聖者の行進「ごめんねぇ圭介くん、こんなこと頼んじゃって…ハウスの上から落ちるとか、お父さん馬鹿やけん…自分の歳ば考えんとハウスの修理なんてして、ほんともう」
「いーよ、俺らの畑の面倒いつも見てもらってっから、たまにはなんかさせて」
「そっすよ!水やりくらいなんてことないっす」
「ありがとうねぇ…あれま、千冬くん首のとこ怪我して…あっ、」
「あっ、」
咄嗟に首の右側を手で押さえる。
おばちゃんは、あらあらまぁまぁとニコニコ…いや、ニヤニヤして、俺の顔面が熱くなる。
だから見えるとこには噛みついちゃ駄目って言ったのに…!
圭介さんはとぼけた顔をしてあらぬ方に目線を向けていて、玄関の板張りに腰かけていたおっちゃんも顔を赤くして視線をそらしてくるから、俺はもう居たたまれなくなって足を後ろにジリジリと下げる。
「俺、先に車、乗ってますね!」
「はぁ~、ほんとかわいい。良かねぇ、新婚さんは~」
「あんまりからかっとったら嫌われるけんな」
「嫌ったりしねぇから大丈夫だって」
3人の会話を背中に聞きながら玄関の引戸をピシャリと閉めた。
引っ越してすぐの頃、小さな集落ではあっという間に噂が広がるから、俺らが恋人であることは内緒にしようって約束したのに、俺ら夫婦なんすよ!なんて圭介さんが暴露してしまった。
圭介さんのくちを手で覆い隠す暇もない程に、さらっと爽やかな笑顔を添えて行われた暴露は、おばちゃん達の心を一瞬で鷲掴みにしたらしい。
刺激の少ないのんびりした田舎暮らしに降って湧いた俺たちは、ドラマの世界を覗き見しているようだと好評を頂戴したのだ。
以来、2人で居る時には影に覗き見しているおばちゃんの気配を感じて、外では警戒を怠らないことにしている。
圭介さんはお構い無しだけど。
玄関の内側では何やら会話が弾みだして、こりゃ解放されんのは暫くかかるなって、タバコ屋の看板猫
のユキを転がして遊んでたら、またヤマダのばーちゃんの電動三輪者の音が近付いて、俺の横でピタリと止まった。
「ヤマダのばーちゃん、はざっす」
「ちぃちゃんおはよう、さっき圭ちゃんにアボカド渡したんよ~」
「うん、ありがと」
「圭ちゃんはどうしたとね?」
「いまタバコ屋のおばちゃんと話してるから、待ってんの」
「じゃあばーちゃんも待っとこ」
暑いから帰りなよって言ってんのに、ばーちゃん全然動いてくんねぇし。
「ちぃちゃん、たまには東京に帰らんといかんよ」
「え?」
「顔ば見せてやらんと、お友達も親御さんもねぇ、寂しかと思っとるよねぇ」
「…うん」
額から流れた汗が顎を伝って地面に落ちて、濃い染みを作る。なんて返せば良いかわかんなくて、圭介さんが解放されるまで無言でユキを撫で続けた。
ヤマダのばーちゃんは圭介さんの顔を見て満足したのか、ニコニコしながら去っていく。
「ばーちゃんとなに話してたん?」
「…たまには東京に帰って、親に顔見せてこいって」
「ふーん、タバコ屋のおばちゃんも言ってた、もう2年は帰ってねぇもんな…、東卍の奴らからも会いてぇって連絡は来てるけど」
「…俺、逃げてちゃ駄目ってわかってるんすよ」
「でも東京に戻りたくねぇんだろ?」
「まだ…怖いっす」
「まぁ、お前の気が済むまで付き合ってやるワ」
乗り込んだ軽トラはスムーズに発進して、先月、水が入ったばかりの田畑の間を走り抜ける。
それに並走する1両編成の電車はガタンガタンと音を響かせながら、ここに来た日と同じ姿で俺たちを追い抜いていった。
太陽の光をキラキラと眩しく反射する景色の中、青空の終着地点に向かって小さくなっていく後ろ姿。それを見送りながらぼんやり考える。この生活はいつまで続けられるんだろう。