緋色の今を紡ぐ「叔父さん!!!」
「おぉ、ファル!元気だったか」
大きな骨張った手が、その胸に飛び付いた私の髪を綯い交ぜにする。
気付かれては、いけない。
「久しぶりだな」
父との会話を、その身体に引っ付いたまま聴いた。
出来ればこの体温に一生包まれていたいなと思いながら。
3年振りに会った彼は、前会ったときと少しも変わっていない。
強いて言うならば、またその身に纏った雰囲気に深みが増した気がする。
頭に置かれたままだった手が、何とはなくまた撫でた。
それだけのことで、心臓が酷い音を鳴らす。
深い呼吸をする。落ち着け私の心臓。
僅かに顔の角度をずらして、彼の顔を窺い見た。
その瞬間、この世のものとは思えないほど美しい瞳がこちらを向いた。
一瞥にも満たないそれが、私の心に確かな傷を付けて。
ゆっくりと身体を離して、3歩ほど後ろに微笑んで立っていた母の影に隠れた。
心は、言いようのない鬱屈で浸っていた。
「ふーふーちゃん、」
その琥珀糖のように煌めく声が鼓膜を震わせてやっと、私は背後にいる彼女の存在に気が付いた。
「………うき」
紫色の綺麗な髪をした彼女は、この近くに住んでいる幼馴染だった。
「久しぶり。元気だった?」
普通を取り戻したつもりの私は努めて明るくそう口にしたが、目の前の相も変わらず麗しい人は渋い顔を見せた。
「何その取って付けたような挨拶」
ジトっとした目で睨まれて、身が竦む。
やはり付き合いが長く、そもそもが人の感情の変化に機敏な彼女には簡単にわかってしまうのだろう。
何も言い返す言葉はなく、私は黙り込んだ。
彼女は暫しの沈黙の後、鬱陶しそうなため息を吐いて、言い放った。
「いい加減、諦めたら?」
背筋を冷たいものが走る。
彼女にはきっと気付かれていると、知っていたつもりだ。
でもこうしてまざまざと突き付けられるのは生まれて初めてで、やはり息苦しさが勝っていた。
「………できることなら、私もそうしたいよ」
蚊の鳴くような声。
いつも彼女に負けず劣らず勝ち気な少女だった私は何処へ行ってしまったのだろう。
彼女もそんな私の見たこともない様子に些か驚いたのか、その口からそれ以上の言及がなされることはなかった。
「ファル、家へ向かうぞ」
人の心まで溶かしてしまいそうな優しい微笑みが、僅かに遠くから私を映していた。
「うん!今行くね!」
やはり、努めて明るく応える。
隣から感じる貫くような冷たい視線には知らないふりをした。
「じゃあまた明日ね、浮奇」
なんだかんだ言ってもいつも自然体で隣りにいてくれて、本当は誰より私を想ってくれる、彼女がとても好きだった。
大切な友人は複雑そうな顔で、それでも笑って応えてくれた。
「明日、また話聴くからね」
重たい約束に渋々頷いた私はやっと、握られていた手を解放してもらえた。
明日は彼女の弟と共に、少し遠出して遊園地に遊びに行く予定だ。
車に乗り込み、健気に見守ってくれている彼女に、先に帰るよう合図を出した。
翻ったロング丈の青いワンピースは、彼女によく似合っている。
「随分、仲が良いんだな」
隣の運転席からは、よく響く声が聴こえた。
「うん。とってもいいやつだから」
にかっと笑ってみせると、彼は呼応するように声を上げて笑った。
「ファルは昔から変わらないな」
「叔父さんだってそうでしょ」
「俺と君とじゃ、3年の重みが違うだろう」
言いたいことはきちんとわかるのに、こういう線引きをされるたび、心が暗い海に沈む。
ここに来るまでの車内で、厄介な想いは閉じ込めて鍵をした筈なのに。
一度その声を聴けば、あっという間に全てが降って戻ってきたようだった。
「で、私は昔からどうだって?」
そんな自分に呆れながら、投げやりに問い掛ける。
大人の余裕ってやつか、穏やかに笑っている彼の顔が少し憎い。
「勝ち気で、負けず嫌いで、賢くて、誰とでもすぐに仲良くなってしまう、」
思ったよりもすぐに、それもぽんぽんと出てきた言葉に慌てた。
