ける。コンパートメントの座席はさして広くもないが、二人と多少大ぶりの荷物が収まるには十分な空間だ。
「何を考えていた?」
その道連れはL.L.の隣で目を合わせることなく唐突に訊く。
「別に。大したことじゃない」
「隠し事か?」
魔女――C.C.がせせら笑うような視線だけをL.L.に向ける。その射るような金の瞳がL.L.のそれを捉える。
「隠し事? お前にそんなこと無駄だろう」
「どうかな。世界を欺いた魔王のことだ。魔女くらい出し抜くだろう」
軽口の応酬は、かつての彼らにとっての日常だ。特にジルクスタンを出発してからは脳を遊ばせられる程度に余裕が増し、もはや呼吸のようなものだった。
「年の功には勝てない」
「女の歳に言及するのは最上級のマナー違反だぞ。教わらなかったか?」
さすがに気分を損ねたか、C.C.は眉をひそめる。けれど、それに反してL.L.は静かに苦笑する。
「あいにくと、そういったものは全部置いてきてしまったからな」
L.L.はそう言ったが、わずかにC.C.の表情が硬くなったことに気付いてしまう。
妙なところで繊細――本来彼女は他者の言動や行動に敏感だ。それが過酷な幼少期から形成されたものだと、L.L.は思い出す。
「いや、違う。もうそれは俺のものではないんだ。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアという人間のものは、俺のものではないということだ。俺が、それを選んだんだ」
軽口は一転して、真摯な告白になった。
自分を蘇らせるのがC.C.の我儘だとすれば、この選択もL.L.の我儘だった。
「ナナリーが自分の思いを俺に伝えてくれたとき、とても嬉しかった。俺のことなんて憎んだまま死なせてくれて良かったのに。……まあ心残りであったことは否定しないが」
最愛の妹、すべてを引き換えにしてでも守りたいと思ったナナリーに、あんな顔をさせるために死んだわけではなかった。世界を破壊し尽くした悪逆皇帝として葬ってほしかった。悲しむ価値も無い者として、嘘吐きな兄のことなどさっさと忘れてしまえば良かったのに。最期の最後でナナリーはきっと知ってしまったのだ。
兄が本当は何をしようとしていたのか。その為に何を選んだのかを。
「愛している」と告げる声も、終ぞ聞いたことがないような泣き喚く声も、遠のく意識の中で引っかかった。すべてにおいて完璧であったはずのゼロ・レクイエムで、唯一にして最大の誤算。
ナナリーの涙は、人々の憎悪と共にルルーシュが持って行くつもりだったのに。
『でもナナリーはこれから自分の人生を自分で生きていくんだ。ナナリー自身がそれを選んだ』
ゼロの名をひとたびルルーシュに返したスザクは告げた。
『ナナリーは僕らが思っていたよりずっと強かったよ。君が残した世界を、君が望んだ世界を守るために、ナナリーは立ち止まらなかったんだよ。もう僕らが守る必要が無いくらい、彼女は強くなったんだ』
そのスザクの言葉に、勝手に湧き出てきた感情の名を、ルルーシュは知らない。寂しさと温かさが複雑に絡み合うそれは、彼の二十に満たない人生の中で覚えのないものだったので。
ただ、ナナリーが自分の意思で生きることのできる世界。それを見られたのは望外の喜びであり、ルルーシュには過ぎたもののように思えた。だから、ナナリーの手を放した。たとえ遠く離れていても、もう二度と会うことが無かったのだとしても、決してなくならないものがあるのだと、確かに信じることができたから。
そうして手を空にしたルルーシュが今掴みたいと願った手は、まるで風のようにすり抜けていきそうだった。今捕まえなければ、きっともう彼女には出会えないという根拠の無い、けれど強い確信と、焦燥だけがルルーシュの足を急き立てた。決して長くはない時間と距離が、これほどに遠い。時間にすればわずかな、しかし永遠のように永い。
