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    毛利小五郎をやばいレベルで捏造した話─I

    やさしいひと 油断していたわけではなかった。

     それは不慮の事故と片付けるには余りにも不甲斐ないことであり、十分に予測できた事態だった。予測できたということは予防できたということで、つまり回避できる可能性は十二分に存在していたということになる。

     運が悪かった。間が悪かった。そう言い切ることができたなら、どれほど良かっただろう。

     黒の組織が壊滅した。詳細が語られることのない国際的犯罪組織壊滅のニュースは世界を賑やかせ、念願を果たした日本警察やFBIなどはほんの少し気を緩めていた。とはいえ、残党は残っている。組織の末端まで須く捕まえるため、まだやることは残っていた。気を引き締めていたつもりだったが、本願を果たしたことで幾許かの気の緩みがあったのかもしれない。解毒剤が完成し、高校生探偵として戻ってきた工藤新一は後にそう呟いた。
     関係者の関係者に至るまで、油断なく構えていたつもりだった。尊い日常、何の変哲もない日常で生活するため、万全の体制を整えていたはずだった。
     
     本当に偶然が重なった結果なのだろう。


     毛利小五郎が組織の残党に捉えられ、アポトキシン4869を飲まされた。


     動揺し泣いて震える恋人、毛利蘭から連絡を受けた新一は血相を変えて病院へと駆けつけた。普通は立入禁止、厳重に固められている警備をここぞとばかりにコネを使いまくりゴネまくりセーフラインギリギリを攻めて攻めて攻めまくってようやく、面会が叶ったのだ。娘である蘭ですら、詳しいことを聞かされていないという現実。守るためとはいえ、心情的にはとてもではないが納得できるものではない。
     新たな戸籍を手に入れ、阿笠博士の養子として生きることを決めた灰原哀の協力により、『毛利小五郎がアポトキシン4869を飲まされた』という事実だけをやっとの思いで入手できたのだ。

     工藤新一は青褪めた。灰原哀も青褪めた。血の気の引く顔で、這いずり回って情報を掻き集めていた。そうして、ようやくだ。ようやく、顔面蒼白の降谷零、赤井秀一とコンタクトを取り、面会が許されたのだ。

     病室のドアが、強固な檻に見えた。

     先に面会を終えて気が緩んだのだろう蘭は待合室のソファに身を沈め、俯いたままだった。
     本来なら、新一は蘭の側にいるべきだったのだろう。そうするべきだと理性では分かっている。幼馴染の父親。家族ぐるみで付き合いがあり、毛利小五郎は認めないだろうが息子同然に可愛がってもらっていた自覚はある。でも、家族ではないのだ。未来の家族ではあるけれど、今はまだ、家族ではない。厳しい言い方になるが、他人なのだ。だから、本来であれば新一はまだ首を突っ込める段階じゃあない。

     でも、それでも、これは理屈じゃない。

     子供の我儘大いに結構。新一はまだ高校生だ。いかに大人びていようと、頭脳明晰な探偵であろうと、割り切れるものではない。物分かりの良い子供でいられるほど、良い子にはなれない。
     工藤新一は毛利小五郎に返しきれないほどの恩がある。彼は決してそんなことを思ってないし、思わせる気もなかったのだろうが、新一が恩だと思えば恩なのだ。

     組織が壊滅して元の身体に戻ってまず一番最初に工藤新一がしたのは、人生で初めて土下座し、毛利小五郎に詫びることだった。

     身元が曖昧な子供。見方によっては親に捨てられたも同然、そして生意気な子供であった江戸川コナンを居候と言いながらも引き受け、面倒を見てもらったこと。悪態をつきながらも、毛利小五郎は江戸川コナンを見捨てなかった。見限らなかった。我が子でもないのに、我が子のように当たり前に年相応の子供扱いをしてくれていた。事件に首を突っ込むコナンに拳骨を落とし、子供が見るものじゃないと当たり前のように叱ってくれた。
     最初は不満だった。でも、それは当たり前のことなのだ。頭が良くても、事件を解決できるスペックが揃っていても、凄惨な現場を見せたい大人が何処にいる。
     居候だ。関係のない、血の繋がらないただの預けられた子供だ。放っておけば良いものを、毛利小五郎はそれを良しとしなかった。当たり前のことを当たり前にする。そういう、優しい大人だ。
     江戸川コナンの身を真っ当に案じる大人が嬉しかった。探偵の性とはいえ、首を突っ込む方法なら他にあった。それこそ、毛利小五郎に分からないようにする方法なんていくらでもあった。子供の我儘だ。気を引きたいクソガキの考えだ。でも、嬉しかったから。拳骨を落とし、叱り、嗜める大人が、江戸川コナンにも工藤新一にもいなかったから。
     叱られる度に僅かに緩む口元に気づいていただろうに、呆れることなく仕方のないクソガキだと撫でられるのが、嬉しかった。
     

