その男は棚を作り上げ、その女は棚を破壊する手を朱に染めない日をひと月と空けたことが無い私に世間で言うところの幸せや平穏、そして愛情を手にすることは有り得ないと思っていた。
それらは殲滅(おそうじ)に精を出すことで自分の手を離れて人々に与えるものだったからいざ自分の手のひらに落とされるとどう扱ったものか戸惑ってしまう。仕事の為の仮初の家族からそれらを渡された時に私は案の定戸惑って普通とはなんぞやと慌てふためき(いや今でもそれらが全くないとは言いきれない)、それでも自分のやり方で大事に、愛情の真似事だとしても弟と一緒にいた間に慈しむことは知っていたから実践していた。
まあ、市役所の職場では浮世離れしていると言われたこともあったから私はやっぱり普通からははみ出している。それでも継母の私をアーニャさんは大好きや100点と褒めてくれる。それで胸いっぱいになる、ああ幸せはこんなに苦しくなるものなんだと毒薬や鎖で縛られたときなんかより余程強くて甘い痛みだった。
そうやってすごしてきた中で青天の霹靂が起きる。仮初の夫が私のことを好きだ、と言ったのだ。人類愛や隣人愛のそれではないと言い切って混乱した。体のいい共犯者であったハズなのに、そもそも私の何処が気に入ったのか?と首を傾げてしまう。身体能力と掃除以外になんの取り柄もないというのに。それらの考えを見透かしたように夫──ロイドさんは笑う。
「貴女のそういうところも好きになったところです」
なんてことだ、この普通じゃなさがお気に召したとは。人生何が起こるのか本当に分からない。というか眉目秀麗、博識多才かと思えばアーニャさんの一挙手一投足に振り回される父の面が可愛らしいと思えたりするこの魅力の塊。完璧な人っていうのはこういう方をいうのだろうなと夫が。私を、好き?顔に熱が集まってどう返事したらいいか分からない。この仮初の、フォージャー家に居たい。それはあくまで仮初のが前提だったのに。本当の家族になっていいのだろうか。ドレスの裾の下にスティレットを隠すような私が。
不意に、ヨルはいつも頑張っているよ、のあの一言が頭をよぎる。そうやって私自身を掬い上げてくれていた貴方を一番近くで、傍に居る権利を、私。どうしよう、嬉しい、苦しい、でもこれが愛情が分からない。でもこれ以上難しいことが考えられない。貴方とともにいたいと、お守りしたいと、それが許されるのなら。
その想いが弾けた瞬間に彼の腕の中に飛び込んでいた。……舞い上がってしまったせいで力加減を忘れてしまったから彼に呻き声をあげさせてしまったけど。ああ、いつもこう。でも。
「ふふ、それでこそボクが好きなヨルさんだ」
貴方がそうやって笑うから。
きっと私、今間違えてなかった。
「おそば、に、ふぐ、いますううぅ」
「うん、居てください」
*
そうやって本物の夫婦になってから少し経ち。となればやってくるのです。そう、夫婦のコミュニケーションとやら。はじめは頬のキス。前は意識しただけで手足が出てしまってたのだけど、夫はそれらを察知することに私と生活を共にすることで長けてしまったようですんなり避けてみたり捕まえてみたり或いは不意打ちをしてきたり。私のペースに合わせてくれているけど段階を上げることは絶対という強い意志を段々私自身も感じてしまい恥ずかしいながらも応じるように奮励する。
……とはいえ、あの抜群の容姿が、蕩けた蒼い瞳が近づいてくることに怯まない訳がない。美しすぎて目が火傷してしまうといつも固く目を瞑ってしまう。それを見てやっぱりふふ、と細い笑い声が聞こえてそれが頬の上から唇の上になったあたりで愛情ってなんだろう恋とはなんだろうと言っていた私は完全に跡形もなく消えていて、夫への思慕にどろどろに溶けてしまった一人の女となってしまっていた。
*
夫婦のコミュニケーションの最終段階。
遂に来てしまった、と彼のベットの前で立ちすくんでいる。決心が着いたら来てくださいと彼はいつも通りの紳士で、そこにどうしようもない経験の差があった。前妻よりも夢中になれるものではない、やはりつまらなかったと呆れられてしまう可能性がある。けれど、望んでしまったから。彼の一番近くへ。
