変人結婚協奏曲(1) あの時は二人とも酔っていた、のだと思う。
司も類もそれぞれの夢へと歩みだしてから幾年月。役者として、演出家として食べていけるくらいには仕事もあるし名も売れた。むしろのんびりしている暇なんてない。嬉しい悲鳴と言うやつだ。
それはもちろんありがたいことなのだけれど、たまーに、あの、すべてが無敵で輝かしかった高校時代を羨ましく思ってしまう。すごくキラキラして、眩しい思い出。
そんなノスタルジーに浸っていたせいか、類から久しぶりにメッセージを受け取って「会いたい」なんて言われた司は、何も考えずに「オレも」とだけ送った。
半年ぶりに直に会った類は少し瘦せたみたいで、でも内側から自信がみなぎっているかのような精悍さが感じられた。いい男ぶりだ。そう伝えると「君の方こそ」と返されて、いつもなら正面から受け止めて胸を張るのに、柔らかな眼差しに思いがけず照れてしまった。
類が予約してくれたのは個室のある洒落たイタリアンで、アクアパッツァが美味いらしい。
もう、ダメだった。
仕事で疲労している状態で、久しぶりに気の置けない親友と出会えて、しかもそいつは己の好物が評判だという店を探してきたんだと言う。役満だ。
案の定司はべろべろに酔っぱらった。類の暖かな思いやりに包まれて、ぽかぽか幸せ気分だ。酒以上に雰囲気に酔っぱらっていたのだと思う。
対する類も終始にこにこと微笑んでいたが、相当に酔っぱらっていたのだろう。向かい合ったテーブルの上で司の左手を絡めとると、退店するまでずっと握りっぱなしだった。その間、酒も食事もすべて左手だ。両利きの特性が遺憾なく発揮されていた。
そう、そこまでは司も覚えている。店を出て、離れがたさにふざける様にして腕に絡みついて。そしたらとびっきり甘い声で「飲みなおそうよ」なんて囁かれてしまったものだから。
もう気分は有頂天だ。類もオレと離れたくないと思っている。お持ち帰りするしかない、してしまえ!
ネジの抜けた頭で最高のアイディアを思いつくまま、コンビニで酒を買い込みまくった二人は、司の住むマンションへなだれ込んだ。
きっと楽しかった。記憶は無いけれど余韻は残っている。
司は重たい瞼をようやく開けて、ゆっくりと視線を動かした。
朝日が眩しい。酔っぱらいにカーテンを閉める思考は無かったようで、寝不足の目には痛いくらいの光が差し込んでいる。それに腹の辺りがやけに重いし、温かい。というか右半身が妙に温かくて視線を右に移すと、昨日散々飲み明かした片割れが引っ付いていた。腹の重さはがっちりホールドしている相手の腕だったらしい。
ぼんやりと類の顔を見る。安心しきった、子供のような顔。メディアで見る、切れ長の目をした色男はどこに行ったんだか。
そういえば背中が痛いな、と思ったらどうやら床で寝ていたようだ。まったく羽目を外しすぎだな、と苦笑いを浮かべたところで、司はようやくスマホが鳴っていることに気づいた。
「なんだ……」
意外と近くにあったスマホを手に取って見れば、所属事務所のマネージャーの名前。
今日の仕事は昼からのはずだが……と画面をタップした瞬間、司の耳を悲痛な叫び声が突き抜けた。
「天馬さん!!!」
「うお!?」
若い男性マネージャーだが、歳のわりに落ち着いていて頼りになる人物だ。その彼の今までにない声に、司の目も一瞬で覚めた。
「ど、どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもありませんよ!! 突拍子もない人だとは思ってましたけど、こういうのは事務所を通してくれないと! とにかく今日の撮影は予定通りですけど、後は自宅待機で! 余計なことしないでください!!」
「お、おお……?」
「わかりましたか!?」
「はい!」
迫力に圧されて元気よく返事をしてしまった。何が何やらわからないが、まずいことが起きた気がする……のに、マネージャーが最後に「おめでとうございます」と言うからますます訳がわからない。
通話の切れたスマホを見れば、先ほどの彼からの不在着信が56件。
「ごじゅう……!?」
司の喉からヒッと引き攣った声がでた。まずい。間違いなく何かが起きている。
もはや眠気なんて吹っ飛んだ。何をやらかしてしまったんだとバクバクなる鼓動を必死に押さえつけ、ニュースサイトを開く。その、トップ。
「天馬司、神代類、結婚~~~~!!?」
□
――俳優の天馬司(27)と舞台演出家の神代類(27)が結婚したことを自身のSNSで発表した。現在のところ所属事務所からの発表は無い。二人の出会いは高校の頃に……――。
『てんつか結婚?? マジで????』
『るいるいおめ~!』
『知ってた!!! 匂わせすぎじゃん今更』
「けっこん……」
「……すごいことになったねえ」
呆然と虚空を見つめる司を放って、類はスイスイとスマホの画面を動かしていく。ずらーっと並ぶ膨大な数のリプライ達。
マネージャーとの電話の後、ニュースサイトからSNSの文字を見つけた司は、即座に自分のアカウントに飛んだ。そして死んだ。
類の肩にしなだれかかった自撮り。投稿文は『オレ達結婚しました!』……まあ、百歩譲っておふざけの範疇だ。
司の叫び声でようやく起きた類に事情を早口で説明し、開かせた類のアカウントがそりゃあ酷かった。司の頬にキスをする写真と、『お知らせ』というよくある結婚の報告文。ご丁寧にそれぞれの筆跡で署名もされている。何の用途でこんなデータを持っていたのか。
「お前ーー!! 何故こんな凝った文章まで貼っつけてるんだ酔っぱらいのくせに!!」
「何事にも全力で、だよ司くん。あと大声は出さないでね」
頭に響くから、と悪びれもせずに寝っ転がる類に、司の体がぷるぷると震える。
こいつ、こいつ! まったく反省していない!
