出会い編 この世には、科学で説明できない摩訶不思議な存在がいる。
ひっそりと。時には大胆に。
人の世に紛れ、こちらをじっと見ている――。
♢
「学級閉鎖?」
天窓から光が差し込み、天馬家のリビングを明るく照らす午前七時。今日も今日とて快晴、爽やかな朝だ。
司はたっぷりといちごジャムを塗ったトーストにかぶりつき、もぐもぐと咀嚼してから口を開いた。
「宮女で、か」
「うん、三年生のクラスなんだけどね。受験の年だから念の為って」
「そういえばうちの学校でも風邪が流行っているみたいだしな。咲希は大丈夫なのか?」
「アタシはへーき! 一応マスクもしてるから」
「それならまだ安心だが……」
と言いつつも、司の声には不安が乗っている。仕方ない、妹を心配するのは兄の性だ。
そんな優しい兄に咲希が苦笑を浮かべるのと同時。
『臭うなあ』
『臭いますねえ』
「わ、ポンちゃんにコンちゃん!」
忽然と。瞬きの間に現れたソレらは、自然な仕草で四肢を伸ばす。質量のある尻尾が右に左にゆらりゆらり。一般家庭にはどうしたってそぐわないであろう狸と狐が、我が物顔でリビングのテーブルに鎮座ましましていた。
目の前に突然二匹の獣が現れたというのに、咲希も司も動じることはない――いや、司だけはぎゅっと眉根を寄せて獣を睨みつけた。
「こらっお前達、テーブルの上に上がるんじゃない!」
『ペットじゃないんですよ』
『そうだぞう。口うるさい主だ』
どこからともなく現れた二匹は、ぶつぶつ文句を言いながらも、そそくさと空いていた椅子に座る。獣の姿をしているというのに、人の言葉を操り、物音を立てない。明らかに異質の存在。
ただし――天馬家ではいつものことだ。咲希がマグカップを両手で持ちながら、ふうふうと息を吹きかける。
「臭うって、どういうこと?」
『妖の臭いがぷんぷんするってこった』
「なぬ! それは単なる風邪ではなく妖怪の仕業ということか!? 咲希が危ないじゃないか!」
『妹御は大丈夫ですよ、主殿の加護がついてますからね。それよりも妖ホイホイの誰かさんの方が心配です』
「むっ」
「コンちゃんもポンちゃんも、お兄ちゃんのことよろしくね?」
『任せろ!』
『お任せください』
等々と大きな口をきいて、再び尻尾をふりふり。
本人を差し置いて交わされる約束に、不名誉な呼ばれ方をした司の口がへの字に曲がった。……だって見てほしい。
咲希の細い指が、ふんぞり返った獣達の無防備な顎下をかりかり。そのまま倒れこんで仰向けになった腹を撫でられて、きゅんきゅんくうくう鳴いている。ペットじゃないと豪語していたくせに。こんな奴らにお守りされているかと思うと、非常に不満である。
司は面白くない顔をして鼻を鳴らすと、咲希とお揃いの黄色いマグカップを持ち上げ、食後の紅茶を呷った。
♢
天馬家はちょっと裕福なだけの極々普通の一般家庭ではあるが、人に知られていない、とある秘密がある。それが――獣憑きの家系、というやつだ。
始まりは定かではないが、狐と狸、二匹の妖が代々天馬家の気に入った人間に憑りつき、厄災を降りかける……ようなことはなく、ちょっぴりの幸運と獣としての癒しを与えてくれる。……これ、やっぱりペットかもしれない。
当代の獣憑きはこの家の長男、天馬司だ。司が生まれてすぐに、ころころした獣二匹が現れて赤子の周りをウロチョロするものだから、両親は大層驚いたそうな。だからと言って特別な力はこれっぽっちも無く、司にできることといえば、妖を見ることと触れることのみ。狐と狸に限定すると、咲希だって同じことができる。
しかしこれも何かの縁。妖絡みのトラブルが起これば首を突っ込み、人助け程度のお節介をする日々だ。
つまり――この事件を解明するのも、日常の一環である。
学校の廊下で一人、窓から中庭を眺めながら司が腕を組む。その足元に纏わりつく獣二匹は、普通の人間に見ることはできない。
「うちの学校でも体調不良による欠席者がいるが……これも妖のせいだというわけか」
『あったりまえだ!』
「なら教えてくれてもいいだろう」
『別に主殿に危険は差し迫っていないですし、問題無いかと』
「大有りだ!!」
まったく、妖というのは人間と感覚が違ってやりづらい。妖なりの情はあるみたいだが、人の視点からすると倫理観がちょっとおかしいのだ。
ぶっきらぼうな口調の狸はふああと大あくびをし、かしこまった口調の狐は何か問題でも、とでも言うように首を傾げている。自由奔放な奴らだ。
廊下のど真ん中、大声を上げた司を偶然通りかかった生徒がぎょっとした目で見た後、「いつものことか」と通り過ぎていった。妖を見ることができない普通の人間からしてみれば、独り言の大きな変人でしかない。司が奇異の目を気にしないせいもあって、寧ろこういうものなのだと受け入れられていた。
とはいえ他人を驚かせるのはよろしくない。司はそそくさとひと気の無い場所を求め、外履きに履き替えた後、校舎裏の日陰に移動した。遠くのグラウンドから部活動に勤しむ声が聞こえてくる、ひっそりとした静かな場所だ。
