夏休み前夜夏季休暇前日。定時間際のイチョウ商事は、すでに気分が夏休みモードに移行しつつある社員で賑わっていた。
「…ウォロさん…顔色めちゃくちゃ悪くない?」
ぐるぅり……
エシモに声をかけられた重苦しい雰囲気を纏う男は、目の下にクマをこさえて疲れ切った顔で振り返った。
「暑くて、なかなか眠れなくて…」
八月のお盆前。
夜中になっても気温は三十度近くまで上がったままの日もあり、寝苦しい夜が続いている。
「冷房は?」
「一応つけてますけど、シマボシさんすごく寒がりなんで二十八度が限界なんですよ…。一度ジブンに合わせて二十五度まで下げてもらったら、一晩で風邪ひいてしまったから、これ以上下げるのはちょっと…」
「夏の間だけ寝室を別にしたら?」
横からひょっこり顔を出したツイリの提案に、ウォロの虚ろな目がカッと開いた。
「ただでさえ暑くてイチャイチャするの断られているのに、これ以上接触時間減らしてどうするんですか!」
「あ、うん、分かった」
これはもう何言っても無理案件だと察したツイリは、自分の仕事に戻る。
「明日から夏休みだし、その間にうまいこと体調整えてね」
「……ハイ」
上司であるギンナンに淡々とだが状況改善を命じられ、ウォロは力なく返事をした。
「……ただいま帰りました」
ウォロが玄関のドアを開けると、シマボシがリビングから駆けてきた。
「おかえり……大丈夫か?」
「まぁ、なんとか…」
シマボシが心配そうに声をかける辺り、相当ヒドい顔をしているのだろう。
この時は、すでに普段通り元気に返事をする気力も無くなっていた。
「夕飯は?」
「……あんまり、食欲ないです…」
シマボシはしばらく考え込むと、ぽんと手を叩く。
「何も食べないのも良くない。冷や奴ならどうだろうか」
「それくらいなら…少しは…」
ひんやりしていて柔らかく、胃の負担も軽いものなら少しは食べられそうだった。ウォロが食べる意志を見せると、シマボシは僅かに微笑む。
「すぐに用意する」
リビングに着くと、彼女は冷蔵庫から豆腐を出して涼しげな青いガラスの皿に乗せた。
「具は?」
「……何も無くていいです」
そうは言うが何も無いのもあんまりなので、かつお節と刻みネギをパラパラと豆腐にかけたシマボシは、しょうがのチューブと醤油を持ってテーブルに向かう。
「ほら」
「ありがとうございます」
シマボシはウォロの前に冷や奴を置くと、テーブルの向かいにある自分の椅子を持ってきて彼の横に置いた。
そして冷や奴の皿を取ると、スプーンで一匙すくってウォロの前に差し出す。
「え⁉」
今まで何度ねだっても断固拒否されていたシチュエーションが突然もたらされ、ウォロは思わず声を上げてしまった。
「お椀を持ったまま寝そうだからな、ほら」
「は、はい…」
ウォロは差し出された豆腐をぱくりと食べ、よく噛む。
眠気なのか、嬉しいからなのか、足元がふわふわして気分が高揚しているのを感じる。
「……おいしいです」
「それなら良かった。はい、あーん」
「……あーん」
半分食べられるかも疑わしい食欲だったが『自分が食べるのを止めた瞬間に、この幸せな時間が終わってしまうのは嫌』という理由だけで、ウォロは完食するのだった。
「心配していたが、予想より食べられたな」
「頑張って完食したから、褒めて下さい」
ウォロが上目遣いでねだると、シマボシはうーんと考え込んでから、そっと彼の頭に手を伸ばして抱き寄せる。
「キミの努力を、ここに讃える……こ、こんな感じでいいのか?」
彼女の胸に顔を埋め、ぎこちなくだが優しく頭を撫でられ、ウォロは幼子のようにその身を委ねた。
「頑張って、良かったです」
「う、うむ。それなら良かった」
しばらくその温もりを静かに堪能していると、風呂が沸いた知らせが鳴る。
「風呂はぬるめにしておいたから、ゆっくり入るといい。さっぱりする入浴剤を入れてある」
「ありがとうございます」
食事をとって体調が少し回復したウォロは、寝間着をみつくろって風呂に向かった。
汗を流し、スカイブルーの湯につかると、疲れがじわじわと放出されるような感覚がする。
「……愛されてる、よな」
普段が素っ気ないからこそ、こういう時に優しくされると嬉しくて仕方がない。
最高の嫁をもらったなぁ…と、ウォロは自分の幸運を改めて噛み締めるのだった。
「お風呂、上がりました…と、シマボシさん?」
リビングに戻ると、彼女の姿はどこにも無かった。
「ということは、寝室ですかね」
寝室の襖を開けると、普段より冷やされた空気がウォロを出迎える。
「涼しいっ⁉」
ぐいっ
「うわっ!」
ばたん!と音を立てて布団の上に倒されたウォロの上に、シマボシが馬乗りになった。
「し、シマボシさん?」
「同僚から、冷房を少しだけ強めにきかせて目元だけを温めると一瞬で眠れると聞いた」
「へ?」
「というわけで、帰りに目を温めるグッズを買ってきた」
ペリペリ…
彼女は手に持ったパッケージを手で開けると、アイマスク状の物を広げてウォロの耳に装着した。
「ちょ、ま…」
突然視界を塞がれたウォロは一瞬抗議の声を上げたが、すぐにその腕がぱたりと布団の上に投げ出される。
「……」
すぴー…
シマボシが彼の口元に耳を寄せれば、安らかな寝息が聞こえてきた。
「よし、成功したな」
目的を達成したシマボシは小さく頷くと、ウォロの上から退く。
彼の身体にタオルケットをかけ、アイマスクの位置を少しだけ調整したが、彼が起きる気配は全く無かった。
「……気を使わせしまって……すまなかった」
自分が寒がりなせいでウォロが睡眠不足に陥ってしまった事を反省する。
ちゅ…っ
シマボシは彼の頭をそっと撫でてから、その額に小さく口付けた。
「ん……」
ウォロが目を開けると、視界は暗いままであった。昨晩アイマスクを強制的に装着された事を思い出して、自分の目を覆っていたそれを取り外す。
あんなに重かった身体は嘘のように軽く、頭もスッキリしていた。このまま規則正しい生活をすれば、体調はすぐに万全になりそうである。
──そういえば、シマボシさんは…?
隣に敷かれた彼女の布団を見れば、ミノムッチのように掛け布団にくるまって、顔だけ出して眠る彼女の姿があった。
「……」
そっと彼女の頬に手を伸ばして触れると、目を閉じたまま顔を擦りつけてくる。
ウォロは再び横になって布団の上からシマボシを抱き締めると、彼女は布団からよじよじと這い出して彼の胸にピタリと収まった。
ウォロがシマボシの背中に手を回すと、彼女も同じように背中に手を回してくれる。
「ジブンを、カイロか何かだと思ってるんでしょうけど」
それでも、昨晩ウォロを気遣ってくれた想いが嬉しい事には変わりない。
「もう少ししたら、朝ご飯にしましょうね」
シマボシの耳元でそっと囁いてからその身体をぐいと抱き寄せ、ウォロは再び目を閉じた。