     ドアに触れる手が震えた。巻き込んでしまった。大恩のある人を、巻き込んでしまった。
     心中を支配するのは恐怖。工藤新一は毛利家が好きだ。恋人である蘭は勿論のこと、父親である毛利小五郎だって大好きだ。大切にしたいのだ。だから、本当に、怖かった。
     

     毛利小五郎は江戸川コナンが工藤新一であることに薄々気がついていた。コナンであった時から新一自身も気がつかれていることを察知していた。いつ何を言われるかとドキドキしていたが、毛利小五郎は何も言わなかった。最後の最後まで、新一が詫びるその時まで、何も言わなかったし何も聞かなかった。そして、知っていて、知らないふりをしながらも普通に接してくれていた。どれだけありがたかったことか、嬉しかったことか、きっと彼は分からないだろう。

     蘭がいない時『ポアロに行くぞ』と決まって声をかけられた。普段はオレンジジュースなのに、コナンが注文する前にコーヒーが注文されていた。砂糖もミルクも入れなかった小学一年生を前に、何も言わなかった。ただ、ぼんやりと煙草を吹かし、ゆったりと時間を過ごす。
     絶対に毛利小五郎の趣味ではない探偵小説を依頼人に貰ったからと渡されることがあった。到底小学一年生が読むレベルの本ではないのに。夢中になって読み進めるコナンを黙って眺め、翌朝のめり込んで徹夜して蘭に叱られるコナンをケラケラと笑って見ていた。
     工藤新一にとって、それが、その時間が如何に尊く、どれほどの救いになっていたのか、きっと毛利小五郎は知らない。

     関係者には本当のことを話した。せめてもの誠意であったし、残党が残っている現状を考えると、言わない選択肢は存在していなかった。公安もFBIも協力した各国機関も渋ったが、何度も説得して漕ぎつけた。主に降谷零、赤井秀一が思うところがあったのか、上に掛け合ってくれたらしい。幾許かの情報制限はあったが許可は降りた。
     真っ先に伝えるべきは毛利蘭であったのだろうが、新一はまず何よりも先に毛利小五郎に伝えることを選んだ。一番世話になり、一番狙われる可能性があるのが毛利小五郎だったからだ。
     戻ってきた娘の恋人が帰ってきて早々に事務所に訪れ、土下座し、血の気の引いた顔で震えながら懺悔するように話す内容を毛利小五郎は静かに聞いていた。それは驚くというより、淡々と事実を受け入れる様子で。やはりこの人は薄らだろうが自分の正体に気づき、何かに巻き込まれていることにも気づき、それを全て黙殺して見守ってくれてたのだと知る。
     最後まで黙って聞き、何を言われるかと拳を握り締め、何を言われても受け入れると土下座したまま固まっている工藤新一に毛利小五郎は拳骨一つ落とすと口を開いた。

    『生きてんならそれで良い。帰って来たんなら俺から言うことはねぇよ。だが、まぁ。やんちゃもほどほどにしとけ。あんまり心配かけさせんじゃねぇぞ、クソガキ』

     泣いた。実の親の前でもこんなに泣いたことがないほどに泣いた。えぐえぐ泣く新一を前にぎょっとした表情の毛利小五郎は決まり悪そうに『ポアロ、行くか』と声をかけ、それで奢られたのがコナンが一番好んでいたブレンドコーヒーだったものだから、また泣いた。
     結局、泣きすぎて枯れ果てた声で礼を言うことしかできなかったのだ。

     そんな人が、このドアの向こうにいる。工藤新一にとって、返しきれないほどのものをくれた人が、いるのだ。震えない方がどうかしている。頭脳が良くてもどうにもならないことはある。人の心なんてその最先端だ。だから、かつてないほどに恐怖を感じていた。蘭に嫌われるのとはまた別の恐怖だ。