「さて。コンちゃん、頼む」
今更かもしれないが、人に聞かれないように静かな声で獣へ囁く。承知、と鳴いた狐が司の体に溶け込む――と同時に、ぴんっと頭から飛び出す黄金色の獣耳。狐そっくりの耳をぴくぴくと動かして、司は集中するように目を閉じた。
――そも、学校というのは妖を寄せ付けやすい。同じ年頃の子供達が寄り集まって、同じ建物の中で同じ規範に則って行動する、独特の空間である。多感な時期の少年少女達の念は、人間の感情を糧にする妖にとっては御馳走だ。だから今回の被害者も学生ばかりが狙われている。そんなご馳走達の中に身を顰め、虎視眈々と狙っている輩の尻尾を掴めないか、耳をすませてみるが――。
「今日どこ遊びに行く?」
「りっちゃん今日も具合悪くて休みだって」
「転校生見た? 超イケメン」
「なんかだるいな……」
「ごほっ、ごほっ」
校舎内の、ありとあらゆる箇所から声が聞こえて、集まって、司の耳を震わせる。到底人の身にはできない所業だが、狐の耳を借りることでこの通り。生徒達の噂話がそこかしこから押し寄せてくる――のはいいが、肝心の情報は何も得られなそうだ。
司は集中を解くように、ふーっと長い息を吐きだした。校内の音を拾いすぎてざわざわする獣耳をぺたりと伏せる。妖の力を借りているとはいえ、多すぎる情報量に目が回りそうだ。……よくよく考えずとも、目が回る、くらいで済むのはありがたいかもしれないが。
「うーむ、具合の悪い生徒が多いことしかわからんな。話に共通点も無い……どんな妖が関わっているんだ?」
『こんな微かな臭いじゃ何も……って、また首を突っ込むつもりか?』
「そりゃあ困っている人達がいるんだから、妖の見えるオレが何とかすべきだろう」
『何とかする? 妖が見えるだけのへなちょこ主が?』
「へなちょこ言うな! いいから鼻を貸してくれ!」
主人を主人と敬わない狸を一喝すると、『へいへい』という気の抜けた返事と共に司の胸元へ飛び込んでいく。それと同時に狐が体から飛び出てきて、こゃん、と一声鳴いた。司の頭部で金色に立ち上がっていた獣耳は、入れ替わるようにして丸みを帯びた焦げ茶色になっている。ふにふに、つんつん、と人差し指でつつく。
「……この同化するときの耳は何とかならんのか。他の人間に見えないとはいえ」
『完璧に同化すると妖気が混ざってしまって、主殿の体に悪影響ですから。それに妹御にはカワイイと好評です』
「むう……」
実を言うと頭ばっかりではなく腰元に違和感もあるのだが、諦めたように生えている耳を撫でた。かっこよさとは真逆で気に食わないが、どうしようもないらしい。
足元の狐がふうわりと尻尾で司の足を撫でる。
『それと。ワタシ達も力はそこまで強く無いんですからね。危ないと思ったらすぐ逃げるんですよ』
「わかってる!」
任せろ、と安心させるように自分の胸を拳で叩いたが、どうも信用が無いらしい。本当かなあ、という顔で狐が見上げてくるから、わしゃわしゃと顔を撫でてやると、すぐに腹を見せてきゅーんと鳴いた。こいつらは年上ぶって忠告するくせに、すぐ甘えた声を出す。でもついついかわいさに負けてしまって、司はもふもふの腹毛をわしわし撫でまわしてやった。
♢
学生達が体調を崩すという元凶の妖に関して手掛かりは無い。とは言いつつ、大勢の人間に干渉するには相応の力が要るため、妖力の濃い方へ向かうのがセオリーだろう。
放課後の時間帯、下校する生徒の姿がちらほらと見える。司が、くん、と鼻を鳴らしても妖の臭いがしないから、彼らは接触したり被害に会ったりはしていないのだろう。不可思議な現象なんて気にするはずもなく、笑顔で歩く生徒達。どうにかして原因である妖を見つけ出して、この平穏な日常を守らねばならない。
司が決意を新たにして周囲の臭いを嗅いでいる足元で、狐もピンッと耳をそばだてている。本当は司に抱っこしてほしいと甘えていたのだが、同化している狸がずるいと怒ったため、仕方なく司の手伝いをしているのだ。同化している方が力が増幅されるため、やる気が霧散しているが。
臭いを辿って歩いて行き、スクランブル交差点を通り過ぎた、その先。だんだん妖気が濃くなって、街の喧騒から外れたひと気の無い公園に足を踏み入れる。
「ここらへんだと思うんだが……」
くん、と。嗅いでみて、確かに強い妖の臭いがするのだが、どうも種類が違う気がする。淀んでいないというか、くらりと頭を痺れさせる、とろりとした甘さを感じるような。
首を捻りつつ公園を見渡すと――ぽつりと、人影が。
『主殿!』
『主!』
人の姿を認めると同時、急に同化を解いた狸と狐が警戒態勢をとる。フシャーッと全身の毛を逆立てて目の前を睨みつける姿に、司も体を強張らせた。彼らの視線の先。
男がいる。
年の頃は同じぐらいだろう。司と違うデザインだが、制服を着ている様子からして、高校生に違いない。
夕陽に照らされた横顔は透き通りそうな程白く、気だるげな様子で佇んでいる。伏し目がちの目は、覇気が感じられない。
(――もしや、妖の影響で具合が悪くなっているのか?)