そんなふうに見られていたなんて、聴いていない。
極めつけに、赤信号で目を細めてこちらを向いた彼の口が、私の耳元でそっと囁いた。
「思いやりと強さを持った、優しい子だ」
私の顔はきっと茹で上がったように真っ赤になっていたと思う。
許してほしい。第一、こんなものに耐えられる人がいるなら教えてほしい。
「う、あ、ありがとう?」
何とか口籠りながら言葉にすると、彼はくは、と吹き出した。
「笑わないでよ…あんまり褒められなれてないんだから」
思えば、小さい頃からずっとそうだった。
母でも父でもなくて、この人だけがいつもほしい言葉をくれる。
それは確かに、私が私の道を歩むための勇気になっていた。
「皆、ファルがここにいてくれることを当たり前だと思っているんだ。失くして初めて気が付くんだろうな。愚かなことだ」
彼の瞳には、溢れるほどの哀しみが輝いて。
そっと目を伏せ、自分の両手の指を絡み合わせる。
「………好きだったんだね」
窓の隙間を通る風と、車の操作音だけが空気を揺らした。
「ああ。とても」
彼の声が、どうか聴こえていますように。
「でももう昔のことさ。それも、ファルが生まれるよりもずっと前のね」
音のなるようなウインクを差し出され、落ち着かずにいた心はすとんと着地した。
少しだって、整理が付いているなら良い。
記憶の中の彼は、もっとずっと、酷く傷付いていたから。
「どことなく、ファルによく似ているよ」
唐突な言葉とでこぼこ道の衝撃に、朝食べたサンドイッチが危うく口から出るところだった。
落ち着いていた筈の心音は暴れ馬のように凄い速度で鳴る。この人の隣にいると、落ち着く暇がない。
「どんなところ?」
彼は思考する間も持たずに答えた。
「いつも一生懸命周りのために尽くして、色んな人の心を掻っ攫っていってしまうところ、だな」
「私は…そんな大層なものじゃないよ」
あまりの褒めように頬を掻いた。
その言葉はきっと全て、私ではない人のものだろう。
「そんなことはないさ。君は自分の価値を低く見積もりすぎだ。奇しくも、そんなところさえよく似ているが」
やはり余り解せないまま、肘をついて窓の外を眺める。
そうこうしているうちに流れる景色はゆっくりになり、見慣れた建物が増えてきた。
両親と幼い弟は既に、同じくこの辺りにある母の実家へ向かっている。
本当なら私もそこに1週間泊まる予定だったものを、無理言って彼の家へ泊まらせてもらうことにしたのだ。
幼い頃から可愛がってくれていたように、彼自身満更でもないみたいなので、両親も軽々と了承をくれた。
「着いたぞ」
短い声が、意識を引き戻した。
そこにあったのは、周りの自然な風景によく合ったデザインがなされた、木造建築の一軒家。
「わぁ…やっぱりいつ見ても綺麗」
3年ぶりに見た大好きな場所に、惚けたようなため息をついた。
「ファルは、本当にこの家が好きだな。だから今回もわざわざこちらに泊まりに来たのだろう?」
まっすぐそう問われ、頷く以外の選択肢はなかった。
それにそれも、ちゃんと1割ほどは理由としてあったから。
「おいで。少しではあるが、内装も変わっている筈だよ」
にこやかな彼に出迎えられ、私は玄関に足を踏み入れた。
この人は本当にセンスが良い。
昔から知っているが、中まで眺めて改めてまた感嘆した。
「とっても、素敵だ…」
この家には元々本が多く、前までは溢れかえるようなそれすらインテリアのようにして過ごしていたものだが、少し見ないうちにリビングは本棚を拵え、まるで書斎のような造りになっていた。
「センスの良いファルにそう言ってもらえると嬉しいよ」
いつだったか、彼の弟である父はこういった美しさに全く興味がなく、寂しい思いをすることがよくあったと言っていた。
故に、可愛がっていた姪っ子が興味を示してくれたことが嬉しくて、幼少期につい色々なものを買い与えては、両親からお咎めを受けていた。
思い出してくすくす笑う。
とても大人なこの人は、時折誰より子どもっぽいところがある。