     良識のある優しい大人に、尊敬に値する人に嫌われる、見限られるかもしれない恐怖は計り知れない。
     
     それでも、逃げることは許されない。自分が巻き込んだも同然なのだ。きっと周囲の大人は言うだろう。『君のせいではない』と。詭弁だそんなもの。どう言い繕ったところで、工藤新一の存在が毛利小五郎を巻き込んだことに変わりはないのだ。

     震える手でドアに手をかけ、開く。

     ベットで上体を起こし、こちらを見る毛利小五郎の面影を残した青年にヒュッと息が詰まった。
     はくり。口から息が零れ落ちる。先ほどとは別の意味で血の気が引いた。
     だってその人の表情が、目が、告げていた。嘘だと言いたかった。
     僅かな違和感はあった。蘭が沈痛な面持ちでソファに沈み込んでいたから。蘭の性格からして、生きていることをまず喜ぶはずだ。そんなに容態が悪いのかと思ったが、実体験として同じ薬を打たれた身だ。若返った父親に混乱しているのかもしれない、と思った。僅かに、一種の可能性として最悪の事態が過ったけれど、見なかったことにした。直視してしまえば本当になる気がしたから。結果として、確かに最悪の事態ではない。しかし、これは。

     工藤新一を怪訝な顔で見つめていた青年はゆったりと口を開く。


    「どちら様?」


     最悪に程近い状態であることをその言葉は物語っていた。






     アポトキシン4846は端的に小難しい理論をすっ飛ばしていえば肉体退行の薬。それは肉体に限った話であり、精神は元のままのはずだった。だからこそ、江戸川コナンは工藤新一の精神を持った見た目は小学生、中身は高校生という状態だったのだ。だとしたら、これはどういうことだろうか。

    「記憶退行ってことか」
    「簡単に言えばね。でも、医学的にも科学者の観点からしても、事はそんな簡単なものじゃないわ」
    「ハッキリ言えよ。俺が原因だろ」
    「…………ええ、そうね。でも、あくまで工藤くんだけが悪いわけじゃないわ。元は私。私がこんな薬を作り出したからよ」

     それを言って仕舞えば、そもそも灰原哀だって被害者と称せる立場だ。しかし、そんなことは関係ない。今にも自殺しそうなほど自責の念に駆られている灰原哀は、泣きそうに顔を歪める。誰もいなかったならきっと、泣いていただろう。新一だって、誰もいなければ泣いていた。感情が一周回って無表情の降谷零、険しい眼光でどこかを睨み付ける赤井秀一がいなければ、正気ではなかったかもしれない。
     
     現在の毛利小五郎は25歳の時まで身も心も若返っている。十年ほど若返るアポトキシン4846だが、個人差はあるらしく、元は38歳の毛利小五郎は13年若返ったことになる。さらに、体内の抗体が反応したのか、記憶や精神までもが13年若返ることになっていた。
     つまり、毛利小五郎の精神としては今も尚現役刑事時代の毛利小五郎であり、蘭はまだ小さいし妃英里とは別居していない。そして今の中年の頃とは違い、ぼんやりとしている。お調子者の面はあるにはあるが、何処か態とらしい。板についていないとでも言うべきか。自分たちが知る毛利小五郎との乖離は違和感として現れている。対面したのだろう感想を訥々と溢す公安とFBIに頷くことすらできずに新一は俯く。