そうとしか思えないくらい、なんだか……この世との境が曖昧な男だった。まるで、今にも夕焼けの狭間に消えていきそうな。
だとしたら、助けねばならない。
「なあ……」
そう言って、手を伸ばした瞬間。
ぶわっと押しつぶされそうなほどに重い妖気と共に男の背後が歪み、ぞろり、と巨大な手が――いや、骨だ。一本一本が丸太のように太い白骨の指が、男の体を覆うように握られていく。
(襲われている!?)
あんな巨大な手に握りつぶされたとしたら、ちっぽけな人間なんて。あっと言う間に。
「危ない!!」
『おい! 近寄るな主!』
『主殿!』
獣達の制止する声が聞こえた気がしたが、構っている余裕なんてない。はやく、はやくしないと!
地面を蹴り上げて、ただ前方を目掛けて。祓ったり、追いやったりなんてする力は無いから、司が助けに行ったってどうこうできるわけじゃない。それでも!
男を包み込んでいた指が、司を認識したのか、ゆっくりと開かれる。対象を変更したらしい。駆けてくる司に向かって、五指を大きく広げ、そのまま覆い隠すように――。
「待て」
ぴたり。
静かに発された声に、時が止まったかのような心地。司の眼前すれすれで動きを止めた手が、空気に溶けて霧散していった。まるで何事も無かったかのように、男が一人、佇んでいるだけ。
公園の木々が風に揺られてさわさわと騒めき、そこでようやく、周囲から音が消えていたことに気づいた。
司は呆然として男をまじまじと見る――近くで見ると背が高く、体つきもしっかりしていて、あんな儚げに見えたのが嘘みたいだ。男が切れ長の目を細めて司を見下ろす。
「……君、大丈夫?」
高くもなく、低くもない。優しく甘ったるいわけでもないのに、胸の奥をくすぐって痺れさせるような声。直感で悟る――こいつ、とんでもない力の持ち主だ。
手の平がムズムズするような感覚を抑えながら、司は口を開いた。
「あ、ああ……。襲われているのかと思ったが、勘違いだったようだな。今の骨は、お前が使役している妖か?」
「……使役っていうのかな。まあそんなところ。そこの狐と狸は君の?」
『主、こいつとんでもないもん従えてるぞ! 事件の犯人かもしれん!』
『迂闊に近づかないでください!』
「こら!」
フシャーッシャーッと威嚇を続ける獣二匹を腕に抱えて、どうどうと宥める。司の腕を外そうと、指をかみかみぺろぺろして甘噛みするからたまらない。
「あ、こら、ちょっ、くすぐったい!」
「……事件?」
「す、すまん。この周辺の人達が次々と具合が悪くなっているみたいでな、こいつらが妖の仕業だと言うので調べていたんだ」
「へえ。お人好しだね」
「そうか? オレは自分のやりたいようにやっているだけなんだが。まあそれで、妖力の強い場所を探していたら、お前のところに……」
そこで言葉を止めて、くん、と鼻を鳴らすと、狸と同化していないはずなのに甘い匂いがした。頭をぼうっとさせるような、蠱惑的な匂い。力の強い人間とは、こうも人と違うものなのか……と考えたところで、ぶんぶんと首を振る。ぼうっとしていると、危うく心地よい香りに浸ってしまいそうだ。
何だかふわふわして顔がとけている司とは対照的に、男の顔は暗い。
「……それで、僕がその犯人だって?」
「違う!」
司の説明を受けて発された男の声が、ゾッとするほど冷え切っていて、咄嗟に否定の言葉を投げた。断じてそんなはずがない。
驚きに見開かれた色素の薄い瞳に、このまま誤解されたくない、と司は拳を強く握りしめる。それが何故なのかは――わからないが。
「すまん、言い方が悪かった。お前はそんな悪いことをする奴じゃない。オレにはわかるんだ」
「……わかる?」
「そ、それよりも! こんな場所で妖を従えている奴に会えるとは! 見たところ高校生のようだが、名前は何て言うんだ?」