何とか怒りを収めようとしてフーッと息を吐きだした司の手元が、ぴろんと鳴る。
「む? グループメッセージか……寧々とえむ?」
『二人とも、結婚おめでとう』
『おめでとわんだほーい! びっくりしちゃった!』
……司と類が結婚したことを信じ切った文章だった。一瞬、司の気が遠くなる。待て待て。
「うーん、祝福してくれてるねえ」
横になったままの類も、手元のスマホをいじりながらのんびりと呟いた。だらけきったその様子は、危機感が無いにも程がある……こいつは放っておこう。
まずいことになったぞ、と大いに焦った司は二人の誤解を解こうとしたのだが。
『別に取り繕わなくたっていいから』
『そうそう! いちばんにおめでとうって言えなかったのが残念だけど……』
『ね。応援してたのに薄情な奴ら』
『今度お祝いしに行くからね☆』
と、いくら否定しても全く取り合ってもらえない。
スケジュール決めたらまた連絡するね~、というえむのメッセージを最後に、司の渾身の否定文は既読スルーされてしまった。
「どういうことだ! 何故信じる!?」
「SNSもすごいよ。ほら、司くんのガチ恋勢が泣きながら祝ってくれてる」
「えーい! それは喜べばいいのか泣けばいいのかわからん!!」
司が頭を抱えている間にもスマホの通知は止まらない。共通の知り合いから始まり、舞台の共演者、かつての同級生、エトセトラ……妹の咲希から届いた時には、司はちょっぴり泣いた。信じ込まれている悲しさと妹の純粋な優しさに、二重の意味で。
「こ、こんなに祝ってくれるのはありがたいし幸せなことなんだろうが、何故誰も冗談だと思わないんだ!」
「うーん、ことごとく照れ隠しだと思われているねえ……」
『結婚式はいつ?』『籍はもう入れた?』なんて当人たちを差し置いてはしゃいでいるような文面ばかり。全てのメッセージを見なかったことにした司は、両手を投げ出して仰向けになった。昨日の浮かれ具合が嘘のように、どっと疲れが増した気がする。
隣にいる類は一向に起き上がる気配を見せない。二日酔いだろうか。
(そうだ、類だ……)
チラリと横を見れば、普段通りののほほんとした表情でスマホをいじっている。
――改めて見なくとも類の容姿は整っている。物事に集中すると暴走する癖はあるが、周りをよく見て気を配れる優しい奴だ。安定した職業ではないが生活できるくらいには稼いでいるし、これからもっともっと活躍するに違いない有望株でもある。……モテる要素しかない。
――そう。恋人がいても、おかしくない。
「わーー!! すまん!!」
「えっ何?」
「いや、お前の恋人に申し訳なくて……」
「僕の恋人? どこの誰だい?」
「へ……?」
驚きに体を起こし、目を丸くさせた類がパチパチと瞬く。綺麗なイエローの瞳。明るい日の下できちんと見るのは久しぶりかもしれない、なんて場違いなことを考えていた司は、段々と自分が早とちりしてしまったことに気づいた。
「す、すまん。そういう相手がいるものだと思いこんでしまった。もしそうなら誤解させてしまうのではと焦って、つい……」
「そういうことなら僕に恋人はいないよ。……それを言うなら司くんは?」
「オレか? オレもいないぞ」
「そっか……」
司の答えに類は安心したように息を吐いて、この日初めて申し訳なさそうな顔をした。「その可能性は考えて然るべきだったね、ごめん」なんて殊勝なことを言っている。
しかし問題が一つクリアになったからといって、現状が解決したわけじゃない。依然として司と類は結婚した(と思われている)ままだ。
いくら浮かれていたからって何であんな冗談にしたんだ。というか何で誰も疑わない。
ぼうっと類の顔を眺めていると、連鎖するようにあることが司の脳裏に浮かんだ。そうだ、恋人云々で思い出した。
「そういえば前に聞いたが、あの、よく食事に誘ってくる女性がいると言っていただろう。今度の舞台で主演をやる……」
「ああ、彼女ね。毎回断っているけどしつこいんだよ」
相当キているらしい。珍しく不快さを表情に浮かべて大きなため息をついている。基本的に他人からの好意はスマートに対応する奴なのだが。
「司くんこそ、監督さんに早く結婚しろってせっつかれてただろう? 娘を紹介するとか言われて」
「ああ……」
今度は司が苦笑いする番だった。二十代も後半、結婚適齢期に入ってしまったせいかこの手の話題を振られることが多くなってきたのは確かだ。人当たりがよく、年上に好かれやすい司はいいターゲットに見えるらしい。
恋愛に興味が無い……というか、今は仕事のことしか頭にないからこうやって周囲に勧められても困ってしまうのだ。まあそれが学生時代からずーっと続いているわけだから、女っ気のなさに周囲が見かねてお節介を焼くのもわかる。
「はー……、周りからこういう面で期待されるのは困ったものだな……」
「まったくだね。当人にその気が無いんだからほっといてほしいよ」
「そうだなあ。それこそ結婚してしまえば言われなくなるんだろうがな」
ははっと冗談のように放った後に落ちる沈黙。
結婚。
タイムリーに聞いた単語だ。
「司くん……」
「類……」
お互いの名前を呼んで、自然と見つめ合う。変人ワンツーフィニッシュなんてあだ名で一緒くたに纏められたこともあったが、今ほど気持ちの通じ合ったことなどあるまい。もちろんショーは除く。
――そう、冗談を冗談じゃなくせばいいのだ。そうすればお互いに煩わしさから解放されて、純粋に仕事に打ち込める。えむ流に言えば、ウルトラわんだほいハッピーだ。
「……結婚、するか」
「……しよう」
じっと目を見つめて、頷く。ぐっ、と甘さなんて一欠けらもない熱い握手が交わされた。
この時はなんて素晴らしい案なのだろうと、両者とも本気で思っていた。……まだ酒が残っていたのかもしれない。
とにもかくにも、周りの誤解に乗っかる形で二人は結婚することになったのだった。
□
単身用の引っ越しトラックを見送り、荷物を運び終えたばかりの部屋に司が戻ると、やけにウキウキで上機嫌な類が出迎えてくれた。目尻の下がった、ふにゃふにゃで力の抜けた顔。つられて笑ってしまいそうなくらい。
「荷ほどきを手伝おうか?」
「いや……あ、ベッドの組立だけ手伝ってもらえるか?」
「お安い御用だよ」
そう言って一旦作業部屋に引っ込んだ類が工具を手に戻ってくる。何がそんなに嬉しいのか、頬が緩みっぱなしだ。
……まあ、司もその気持ちはわかる。すごくワクワクして、気づくと口元がにやついてしまうような気持ち。鼻歌でも歌いだしそうな気分だ。
あの、お互いの利害が一致して結婚しようと決めた日から幾数日。
やると決めたらとことんやりきる二人は、事務所の発表に始まり、両家に挨拶をした後、その足で婚姻届を提出した。変装する必要もないだろう、とのことで顔も隠さずに行ったため、区の担当者はイケメン二人の登場に慌てふためいていた、らしい。
とにかく、これで書面上はパートナーになったわけだ。
そうして「結婚したんだから一緒に住もうよ。元々広めの部屋に住んでるし、こっちにおいで」という類の言葉に甘えて、一人暮らしだった類の部屋に司が転がり込んだ形だ。ちょっと掃除すれば大丈夫だよ、という言葉には大いに首を捻るところだったが。
「お前、よくこれでオレを呼ぼうと思ったよな」
「もう少し時間に余裕があれば頑張ったんだよ」
本当だよ、ともっともらしく言っているが、実際はどうだか。
でも、そんな軽口の応酬すら胸を心地よくくすぐって、ムズムズした気持ちになる。だって、学生時代に戻ったみたいだ。
そりゃあ司にも親しい友人なら他にもいるし、仕事仲間だって親密に話すこともある。ただ類はちょっと違うのだ。どこがどう、と聞かれるとハッキリとは答えられないが、肩の力を抜いて寄りかかっても許されるだろう、という妙な安心感がある。
司はふざける様にして、自分よりちょっと背の高い相手に肩を軽くぶつけた。「なあに?」なんて笑いの混じった声を出しながら類もグイッと押し返してくるから、それに負けじとやり返す。無言でやり合ううちにクスクス笑いが止まらなくなってしまった。本当に、子供みたいだ。
そんなふざけた遊びを飽きもせずに繰り返したせいで、荷ほどきはちっとも進まなかったわけで。
「まったく。類のおかげでちっとも捗らなかったな」
「それを言うなら最初に手を出したのは司くんだよ。僕は正当防衛だ」
「何を~」
怒ったような振りをしても、二人とも表情筋がふにゃふにゃでちっとも締まらない。はしゃぎすぎていると自覚はしても、どうにもならないのだ。
言ってしまえばこれは友人とのルームシェアなのだ。しかもショーを通じて得た親友なのだから、ワクワクしないわけがない。
(きっと楽しくなるに違いない!)
