制服を脱いだ肌に刻まれたシンボルを眺めてカインはため息を吐いた。署の古びたロッカールームの蛍光灯に照らされたそれは、随分と赤く染まっている。
自覚はあった。いくら何でもミスが多すぎたし、話が一度で聞き取れないことも増えた。体は休息を必要としているのにぐっすり眠ることが出来ず、そのせいで増々集中力が消えていく。取り返しのつかない失敗をしなかったことだけが不幸中の幸いと言ったところだろうか。いざという時の為に、と病院で処方してもらった薬があって助かった。
だけど、それももう限界だ。ここまで赤くなってたらな、と再びため息を吐く。
――この世には、シンボルと呼ばれる紋章が体に刻まれる人間がいる。
思春期を過ぎたころに現れるそれを体に宿した者は、印が赤くなりきる前に性行為をしなければ死に至る。これは病気ではなく、アレルギーと同じ体質的なものだ。だから多少の緩和措置はあっても治療法はない。薬を飲んだところで、セックスをしなければ根本的な解決にはならなかった。
憂鬱さに着替える手が遅くなる。大きな捕り物がようやく終わった達成感が見る見るうちに萎んでいってしまった。
明日は休日だ。仕事も落ち着いた。さらに言えばカインはもう成人している。セックスしたって誰に怒られるわけでもないのに、どうしてかやけに気が重い。
セックスが嫌いなんて言うつもりはない。だけどいつの間にか、シンボルが赤く染まっていくたびにため息が零れるようになってしまった。鉛の塊を飲み込んだみたいに胸が重い。
視線を落とし、腹に浮かび上がった紋章を撫でる。それだけで背筋に何かが走ったような気がして息を吐きだした。
強く目を閉じて、顔を上げ、瞼を持ち上げた。
ここでうじうじ考えたところで結局しなければならないことは決まっている。まだ死ぬつもりはないし、まだまだやりたいこともすべきこともたくさんあるのだ。だったら立ち止まっている暇はない。警官であるカインの体は、立派な資本だ。小さく頷きロッカーの扉を閉める。
頭の片隅にふとよぎった影は、きしんだ蝶番の音にかき消されてしまった。
◇ ◇ ◇
カインがいつも訪れる店は決まっている。確か、友人の兄の恋人の先輩から教えてもらったんだったか。勧められるだけあってかなりの優良店で、従業員は皆誇りを持って働いている。終わった後に彼ら彼女らと話す時間がカインは結構好きだった。
重い体を引きずりながら、控えめなネオンが光るドアを目指す。ぎらぎらとした光が溢れる繁華街では、弱い光が逆に目を引いた。見慣れた看板を目の前に、ほっと息を吐く。
これで、と足を踏み出そうとして。
「カイン」
動きが止まる。ひどく聞き覚えのある声だった。
この人がここにいたって不思議じゃない。かなり大きな繁華街なのだ。知り合いに、……上司に、会ってしまうことだって予想していなかったわけじゃないのに。何故か人違いだと逃げることも、なんでもない顔で挨拶することもできそうになかった。
黙り込んだままのカインに焦れたのか、肩に手がかかる。そのまま引き寄せられて、抵抗できずに振り向いた。不機嫌そうなワインレッドと目が合う。
「こんなとこで何やってんだ」
「……見てわかるだろ、ここに用があったんだ」
頭が働かない。いつも通り笑えている気がしない。それでも何とか、深刻に聞こえないように気をつけて声を出す。
こういう店に行くことは禁止されていない。職務をサボってとか違法性のある店だとか、そういうことなら話は別だろうが、今カインは私服で、犯罪に手を出していないクリーンな店に来ている。いくら上司でも、ブラッドリーに咎められる謂れはないはずだ。
だから、普通に遊びに来たのだと、そういう顔をする。
「ボスもここに用があったのか?」
すごい偶然だなと笑えば、返事の代わりに舌打ちが聞こえ強く腕を引っ張られる。抵抗を忘れている間に路地裏に連れ込まれ、背中が冷たいコンクリートに押し付けられた。ネオンの届かない薄闇でもはっきり見えるワインレッドが苛立ったように細くなる。