ぱちぱちと。不思議そうに瞬く月色の瞳に居心地の悪さを感じてしまって、ぐいっと身を乗り出して尋ねると、相手は後退って身を離した。勢いが良すぎて驚かせてしまったみたいだ、これはいけない。何事にも順序という物があるのだ。
「失礼した! まずはこちらから名乗らねばな。オレの名は天馬司! 天翔けるペガサスと書き天馬、世界を司ると書いて司だ!」
司が妹と考えた口上を披露すると、両手に抱えていた獣達がきゃんきゃんと合いの手を入れてくれる。手が塞がっているせいでかっこいいポーズは取れなかったが、これはこれで良しとしよう。
目の前の男は司の大声に呆気に取られていたようだったが、口元に手を当てて笑い声を零した。それだけで、ふわり、と空気が緩む。つられたように司の頬も。
「フフ……いい台詞だね。僕は神代類だよ。神に代わるたぐいと書いて神代類」
「お、おお、かっこいい名前だな! よろしく頼むぞ、神代! それと、こっちは狐のコンちゃんと狸のポンちゃんだ」
獣達は家族も同然だから彼らも紹介せねばなるまい、とよく見えるように抱え直してやると、大人しくされるがままだった。こいつら、抱っこが好きなんだ。舌がぺろっとはみ出ていて、ぬいぐるみみたいだ。
神代と名乗った男は興味深そうに二匹を眺めている。顎に手を当てて、「ふうん」と相槌を打ちながら。
「妖なのに、可愛らしい名前だねえ。よろしく、天馬くんに……コンちゃんとポンちゃん?」
『生意気な童だ! 気安く呼ぶんじゃない!』
『主殿の妹御につけていただいた名です。さんをつけなさい』
「おい、お前達!」
何が気に入らないのか、やけに刺々しい言葉を吐く二匹を叱ると、「フフ、フフフ……」と神代がおかしそうに笑いだした。気を悪くした様子でないのは幸いだが、こんな子供みたいに笑うなんてちょっと意外だ。初対面ながら大人っぽい奴だと思っていたから、こうやって笑っていると年相応に見える。
何しろ初めて見た時の静かな佇まいとか、表情だとか、妖に命令した時の冷たい声だとかが印象的で――そうだ、あの骨の妖! あまりの力の強さに司が気圧されてしまうほどの妖を、この優男然とした神代が従えているとは。
どうやってあんな妖を従えさせたのだろう。獣憑きの司と似たような物なのか、はたまた何らかの方法で調伏したのか。しかも同年代で妖の世界を見ることができるという希少さ。どんどんと司の中で神代への興味が膨れ上がっていき、もっと知りたい、と強く思わせる。
「なあ、神代に憑いているあの大きな骨は何という妖なんだ? 名前は?」
「ああ……特に名前なんて付けてないんだけど。呼ぼうか」
「おお!」
元気よく返事をした司にひとつ笑みを零して、神代はスッと目を細めた。一瞬で静けさが支配する。
「……来い」
決して大きくはないのに、身を震わせるような声。
口にした瞬間、空間が歪み、最初は人差し指が。次いで五指が、ずず、ずず、と神代の背後から現れる。人の背丈ほどもある巨大な骨の手は、見ているだけで気がおかしくなりそうだと言うのに――それだけじゃ終わらない。予期していなかった“腕”が現れて、司は「へ?」と間抜けな声を上げた。
「な、な……っ?」
ずるずると伸びていく腕の奥。歪んだ空間の隙間から覗く妖しい光と目が合って、司は硬直した。
だって――だって、巨大な骨の“手”の妖だと思っていたのだ。
ぞろりと。
頭上に影が落ちた。ぽっかりと空いた二つの眼窩に、地獄の灯が浮かんでいる。
巨大なんて言葉では到底足らない、空を覆うかのような頭蓋骨に見下ろされ、司も、狐も、狸も、一斉に叫んだ。
「ぎゃーーーー!!」
『が、餓者髑髏!!』
『ひえぇぇぇ~!!』
跳び上がって、ぎゅーっとお互いに引っ付いて。
三者三様の驚き様に、餓者髑髏は顎をかたかた鳴らして喜び、神代は「あははっ」と子供のようにいたずらっぽく笑った。