私が漸く彼に向けて一歩踏み出すとその手を取ってエスコートしてくれる。とすん、とお尻が彼の膝に着地して抱きしめられる。ほ、と安堵の溜息が漏れたいきなり本番ということではなさそうだ。
「そんな直ぐ取って喰いやしませんよ。ひどいなあ」
「!い、いえそ、そんなつもりではっ!わ、わたしがキンチョーし過ぎてたからっそれを逃す為であって、決してロイドさんを貶めようなどとは!ロイドさんは!紳士で素敵なままです!大丈夫です、えっとかっこよくてだから、んむ」
「ストップ、ヨルさん。あんまり煽られると前言撤回したくなるでしょう?」
「煽……?すみません」
「うん、分かってたこの人はこういう人だ。ヨルさんはその、はじめてでしょう」
「あ、」
困ったように笑う、その人。
愛しい人は私はこの場においてもまだ慮って下さっている。またしても胸が甘い苦しさにぎゅんぎゅん締め付けられて感謝と思慕でいっぱいになりながら私はあることを思い出す。ガーデンの研修期間のことだ。
『掃除の仕方にもいろいろありますから』と店長と部長さんが仰ってありとあらゆるお掃除(殲滅)方法を教わった。その中に所謂色仕掛け、房中術もあった。適性を見る為、ざっと一通りは受けることになって、……それで。そうだ。私ハジメテだけどハジメテではない。良かった、これでロイドさんの懸念を1つ取り除いて差し上げることが出来る。やはり私はお掃除に関してはちょっとだけ出来るようだ。
「……ヨルさん?」
「ご安心下さい、ロイドさん」
「何をでしょう」
「私、頑丈ですからちっとやそっとのことでは壊れませんしその、それから、ハジメテではありますが未経験という訳ではありませんので!」
ふんす、と一生懸命伝えればロイドさんの顔が──というより表情が一瞬抜け落ちてそれからすぐ戻ってきた。あれ、私、今回はもしや間違えてしまったのでしょうか。
「それは、前に職場の方が言っていた『前の職場』でのことでしょうか」
「え、ああはいそうです。あの、気に触りましたか」
「いいえ。前にも言いましたが誇るべきことです、ただ──」
「……ロイドさん?」
「……いや。ヨルさん」
「はい」
「愛してます。誰よりも」
そう言ってそのままベットに横になり、身体ごと愛された。それは私の中でとっても大切な思い出となったのだ。
*
「ヨルさん、やっぱりハッキリさせておいた方が良いと思うんです」
「……何をでしょう?」
なんとなく拗ねたような顔の夫を見つめながら首を傾げた。これ以上ハッキリさせることなどこの家にあったかしら、とソファに腰掛け上から見下ろす彼の視線を切って考える。愛する夫は大病院勤務の敏腕精神科医、ではなく西国の凄腕諜報員。愛娘はどこにでもいるイーデン校の生徒、ではなく実験の被検体のエスパーで、愛犬も別実験での被検体の予知能力持ち。かくいう自分は平凡な市役所職員、ではなく暗殺者でというそれぞれの秘密を全て詳らかに明かし合い、平和の為に尽力するスーパー一家が改めて誕生して。そうやって表裏それぞれに励む毎日。だけどそこには月日を重ねた信頼と愛情があるどこにでもある一家にもなった。
そんな私たちの間にこれ以上ハッキリさせねばならない隠し事が?それは由々しき事態だ。でも、その割には夫の表情との釣り合いが取れない気もしないでもないけれど。
「ハッキリさせなければならないこととは何でしょう」
「……、貴女はボクが最初で最後の男のはずですね」
「?!え?いえ、はい、そう、……ですね?」
「何で疑問調なんですか。いや、常々思っていたんですけどそろそろ限界なんです」
「限界」
「はい。そもそもハッキリしないことや分からないことがあるのが気持ち悪いタチでして」
「はぁ」
ぐ、と腕を掴まれる。熱い腕だった。
もう最近は夫に対して照れて手を出すなんてことはしない。慣れなのか愛情ゆえなのかはちょっと判別が付かないけれど、……いえ、彼に触れられるのは好きという無言の肯定なのでちょっと恥ずかしい。
「貴女、俺と初めて床を共にした時ハジメテだけど未経験じゃないと言った」
「とっ……!」
