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    milk_tea_bu5n

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    残月のゆくえ展開案①

    残月書きかけ①国王と、大司教。ディミトリとベレスは、それぞれに守るべきもののある二人だったから、常に一緒にいるわけにはいかなかった。子どもに恵まれてからも、王都と大修道院を頻繁に往復する生活は、一般の夫婦のかたちとは遠かっただろう。
     それでもベレスは幸せだった。 
    「お前の笑顔を見ると、ほっとするな。帰って来たのだという気がする」
     ある年の冬のことだった。落成式典に出席するためにガルグ=マクを訪れたディミトリと、出迎えたベレスは、久しぶりの夫婦の時間を過ごしていた。真冬の女神の塔はしんから凍るほど寒かったが、外套を着て身を寄せ合えば、気にはならない。
    「私も、きみの顔を見ると安心する。笑って、ディミトリ。笑顔が上手になったね」
     手袋越しに頬をつつくと、お返しと言わんばかりに、ディミトリの手が、ベレスの頬にふれた。くるくると唇の端をなぞられて、ベレスはふ、と声を立てる。そんなベレスを見下ろして、ディミトリはぎゅうっと目を細めると、感慨深げにつぶやく。
    「お前こそ、よく笑うようになったな。出会った頃が嘘のようだ」
    「それなら、きみたちのおかげだね。なんだっけ、人を殺して眉ひとつ動かさない人間は信用できない、だったかな」
    「いつの話だ。……ああ、でも、そう思っていた。あの頃のお前は、本当に表情が動かなくて、何を考えているのかちっともわからなかった」
    「今は分かる?」
    「分かるとも。そうだな……『腹が減った』」
    「違う。正解は」
     ベレスは夫の顎をつかむと、軽く体を伸ばした。ちゅ、と触れるだけの口づけを落として、体を離す。
    「わかった?」
    「……よく、わからなかった。もう一度してくれないか、先生」
    「手のかかる生徒だな」
    「嫌いじゃないだろう」
    「不正解。大好きだよ」
     ベレスの言葉に、ディミトリが幸福そうに微笑む。二度目のキスに、背伸びはいらなかった。
     ──今となってはすべてが、思い出のなかの話だ。
     ベレスはゆっくりと目を開けた。木々の隙間から、薄い朝陽が降り注いでいる。呼吸を落ち着けると、湿った土の匂いがした。
     早朝ガルグ=マク大修道院を発ったベレスは、同盟領付近の森の中にいた。フレンは列車を使うように言ったが、長い眠りから目覚めて一年足らずのベレスには、列車はいまひとつ馴染まない。結局修道院の天馬を駈って、単身ここまでやってきた。
     闇に蠢く者たちの、最後の巣を叩くためだ。この地下迷宮の名は、シャンバラ。その最奥が、目的地である。
     シャンバラに来たのは初めてではない。かつては一部隊を率い、戦争をともにした仲間も、ディミトリもいた。戦いが終わる、そんな緊張と高揚を胸に、この地を踏んだのを覚えている。今となっては、遠い過去の話だ。
     地下迷宮の入り口付近は、千年のうちに岩にうずもれ、大分分かりづらくなっていた。一度来たことがなければ、ベレスも気が付かなかっただろう。小さな岩の間に、人ひとり通れそうな隙間を発見して、ベレスはそこから迷宮の中へと入ることを決めた。
     今日、すべてが終わる。改めて決意を握り直すと、ベレスは岩の間の隙間の中へと身をねじ込んだ。
     
    一千年前。フェルディアの夏は、ガルグ=マクと比べても涼しく、過ごしやすかった。
    黄金の太陽の照らす光は変わらず眩しく強いのに、北方を流れる藍色の冷風が鎧の下で汗ばむ衣服を軽くする。かつて傭兵時代に旅をしていた頃から、ベレスはフェルディアの夏が好きだった。だから、好きな国を尋ねられた時、「ファーガス神聖王国が好ましい」と答えた。それが全ての始まりだったことを思えば、ずいぶん遠くへ来たものだと思う。