お互い仕事もあるけれど、一緒に暮らしていれば時間を合わせることもできるだろう。そしたら一緒に映画を見たりして、すぐにその場で感想会だって開ける。素晴らしい作品を見た後は、何度類と語り合いたいと思ったことか。なんて素晴らしいんだ、結婚!
妄想を繰り広げている司がムフムフ笑っている間も、類は何も言わずに微笑んでいる。機嫌のよさそうな司を楽しげに見つめる姿はいつものことだ。
時間が無かったせいで出来合いの物が並んだテーブルに向かい合って、それぞれグラスを手に取る。
「とりあえず、乾杯だ」
「何にだい?」
「そりゃあもちろん、オレ達の結婚に」
「なるほど」
乾杯、と重ね合わせたグラスが鳴らす、澄んだ音。明日は仕事だから中身もお茶だ。よろしくね、と言う類の目が猫のように細まって、司は何だかそれだけで満ち足りた気がした。
□
司が舞台の稽古場に着いた時、熱心な若手達は既に自主練習を始めていたが、司の顔を見ると一斉に押し寄せてきた。あまりの勢いに思わず身構えてしまう。流石にえむみたいに飛びついてくる者はいないが。
「天馬さんおめでとうございます!」
「あ、ああ……」
一瞬何のことかわからなくて抜けた返事をしてしまったが、そういえば、結婚したんだった。世間的には。
そんなまごつきながら礼を言う司にはお構いなしで、周囲はぐいぐいと詰め寄ってくる。
「天馬さんおめでとうございます~!」
「ほんと、美男カップルですよねえ。お似合いだとは思ってましたけど、もう結婚するくらいの仲だったんですね」
「いやー、むしろ人目も憚らずイチャイチャするから、ようやくって感じだけど」
「そう、逆にまだ結婚してなかったんだってくらいで」
「ま、待て待て待てーい!!」
好き勝手話される言葉達に我慢しきれず、思わず声を上げてしまった。
イチャイチャ? ようやく? どこの次元の話だ!? ……と叫びたいのに、結婚したのは事実だから、何と言えばいいのか……。
「えー、コホンっ。お、オレ達はそんな風に見えていただろうか……」
恥を忍んで司が問いかけると、何を今更、といった顔で全員が首肯する。
「特にあの、去年の舞台のカーテンコール! 見てられなかったですよ、もう」
「あ~、観客の前なのに完璧二人の世界作ってましたよね。神代さん、ついに『僕のスター』じゃなくて『僕の司くん』って言ってて」
「そう! しかも神代さんがずーっと天馬さんの腰に手を当ててるから、こっちが照れちゃうっていうか……」
「あー! も、もういい、わかった!」
言葉を遮るようにして両手を大きく振る。まったくわかりたくないが、これ以上聞くのは耐えられそうになかったので。
それにしても――そうか、あれは世間ではそう捉えられていたのか。
件の挨拶だって、お互いにとっては恋愛云々の含みは全く無いのだ。舞台の演目が決まった段階でプロデューサーから打診はあったが、類が一緒にやりたいと司を推してくれたから、そりゃあ奮起した。いつだって司は類の期待に応えたいし、類は司を最大限に輝かせたい。その情熱と共に大成功した舞台だったから、感極まった類の言葉を聞いた司は、単純に、すごく、すごく嬉しかった。ただその親密さを世間は勘違いしてくれたようで。腰云々は自然すぎてまったく気づかなかった。
深いため息をつきそうになったのを咄嗟に堪えて、顔を伏せる。意図していない捉え方をされていると思うと、何だか恥ずかしく感じてきた。
「そういえば、結婚式は挙げないんですか?」
「……いや、お互い興味ないみたいだ……」
「へえ」
意外ですね、という言葉に曖昧に笑って答える。だって偽装結婚なのだから、挙げるわけがない。
ちょうどそこで今作の舞台演出家や他の役者達が部屋に入ってきたため会話が途切れ、司はホッとして胸を撫でおろした。今にもボロが出そうだ。
と思いきや新しく加わった人間達も面白がってつつき回してきたため、司の安堵はすぐさま消え去ったのだが。
□
類が自宅であるマンションに着いた時、久しく無かったほどに疲れ果てていた。
フリーの演出家として活動している類は、現在とある舞台を手掛けている。もちろん演出の仕事は好きだから、疲れていたって苦にならない。けれど、今日はそれ以外の煩わしさでやけに肩が凝ってしまった。
(まさか、あんなに根掘り葉掘り訊かれるとは……)
司は役者だから注目を浴びるとは思ったが、裏方である自分にそこまで興味を持たれるとは思っていなかったのだ。
稽古場に着いた途端、周囲を役者やスタッフに取り囲まれてしまって、質問攻撃を浴びまくった。それに愛想笑いを浮かべて当たり障りのない返事をし続けたおかげで、顔の筋肉が強張ってガチガチだ。まだ引き攣っているような気がして顎をひと撫でする。
(そんなに他人の事情が気になるんだろうか)
類にとっては理解できない不思議さだ。まあ、理解したくもないけれど。
オートロックを解除してエレベーターに乗り、見慣れた自室のドアを開けると明るい光が漏れだす。詰まっていたような息がするりと漏れた。
(――ああ……)
そうだ、司くんがいるんだ。
そう実感すると、さっきまでの疲れが嘘のように消えて、自然な笑みが浮かぶ。
いるだけでリフレッシュ効果をもたらすなんて、彼にはスター以外の才能もあったらしい。こんな素晴らしい効能、一家に一人、天馬司が必要だ。ああでも、僕が独占しているんだけどね。
フフフ、と浮かれ切った思考でリビングのドアを開けば、ふわりとおいしそうな匂いが鼻孔に広がる。こちらを見て、ぱっと笑顔を浮かべる司。
「おかえり、類。手洗いうがいしろよ」
「うん。ただいま……」
「? 何だかお疲れ気味だな。……まあ、わからなくもないが」
苦笑気味に言う司も今日は自分と同じ目にあったらしい、と判断した類はふと司の手元に目線を移した。ホカホカと湯気が立っている。
「ああ、ちょうど夕飯を作っていたんだ。腹がすいてるなら類も食べるか?」
「う、うん」
優しく目を伏せて、鍋の中身をくるりとかき混ぜているその横には、茹でた野菜の入った器と、何も入っていない器。鍋に入っているのはシチューのようだ。
それを見てしまったら、ほわほわと胸の中があったまって、溶けてしまいそうになった。
ついでみたいなことを言ってるけれど、類の分だけ野菜を除けてくれている。一緒に煮込んだ方が楽だし、わざわざ手間だろうに、なんてことないような顔で。自分だって稽古で疲れているくせに。
なんてあたたかい人だろう。
「類?」
ぼうっとしている類を見かねた司が心配そうに顔を覗き込んでくる。類は胸を押さえながら「何でもないよ」とだけ言って息を吐いた。
「――それで、例の女性に今日も話しかけられたんだけど」
「おお……それはそうだろうな、狙っていた相手が結婚したんだから。で、何を言われたんだ」
司特製のシチューとその他買ってきた総菜を食べながら、向かい合って交わす話題は『例の女性』のことだ。類のシチューに野菜は入ってないが、鶏肉の他に魚介類も入っていて食べ応えは十分、愛情もたっぷり感じる。
類の話す『例の女性』というのは、以前話していた何度も食事に誘ってくる女性のことである。類の担当する舞台の主演俳優だから、関わりを持たないわけにもいかない、と大分参っていたのだが。
「それがねえ……何故かすごい祝福されてしまったんだ。お幸せにって」
「ふむ。拍子抜けだな」
「そうだろう。でも何か、根掘り葉掘り聞かれたというか……どういうところが好きなのか、とか」
「こ、困る質問だな」
司が苦笑いを浮かべながら相槌を打つ。
そう、それは類も困ったのだ。今までの露骨なアプローチから一変、頬を紅潮させて女学生か何かのように恋バナを求められてしまって、流石に面食らってしまった。
出会いは雑誌で見たから知ってる、意識したのはいつから? プロポーズは最近? 彼のどんなところにキュンときちゃったの?