     本来ならば精神はそのままであり、工藤新一という実例があるから解毒薬はすぐさま出来上がるはずだった。そのはずだったのだ。

     しかし、できなかった。

     毛利小五郎の体内は健常者とは違っていた。どんなリスクがあるか分からない爆弾と化している。突然死のリスクだってないわけではない。様々な検査の結果、その可能性は著しく低いとされているが。しかし、新種の薬を投薬するとなれば話は別だ。
     毛利小五郎が記憶まで退行したのは、間違いなく江戸川コナンに起因している。
     彼は幾度となく麻酔銃を打たれていた。麻酔だ。改良に改良を重ね、極力影響を及ぼさないようにはしていたが、それでも通常打たれる麻酔の量を遥かに上回る量を頻回に何度も打たれていた。これで人体に影響がない方が可笑しい。
     毛利小五郎の体内は以前とは違っていた。麻酔に対する抗体が出来上がっていた。薬に対する抗体、適応環境も常人とは異なっていた。
     今の毛利小五郎の肉体に新薬を打ち込めば死の危険がある。だから解毒剤を投与できない。諦めず研究はするが、実現できる日は果てしなく遠い。でも、諦めないと灰原哀は血を吐くような声で叫んだ。
     工藤新一は俯いたまま動けなかった。無駄に回る頭だけは様々な可能性を指摘していたが、頭のど真ん中にあるのは『俺の所為』という言葉だ。
     やんちゃで済まされる段階は超えていた。許す許さないの次元じゃない。そんなことで済まされない。謝って許されるような問題じゃない。毛利小五郎が支払わされた代償は余りにも大きすぎる。

     ギリ、と握り締めた手に爪が食い込む。

     謝ってどうするのか。どうにもならないのに。軽率な自分の行動が原因だというのに。
     蘭との会話を思い出す。新一は話した。全てを話した。涙の跡が残る顔で、蘭は優しく微笑んでいた。

    「お父さんがこうなったのは新一のせいじゃないでしょ?黒の組織だっけ。そこの人が悪いんでしょ?だから、新一が悪いわけじゃないよ」

    そう、気丈にも笑みを見せて言う彼女。いっそ責めてほしかった。泣いて怒ってほしかった。
     けれど、それを言う資格が新一にはない。
     強がりだと分かっている。震えた手が、泣くのを堪える身体が、推理するまでもなく全てを物語っていた。それを崩す資格が新一にはない。強がりを指摘することなどできるはずがない。だから、震える手で蘭を抱きしめ、今にも消えそうな「大丈夫」を言うしかなかった。
     
     俯いてばかりではいられないことなど分かっている。立ち止まることなど許されない。泣いて喚いてどうにかなるならいくらでも。謝って叱られてどうにかなるならとっくにしている。
     どうにもならないから、どうにもできないからただ無力を噛み締める。どうしたって工藤新一は高校生であり、子供である。できることは限られている。なら、限られていることの中で最大限のことをしなければならない。

     俯いていた顔を上げる。幸いなことに、この頭脳が積み重ねてきた経歴は使い勝手が良かった。築き上げてきた人脈を活用するならば今しかない。半分以上は自業自得とはいえ、それによって強力すぎるカードを得たのは事実。
     だから、恥を忍んで工藤新一は頭を下げた。
     
    「降谷さん、赤井さん、頼みがあります」

     工藤新一は、例え自身の何かを失ったとしても、大切な人を見捨てるような真似だけはしないと決めている。救えるのであれば手を伸ばすべきだと教わった。彼にそんなつもりはなくとも、江戸川コナンであった工藤新一は、工藤新一である時からその背中を見ていたのだから。


     工藤新一は、毛利小五郎が優秀であることを知っている。







     日本のヨハネスブルクと揶揄される米花町では今日も今日とて犯罪の巣窟だ。道を歩けば殺人強盗誘拐。事件発生率No. 1。だからこそ日本の警察の中でも米花町を担当している警察は忙しい。
     青年毛利小五郎もその一人であるのだが、なんというか実感のないままにこの場にいる。
     ぼんやりと記憶にあるよりも歳を取った目暮警部補を眺める。いや、今は警部だったか。昇格したらしい。班を率いる目暮警部は新鮮だ。バディを組んでいた先輩は見当たらない。数年前に殉職したと聞いたので、墓参りくらいは行きたいと思う。胸に宿るのが哀愁なのか悲しみなのか理解が及ばない。やはり自分はまだ、変われないのだと思い知る。
     どうやら、毛利小五郎は若返ったらしい。つまり、ここは13年後の未来。一人だけ若返ってタイムスリップしたような心地になる。実際は記憶退行と肉体退行をしているだけらしいので、毛利小五郎はキチンと歳を重ねていたのだが。今の25歳である青年毛利小五郎には何処か現実味のない話だ。