     あの日、ファーガスが好きだと伝えると喜んだ青年は、今や立派なファーガスの国王となり。ベレスの隣で、幸福そうに微笑んでいた。
    「元気の尽きないものだな」
     ディミトリが穏やかにつぶやいた。彼の視線の先には、金の頭に陽光の冠をいただき駆け回る、幼い子供たちの姿がある。彼らは王族の子であり、たやすく外へ出るわけには行かないので、王宮の中庭がもっぱらの遊び場だ。
    「貴方の子だからね、元気は有り余るだろうけど」
     ベレスも目を細めて答えた。はしゃいだ様子で挙げられた手に、ひらひらと手を振り返す。ベレスが子供の頃はあのような可愛らしさは持っていなかったはずだから、きっとそれもディミトリの血だろう。そう微笑ましく見守っていると、「元気の良さはお前もだろう」と呆れた声が降ってくる。
    「先生の指導についていくだけで精一杯だ、と皆言っていたのを忘れたのか」
    「そんなこともあったね」
     教師として働き始めた頃、己がジェラルトに受けた指南しか知らなかったベレスの指導は、非常に過酷なものだった。ディミトリやフェリクスですら足がふらつき、翌日は筋肉痛に悩まされたのだから当然だ。 
    「あれをきっかけに、カスパルやラファエルたちも……」
     言いかけて、ベレスは口をつぐむ。気のいい他学級の生徒たち。彼らの人生に終止符をうったのは、ベレスの剣である。明るい笑顔と同じ鮮明さで、肉を斬る感触を覚えていた。ディミトリが黙ったまま、ベレスの肩にふれる。ベレスは俯いて、夫の胸元に額を寄せた。
    「ごめん」
    「謝ることではない。…………知己を失うのは、胸の痛むものだ。たとえ……」
     今度はベレスがディミトリの肩を叩く番だった。二人は頭を寄せ合うと、太陽の下響く笑い声に耳を傾けた。穏やかな風が子供の前髪を払い、あらわになった瞳に明るく星が散る。日除けの上着の裾をはためかせる手足は細く、まだまだ頼りなかった。
    「この子たちには…………してほしくないな」
    「させないさ」
    ディミトリのきっぱりとした声に、ベレスは顔を上げる。
    「俺の信念だ。民衆が心安らかに生きていく世界を作る。民衆だけじゃない、この子たちも、お前も。皆が安らかに暮らせる世を作ってみせる……俺とお前なら、やれるはずだ」
     フェルディアの夏空に似た明るい色の瞳が、決意で煌めく。込み上げる愛おしさをどう言葉にしたら良いかわからなくて、ベレスは深く頷きながら、夫の手に自分の手を重ねた。
    「うん。君の信念は、私の信念でもあるからね。これから先ずっと、平和な世界を」
     そのとき、宮城の方から、足早に誰かが駆けてくる。ディミトリは手を挙げて応えた。
     闇に蠢く者たちの次なる拠点を特定した。アネットからの報せだった。
     闇に蠢く者たちの存在が再びフォドラを脅かすようになったのは、先のアドラステア皇帝エーデルガルトの引き起こした戦争からおよそ十年が経つ頃であった。王族の誕生という慶事に水を指すように、各地で謀反じみた事件が多発し始めたのだ。騎士の国ファーガスの武力を持ってすれば大事になることもなかったが、しかしながら、その落ち着かなさは、ベレスが教師となった年の秋を思い出させた。
     そんな日々の続いたある年の秋、旧帝国領で生じた事件をきっかけに、謎の騒動の背景に、かつて帝国に暗躍していた組織が存在することが暴かれた。それと同時に、隠居していたレアの口から、「闇に蠢く者たち」とフォドラの血塗られた歴史が語られることとなる。さらには、かつてソロンやクロニエといった者たちを従えていた頭目は、戦争のさなかにディミトリたちの手によって葬られたものの、その末端の者どもは息をひそめ、再起のときを待っていたのだ、と。残党たちの統制がとれているとは言い難かったが、なおのこと、フォドラにもたらされる影響は未知数であった。絶命の間際に抵抗する生きものほど、予想外で、強いものはない。ディミトリは掃討の必要ありと判断し──そして、静かにひそやかに、戦いの火蓋は落とされた。