もう失うものなどなかったはずなのに、この期に及んでこれ以上何を望むと言うのだろう。
散々醜態をさらした後だ。今更恰好など付けたところで無駄だった。みっともなく息を切らせて追いかけて縋りついた。辛うじて残っていた最後のプライドはその瞬間捨てた。彼女相手にそんなものは意味も必要もない。その手を離さないでいられるのなら。共に往くことを許してくれるのならば。
「決めたんだよ。誰の為でも何の為でもなく、俺がしたいことをするために、お前と一緒に行こうと」
人ならざる生を流離うC.C.。そうであればやはり人ならざるものになったルルーシュが共に在るのは、至極道理に思えたし、何よりルルーシュ自身がそれを望んだ。
かつての『約束』は『願い』にかたちを変えて、強く胸に残っていたから。
「ルルーシュ」
わずかに震えるC.C.の声が、その名を呼ぶ。
「その名前も、お前だけが持っていてくれ」
L.L.の両手がC.C.の左手を包み込む。宝物を封じる小箱のように。
いずれ忘れられる名前だ。やがて、『ルルーシュ』を知る人間がこの世からいなくなってしまったら。たとえば百年もすれば、それはブリタニア終焉の王の名でしかなくなる。人の世から零れ落ちたその名は、もうこの手の中にしかなくなる。
それでいいのだと、L.L.は言った。
「お前、本当にそれで良いのか」
「いい。代わりに、俺がお前のそれをもらったから」
その唇が、名前を紡ぐ。遠い昔手放した、C.C.に残された、最後の人としての名残。空気に融けてしまったそれは、二人の他には誰も知らない。
「なにもいらない」
そうL.L.が告げると、滅多なことでは表情を崩さなかった魔女は、顔を歪ませ俯き、呼吸を繰り返していた。そうしてしばらくの静寂の後、小さく告げる。
「……私は、我儘で強欲だからな。なにもいらないなんて言えない」
「これ以上何を差し上げろと?」
呆れるようにL.L.が笑うと、C.C.は彼の肩にその頭を預けた。
「一つだけで我慢してやるよ。――お前の残りの人生だ」
悪戯めいた口調の中に潜む確かな意志を持つ言葉に、L.L.のまだ動く心臓はどうしようもなく踊った。
「……お前が支払った代償分くらいにはなるかな」
こんな答えでは、これだから女心を理解しない坊やは! とまた揶揄われるだろうな、と半ばあきらめてL.L.は傍らのC.C.を見ると、思いの外楽し気に彼女は笑っていた。
「それは、お前次第だな」
ごく自然に、触れ合っていた手が重ねられた。
たとえば、死がふたりを分かつまで、と誓いを立てた者同士であれば、指輪の交換でもするだろうか。人ならざる自分たちには死の概念すらなくそれに則ることもないが、交わすのは人であった頃の自分たちに残された最後の持ち物だった。誓いにはずいぶん相応しいものではないだろうか、とL.L.はそんなことを思う。
スザクに告げたように、自分は仮初だということを忘れてはいない。本当にC.C.と同じ時を生きることができるのか、それすらわからない。けれど、それでも。ゆるされる限りは彼女と生きることにした。ゼロとしての役割もルルーシュとしての人生も手放しても構わなかった。望外の延長戦は、自分のしたいようにしようと、また自分の為に傷つく魔女の元に呼び戻された時に決めたのだ。
永遠を誓うにはあまりに脆く、確証を得られないまま次へ進むことは、L.L.にとってひどく難しい。けれど先が見えない道を歩いたからこそ、今ここでこうしていることも彼は知っている。躊躇っていてはもうどこにも行けない。だから賭けるしかない。
まあ、負ける気はさらさら無いんだがな。
いつになく楽観的な思考に、L.L.はひとり笑う。
永遠の蜜月は始まったばかりだった。