弾丸のように捲し立てられるそれに目を白黒させているうちに、周囲も面白がって類をつつき回し、収拾がつかなくなったくらいだ。
大体――。
「司くんのいい所なんていくらでも話せるんだよ。でも、スターとしての君のいい所は話せても、僕にしか見せない司くんのいい所を話すのはもったいなくて嫌だなって」
「……は」
万が一にもその会話を切っ掛けにして司に恋愛的な興味を持たれてしまったらどうする。こんな健気で家庭的な一面もあるんだって知ってしまったら。ときめかない方がおかしいじゃないか。
類はどこかムカムカする気持ちを抑えながら大ぶりのホタテを口に運んだ。……おいしい。シチューの温かさが心もほぐしてくれたような気がして、へにゃりと眉尻が下がった。
そうだ、この穏やかな暮らしを脅かすものなんて許容できるわけが無い。まだ一週間も経っていないが、司との生活は類の心を彩ってくれて、何でもっと早く一緒に暮らさなかったんだろうと後悔するくらいだ。それくらい心地よくて、手放したくない。
ふと対面にいる司が静かなことに気づいて顔を上げると、ポカンと口を開けてじわじわと頬を赤く染めていた。珍しく照れているようだ。
「司くん?」
「いや……」
もごもごと口を動かすが言葉にはならなかったらしい。どこに照れるポイントがあったのか考えながら新鮮な表情を観察していると、「見るな!」と叱られてしまった。残念だ。でもずっと見ていると何だか落ち着かないし腹も空いてくるような気がしたので、類は黙ってシチューの残りを口に入れた。
ところでこの一件以来、今まで類への褒め言葉を普通に口にしていた司は、妙に照れるようになって言葉に詰まる姿を何度も見せた。しかも記者に話題を振られるたびに赤くなってしまうのを運悪くテレビ放送されてしまい、しばらくSNSで『#てんつかの照れ顔』が流行ってしまったのだった。天馬司、一生の不覚である。
□
そんな、結婚してすぐの頃だった。
「ねえ、指輪買おうよ」
「む?」
自宅でくつろいでいる時にさらりと類が言った言葉を、司は脳内で反芻させた。
指輪……指輪って、あの指輪、か? オシャレのためではなく、結婚した者同士がつけると言う。
司が類の顔を見上げると、やけに金色の瞳が光っているような気がする。
「僕ら結婚式を挙げないから簡単に証明できそうなものが必要かなって」
「まあ、一理あるな」
「僕が作ってもいいんだけど」
「変な機能をつけるなよ」
「まさか。GPSと防犯ブザーくらいさ」
冗談なのかいまいちわからない言葉を吐いた類は、「支払いは僕がするから、深く考えなくていいよ」と言って薄い笑みを浮かべている。
……長年付き合っていれば、これが類の本心を隠した表情だなんて丸わかりだ。大方、司に拒否されるんじゃないかって怖さを押し隠した表情。何を恐れているんだか理由はわからないが。
幼少期の経験がそうさせるのだろうけれど、こうやって類が遠慮する方が司にとってはよっぽど問題だ。
ふう、と一つ息を吐いて類の左手に触れる。
「構わないが、オレも代金は払うからな。そういうものだろう、結婚指輪は」
「う、うん!」
ぱああっと顔を輝かせた類に、司も満足げに頷く。
不安の種はわからないが、笑顔になってくれたならオールオッケー。やはり、こいつはこうでなくちゃいけない。
そんなわけでオフの重なった日の午後、早速二人は芸能人御用達だというジュエリーショップに出向いた。あらかじめ類が予約していたから応対もスムーズだ。
接客してくれた店員も二人の姿に動じることなく対応している。それは流石なのだが……。
「指輪はさっぱりわからんな……」
「司くんはアクセサリーつけないからねえ」
ショーケースにずらりと並ぶ輝き。プラチナやらシルバーやらの素材から始まり、リングのフォルムだの石がどうだので司の頭はパンクしそうだった。世の中のカップルはどういう基準で選んでいるんだ。
「意匠も色々あるけれど、日常的に使うなら丈夫な素材で、かつシンプルな形状がいいだろうね」
「なるほどな……」
とは言ってもたくさんありすぎて目移りしてしまう。店員の「試着されますか?」という言葉に甘えてそっと薬指に嵌めてみるが……何だか不思議な気分だ。両親もつけていた愛の象徴のようなものが、自分の指にある。
一方の類もシンプルな指輪を嵌めて手の甲をこちらに向けた。
「どうだい?」
……褒めればいいのだろうか。まあ、確かにこいつはこういうのが似合う。つけ慣れている、というのか。
そういえば、こうやって類の指をまじまじと見たのは初めてかもしれない。色白で、すらりと長い。でも指先はちょっとかさついているし、皮膚も固くなっている。いつも機械をいじっているせいだろうか。
「――司くん?」
「はっ!?」
呼びかけに司の意識が戻ってくる。気づいたら類の手を握っていて、指の形をなぞるように撫でていた。どうりで皮膚の感触までわかったはずだ。
(これ、めちゃくちゃ恥ずかしいことをしてしまったのでは……!?)
顔から火が出そうだ。指輪選びの最中にパートナーの指を手に取って眺めるなんて、イチャついているカップルそのものだ。横目でうかがった店員がにこにこしながら何も言わないのが、余計に。とんでもないバカップルだと思われていやしないだろうか。
動揺する司を尻目に、類は「このデザインも素敵だね」なんてのんびりと試着を続けている。お前が反応しないといつものことなんだなと思われるだろうが!