     時に、王と大司教自ら出陣することもあった。当然ながら反対は多かった。しかし、ディミトリが騎士の国の王であり、さらにはフォドラ全土探しても見つからない怪力の持ち主で槍の名手であること、そしてフォドラ広しといえどもベレス以上の指揮官がいないこと、いずれも事実である。結局は、本人たちの強い希望と事情に押し切られるようにして、ブレーダッド夫妻も戦場に並ぶこととなったのだ。
     そうして旧青獅子学級の生徒たちが中核をなす秘密部隊が結成され、闇に蠢く者たちとの戦いは激しくなっていった。戦いが始まったころこそ、「剣が錆びつく間もないな」とフラルダリウス公爵となったフェリクスなどは喜んでいた。しかし、同じ台詞を呟く声色も、近頃では少々硬い。敵は狡猾で、卑劣な手を厭わず、さらには忍耐力も備えていた。彼らが一枚噛んでいると思われる騒動がおこるたびに民は傷つき、その全てを掬い上げるには、後手に回るディミトリたちは僅かに及ばない。そうやって、積み上がる痛みを目の前にしても、できることは少なかった。ディミトリたちも同じだけの慎重さと辛抱強さによって、敵の出した尾を確実につかみ、飛び出す頭をひとつひとつ潰していくほかなかったのである。戦いは、ひそやかに、長く続いていた。
     とはいえ、何事にも終わりはやってくる。

     その冬の日、誰もが戦いの終わりを予期していた。アネットたち王宮魔道士の調査によって、今回暴いた拠点──シャンバラこそが最大にして最深、敵の本拠であるということが判明していたからだ。同盟領の冷たい空気のなか、少数精鋭の部隊は軍と呼べる人数ではなかったが、純粋な武力でいえば現在フォドラ一といえる者たちがそろっていた。さながら、いつかの戦争のように。シルヴァンが偵察隊として最前線で騎兵を率い、続くディミトリのそばはドゥドゥ―が守りを固め、イングリットとフェリクスは遊撃のために同じく前線に控えていた。アッシュは弓を、アネットは魔法を用意し、最後衛にて回復役に徹するメルセデスとフレンとともに、援護に回っている。そしてその全員を指揮し、また同時に前線近くで剣を振るうのが、ベレスだった。
     この世のものとは信じがたい、どうも薄気味悪い薄水色の光に照らされながら、一行は拠点の深部へと速やかに降りて行った。奇襲作戦である。ベレスの指揮の手腕は錆びつくということを知らず、若さのかわりに技術と冷静さをそなえた将校たちは確実に敵の戦力を切り崩していった。
     結論から言えば、奇襲は成功した。呆気ないほどに。無人魔道砲台やタイタニスには多少手こずらされたものの、たかが知れていた。敵の頭目のひそむ奥の広間にたどり着いたとき、ベレスたちの体を汚す血は、ほとんどが敵のものだった。ディミトリの号令で、いざ敵を打ち倒さん、と一歩踏み出しかけたところで、ベレスは制止の声をかける。明らかに、魔道士たちの様子がおかしかったからだ。
     奥の間は、階段に続いており、その上に頭目と思しき魔道士と、ほか数名が集まっていた。遠距離から迎撃するつもりなら、速さで迫って叩けばいい。しかし彼らの動きは、とても迎撃のそれとは思えなかった。
    「まんまと誘き出されたな、薄汚い獣共め」
    低い声が嘲笑する。ベレスは剣を構えたまま、一歩踏み出した。槍を突き出したディミトリがその傍らに立つ。そんな二人を見下ろして、魔道士はフードの下の顔を醜くゆがめた。血走った目の下、引き裂けるような笑みが浮かぶ。
    「タレス様おひとりの力には敵わずとも……我らの総力を持って、お前たちを葬り去る。獣の王諸共地に堕ちよ、凶星め」
     突如、魔道士たちの足元に白い光が浮かび上がった。何らかの術だ。反射的にベレスが駆け出そうとしたとき、地面が大きく揺れた。イングリットの率いる天馬兵の天馬も、シルヴァンの騎馬隊の馬も、皆動揺のいななきをあげ、蹄を打ち鳴らす。天井を作る黒い石板が崩れ、兵たちの無防備な頭の上へと降り注いでくる。頭をかばいながら身をかがめると、部屋の奥で、魔道士たちが巨大な瓦礫に押しつぶされるのが見えた。
    「撤退! 撤退せよ! 崩れるぞ!」
     ディミトリの叫び声と、魔道士たちの断末魔の叫びは、すさまじい轟音のなかかき消された。天井が崩れ、柱が砕けたのだ。ベレスは頭上を見上げる。地下だというのに、青空が見えた。天井に大穴が開いたのだ──何かが、降ってきたことによって。
