重なる想いは本物へあの日から、1ヶ月か。
珍しく暇な午前中、地味ではあるがその実最も大切と言える事務作業に徹していたサニーは、壁に掛かったアナログ時計を見てふとそう思った。
「何が1ヶ月、なんだ?」
声に出ていたらしい。
溜め息を吐いて煩わしそうに、その声がした方向を向く。
そこには、機密情報が並んだ棚に腰掛ける、派手な服装の男の姿があった。
「ユーゴ、帰ってくれ。同僚でも先輩でも、誰か帰ってきたら確実に俺が叱られる」
そこにいたのは、音楽で生計を立てており、そのおかげで昼間は専ら暇をしている友人だった。
今朝出勤途中にたまたま出会い、今日本部でひとり留守番なんだ、とぽろっと口にしたところ、何故かそのまま付いてきたのだった。
「13時まで誰も帰ってこないって言ったのお前じゃんか」
ぶーぶー文句を言いながら、その時間まで帰る気は毛頭無いようだ。
改めて溜め息を吐いて、勝手にしろと言わんばかりに事務作業に戻る。
しかし、中々に神経の図太い友人がその程度の反応に屈するはずもなく。
「だーかーら、1ヶ月って一体何だよ!」
「お前にだけは言わないからな」
「あーそうかい。折角お前にとって何より大事であろう情報仕入れてきてやったのにな!!!」
ぴく、と耳を動かした。3回目の溜め息を吐いてから、回る椅子を存分に利用して彼の方向を向いた。
「吐け」
「〜っかー!!!どんな態度だそれ!!!」
期待通り、持ち前の美声で叫び散らかす彼を見ていると、幾分か体内を燻っていたもやもやも消えて、やがて吹き出してしまう。
そんな俺を見て彼は、「どんな情緒だ」などとほざきながら笑った。けれどその瞳の奥は優しく光っていて。
こいつは実のところ、俺の大事な友人だった。
ひとしきり笑い終えてから、あくまでさらっと聞いてみる。
「もしかしてだけど、浮奇のことか?」
わかりやすい彼の目が、大きく開かれた。
「知ってたのか!?」
迫真、といった様子で問い詰められてまた笑いそうになったが、至って真剣な彼の勢いに水を差すわけにはいかず唇を噛んで堪えた。
「ん、多分知らないけど、そこまでして言いに来てくれるならそうかなって」
平然と言うと、彼はあからさまにほっとした様相になりそこでちょっと笑った。
「浮奇さ、ふーちゃんと付き合ったって」
ガン、という音が響いた。俺が頭を机に打った音だった。
ユーゴは俺と違ってそんな配慮など頭にもないようで、頭上から、くは、と楽しそうな声がする。
棚から降りて近づいてくる足音を聞きながら、まあ笑ってもらえたなら本望か、なんて考えた。
「ごめん笑っちゃった。でもちゃんと心配してきたんだぜ」
「うん、それは伝わってたからありがとう」
突っ伏したまま言ってから、ふーっと息を吐いて起き上がった。
「あれ、でも思ったより元気?」
不思議そうな彼の顔が眼前にあった。
だが正直それに一番驚いているのは俺の方だった。
何なら、良かったと思っている自分のほうが大きい。
不思議に思ったその時、ふと脳裏に浮かんだのは、
彼の笑顔だった。
バン、と先程より大きな音を立てて立ち上がった。
「ユーゴ、留守番任せた」
彼の顔を真正面から鋭い眼光で見つめて、肩に圧迫するような両手を置く。
その圧力に彼が目を白黒させているうちに、俺は駆け出した。
「ぅおおおおおい!!!!!」
災難な彼の悲鳴は、誰も居ないオフィスに虚しく響き渡った。
ガシャ、と、激しい音を立てて、少し重い金属製の扉を開けた。
「アルバーン!!!」
叫んでみたが返事はない。
中に入ると、たった1ヶ月来なかっただけのその部屋がひどく懐かしく思えた。
暫く立ったまま激しく動いたせいで荒くなった息を整えてから、そっと木製の椅子に腰掛ける。
この椅子は、いつか俺の新居の家具を買うのに彼が付き合ってくれたとき、とても気に入っていたのだが置き場所がなくて泣く泣く購入を断念したものだった。
明くる日、しれっとアルバーンの家に置かれていたことを思い出して笑いながら、指先で思い出をなぞるようにしてその木の目を辿った。
もしかして、この時から俺を好きでいてくれたんだろうか。
そう考えた瞬間、肌が首まで赤く染まったのが判った。
首を振り、誰かに見られているわけでもないのに心のなかで言い訳を組み立ててしまう。
心臓が絞られるように痛い。
甘酸っぱい痛みが、全身を流れた。
全てを逃がすように息を吐いて、次の目処をつけていた場所へ向かおうとしたとき。
「サニー?」
唐突に背後から声がした。
「アルバーン!!!」
振り向いて立ち上がり、勢いのまま思わず抱き締めた。
アルバーンの体が強張ったのに気が付き、はっと慌てて体を離す。
「ごごごごめん急に!」
「う、ううん」
動揺した様子のアルバーンは「お茶出すね」と言いながらオープンキッチンに入っていってしまった。
「さにー、今日はお仕事じゃなかった?」
視線は合わせてもらえないまま会話をする。
「仕事、抜け出してきたんだ」
「え、どうしてサニーがそんなこと…?」
よっぽど驚いたのか視線がかち合う。
天使が通った。
彼はまた我に返って慌てだす。
「なにか事情があったんでしょ?サニーのことだから、また誰かのために…」