その後、羞恥で使い物にならなくなった司は、結局類にほとんど任せて店を出ることとなった。
まあ、提案した人物に一任するのが間違いない、ということにしておこう。
時間はかかったが、なんとか指輪を選んで店から出れば、空はもう夕焼け色だ。
司が腕時計を確認すると、正味二時間程度は吟味していたらしい。その時間の大部分は、せっかく奮発するのだからと、類が熱心に選んでいたのを眺めている形になったが。疲れ切った体をほぐすように腕を伸ばしていると、ちょんちょん、と類に肩をつつかれた。
「ちょっと早いけど、どこかで食べて帰ろうか」
そう言われると腹が減ったような気がして、司は自分の腹を手で押さえた。疲れているし、もちろんそれも手なのだが――。
「いや、簡単なのでいいならオレが作るぞ」
「司くん、疲れてない?」
「気疲れはしたが、外食だとお前の食べるものが限られるだろう」
野菜嫌い甚だしいからな。
ちなみに類は料理が嫌ってわけではないらしく、たまにキッチンに立って手料理を振舞ってくれることもある。ただしその場合、一切野菜は入らないが。触るのも嫌って、どういうことだ。
そんな野菜ゼロ%の食卓を司が我慢できないため、自ずと食事の用意は司が担当することが多い。別にそれに不満は無いし、自分の手料理をおいしいと言ってくれる姿を見るのは好きだ。
さて冷蔵庫に何があったか、と思い出していると、隣を歩いていたはずの類がいない。振り返って見れば、少し後ろで立ち止まったまま何か言いたげな顔をしていた。
「類?」
「……司くん、今日はありがとう」
「何がだ?」
「指輪だよ。別に司くんは必要だと思ってなかっただろう?」
「そりゃあ……まあ」
何を言い出すかと思えば、そのことか。類の言う通り、司は結婚指輪のことなんて頭の隅にも置いてなかった。あれは、愛し合っている者同士が嵌めるものだと思っていたからだ。
「その……僕達は恋愛感情なく結婚したけれど、一目で僕と司くんの関係性がわかる物が欲しかったというか……。いつ司くんに悪い虫がつくかわからないだろう?」
「悪い虫って……曲がりなりにも既婚者だぞ?」
「それでもだよ。これで僕の司くんなんだって主張できるじゃないか」
うんうん、やっぱりいいアイディアだった、と一人で満足そうに頷いているが、司は何とも言えず口をへの字に曲げた。
どうにも聞き覚えのあるワードだ。僕の司くん。共演者達にも突っ込まれた、司と類の仲を邪推させまくった言葉らしい。今まで何とも思っていなかったのに、客観的に聞いてみると成程、ちょっと友人同士にしては重たいというか、恋人なら自然なのかもしれない。しかも指輪で縛る独占欲付き。
自然と熱を持っていく頬を冷やすように手の甲を当てる。
ここで拒否せずに照れてしまっているのはよくない気がする。何かは知らないがまったくよくない。普段なら好意は真正面から受け止めて高笑いの一つでもしたものを、ここ最近どうにも調子が出ないのだ。
「司くん?」
司のしかめっ面をどう思ったのか、類が眉を少し下げて様子を窺ってくる。噓泣きする時はとことん同情を誘おうとするくせに、こういう所は臆病な奴なのだ。まったく。
「……あー、類、満足できる買い物はできたか?」
「え? あ、ああ、うん」
「ならばよし! 類が嬉しいならオレも嬉しい、いいこと尽くめだ! ほら、突っ立ってないで早く帰るぞ。ちょっと冷えるから今日はあったかいのにするか。何が食べたい?」
照れを隠すように捲し立てて歩みを再開させる。いや、これは決して照れ隠しではない。腹が減ったから早く帰りたいだけなのだ。
そんな司を追いかけるようにして類が横に並ぶ。まっすぐ前を向いているせいで類の表情はわからないが、ニマニマとにやついて面白がっている雰囲気なのは確かだ。
「フフ、司くん、ありがとう」
「わかった、それはわかったから何が食べたいと聞いているんだ」
「ん~僕はいいお嫁さんを貰っちゃったなあ」
「……そんなこと言ってると野菜を入れるぞ。旦那の健康管理は妻の役目だからな」
「ええ~? 冗談だよね?」
類の泣き言に返事をすることなくスタスタと前を行くと、類があわてたようにして司の名前を何度も呼ぶ。先ほどまでのしおらしさはどこに行ったのやら。
野菜発言を撤回させようとする情けない声を聞きながら、司はついつい耐え切れずに破顔した。
□
あれから数か月後、本日の司の仕事は、とある撮影スタジオで雑誌の撮影とインタビューだ。特集は公私ともに大注目の俳優に迫る、らしい。なるほど、わかっているじゃないか。
この『私』というのが類との結婚関連なのは明白なので、流石にもう言葉に詰まることはない。学習する生き物なのだ、オレは。
と、いつも通り最高にかっこいい姿を収めてもらい、元気よく挨拶をした帰り際のことだった。
「類?」
「お疲れ様、司くん」
スタジオの裏口に意外な姿が佇んでいる。いつも通り個性的な柄アンド柄。ハットを被っているのは変装用だろうか。司を見つけてにっこりと笑い、手をひらひらと振っている。
「どうしたんだ、こんな所で」
「たまたま近くで仕事があったから、ついでに出待ちしちゃった」
「出待ちって、お前……」
家に帰れば会えるだろう、とは思いつつも、にこにこと嬉しそうな類の顔を見たらどうでもよく思えてくる。見たいと言うなら存分に見ればいい。
その類はというと、司の左手を見てますます機嫌よさそうにフフフと笑っている。
「嬉しいな、ちゃんとしてくれてる」
「そりゃあ、そのために作ったんだからな。仕事の時は外すが」
自分の左手を掲げて見れば、日の光に反射してきらりと光る薬指。出来立てほやほやの結婚指輪だ。ほとんどすべてを類に任せてしまったが、リングの裏側にある宝石は司も一緒に選んだ。赤みがかった紫色のパープルサファイア。
この石を選んだ時の類と言ったらもう、緩みそうになる頬をなんとか隠そうとしておかしなことになっていた。もはや一周回って無表情になっていたから、逆に司も照れなくて済んだのかもしれない。司としては誕生石の中からなんとなく色合いで選んだだけだ。綺麗な石だと思っただけであって、類をイメージしたとかそういうのは無い。他意は無いったら無い。
ちなみに類は誕生石であるウォーター・オパールというのを選んだらしい。石言葉があるらしいので聞いてみると、「『乙女の初恋』だよ」と言ってニヤニヤ笑っていた。それにどう反応してほしいんだ、この大男は。店員の動じない笑顔が居たたまれなかった時間だった。
その待ちに待った指輪ができてからというもの、類は事あるごとに自分の左手をさり気な~く視界に入るような不可思議な動きをしている。まったくさり気なくないからもはや不審者だ。
最初は微笑ましく思っていた司もだんだん恥ずかしくなってきて、いい加減やめろと苦言を呈したらきょとんとした顔をされてしまった。なんと無自覚だったらしい。
まあそこまで喜んでもらえたなら買った甲斐があるというものだ。それだけで十分お釣りがくる。
とりあえず今日の仕事は終わったし、せっかくなら二人で帰ろうか、と類を促した時だった。
「気持ち悪い」
ぼそっと、呟く声。スタッフか、ただの通りすがりか。わからないが、やけにくっきりと聞こえた一言に振り返っても、誰かが歩き去る後ろ姿しか見えなかった。
はて、気持ち悪い。自分と、類に?