    「あれは……」
     冬空に、白い光が浮かんでいる。ベレスは息をのんだ。光が、降ってくる。否、槍だ。大きさから言えば、柱と言ってもいいだろう。巨大な光の柱が、空から伸びて、大地めがけて落ちてくるのだ。
     今度は、護ってくれる天井はない。あんなものが眼前に降り注いだら、怪我ではすまないだろう。直感がそう告げていた。だが、空から降る光の柱に対して、一体どんな手が打てる? 眼前に迫る白い光に、目が眩む。ベレスは反射的に、天刻の拍動を使っていた。じつに、十年ぶりの発動だった。
     光が弱まり、世界が彩度を失う。自分自身の瞬きすら制御できない中、ベレスの精神だけがせわしなく動いている。このままでは、死ぬ。そんな言葉が脳裏をよぎった。死ぬ。地面がえぐれて、ディミトリも、青獅子学級の皆も、騎士たちも、皆。
     視界の端では、ディミトリが指示を飛ばす姿勢のまま固まっている。瓦礫が当たったのだろう、額からは血が流れていた。頬には赤黒いものが伝い、眼帯をした目元を汚していた。姿は見えないが、他の生徒たちもそんなありさまなのだろう。もし、光の柱が直撃するなんてことがあったら。絶対に耐えられない。ベレスは想像するのをやめた。そんな未来は許せない。
    そんなベレスの強い感情に呼応するように、脈打たないはずの心臓が熱くなる。「死ぬ覚悟はできたか」そう問う少女の声が、ベレスの記憶の中で速足に過ぎ去った。瞑目する。時間が、巻き戻る。
    「撤退! 撤退せよ! 崩れるぞ!」
     ディミトリの声を聞きながら、ベレスは地面を蹴っていた。跳躍し、積みあがった瓦礫を駆けあがっていく。迫る光の柱はひどく眩しかった。瞬きを殺して、目を細める。そのまま、己の名前を呼ぶディミトリを背に、ベレスは天から落ちる柱に向かって、天帝の剣を振りかざした。柱を受け止める剣がびりびりと震える。柄を握った手が離れそうになるのをこらえて、ベレスは不安定な瓦礫の頂上で踏ん張った。人知を超えた力が、心臓から全身をめぐって、ベレスの細い腕を支えてくれる。腕を、指先を焼く、悲鳴をあげたくなるような熱さは、もはや痛みだった。柱の熱なのか、女神の力の熱なのか、判別もつかぬまま、ベレスは悲鳴のかわりに、咆哮をあげた。獣のように。天帝の剣を長く伸ばす。そのまま、大きく柱を切り払った。折れた柱は、部屋の奥、魔道士たちのいたほうへと軌道を変えて飛んでいく。しかしそれを、ベレスが見ることはなかった。次の柱が降ってくるからだ。二本、三本。立て続けにふりそそぐ柱は、四本目で終わりを迎えた。すべてが地面に届く前に切り裂かれ、仲間たちのいる方向ではなく、前方へと突き刺さっていく。天帝の剣が戻ってくる衝撃に押されるように、ふらりと後ろへ倒れこんだからだ。つまり、瓦礫の山の下へ──空中へ。投げ出された体は無防備に、地面へと落ちていく。あわや叩きつけられる瞬間、ディミトリが間に合った。槍を放り出し、両の腕が、力を失ったベレスの体を抱き留める。
    「ベレス!!」
     呼びかける声が、やけに遠くで聞こえた。両腕に走る激痛にうめき声をあげながら、ベレスは身を捩る。なんとか目を開けると、ベレスの視界いっぱいに、血相を変えたディミトリの顔が映り込んだ。
    「なんという無茶を……」
    「はは……貴方が無事ならいい……」
    「俺のことはいい、お前、腕が」
    「腕……熱くて……指輪を外しておいてよかった」
    「こんなときに冗談を言うな」
     そう言われても、本心だから仕方がない。ベレスは胸元に感じる指輪の感触を確認して、口許を緩める。物への執着が薄いベレスだが、これは特別だ。
    「陛下! ここにいてはいつ崩れるやも」
    「分かっている!! ベレス、少しの辛抱だ」
    ディミトリに横抱きにされ、ベレスは首を振った。頭が重たくなっていく。『眠る』のだと、直感が報せた。闇の世界から脱出したときのように。戦前の五年間の眠りのように。ベレスは目を見開き、襲い来る眠気にあらがった。まだ、寝るわけにはいかない。
    「ディミトリ……」
