種/アスラン誕生日2021「まさかこの歳まで生きるとは思わなかった」
苦笑めいた表情を浮かべ、老年の男はテーブルに置かれたカップを手に取る。その横の小振りの平皿には生クリームとフルーツが贅沢に使われたケーキが載せられているが、彼が満足に食べられるのは本当にごくわずかな分量だけだった。
「さすがにもう甘いものも、そんなにたくさんは食べられないかな」
「僕はまだもう少し大丈夫だけれど。――アスランは元々甘いものそれほど好きでないでしょ」
幼馴染にそう言われて、アスランは「そうだったかな」と考えをめぐらす。長く生きていると色々なことが変わっていくし、結局のところ変わらないものもある。それを思い出せないくらいには時を重ねてきたらしい。何の縁もゆかりも無かったこの国が、もはや故郷より長く過ごした場所になっていた。初めて訪れたときに感じた、まとわりつくような潮のにおいは、いつの間にか空気と同化してしまって、意識してようやくそれを知覚できる。プラントには無かった大洋に囲まれたこの国が、終の地になろうことは、あの頃の自分はきっと想像もできなかっただろうけど。
「……俺はきっと碌な死に方をしないだろうと思っていた。若い頃はモビルスーツのコックピットが俺の棺桶になるんだろうな、とどこかで思っていたし、パイロットから退いたときでさえどこかで殉職するんだろうと勝手に決めていた」
穏やかではない最期を想定する方が余程現実的だった。そうなることを決して望んでいたわけではないが、そうして覚悟を決めていた方が心は静かだった。
「おめでたい日だっていうのに随分辛気臭い話だね」
「お前はどうだった、キラ?」
アスランが問うと、キラは視線を少し遠くに向けた。午後の陽射しは柔らかく、開け放した窓からは青々とした芝生が見て取れる。よく手入れされた庭園で咲き誇る花々と老婦人が二人。彼女たちが指導者として人々の前に立っていたことも今は遠い。どこかから随分旧式のフィルムカメラが見つかって、めずらしそうにシャッターを切っているカガリに時折ラクスが声を掛けて、まるで娘時分のように笑っていた。
「人のことは言えない、かな。僕こそこんな歳になるまでのんびり生きているとは思わなかったよ」
口調こそ穏やかだが、その言葉にひそむ感情は真逆のものであると察することができる程度には付き合ってきた。
「思いの外、長く生き過ぎたな、とは思うよね」
キラが向ける視線を、友と言うより共犯者に向けるそれだと感じたのは、たぶん捻くれた考えによるものなのだろうが。でも、と彼は言葉を繋ぐ。
「先のことはわからないけど、たぶんコックピットはもう死に場所にならないよ」
「……この歳でモビルスーツに乗れと言われても、もう無理だな」
冗談めかした返事にキラも吹き出した。
「ね? もうそういうところは通り過ぎちゃったんだよね」
髪はいつの間にか白くなり、肌には皺が刻まれた。体を動かすことを負担だと思うことが増えた。記憶の中の母が、父さえもたどり着かなかった場所へとうとう来てしまった。
「老いることをおそれていたわけではないんだ。……ただ、そうなったときにどう生きればいいのか想像をしていなかったから」
「余生とかいうのを度外視してたってこと」
「まあ、そうなんだろうな」
「ここまで来ちゃったんだから、もうなるようにしかならなくない?」
「……そんなのでいいのか?」
「逆にどう生きればいいの? それこそ誰も教えてくれないし、わからないよ」
だったらさ、とキラは続ける。
「せいぜい楽しく笑って過ごせばいいんじゃない。……僕はそうすることにした」
そう言えるまでに、どれほど悩んで、苦しんで、もがいてきたかはわからない。ただそうして生きてきた彼を知っているし、いつの頃からかそれを見せなくなったことも知っている。少なくとも自分の前では。
「……そうか」
そうしても良いのか、と呆気無いほど腑に落ちた気がした。理屈ではなく、ただそういうものなのだと何の根拠も無く思わされただけなのに。
「って言っても、アスランは自分で納得してからじゃないとそうしないよね」