「新鮮な反応だ」
「……そうだねえ」
お互いに顔を見合わせてぱちぱちと目を瞬かせる。傷つく言葉を言われたのは間違いないが、それよりも珍しさに感心してしまった。
そもそも二人がふざけて結婚発表をした時に、周囲が鵜呑みにして、しかも手放しで祝福されまくったのがおかしいと言えばおかしい。二人が結婚するのは当然のこと、といった雰囲気が何故か出来上がっていたのだ。いや、おかしすぎる。
とはいえ同性同士の結婚も珍しくない中、それでも忌避感を覚えるのも真っ当な反応ではあるし、今まで面と向かって非難されなかったのは奇跡かもしれない。
「……ごめん」
周囲の優しさというか奇特さを司が実感していると、類が目を逸らして謝るものだから、訳がわからずにもう一度目を瞬かせた。
「何で類が謝るんだ?」
「……僕と結婚しなければ、こうやって謂れのない中傷を受けることも無かっただろう。僕はいいけど、司くんがひどいことを言われるのは嫌だ」
「…………バカだな」
……何を言うかと思えば。こいつ、自分一人で結婚したとでも思っているんだろうか。その場のノリもあったかもしれないが、司だって納得して類と結婚したのだ。類と暮らすのは楽しいし、今や結婚してよかったとさえ思っている。
それなのに二人のことをよく知りもしない人間に悪口を言われて、それで結婚を後悔するような素振りをされるなんて、ちょっとムカついた。……いや、言わせてしまった自分に腹が立ったのかもしれない。
司は大きく息を吐いた後、もう一度「バカだな」と言って綺麗な額にデコピンをかました。
「いたっ」
「まったく。オレだって子供じゃないんだから万人に好かれようなんて思ってないぞ。どんなに人間的に素晴らしくたって、演技が上手くたって、気に食わないと思う奴はいる。男同士で気持ち悪いって思う奴もいる。それは仕方のないことだ、面と向かって言うのはよくないがな。大体、それを言うならオレだって大切な人を悪く言われたくない!」
ふん、と言い切った司が胸を張ると、額を押さえてポカンとしていた類の頬が段々と紅潮していく。照れ顔だ、珍しい。
類はしばらく口元をもごもごとさせていたが、へにゃりと眦を緩めて「ありがとう」と微笑んだ。
□
「おめでとわんだほーい!!」
「お邪魔します……」
玄関を開けたらいの一番で元気の塊みたいな奴が飛び込んできて、その後ろから覗き込んでくる歌姫。普段司と類の二人しかいない空間が、一気に賑やかになる。言わずと知れたえむと寧々だ。
「いらっしゃい」
穏やかな声でリビングからひょっこりと顔を出す類。ワンダーランズショウタイム、久しぶりの全員集合だ。
「ごめんね~、早くお祝いしたかったんだけど、予定が全然合わなくって」
えむの言う通り、本日は大分遅くなってしまった類と司の結婚祝いをしてくれるということで、えむと寧々の二人が自宅に来てくれたのだ。えむはフェニックスワンダーランドの経営会議が詰まっているし、寧々はミュージカル俳優として第一線で活躍している。スケジュール調整は至難の業だ。
鳳家のシェフが作ってくれたというオードブルをありがたくいただき、早速リビングのローテーブルに広げていく。少し手狭だが、生憎とダイニングテーブルの椅子が二脚しか無かったため。
お祝いをしてくれると聞いた時には、偽装結婚だということをえむと寧々には伝えようかどうしようか悶々と考えていたのだが、そもそも最初の時にいくら否定してもまったく信じなかったのだ。それに実際に二人は結婚したし、満更嘘じゃない。類と話し合って、せっかくだから厚意は受け取っておこう、ということになったのだ。
昼間だから酒は無いが、四人で集まれば自然と話が弾んで賑やかになる。
「司、類に苦労してない?」
「それどういう意味だい?」
「いたって平穏だぞ。まあ引っ越した時は部屋の汚さにまいったけどな」
「類くんのお部屋、おもちゃ箱みたいだもんね」
ははは、と三人が笑って、類がしくしくと泣き真似をする。べそをかく振りをしながらチラチラと司を見るものだから苦笑して構ってやると、それを寧々が生暖かい目で見ていた。この流れは学生時代と変わらないはずなのに、やけに恥ずかしく感じる。これってもしや、イチャついていると思われていたのか。
「それにしても、ようやくって感じ」
「……あー、その、そんなにオレ達はそう見えていたのか」
一種の怖いもの聞きたさで司が恐る恐る尋ねる。どう言えばいいのかわからず指示語ばかりになった言葉に、寧々とえむは顔を見合わせて口を開いた。
「誰がどう見てもそうとしか……」
「司くんも類くんも、一緒にいるとふわふわ~ぎゅわー! ってして、すっごくきゅんきゅんだったもんね!」
「お互い相手のことばっかり考えてるし、大好きオーラを隠しもしてなかったじゃん。あとやたらベタベタして引っ付いてた」
「あたし達、たま~に邪魔にならないようにこっそり帰ったこともあったよね! 懐かしいなあ~」
きゃっきゃと思い出話に花を咲かせてくれているが、司としては全く身に覚えが無い。どうなんだ、と類に目線をやっても、寝耳に水とばかりに肩を竦めるばかりだ。よくわからないがこうやって既成事実が作られていったのか。
親友ってそういうのじゃないんだろうか。傍から見るとちょっと違うのか?
司にとっての類の存在は、単純に一緒にいると楽しいしどこか安心できて、ありのままの自然体でいさせてくれる。だからますます類のそばにいたくなって、熱を分かち合いたくなって、距離が自然と近まった……のかもしれない。
それって、友人としておかしいのだろうか。
悶々と考え込みそうになった司を置いて、えむが「はいはーい!」と手を挙げた。
「ね! 本当に結婚式はしないの? 今ならネオフェニックス城のウエディングプランもリニューアルしたばっかりだし、うちで経費持つよ?」
「宣伝のためだろ、それ」
「えへへ~」
図星を指されたえむが誤魔化すように頭をかく。今や立派な経営陣の一人である彼女は、したたかな面も身に着けつつあるようだ。
それにしても類と司が結婚式を挙げないのは、大分意外に映るらしい。えむだけじゃなく、周囲の人達、家族にだって何度も言われた。
「司くんと類くんのこと、フェニックスワンダーランドのみんなでお祝いしたかったのにな~」
「類なんか嬉々として司のこと打ち上げそうじゃん。ウエディングバージョンで」
「うーん、それも面白そうだねえ」
「オレは結婚式まで打ち上げられるのか!?」
「お~、とってもわんだほいな式になりそう!」
好き勝手言ってくれるが、まあ、気の置けない仲だからこそだ。久しぶりに会ったからか話題は全然尽きなくて、あっという間に時間は過ぎてしまう。仲間たちは皆夢に向かって突き進んでいて、その眩しさに元気を貰える気がした。
気づけば空は日が落ち始めていて、そろそろお暇しようという寧々の声を合図に、えむも名残惜しそうに立ち上がった。
「じゃあみんなまたね! 司くんも類くんも、仲良しさんでがんばってね!」
「うん、ありがとう」
にこにこ笑いながら玄関に向かう類とえむ。二人を追いかけるように立ち上がった司の腕を、くいくいと引っ張る手があった。寧々だ。もじもじとして、何か言おうとしては躊躇っている。