     さて、この時代の毛利小五郎は警察官を辞め、探偵業を営んでいると聞いていたのだが。どうして自分は警察官として目暮班に配属されているのだろう。

     原因は分かっている。記憶よりも遥かに成長し、高校生の姿で現れた工藤新一という青年だ。彼は毛利に正直に全てを話した。顔面蒼白で今にも自殺するのではないかと思うほどに追い詰められた人間の顔をしていた。
     荒唐無稽な話だが、テレビを見れば知らない芸能人が当たり前のようにいるし、知らないニュースが流れている。新聞を見れば日付は現在──小五郎にしてみれば未来──のものだ。ドッキリにしては金と手間がかかりすぎている。なのでまあ、すんなりと信じることになったのだが。
     確かに面影を残しているお隣さんの子どもは罪を犯した人間の顔をしていた。それがどのにも腑に落ちない。話は聞いた。理解もした。規模が大きすぎて映画みたいだなぁと思ったことは否めないが理解はしているのだ。その上で、小五郎は腑に落ちない。
     確かに、原因の一端は工藤新一の軽率な行動にある。しかし、偶然といえば偶然であるのだ。それに、大変苦労したのだろうと思う。更に言えば、自分が言わずとも自身を責めている子どもにこれ以上何を言えと。反省するのは構わないが、何事も過ぎれば毒だ。
     だからまあ、小五郎自身が工藤新一に何かを思うことはなかった。頑張ったのだろうなぁと話を聞くに思ったので、乱暴に撫で回したことは許してほしい。あんなに小さく、蘭と同じ年頃の少年が自業自得とはいえ凶悪な犯罪に巻き込まれ、戦ったのだから。生きて帰ってこれたのであれば上等だろう。褒めるくらいはしても良いだろうと。だというのに、一層身の置き場がなく固まり泣き出した子どもにどういう顔をすれば良いのか分からず戸惑ってしまった。
     幼少期くらいの記憶しかないとはいえ、こんなに泣くような子どもだっただろうか。もうちょっと悪ガキらしかったような気がするのだが。口が回るのは変わってないけれども、こう、もうちょっと格好付けたがりの面があったような気がするのだが。

    「お、俺に、できること、ありますか」
    「とりあえず泣き止め。な?悪かった。無理に泣き止むな。息をしろ息を」

     言えば無理矢理にも嗚咽を飲み込んで泣き止もうとするので、これはもう泣かせた方が良いなと判断した。乱雑に撫でていた手を下げようとすれば不安そうに見上げ、仕方がなくそのままにすれば甘えたように擦り寄り、無意識なのか安心したように息を吐く子ども。
     思えば妙にそういうところのある少年であった。何が楽しいのか、蘭に会いに来たと思えば小五郎の側を彷徨きたがり、蘭の手を引きつつも小五郎を気にするような少年であった。
     こういうところは変わってないのだと知る。

     ぼうっとしていたのが悪かったのか、工藤新一がおずおずと話す内容を話半分に聞き流していたのが悪かったのか。いつのまにか中年の毛利小五郎は行方不明ということになり、青年の毛利小五郎は刑事に復帰するということになっていた。どうしてそうなった。
     工藤新一によれば、刑事時代の毛利小五郎であるなら、同じ職場の方が良いだろうという気遣いらしい。配属先は目暮班。詳細な事情は守秘義務の面で話せないが、大まかなことは知っているのだとか。警察組織の上層部に顔が効く人間に貸しがあるから、存分に使ったのだとかなんとか。誰あろう降谷零である。まあ、権利濫用である。黒の組織壊滅の立役者である面々に言われれば、そのくらいはということだ。
     とまあ、ざっくりした認識である。ぶっちゃけ小五郎は理解を放棄していたが、とりあえず自分は刑事として働くのだと分かれば良い。生きていくのにはお金がいる。働かねばならぬのだ。例え生活の全てを保証したって良いと言われても、流石にそれは駄目だろうという良識はある。
     目暮班ならば、というか目暮警部がいるのなら悪いようにはならないだろう。小五郎のやり方を理解している数少ない人だ。なので不満はない。ただ、当時の面々とは明らかに変わっているし、良いと言われはしたが、大丈夫か?と思うだけで。

