知恵の主との語らい 都合のいい夢を見た。兄がいて相棒がいて、彼がいる夢。幸せに、この世界で暮らしている夢。
「……それはあなたが潜在的にそう願っているからではないかしら?」
ナヒーダ、いる? と訪ねたスラサタンナ聖処。快く出迎えてくれたナヒーダに今朝見た夢の話をすれば、彼女からはシンプルな答えが返ってくる。
その通り。夢には願いが現れる。ならば、家族と恋人とテイワットで暮らす夢は私の願いなのだろう。
「素敵な夢、素敵な願いだわ。あなたの旅の事情は知っているけれど、私はその願いが叶うことを祈りたい」
柔らかく微笑むナヒーダに、蛍は感謝の言葉を声に乗せた。しかし憂う表情は変わらないままだ。ナヒーダがティーカップを傾けてソーサーに戻し、もう一度蛍を見上げても彼女は口を開かない。
ナヒーダは悩む。言葉を渡すのは容易である。迷う人を導くのは神の機能であり、あまりにも簡単に針路を示せてしまう。ただ、その行為は果たして今の自分が行ってもよいことか。
ナヒーダの瞳が一瞬明るく瞬いた。
「旅人、一つ聞いてもいいかしら」
蛍は思考を引き揚げて、どうしたの、と尋ね返す。
「前提条件の確認よ。……あなたとアルハイゼンは所謂【お付き合い】を始めた、ということで合っている?」
数拍置いて、あ、と蛍は口元に手を当てた。その様子を見たナヒーダはずいと身を乗り出す。
「合っているみたいね。それに、何故私が尋ねたのかも分かっているみたい」
にこ、とナヒーダは笑う。
「アルハイゼンと【お付き合い】を始めました……」
本当はそれを伝えるのが目的だった、とばつが悪そうに語る蛍に、ナヒーダは笑みを深めた。
「おめでとう。ようやく言えて嬉しいわ」
「ありがとう、ナヒーダ。ようやく、って?」
首を傾げた蛍に、ナヒーダは片目を閉じた。どうやら詳細を話すつもりはなさそうだ。
いつ頃から? 仲良くできているの? 初めて恋人ができた娘に聞くように、目の前の小さな神はたくさんの問いを重ねてくる。何やらむずがゆいような心地を覚えながら一つ一つ答えていると、当たり前のようにその発言は落とされた。
「式はいつ行うの?」
式、とは。この場面で思い当たる式は一つしかないが、その式を考えるような時期ではない、と思う。
あら? と目を丸くしたナヒーダは、すぐ、とぼけないで頂戴と頬を膨らませた。
「お付き合いを始めた男女がいずれ結婚するという知識はあるわ。スメールの神としても、あなたたちのお友達としても、私は二人の誓いを承認して心の底から祝うつもりよ」
胸に手を当てて真剣な顔をするナヒーダに、これは訂正しないとまずそうだと蛍は声を上げる。
「……ナヒーダ、少なくとも私は——」
「手配はもう始めている? 旅人が良いと言うなら私と彼で用意を進めておくわ」
彼の意見に従うととても質素になりそうだから……とナヒーダは考え込み始めた。何度か声をかけるも、反応は返ってこない。
結婚式。その言葉から想像されるのは華やかで清らかで、幸せそうな光景だ。憧れたこともあったと思う。それでも、その光景の中心にいる自分は想像できそうになかった。
(……想像、することさえ)
「旅人、大変よ」
今朝の思考に舞い戻りそうになったその時、幼い声が鼓膜を貫いた。深刻そうな顔に何か起きたのかと蛍は周囲に視線を巡らせる。
「……あなたに似合うドレスを考えていたのだけれど、どれも甲乙つけがたいの。衣装によって会場の装飾も決まるのに、どうしたものかしら」
緊張した身体が一気に弛緩した。招待状は、お料理は、と真剣に悩むナヒーダを見て、そろそろ止めないと、と蛍は口を開く。
「ナヒーダ、たくさん考えてくれてありがとう」
でも、と言いかけた蛍の声をナヒーダは遮った。
「五百年の間、私は正式な場で民を祝うことができなかった。まさか、再び神としての務めを果たせるようになって初めての婚姻の承認が、私の英雄たちのものになるなんて」
これ以上の喜びはないわ。そう話すナヒーダに何も言えなくなる。
アルハイゼンならきっとうまく訂正してくれるだろう、と蛍は真実を告げる権利を脳内の恋人に丸投げした。
目を伏せて思考する旅人が、草神の瞳が再度明るく瞬いたことに気づくはずもなかった。