降り注ぐ夜の藍と「置いて、いかないで」
その丸く、真っ新な頬を透明が伝った。
世にも美しい装飾が施されたその手は、穏やかに震えていた。
初めて見た姿に、初めて聞いた言葉。
暫し、思考以外のすべてを止めてしまうくらいには、心に大きな波が立っていた。
「──、」
いつも照れ隠しにふざけてばかりで、おおよそちゃんと呼べたことのなかった彼の名前。
それは信じられないほどに甘く、彼によってすっかり傷を埋められてしまった綺麗な心にことりと落ちた。
目の前の端正な顔が、微かに微笑んだ気がした。
その頬に手を伸ばせば、白く冷たそうな印象に反して表面には熱が滞っていた。
逡巡してから、艶のある黒髪を丁寧に撫でた。
少しでも、彼に心の安寧があるように。
すぅ、すぅ、という規則的な寝息が空気を僅かに揺らしている。
臆病で、弱くて、曖昧なことばかりの人生を過ごしてきたから、ずっとたった5文字が言えなかった。
それでも、今、この人にはどうしても言いたくて。
息すら震えて、冷や汗が頬を伝う。
いつからだろう。想いを伝えることがこんなにも怖くなったのは。
大丈夫だと言い聞かせるように浅い呼吸を繰り返していると、中途半端に彼の手元に添えていた手が、きゅっと握られた。
流れ込んでくる熱い体温が、心の何層にも重なったストッパーを簡単に取り除いた。
「好き」
音に乗せた瞬間、彼と同じ透明が視界を滲ませた。
こぽこぽと泡立つくらいの想いの流れが、心の枠から容易に零れた。
一度口にしてしまえば簡単で、愛は溢れてしまえば止まらないのだと、そう生まれて初めて知った。
「──」
いつだって、脆くて弱くて未熟なこの心を、彼が埋めてくれているのだと思っていた。
自分ばかりで、こんなの対等な関係じゃないと後ろめたさを感じながらも、それすら喜びに変わるほど愛していた。
「同じ、だったんだな、」
大きさは違ったとしても、彼の永い時間の中で生まれた寂しさをこの手で拭ってあげられた時間があったのかもしれない。
「──、」
視界が斜めに歪んで、景色はぐちゃぐちゃになった。
この人と出会って、余計に何でもないことで泣いてしまうようになった気がする。
「愛してる」
ずっと言えなかった言葉はまっすぐ心に跳ね返って、きつく結んだ糸を優しく解いた。
明日、起きたらまた言ってやろう。
高揚する気持ちを抱えて、彼の体に抱きつきながら同じ布団に包まれた。
分かち合った温度は、涼やかな夜をも暖かく。
窓から差す藍色が、少し違う白を柔らかく濁した。