     今までのことを思い返しながら、事件現場に意識を戻す。
     場所は都内の宝石店。開店前に店主が準備の為中に入り、売り場で倒れているスタッフを発見、後に通報となった。一昨日の閉店後、店主含めスタッフは全員帰宅しており、誰も店に入ってないという。昨日は定休日であり、誰も現場となった店内に足を踏み入れてない。当然のことながら全てのドアに施錠はされており、防犯カメラの死角で殺されていた男の姿は現在に至るまで写されていない。勿論、犯人らしき姿もだ。密室での犯行。誰が、どのように。現時点では何も分からない。完全犯罪というベタな言葉が思い浮かぶ。
     検証は既に終えている。御遺体と対面し、手袋を嵌めて身体に触れる。年の頃は三十前半といったところだろうか。まだ若く、綺麗な女性だ。青白い顔は苦悶の表情もなく、されど何かを訴えかけているように思えた。
     鑑識が選別する遺留品に目を向ける。なんとなく、気になった。星をモチーフにしたらしいキーホルダー。何かにつけるわけでもなく、ポツンと遺されていたそれら。二つ合わさると星座の形になるキーホルダーは、三つ。一つ目の組み合わせは分かったが、もう一つは半分欠けている。何処に行ったのだろうか。
     ぼうっと考えている間にどうやら粗方の聴取は終わったらしい。一度署に戻るというので、追従した。しれっと遺留品であるキーホルダーを三つ、ハンカチに挟んでポケットに仕舞い込んで。





    「被害者は東野美保。年齢は32歳。都内の宝石店に勤務しており───」

     ホワイトボードに貼られた顔写真や現場写真。こういうところは変わってないなと一瞥する。新しいデスクの上でハンカチを広げ、小五郎は遺留品であるキーホルダーを見つめていた。
     遺留品を広げた小五郎に目暮班の面々は複雑な顔で嗜めたけれど、目暮警部は「満足したら返しなさいよ」と告げるだけ。いつものことだと流されている。まあ、それはそう。目暮警部にとっては『いつも通り』である。
     佐藤刑事と高木刑事の説明を聞きながら、ぼんやりと考える。
     昔から頭が回る方ではなかった。隣に住む推理小説家のように、密室トリックを見破るなんてことはできない。時間をかければできるかもしれないが、小五郎の頭では時間がかかりすぎる。迷宮入りさせるわけにもいかない。被害者が浮かばれない。だから、小五郎としては探偵を使うことに忌避感はない。
     そもそも、今の目暮班には頭のキレる人材がいるようだ。ならば、やはり自分はいつも通りで良いのだろう。とはいえ、そうでなかったとしても自分のやることは変わらないのだが。小五郎が行う捜査は昔も今も未来も変わってないのだろう。何故ならば、自分はこのやり方しかできないのだから。
     現在の──小五郎にとっては未来の──自分を知っている人からすれば、今の青年である毛利小五郎は違和感の塊らしい。どうやら自分は上手く人に溶け込むことができていたのだと知る。ほんの少し、喜ばしいと思う。

     昔から、人の感情がよく分からなかった。

     何故、泣くのか笑うのか怒るのか喜ぶのかそう思うのか考えるのか。
     いつだって人と人との関係や感情の揺れ動きは硝子一枚隔てた外側のことのように思えた。
     何故、が分からないから。それでも、理解したいと思ったから。
     どこか人とズレたリズムを刻む自分はきっと、致命的に人としての何かが欠けているような気がしていたけれど、それでも知りたかった。

     何故。どうして。

     ドラマで見た反応をなぞれば人に溶け込むことはできた。学生生活で周囲の反応を伺い、何が正解かを探った。的外れの時もあるけれど、大抵は上手くいっていた。でも、分からない。
     羊水の中にいるように、小五郎の周りには薄い膜がある。外に飛び出してみたいのに、やり方がわからない。どうすれば良いのかがわからない。知りたくて手を伸ばして、諦めきれずに藻搔いて足掻いて必死に息をしている。