「今日、君にどこに泊まってもらおうかとても迷ったのだが…」
「2階の奥の部屋?」
食い気味にそう言うと、彼は口角を上げた。
「そう言うと思ってたんだ。昔から好きだっただろう」
そのまま道を辿り始めた躍るような背を追って階段を上る。
長い廊下を渡ると、ネームプレートのかかった可愛らしい扉が見えた。
「…これ、まだ置いてくれてたの?」
文字を指先でなぞる。そこには、彼の彫ってくれた私の名前があった。
「ああ。ここはいつまでも君の部屋だ」
沢山の思い出が蘇って、不意に泣きそうになった。
彼は気付いているのかいないのか、こちらに背を向けてゆっくりと扉を開いた。
この家にしてはとても小さく、こぢんまりとした室内。
幼かった私にはとても居心地が良くて、それは不思議なことに今も変わらなかった。
ただひとつだけ違うのは、壁に掛かったひとつのもの。
「赤い、ワンピース!」
駆け寄って、手に取った。
柔らかく、優しい肌触りのする生地。
ふんわりとふくらんだ袖は、ここにいた頃憧れてやまなかった絵本そのものだった。
隣にいる彼は、端正な顔に隠しきれない微笑みを湛えている。
「この絵本を買ったあの頃、ちょうど君の両親に制限をされてしまってね。どうしても特注するお金が出せなかったんだ」
きっとどこでも売っている赤いワンピースで良かった筈なのに、こういうところにきちんと拘って、愛と敬意を持ってくれるこの人がとても好きだった。
「ありがとう」
その光るような赤を抱き締めてそう口にすれば、今日一番嬉しそうな笑顔を見た。
折角だからと、彼は素早く部屋から出て私に着替えを促した。
贈ってもらった身であり、そして決して吝かでなかった私はその提案に乗り、着ていた白いTシャツとジーンズを脱いだ。
サイズもぴったりで、こういうところまでしっかりしているのがおかしくて笑いが零れる。
「着たよ!」
律儀なノックと共に、姿を表した彼のその手には、また違う箱が抱えられていた。
「…やはり、最高によく似合っているよ」
目を細めてそう言われると、もう嬉しい以外に生まれる感情はなかった。
白い左手がゆっくりと開けたその箱には、赤い靴が入っていた。
促され、その真っ新でぴかぴかの靴に足を通す。
ついでに縛っていた髪を解くと、自分でも目を見開くほどに、あの絵本の少女とそっくりだった。
「驚いたよ。まさかここまでだとは…」
一緒に擦り切れるほど読んでくれていた彼も同じだったようで、美しい目が大きく見開かれている。
「ありがとう」
照れながらもう一度そう言って、こんなに素敵なサプライズを用意してくれた彼にお礼のハグをする。
彼はあくまで紳士的に、生地の部分だけにゆっくりと手を回した。
「ファル。君はとても綺麗だよ」
そんな声で言われると誰だって勘違いしてしまうのだと、いつか私が責任を持って言ってやらなくてはいけない。
そんな想いを逃がすように、その身体を一層強く抱き締めた。
「苦しいよ、」
風鈴の音のように明るい声が頭上で笑ったので、ようやく解放してやる。
彼はほんの僅かに上気した頬で、いつもと変わらず笑っていた。
「あと2年、待っててね」
思わず口を滑らせたそれには自分でも呆れながら、もういいかと笑い飛ばした。
彼はわかっているのかいないのか、肯定とも否定ともとれる表情を浮かべている。
私は知っていた。父と叔父が本当の兄弟ではないことを。
それでも、ずっとこうして育ててくれた彼には、きっと複雑な心内があるだろう。
ただ、どうしても諦める気にはならなくて。
「わがままも、叔父さんなら許してくれるでしょ?」
拙く握った手を、そっと握り返してくれた。
「ああ。そのために、ここにいるよ」
桜色が光った瞳が、美しいと思った。
この人の全てが、永く好きだったから。
「好きです」
今はまだ、応えてくれなくていい。
きっといつか、彼の口からその答えが聴けますように。
燃えるように輝く赤色の日を、
香り揺蕩う部屋が確かに照らしていた。