「ああ、未だにその初心な反応はいつもなら可愛いけどけど今日はちょっと憎たらしい。あの時『前の職場』はそうやって春を売ることもあるだろうから仕方ないかと思っていたんです」
「は、はい」
「でも、今オレは貴女の『職場』を知っています。あそこは春を売る場所ではあない、刈り取り剪定するところだ」
ロイドさんが言わんとするところが見えてきた。彼は賢いが、それ故に激高したり興奮したりすると私やアーニャさんが理解するところまで話を噛み砕いてくれるを忘れてしまう。だから分かるまで時間がかかってしまうのだ。
なるほど、これは。『私は一体誰とハジメテ床を共にしたというのか』を糾弾されている。前の職場、が設定上売春ならば理解したが本業は暗殺のはずだと詰責されている。
「ええと、ロイドさん」
「はい。素直に言う気になりましたか」
「あの、その問うている気持ちは嫉妬でよろしいでしょうか」
「……え、」
「それでよろしければお話します」
「や、それはその」
「そうでなければ貴方のハジメテも私じゃありませんもの。イーブンではありません」
「酷いヒトだな」
「……そうなるようにお育て下さったのはロイドさんでもあるんですよ?」
ふふ、といつかの彼のように笑う。
バツが悪そうに鼻の頭をかいてからそっぽを向いて「そうですよ」と小さな声で白状してくれた。かわいい人。だから私も種明かしをしなければ。
「ガーデンの研修中に、少し」
「ヨルさんの強さならば色なんて要らないでしょうに」
「適性を、という話で。寝所を男性と共にしました」
「……胸糞悪い」
「まあロイドさんったら、口が悪いです。でも、私ったらホントに小娘で」
「乱暴されましたか」
「いえ、その、途中まではなんとかついていったのですがどうしても羞恥が振り切れてしまって。その、手元にあったスティレットで」
「……」
「ですから、全体的にはハジメテを未経験ですが未経験ではなかったのです」
「全部貰ったのは」
「貴方が初めてですよ」
私の腕を離しはぁあああ、と重いため息でドスン、と彼の定位置である1人がけソファに座り込むロイドさん。その後に小さな声で良かった、と呟いたのを私の耳は取りこぼさなかったので不安材料を今度こそ取り除けた。やっぱり私はお掃除が得意分野なのだ。
「相手が分かればどうにかして処分してやろうと思ってた」
「まあ、もういもしない相手を探し回る羽目になりますよ」
「嫉妬に狂うとそういうことになります」
「……その理屈になると、私は何人になるのでしょう」
「すみません失言でした」
「ふふ、私もからかってすみません」
「ヨルさん」
「……『ロイドさん』以外での話なら、私聞かないし見ようとしません。でも、ロイドさんに関わるなら」
嫉妬にかられてもいいでしょうかと問えばあの蕩けた蒼い瞳が見つめ返してきた。是、なのだろうが私は如何せん莫迦なのだ。ちゃんと答えが欲しい。
「そんなの、当たり前でしょう。オレのかわいい奥さん」
「よかった」
「なんならもうちょっと、欲張ってもいい位だ」
「え、ひゃ」
もう一度ぐい、と腕を引っ張られて彼の膝の上。腰をぎゅ、と抱き抱えられてしまわれては逃げ場がない。逃げ出す気もないのだけど。
「『黄昏』のオレの時でもかられてもいいんですよ?」
「……そうなったら私手一杯になっちゃいます。不器用なのご存知でしょう」
「そんな貴女だから好きなんだ」
「もう、お上手なんだから」
「……酷いヒトだ」
「でも好きなんでしょう」
「そうですよ、もう居ない貴女のハジメテの男を脳内で百度殺す位はね」
「あらまあ」
やっぱり私の夫はかわいい人。
よしよし、と頭を撫でればちょっと不満げに頬に鼻の頭にキスが帰ってくる。ふふふと笑っていたら、彼の口があ、と空いた。これは、まずい。一応今は昼間でここはリビング。夫婦の戯れはいいけどもこれ以上をするのに適したところではないのだ。
「アーニャきかーん。……またいちゃいちゃ?」
「そうだ。だからもう少し気を使いなさい」
「!!もう!ロイドさん!」
「おなかいっぱいすぎてゲェでるから、もうすこしにして、ちちはは」
「無理だろ」
ヨルさんかわいいからな、と真顔で宣う夫に今度こそ。あの頃のように手が垂直に振り上げられ彼が天井へと飛ばされていくのだった。