「……悪かったな、人の助言を素直に受け取れなくて」
割と容赦のない物言いに、憮然とした返事になるのは仕方ない。それも全部わかったうえでキラはそう言うのだ。ああ、この歳になるまでとうとう敵わなかったな、と観念したようにアスランは笑った。
「まあ、泣いても笑ってもどうせ一度きりの人生だ。最後くらいはせめて笑っていたいよな」
それだけは、本当に、そう思ったのだ。
「……まだ早いよ?」
「わかってる」
カップに残った一口分の紅茶を飲み干すと同時に、少し離れたところでカガリが自分を呼ぶ声が聞こえた。
「アスラン、ほらこっち来いって。今日はお前が主役だろう?」
何十年も表舞台に立ち続けた後、彼女もまた自分の役目を辞した。だからここにいるのは代表首長ではなくただのカガリ・ユラ・アスハだった。初めて会った頃と変わらない、人を惹きつけずにはおれない、そういう明るさや快活さは年を経ても損なわれることはなかった。単に惚れた弱味だと言うのならそうなのかもしれないが。
「主役だって言うなら、もう少し労わってくれてもいいんじゃないか?」
お姫様の仰せには従わないと後がこわい、とアスランはカガリの元へ足を運ぶ。
「いいから、いいから。ほら、一緒に撮るぞ」
「年寄りを撮っても面白くないんじゃないか」
「またそういうことを言う! いいんだって、こういうのは記念なんだから」
それにさ、とカガリは続ける。
「残しておけば、思い出せるだろ。今日が良い日だったって」
時が過ぎて何かが変わってしまっても、あるいはそう遠い話ではない、いつか必ず訪れるその日が来たとしても。
「記憶……記録かな、そういうものがあると良いなって思ったんだよ」
「しわくちゃのおじいさんとおばあさんの?」
「そう! しわくちゃのおじいさんとおばあさんの!」
いいだろ、とカガリは笑うので、アスランも堪えきれずに笑った。
「あ、今の顔良かったなー。カガリ貸して、それ自撮り難しいでしょ」
キラにカメラを預けると、カガリはアスランの手を取る。
「ほら、何か楽しいこと思い浮かべて。来年の今日のこととか」
「来年か……」
未来のことは誰にもわからないけれど、来年もまたこうして過ごせるのであれば嬉しいな、と自然に口元が緩む。
古風なシャッター音が響き、その一瞬を捉えた。
「アスランがおじいさんになっても、お祝いしてあげるからね」
キラがそう言ったのは、たぶんアスランの歳が二十を越して間もない頃の誕生日だった。
「……唐突過ぎないか。何でそうなる」
幼馴染のぶっ飛んだ発想と言動はさしてめずらしくもなかったが、今日のはなかなかになかなかな飛び具合だ。
「いいでしょ。先約みたいなもんだよ」
「先約って……あまりにも漠然とし過ぎてないか、それ」
「細かいことはいいから。それまで元気で過ごすんだよ。毎年祝ってあげるから」
「そりゃどうも……」
両親もいなくなった今、あえて誕生日なんて教えることも無いから、何も言わず祝ってくれる人は本当に限られている。キラはその数少ない一人だった。
「だから、最低限ちゃんと生きてて」
「……だいぶハードル低いな。そこまで俺は信用無いのか」
「正直言ってあんまり無いけど」
「無いのか」
今生きているのも運が良かっただけで、随分と自分の命を軽視していたという自覚もあるので、それ以上アスランは反論はしなかった。
「……わかってる。馬鹿なことをしてきたって思ってるよ」
他者に対しても、自分に対しても。
「……それはさ、僕も人のこと言えないから、あんまりもう言わないけど」
そうしてキラはアスランの目を捉えて言った。
「でもアスランがちゃんと生きようとすることも信じてるから」
普段は掴みどころ(というより説得力とかそういうものだ)が無いのに、こういうことを何の根拠も無く、それでいて至極真摯に言うから困る。天性の人たらしだ。
「……それは何よりだ」
結局キラのペースだな、と半ばあきらめのようにアスランは苦笑した。
「まあ、努力は、する」
積極的な努力だったかはともかく。その約束が何十年も守られることを、そのときの二人は知るはずもなかったけれど。