     英理はそんな自分に気づいていた。愛しているのかと問われれば首を傾げる。小五郎にはそもそも、愛がわからない。それは何が違うのか。どういう感情なのか。わからないままに手を伸ばした。
     だって、彼女が差し伸べるから。こんなどうしようもない自分に、手を差し出すから。なんてことのないように「馬鹿ね」と小五郎の膜を破るから。
     愛が何かわからない。でも、彼女の隣は息がしやすかった。わからないことをわからないと言っても許された。一つずつ、理論的に教える彼女の横顔を綺麗だと思えた。小五郎にとって英理は必要な人だ。人生において、彼女と結婚したことは数少ない自分の意思。
     小五郎が自分の意思を発することは滅多にない。輪の中心にいるような性格と誤解されるが、小五郎自身が意見を述べることは殆どなかった。周囲を見て道化を演じ、お調子者のような人であれば、大抵皆が笑うので。そうすることが良いのだと小五郎は思っていた。時が経てば経つほど、そんな自分も悪くないように思えてきた。それでも、感情を理解するには程遠かったのだけれど。
     刑事を目指したのは英理が「格好良い」と何かの拍子に言ったからだ。そうか。彼女にとって格好良いのかと妙に頭にこびりついた。思えば人生を左右するような大きな判断を行う際、小五郎の根底には決まって英理がいた。それほど、彼女が小五郎に与えたものは大きい。
     今は別居中だと大きくなった高校生の娘である蘭から聞いている。多分、何かがあったのだろう。自分にとって、彼女に起因する何かが。それが何かは分からないけれど、そのうち分かるのではないだろうか。彼女は、小五郎が分からないことを教えてくれる優しい人だから。分からないでいる小五郎を理解し、だからこそ手を差し伸べる人だから。

     また余計なことを考えてしまった。仕方がない。まだ混乱しているのだろう。しかし、捜査はしなくては。署の一室で会話が途切れた頃、小五郎はぼんやりとホワイトボードを見た。書き込みだらけのホワイトボード。
     誰が、どうやって殺したか。フォーカスを当てる点はそこに絞られている。密室殺人。凝ったトリックを使う犯罪者の多い米花町だ。この犯人もそうなのだろうか。でも、小五郎が考えるべきはそれじゃない。

     誰が、どうやって、何のために。

     何故。どうして。殺されたのか。

     被害者は、何を思っていたのだろうか。

     トリックなんて頭の良い奴らに任せておけば良い。目暮班は優秀らしい。聞くところによると、自分がぼんやりしている間に探偵が加わるらしいので。ならば、いつも通りで良い。
     被害者に恨みのある人物が何人か。重要参考人だそうだ。小五郎はその人物たちをスルーして、一番端、被害者の恋人だという人物の写真を一枚取る。誰も見向きもしなかった写真だ。被害者の恋人ではいるが、その日はアリバイがあり、証人だっている。というか、殺された一週間ほど前から被害者の恋人は地方に出張で行っている。物理的に犯行は不可能だ。犯人とは成り得ない。真っ先に犯人候補から外される人間だ。それは当然小五郎だって理解している。でも。

    「警部、ちょっと出てきます」
    「ん?あぁ。毛利君、報告はするように」
    「はい」
    「それと、松田君、萩原君、着いていくように」
    「はあっ!?なんで俺ら?」
    「ええー?俺らですか?」
    「刑事は単独行動禁止だ。まあ、良い勉強になるだろう」

     ふらりといつものように目暮警部に声をかければ慣れたように了承された。でも、次の言葉は違っていて。いつもなら先輩に声をかけるのに、どうして。と不満を隠さない二人の声を聞きながら首を傾げる。


     あぁ、そうか。


    『そんじゃあ行くか、毛利!今度は何が気になってんだ?』


     そう言って笑う先輩は、ここにいない。
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    Replies from the creator

    kabe

    DOODLEリクエストでいただいたデュースの幼馴染は小説家番外編、鍋パーティーの導入です。三分の一くらいできたので。こういう感じで進んじゃうけど良いです?という気持ちを込めている。
    食材はやってくるもの 本日のグリムは張り切っていた。グリムはオンボロ寮のキッチンの主である。オンボロ寮において、キッチンはグリムの縄張りである。子分といえどもグリムの許可なしに好き勝手できない聖域である。
     グリムは監督生の親分である。親分たるもの、子分を飢えさせるとは言語道断。そしてどうせなら美味いものが食いたい。監督生はツイステッドワンダーランドに来る前までただの男子中学生であった。特技が料理なんてことはなく、本当にごく普通のちょっとドライでやんちゃで一途な男の子だったのだ。つまり料理なんてもんは中学校の家庭科レベル。それもクラスの女子生徒のお手伝いレベル。監督生は率先して洗い物係をしていた。三年間ずっとである。つまり、お察しくださいというわけだ。というわけで、グリムは早々にキッチンの主へと名乗り出た。監督生にやらせるくらいなら自分がした方が美味いものが食べれるので。あと、子分が美味しいと笑う顔は悪くなかったので。
    5206

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