「どうしたんだ?」
「……えーと……」
「寧々?」
何か言いにくいことなんだろうか。何か相談事か、とでも思ったが、この様子だと照れているみたいだ。
ようやく言う気になったのか、寧々が少しぶっきらぼうに言葉を吐く。
「…………その……類のこと、よろしくね」
そう、小さく口に出すと、柔らかく目を細めて類を見る。優しい眼差し。
――それに、頭をガツンと殴られたような気がした。
(ああ……)
言いたいことを言い終えてすっきりしたのか、満足した表情の寧々が玄関へと向かい、えむと一緒に「お邪魔しました」と帰っていく。手を振っている姿が段々見えなくなって、ガチャリと音を立ててドアが閉まる。
見送っていた類が笑顔でこちらを振り返った。「二人とも元気そうだったね」なんて嬉しそうに笑っている。
二人は――類と寧々は家族ぐるみの付き合いだと言っていたはずだ。幼い頃からお互いをきょうだいのように思って過ごしてきた、と。寧々なんか、年下なのに類のお姉さんみたいな振る舞いをするときだってある。
そうだ。寧々は類のことを大切な家族のように思っていて、心からこの結婚をよかったと祝福してくれている。昔から気にかけていた存在が、最愛を見つけて幸せになってくれたのだと。
……本当は違うのに。
「司くん?」
ぼうっと立ち尽くす司を不思議に思った類が首を傾げる。その左手がきらりと玄関の照明を反射した。祝福された愛の象徴。
「……何でもない」
司は、初めて後悔した。
□
お互いのスケジュールはカレンダーで把握しているし、類がしばらく公演で家を空けることは、前々からわかっていたことだ。仕事だから当たり前のことだし、別に司はどうとも思わない。ごねたのは類の方だ。
「はあ……僕たち新婚なのに。司くんも来ないかい?」
「見に行きたいのは山々だがオレにも仕事がある。いいから行ってこい、演出家」
「司くん、冷たいなあ。浮気しちゃダメだよ?」
「ほう、オレはそんな不誠実な奴に見えるか」
ムッときて司がほんの少し怒りをにじませると、類があわてて謝ってきた。
……いや、こんな軽口、ただの冗談だとわかりきった台詞だ。以前の司だったらそれに乗っかって、ジョークの一つでも飛ばしただろう。なのに、今日は胸の奥がピリッとひりついて、上手く流せなかった。どうにも調子が出ない。あの、みんなで結婚を祝った日から。
眉根を寄せた司をじっと見ていた類が、ふっと微笑んで司の頭に手を乗せる。優しく労わるように撫でられるとささくれ立っていた心も凪いでいくようで、自然と瞼が閉じていった。
「留守番よろしくね。行ってきます」
「……いってらっしゃい」
名残惜しむようにもう一回撫でて、玄関のドアを開ける。振り返ってもう一度司に向かって微笑むと、ようやくドアが閉じられた。
家を空けると言ったって、たかが一週間程度だ。別れのシーンにしては大げさだろう。
司は撫でられた感触をなぞるように、自分の手でもう一度頭を撫でた。
司の舞台の方も佳境だ。数週間後には公演が始まるから、衣装もセットも本番さながらの通し稽古が行われている。稽古場の緊張感は半端ないが、司はこの背筋の伸びるような独特の雰囲気が好きだ。
通し稽古は体力を使うものの、熱の入った体はまだ余力がある。全体の稽古は終わったが、少し休憩した後に自主練習をしていこう。……どうせ家に帰っても一人だから、時間はいくらでもある。
タオルを手に壁に寄りかかっていると、近くにいた役者達が自然と司の元へ集まってきた。皆熱心に今日の練習について語っていたのにどんどんと話題がずれていって、しまいには司の話になる。何故かこれがここ最近の稽古場でのルーティンだ。
「天馬さん、結婚生活どうなんですか~」
「どうって、まあ、ぼちぼちだな。類は今日から大阪に行ったが」
「それは寂しいですねえ、新婚なのに」
「いいな~イケメンと結婚! あたしもしたーい」
話の種はもっぱら司と類の新婚生活についてだ。司がどんなにありきたりな返答を返しても周囲が勝手に盛り上がる。根掘り葉掘り聞かれたって、司と類は友人同士だから皆が思うような面白い話は無いはずだ。
いつもはそんな他愛の無い会話が交わされていたのだが。
「へ~。ぶっちゃけ、どっちがオカマ役なんすか?」
一人の役者にかけられた言葉が、一瞬理解できなかった。
ポカンとする司を他所に周囲の人間の目がカッと開かれ、発言者をぎろりと睨みつける。
「は? サイテー。セクハラじゃん」
「今時そういうこと言う? ふつー」
「えっ、いや、その……す、すみません!」
和やかな談笑から一変、集中砲火を浴びた彼は一気に青ざめて、あわてて司に頭を下げた。白い目が四方から突き刺さっている。
我に返った司は、笑って「気にしていない」と手を振ったが、彼にとっては居たたまれない空気だろう。パンッと手を叩いて自主練習を告げると、三々五々に散っていった。
その後、喉の乾いた司が稽古場から出てすぐの自販機でお茶を買っていると、先ほどの彼が追いかけてきて「すみませんでした!」と再び頭を下げた。腰から折る、綺麗な直角だ。
「気にしてないって言っただろう?」
「いえ……すみません、俺、すぐ思ったこと言う奴で……」
「もうわかったから気にするな。びっくりしたが、今度から気を付ければいい」
司が肩を叩くと元気よく返事をして、もう一度深く頭を下げて去って行った。今作で初めて顔を合わせた役者だが、言動がハッキリしていて良くも悪くも裏表の無い人物だ。心なしか肩の下がった後姿をぼんやりと見送る。
謝罪は本物だったし、悪意は感じなかった。本当に、ただ疑問だったんだろう。予想外の質問に司が固まってしまっただけで。
自販機の取り出し口からお茶のペットボトルを掴んで蓋を開ける。ぱきっと小気味いい音が鳴ったが、心の中はモヤモヤが溜まるばかりだった。
自宅に戻って夕飯の支度をしていても、司の頭から稽古場での言葉は離れなかった。思わず「はあ~」と大きくため息が出る。
(役とかなんとか、考えたこともなかったな……)
本当に、彼の言葉で気を悪くしたわけではないのだ。ただ今まで考えもしなかったことを突き付けられて、混乱してしまっているのかもしれない。
(男と男が付き合うって、どちらかが女の役割をするものなんだろうか)
今まで気にしたことは無かったが、傍から見ればそういう感覚なのかもしれない。二人が恋愛関係に無いことは自分達しか知らないのだから。
今時ナンセンスな話かもしれないが、家事の分担で言えば食事の用意は主に司が担当している。その他の洗濯や掃除などのもろもろだって、時間に余裕がある方がやったりして上手く分担できていると思う。というか掃除の苦手な類が司との生活のために頑張っている姿を見るのは、たまらない気持ちにさせてくれる。気分は巣立ちを見守る親の気持ちだ。
他は……下世話な話になるが、恋人や夫婦なら夜の営みも関係してくるだろう。というか彼はそっちが聞きたかったのかもしれない。周りが怒るわけだ。
(なるほど、類とそういうことをすると思われているのか……)
類と、自分が、そういう。
