聞きなれない声に名前を呼ばれた。無視することも出来たが、今日のブラッドリーは機嫌がいい。耳に馴染んではいないが覚えのある声にこたえてやってもいいかと思う程度には。
中途半端に開いた教室のドアに足を向けた。
橙色が差し込む床を踏み、不良校では考えられないような規則正しく並ぶ机の隙間を通り抜ける。開け放たれた窓から風が吹き込み、白いカーテンを揺らしていた。遠くで聞こえる騒めきの原因は、少々機嫌が悪そうだったミスラだろうか。
ふわりと広がったカーテンを、向こう側から伸びてきた指先がつかまえる。覗いた赤茶の髪に何の用だと声を掛けた。
嬉しそうにほころんでいた顔が、見る見るうちに曇っていく。
「もしかして、何か別の用があったか?」
「だったらこんなとこ入って来るわけねえだろ」
そう答えてやれば、再び表情が明るくなった。それじゃあ、と言いかけた口元が、強く吹いた風で止まる。カーテンが大きく揺れて、カインの顔を覆い隠した。間抜けな悲鳴に遠慮なく笑う。困惑しきった声が零れるのも、おかしくてたまらなかった。
響く笑い声を、すぐにカーテンの向こうから現れた顔に咎められるかと思ったが、一向に出てくる気配がない。出てこようとする意思は感じるのだが、カイン自身がうまく状況を把握できていないせいか全く見当違いの動きになってしまっている。それもまた笑いを誘ったが、楽しめたのは最初の十秒だけ。三十秒も経てば呆れが先に来る。
仕方なく、ため息を吐いて手を伸ばした。
「何やってんだよ」
カーテンの裾を持ち上げてやれば、思っていたより間近で二色の瞳と目が合う。一瞬脳裏をよぎったフレーズに、思わず舌打ちをしたくなった。
六月の花嫁、ジューンブライド。ブラッドリーには縁がない言葉が浮かんでしまったのは、相棒がそんな雑誌を手にしていたからだった。尤も、奴が見たかったのは幸せな結婚式ではなく、披露宴で出されるコース料理だったらしいが。
顔を顰めるブラッドリーの目の前で、カインがそっと目を閉じた。カーテンから離れようとしていた手が止まる。
誘われてやる義理はない。わかっているが、どうしてか足が動くことはなかった。
小さく震える睫毛が視界に入り、唇が触れる。
離れれば、ゆっくりと瞼が開いた。戸惑うように視線が揺れて、じわじわと頬が染まる。ブラッドリーと視線が合うと、困ったように反らされた。
「……何だその反応」
「いや、その……」
一度開いた口が躊躇うように閉じられ、それから小さな声が、初めてだったからと呟いた。思わず絶句する。何と言うべきか選べずに、結局声に出したのは、忘れておけという一言だけだった。
落ちていた視線が戻ってくる。滲んでいたはずの戸惑いは、消えてしまっていた。
「忘れたくないって言ったら?」
「……意味わかって言ってんのか?」
答えの代わりに、指先がそっと服の裾を引いた。