     名前を呼ぶと、ディミトリは立ち止まってベレスの顔をのぞきこんだ。空色の瞳に、自分が映る喜びを、ベレスは改めてかみしめる。彼と出会い、恋を知るまで、自分の中にこんな感情が隠されているなんて知らなかった。
    「愛してる」
    「ああ、俺も愛している……だから……、ベレス?」
     重たくなる瞼に、聞こえなくなる耳。意識が急速に睡魔の泥の中へ沈み込む。ああ、眠ってしまうなら、彼の夢を見たい。愛するひとが自分の名前を呼ぶ声を最後に、ベレスは意識を手放した。

     そして、およそ千年経ったある日。ベレスは聖墓で目を覚ました。彼女の目覚めに立ち会ったのは、愛する男ではなく、彼女の命を刈り取ろうと彼女の眠る棺を開けた刺客であった。なぜか抱きかかえていた天帝の剣で刺客を屠った彼女は、それが幻影兵であることに気付き──目覚めとともに、フォドラを脅かす闇が、まだ消え去ったわけではないことを知ったのだ。
     それが、今から一年程前のこと。奇しくもベレスの目覚めと時を同じくして聖墓に送り込まれるようになった幻影兵は、以来たびたびベレスの命を狙い、聖墓に現れた。おそらくは、「聖墓に安置された大司教ベレスの体」を破壊しに来ているのだろうと、セテスは分析した。つまり、すべてが終わったと思われたあの日、敵の残党は未だ手を残していたのである。それも、あのシャンバラの奥地に。千年もの間、兵がやってこなかった原因は、ベレスが斬った光の柱による倒壊ではないか、というのが共通の見立てだった。予想外の崩落により転送装置の一部が障害を受けていたのではないか、それが千年かけて風化ないし何かしらの変動が起こり、今になって転送されてくるようになったのではないか、と。さらに言えば、転送されてくる兵士たちも問題だった。手勢を引き連れた彼らの将は、いずれも「十傑」の英雄の遺産を携えていたのである。あるときはアイギスの盾。あるときは破裂の槍、と。
     未だ敵に姿を見ていない英雄の遺産は一つだけだった。その持ち主が転送されてきては、聖墓、ひいては大聖堂が危ない。「自分が行こう」とベレスは言った。一人で向かうつもりだった。フレンには内緒で、セテスにだけ伝えた。
    自分の手で終わらせたい、と思ったのだ。今このフォドラで、敵を倒せる武人はベレスくらいしかいない。セテスは渋面を作ったが、結局頷いてくれた。ベレスはきっと、思いつめた顔をしていたのだと思う。自分で分かっていた。
    彼を、仲間たちを守り、結果として眠りについたことが、間違っていたとは思わない。何度時間を巻き戻しても、きっと同じ選択をする。それに、遠い遠い未来で、彼らの子どもたちの、そのまた子どもたちの、笑顔を見てしまったから。だから自分のすべきことは、過去の因縁を清算し、二人の信念のために、フォドラの安寧を脅かす一切の憂いを打ち払うことである。そうして、それが終わったら。
     こつ、と己の高い靴音が、ベレスを思索の海から現実へと引き戻した。顔をあげれば、空を望む。天井に大穴が開いているからだ。千年前、自分の眠りに落ちた地。そこに、ベレスは立っている。部屋の奧の階段を上った先には、瓦礫が山積みになっている。フレンの調査が確かなら、あのさらに奥から、幻影兵たちは送りこまれているはずだった。あの量の瓦礫をどけるのは、骨が折れる。一人で来るべきではなかったか、と考え込んだときだった。
     地面が大きく揺れる。ベレスのなかの炎の紋章を感知して、何かの仕掛けが発動したのだろう。腰に佩いた天帝の剣を構えて、ベレスは瓦礫の向こうを睨んだ。もう一度、地面が揺れる。そして、目の前の瓦礫の山が、粉々に砕けて吹き飛んだ。
     砕けた瓦礫の向こうから姿を見せたのは、ベレスの倍ほどの身の丈の大男である。盛り上がった筋肉の下、躍動するのは生命ではなく不気味な魔道だ。人間でありながら障壁を備えたその男は、地獄の底から響く地鳴りのような声をしていた。
    「オヌシ、我ト同ジ炎ノ紋章ヲ宿スカ……」
    「……やはり、お前は……」
     ベレスの構えた剣の刀身が、炎の輝きを宿す。彼女の剛撃を受けた剣は、天帝の剣と同じ形をしていた。
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