チラッと考えて、次の瞬間、司は自己嫌悪で叫びたくなった。そんな想像をするなんて、失礼すぎる。類に合わせる顔が無い……。
そもそも偽装結婚なのだから自分達には関係の無い話だ。世の中の夫婦と前提が違う。気にするだけ無駄。
赤くなった頬を誤魔化すように頭を振って、考えを追い出そうとする。するのだけれど。
(る、類だって男だ。そういう欲求を持っているだろう)
一度考えてしまうとダメだった。まっさらなキャンバスへ一滴の絵の具を垂らしたように、そればかりが主張して頭の中をかき回してくる。これ以上ないくらい、顔が熱く火照っていく。
類と、性的なアレコレをする。もう司の頭は爆発しそうだった。
(待て待て待て、オレと、あいつは、男同士。そういう関係じゃ、ない)
ドキドキする心臓を押さえるように胸に手を当てて、すーはーと息をする。あの類が、ベッドの上、甘い顔で見つめてくる妄想を頭の隅に追いやりながら。
三回目の深呼吸でようやく落ち着いた鼓動を掌で感じつつ、でも、と再び思考に耽る。
(でも、結婚相手で欲求を発散できないのなら、外にそういう相手がいてもおかしくない……か? いや、仮にも結婚している状態でそんな不誠実なことをする奴じゃない)
今までお互いの恋愛遍歴や性に関する話なんて、一度もしたことが無かった。類といるといっつもショーのことばかりで、それが楽しくて、恋だの何だの考えたことすらなかったのだ。恋をするよりも、類とはしゃいでいるほうが楽しかった。自分はいつまで経っても子供のままだ。
でも、類はどう思っているのだろう。
恋愛に興味は無いと言っていたけれど、いつか人並みに恋をして、結婚して、子供を授かって。そんな未来があるかもしれない。そうだとしたら。
……いや、それも違う。家族の形なんてなんだっていいのだ。本当に愛し合って結ばれた仲ならば、相手が誰だろうと。
(――じゃあ、やっぱりオレが類を縛っているのかもしれない)
司がいる限り、そんな未来は訪れない。
寧々の嬉しそうな顔を思い出して、ぎゅっと心臓が掴まれたような気がした。類の幸せを願って、喜んでくれる人達がいる。偽りの結婚だなんて、誰も知らないで。
なんて、なんて幸せで、苦しいんだろう。
……オレは、どうしたいんだろう。どうすればいいんだろう。
眼球の奥が湿った気がして、キッチンのシンクを瞬きせずに見つめる。……ちっとも夕飯の支度が進んでいない。
手を動かす気にならないでいると、司の腹からぐうと間抜けな音が鳴った。料理はもう諦めよう、と冷凍のパスタを温めて席に着き、手を合わせて食べ始める。もそもそと麺を口に運びながらも、思い浮かぶのは同居人のことだ。偏食の権化のような奴だが、ちゃんと食事は取っているだろうか。そういえばあいつ、よく煮込んだミートソースは平気なんだよな……。
空調が効いているはずなのに、なんだかやけに寒い。こんなこと、一人暮らしをしていた時はまったく無かったのに。
(全部類のせいだ……)
今日何度目かわからないため息が司の口から漏れた。
思えば類と結婚して以来、一週間とは言え長期間顔を合わせないのは初めてだ。お互い仕事が忙しくて泊まり込みになったり、入れ違いで外出したりしてすれ違うことはあったけれど、必ず家には帰ってきた。
二人で暮らす前は半年も顔を合わせていなかったというのに。しかもまだ出張一日目で寂しいだなんて。
肺の中を絞り出すような深いため息が出た。類がいないのに類のことばかり考えてしまう……面白くない話だ。
□
千秋楽を終えて新幹線に飛び乗った類は、駅に着くと一秒たりとも無駄にしない勢いでタクシーを捕まえ、愛しの我が家へと戻ってきていた。大型のキャリーケースには公演で使用した精密機械と一緒に司への土産も混じっている。
司には今から帰ると連絡済みだ。本当は昼頃に帰ってきたかったのだが、諸々の調整事項を片付けていたら夜になってしまった。
逸る気持ちを抑えながら扉の前で深呼吸。にやつく頬を手で押さえる。カードキーをかざして、ドアを開けた。
「ただいま」
「おかえり!」
類が声を出すとすぐにリビングのドアが開き、司が満面の笑みで出迎えてくれた。タイミングを計って今か今かと待っていてくれたみたいだ。
なんて健気なんだろう。
せっかく引き締めた表情筋はふにゃりと緩んで、心の求めるまま、近寄ってきた司の体をぎゅうっと抱きしめる。靴を脱いでいないせいで司の方がほんの少し背が高く、バランスが取れなかったみたいで少しよろめいた後に司も抱き返してくれた。
「お、おい、類!?」
「うーん……司くん補充……」
「いいから靴ぐらい脱げっ」
「もうちょっとだけ……」
すうっと息を吸い込むと、自宅の慣れ親しんだ匂いと、もちろん司の匂い。彼が好きだと言っていた柔軟剤の香りだ。
司は諦めたように息を吐いて、ぽんぽんと類の背中を叩く。そんな子ども扱いすら嬉しい。
「はあ……離れていると司くんの偉大さがわかるよ」
「ふふ、そうか」
「司くん不足は深刻だったんだよ。どうにか小型化して僕のポケットに入れられないかな」
「さらっと恐ろしいことを言うな! ほら、腹が減ったから早く夕飯にしよう。今日は野菜無し餃子だぞ」
「やった」
最後にもう一度ぎゅっと抱きしめてから体を離せば、何やら司の頬が赤く染まっている。ちょっとはしゃぎすぎただろうかと熱を持った頬に手を滑らせると、「手を洗え!」と怒られてしまった。残念だ。
言われた通りに手洗いうがいをしてリビングに入ると、キッチンに戻っていた司がフライパンを準備していた。今から焼き始めるらしい。
「海老とチーズの餃子もあるぞ。もうちょっと時間かかるから、荷物片付けてこい」
「うん」
野菜無し餃子だけでなく、変わり種まで作ってくれるなんて。ちらりと見えたスープの具は茸と卵だけだし、類の席に置いてある棒棒鶏は胡瓜じゃなくて豆腐が添えられている。
公演中は食べられるものが少なくて偏食の極みだったから、愛情のたっぷり詰まった司の料理が早く食べたくて堪らない。
急いで玄関に戻ってキャリーケースを持ち上げると、作業部屋に置いてすぐさま引き返す。もちろんこんな短時間で焼き上がっているわけはないが、司が自分のために料理をしているという、この光景がいい。いくらでも見ていられる。
「どうした?」
「ううん、帰ってきたなあって」
「……そりゃあ、お前の家なんだからな」
「フフ、わかっているくせに。ねえ、司くんは? 僕がいなくて寂しかった?」
キッチンのカウンターに腕をついて、上目遣いで司の顔を見る。類としては揶揄うつもりで言ったのだけれど。
「……ああ」
蓋をしたフライパンを見つめながら、目を細めて、優しく微笑んでいる。柔らかく下がった目尻。
――思わぬ不意打ちだ。
じわじわと類の頬が熱くなっていく。にやける口元を隠すように掌で覆うが、隠せているかどうか。
(いいな……)
なんて優しい表情だろう。いつもの快活な笑い方とは違う、静かで、でも暖かい表情だ。
一緒に暮らし始めてから、自分だけが知っている司が更新されていく。付き合いも長いはずなのに毎日彼の好きな部分が増えていって、心の隅まで満たされていくような心地だった。