「何を隠してる」
「……何の話だ?」
「てめえのここ最近の勤務態度見て、同じこと言えんのか」
そう言われれば口を噤むしかない。普段あまり一緒にならない同僚にも声を掛けられたぐらいだ。ブラッドリーが気づいてないはずもない。今のカインは、それだけひどい勤務態度だったにもかかわらず、夜の店に遊びに来たようにしか見えないだろう。咎められても仕方ない。
目を伏せて口にした謝罪の言葉を、違えと不機嫌な声が遮った。
「俺が聞きてえのはそれじゃねえよ」
腕を掴む力が強くなる。肌に食い込む指先が、今は逆にありがたかった。痛みのおかげで少しだけ頭がクリアになる。意識して呼吸を整え、真っ直ぐブラッドリーの顔を見つめ返した。
「何が言いたいんだ」
「……あの店に何かあんのか」
ふと、先日署に駆け込んできた男のことを思い出した。店の従業員に惚れこみ、全てを捧げて全てを無くしてしまった男。最後は、騙されたのだと警官相手に自棄になっていた。
確かに今の状況では、あの男と同じように見えてしまっても仕方ないのかもしれないと漸く気がついた。不機嫌そうな瞳には、同じぐらい心配の色が浮かんでいる。何だか肩の力が抜けた。言葉がするりと口から滑り落ちる。
「俺はホルダーなんだ」
シンボルを持つ人間を、一般にはホルダーと言う。ホルダーは多くはないが珍しくもない。性犯罪の被害者になることも多く、警官ならそれなりに知識がある。だからこの一言で、ブラッドリーにほとんどの事情が伝わったことだろう。
胸のつかえがとれたような、逆にもっと重くなったような気持ちで息を吐く。とにかくこれで、ブラッドリーも納得してくれるだろう。
「だから、大丈夫だ。仕事もちゃんと」
「どこにあんだ」
カインの言葉を断つように言われた言葉に一瞬面食らう。どこって何がだと効こうとして、すぐにシンボルの事かと思い当たった。ここだとシャツを持ち上げようとして、止まる。
ブラッドリーにはホルダーの知識がある。当然、紋章が赤く染まるほど危ないのだということも知っているだろう。ここまで赤くなったものを見せてしまえばどうなるのか、嫌と言うほどわかっている。
持ち上げかけた裾を戻して、服の上から腹を指さす。そうかと返事をしながら、ブラッドリーは当然のようにシャツを捲り上げた。隠す間もない。ブラッドリーの視線がじっと紋章に注がれている。なるほどなと呟く声がやけに大きく聞こえた。
「カイン。てめえ、女はいんのか」
「……いたらこんなとこいないだろ」
「だろうな」
今日初めて、ブラッドリーが口端を持ち上げた。低く喉を鳴らし、顔を上げる。カインの腕を捕まえていたはずの指が頬を撫で、腰を抱く。ぼす、と呟いたはずの声は、小さなリップ音に飲み込まれてしまった。
呆然と目を見開く。今何が起こったのか理解が追いつかなかった。だけど体は正直で、かっと顔が熱くなる。だめだと思うのにやっと求めていたものが手に入ったかのように頭の芯が痺れていく。
ただ触れるだけ。性を感じさせない戯れのようなキスだけで息が上がる。赤く染まったシンボルにとっては、こんな触れ合いも毒にしかならない。もっと、と言いかけて飲み込んだ。伸ばしかけた指を握りしめ、首を振る。
「っ、やめてくれ、なんで」
「黙ってろ」
ブラッド、と言いかけた唇がまた塞がれた。ぬるりと入り込んできた舌が歯列をなぞっていく。やめさせないとと思うのに力が入らない。こんなことまでブラッドリーに面倒をかけたくはないのに。
「ふ、ぅ……ん、んっ」
だめだと思えば舌を吸われて、やめろと離れようとすれば上顎をくすぐられる。息が苦しい。頭がぼやけてここがどこだかわからなくなる。背中がコンクリートに擦れる痛みも理性に歯止めをかけてはくれなかった。
足に力が入らず座り込んでも唇は離れない。
欲しい。してもらいたい。
「ぁ、っ、もっと……」
肉食獣の瞳が弧を描いた。