「アルバーンに、会いに来たんだ」
腹から出た大きな声でその言葉を遮った。それはここ1週間で一番いい声だった。
「…どう、して?」
戸惑ったような、頼りのない子どもみたいな目つきに心臓が痛くなる。
「ごめん、って言いたくて」
言った瞬間に、言葉選びを間違えたことに気がついた。
それは他でもなく、目の前のアルバーンの顔が歪んだからで。
「おにぃが謝ることなんてなにもないでしょ?騙していたのは僕の方なんだし」
苦々しく笑ったその瞳からは今にも涙が零れそうで。
「アルバーン、」
彼のもとに駆け寄って、先程よりも優しく、愛が伝わるように抱きしめると、アルバーンは迷ったような素振りを見せながらも最後は俺の腕に縋るようにして泣きはじめた。
「さに、さにぃ、僕、君が好きだよ。堪らなく好きだ。優しくて優しくて、自分よりも人の幸せを願ってしまう、君が、僕は」
「アルバーン、俺も好きだよ」
途端に泣き声が止んで、嗚咽だけが聞こえる。
「さにーのそれは、友達としてでしょ?」
「わからない。そうなのかな」
「わからないって、もう」
アルバーンは未だ止まらない涙を零しながらも笑った。
きっとこの空気を払ってくれようとしているのだ。
どこまでも優しいのは君の方だ、と言えない言葉をそっと飲み込んだ。
「アルバーン、」
「なぁに?」
優しい顔で笑う君。
悲しさを滲ませたそれは、されど、どうしようもなくあたたかい。
「好きだ」
滑るように口から落ちたそれに、俺はちっとも気が付かなかった。
唇を重ねた。アルバーンは抵抗しなかった。
何度か、溶け合うように重ねたそれは、段々と深くなる。
やがて夢中になっていた俺の胸を、彼の手が優しく叩いた。
「っは…」
肩でぜいぜい息をするアルバーンは、顔を真っ赤にしていた。
ごめん、と謝ろうとしたその時、彼の瞳が大きく見開かれた。
「サニー?泣いてるの?」
「…え?」
反射的に頬を触った。確かに俺は泣いていた。
それを認識した瞬間に、きゅ、っと彼の俺より一回り小さい体に優しく包まれた。
「さにー、もちろん僕のことは好きにしてくれて構わないけどさ、僕は君に幸せになって欲しいんだよ」
目があった途端、花が咲いたように綻ぶその顔には、まっすぐな瞳が光っていた。
「でも、寂しいなら、今日だけ抱いてもいいよ、」
明るく笑顔でそう言う彼。そんな、無償の愛。
「…あるばーん、違うよ、そんなこと絶対しない。そんな、君の心を踏み躙るようなこと、もう絶対に」
一度溢れた涙は止まらなくて、跡切れ跡切れになるその言葉さえも一生懸命に聞いてくれる君が大切でたまらなくて。
「アルバーン、俺、あの日から毎日君のこと考えてたんだ」
その言葉に眉尻を下げて小さく謝る彼に首を振った。
「すごく後悔した。簡単に俺のつらい気持ちを背負わせてしまったこと」
今度はアルバーンが一生懸命に首を振る。
愛しいその動作を見て、また言葉が溢れた。
「俺、君が好きだ」
「…?」
期待しまいとしているのか、まだうまく処理できていない様子の彼にまた心が締め付けられた。
「アルバーン、好きだ。こんなこと、すぐには信じられないと思うし、今ここで俺を殴ってもいいよ」
そう言ってまた抱きしめたその瞬間に、アルバーンはあの日と同じように、感情のダムが崩れたように泣き出した。
「それでも俺は強欲だから、君を必ず幸せにするよ。君が隣に居てくれた日々が、きっと俺を想っていてくれた日々が、本当に本当に大切だったんだ」
アルバーンはしゃくり上げながら言った。
「さにぃ、僕、信じていいのかなぁ、僕なんかが、さにーを、幸せにできるのかな、」
叫ぶようなそれにしっかりと言葉を返す。
「俺は、アルバーンが隣りにいてくれたら、それでいい」
泣きながら、「さにー」と舌っ足らずに名前を呼ばれてキスをされた。
涙の味なのに、甘くてたまらない。
「ごめんなさい、好きになってごめんなさい」
きっと、彼の胸にずっと突っかかっていたであろう言葉が零れた。
「そんなこと、二度と言わなくていいようにするよ」
その言葉にまた、アルバーンは喘ぐように泣いた。
ふたりで抱きしめ合いながらひとしきり泣いて、やがて日が傾いて穏やかな空気が流れ始めたとき。
「さにー、」
「うん?」
腕の中の彼がもぞもぞと動いて、少し高い位置にある俺の顔をまっすぐ見つめた。
「お願いがあるんだ」
その真剣な眼差しに相応しいように答える。
「どんなことでも」
彼は了承を得るなりすぐにはっきりとした口調で言った。
「今から抱いて」
「………え」
突然のことに、そして、今の俺には到底許されていないお願いに迷いが生まれる。
そんな覚悟すら粉々に打ち砕く打撃が、愛しい人のもとから降り注いだ。
「夢に、したくなくて。………だめ?」
上目遣いのあざとさもありながら、照れたように、それでもまだ寂しそうに微笑む彼を見て、俺は違う覚悟を決めて頷いた。
「アルバーン」
「なぁに」
哀しみの滲んだ瞳に、ひとつだけキスを落とした。
「愛してる」
「僕のほうが、愛してる」
その瞳が、いつの日か憂いを映さずに済むように。
重なるふたつの影を、涼やかな風が攫った。
その呼吸だけが軽やかに、愛を謳っていた。