綿々と脈々と「…何だよ、」
もの言いたげに、黙って主人を見上げる犬のようなルークの視線が先程から気になって肉の味が複雑になってしまい苛立っていたアーロンがいまいまし気に睨んだ。ルークは相変わらず凝、とアーロンをみている。さすがに落ち着かなくて、アーロンはフォークを置くと椅子ごとルークに向き合った。
「言いたいことがあるならはっきり言えや、ドギー」
「相棒にキスしたいと思うのは、どういう感情なんだろうか、なあ、どう思う、アーロン」
心臓が、食べた肉と一緒に口からとびだしそうになるのをアーロンは歯を食いしばって呑み込んだ。何寝ボケてんだこのクソドギー。そう、怒鳴ろうとして、でも、いま口を開いたら確実に心臓がとびだす。心臓どころか何もかも…すべてを、吐きだしてしまう。口のなかにあるものも、胃のなかにあるものも、この、胸のなかにある、ものも。
「握手でもなくて、ハグでもない、僕は今、君にキスしたいと思ってしまったんだ」
何でだろう、と首を傾げて考え込んでいるルークの顔をアーロンは今にも気絶してしまいそうなほどの眩暈に耐えながら睨めつける。目のなかで、惑星と惑星が衝突したみたいな光がスパァクして皮膚のしたを流れる血が熱く、マグマのように燃える。
その感情の名を、俺は知っている。でも、いま目のまえにいる首を傾げながら阿呆面をしている男の感情が同じ名だとは限らない。嗚呼、それでも、それでも、
「君にたまらなく感謝したい気持ちでいっぱいなんだ、なんだか、感情があふれてとまらない、どうすればいいんだろう」
尖った歯が砕けてしまいそうなほど食いしばっていた力がゆるんだ。体中をかけめぐる、沸騰した血が静かに冷たくなってゆく。
「…ああ、そう云うことかよ、別に、……いや、肉十キロだな、感謝の気持ちなら肉でいいんだぜ、」
アーロンはいつものように挑発的に笑った。胸に刺さった小さな棘には気づかないふりをして。
「君が生まれてきてくれたこと、君と出逢えたこと、今、こうしてふたりでいること、僕のとなりにいるのがアーロンで、アーロンのとなりにいるのが他の誰でもなく僕であること、手をのばせばふれることのできるくらい近くに君がいること、何もかもすべてに感謝をしたくてたまらないんだ」
ああ、天国からバンジージャンプしてるみたいな気分だ。うかれていたら地獄に堕とされて、また天国へもどされる。
「…相変わらずクセェ、つってんだよ、」
アーロンは食べかけの肉に視線をもどしフォークを手にとろうとしたけれど、何故か持ち方をすっかりと忘れてしまい、一瞬たじろいだあと、いきおいよくフォークを掴んだ。
「アーロン、」
「…見るんじゃねえ、肉がまずくなる」
「ずっと見ていたいよ、瞬きするあいだも惜しいくらい君のことを見ていたい、フォークが小さくみえてしまうくらい大きくて、たくさんの人の命を救けてきた優しい手も、何でもおいしそうに食べる口も、南国の空を翔ぶ鳥の羽根みたいにきれいなエメラルド色の瞳も、ハスマリーの赤い土のように燃える髪も、君のどんな瞬間だって逃したくない、ぜんぶぜんぶ、見たい、君のすべてが見たいんだ」
窓の向こうにはすみれ色の帳が静かに降りて、鳥も寝床に帰る時間が訪れる。風は白昼の喧騒をなぐさめるようにやさしく吹き、彼方の空には星がひとつ、またひとつときらめく。名もなき見知らぬ星の隣に同じ大きさ、同じくらいあかるくかがやく星が並んでまたたいている。まるで同じ日に生まれ、そうしてずっと、ふたつ、そこに在るように。
「…、意味が、わかんねぇ、」
「…うん、僕もわからない、」
「…わかんねぇのかよ、」
「……、ごめん、わかってる」
うつむいて、唇をきゅ、と噛む、そうしてゆっくりと顔を上げたルークの大きな瞳がまっすぐとアーロンへむけられた。あふれそうなほどの光でいっぱいのその瞳は、言葉を口にするよりもはっきりと胸のおくにある熱くて、どうしようもなくおさえることのできない嵐のような想いを映していた。とめどなく満ちてゆく想いが、あふれだす。
「君が好きなんだ」
嵐が、来る。満ち満ちてあふれだした想いの濁流に身体も心も何もかも呑込まれ、想いが、言葉が、あふれすぎて苦しくて、ふたりは息もできないまま相手の瞳に映る自分の姿を見ていた。
「アーロン、僕は君が好きなんだ、だからキスしたいと思った、僕がどんなに君を好きか、どんなふうに好きか、君に伝えたい」
ルークの瞳がゆれる。だけれどその想いの強さは少しもゆらぐことなくまっすぐ、アーロンへと向けられた。
君に、キスしたい
そんなの、もう、とっくのまえから、俺は、
口の端からこぼれてしまいそうな言葉を呑込んで、アーロンは呆れたように微笑う。その唇は誰にも気づかれないくらい小さくふるえていた。
「…いきなりかよ、」
「…や、やっぱり交換日記からはじめたほうがいいかな⁈」
「そこは端折れ、つか何だ、交換日記て」
「一冊の日記帖に二人が交互にいろいろなことを書いてそれを毎日交換するんだ、主に交際したての二人がする交際の第一歩的な行為です」
そう言って、は、としたようにルークは頬を真っ赤にして黙った。
「…今までさんざん恥ずかしいことを言っておいて、今のどこにそんな赤面する要素があったんだよ」
ルークは赤くなった頬をもごもごさせて頭のうしろを掻きながら、悪戯が見つかってしまいバツの悪そうな顔をした仔犬のようにアーロンを見る。そのアーロンの目がびっくりするくらい優しくて、ルークはいまにも爆発してしまいそうな心臓をシャツのうえから握りしめた。
「…、その、君とキスするまでには、どれくらいのステップを踏めば?」
「百くらいじゃねえか」
「はんぶんくらいワープしてもいいかな?!」
長い腕がのびてくる。ハスマリーの太陽をいっぱいに浴びて、たくさんのものをひとつも諦めることなくその腕に抱え、護ってきた強い腕。のばされた二本の腕はルークの両肩に乗り、ゆっくりと、ルークの頭の後ろにまわされた。指が、髪に触れる。
「…アーロン、ぜんぶワープしちゃいそうだよ、」
「…あいかわらず待てができねえな、」
ルークの手がアーロンの頬に触れ、その熱を確かめるようにてのひらで撫でながら指先で耳の輪郭をなぞる。炎のように燃える髪のなかに指を入れて、そのままアーロンの頭をてのひらでつつみこむ。すっかり安心して手の中にその身を任せる小鳥みたいにアーロンはルークの手に頭を預けた。ルークがそっとアーロンの頭をひきよせる。アーロンの鼻の先にルークの鼻の先が触れる、アーロンは鼻をすりつけて、口をひらいた。吐息の熱で睫毛がぬれて、もうどちらのものなのかわからないくらい、熱い息は唇と唇のあいだで混ざり、溶けあって、ふたりのあいだには、もう、風さえも入り込めない。
「…、アーロン…アーロン、ほんとうはぜんぶしたいんだ、君とすることは、ぜんぶちゃんとしたい、」
「…はは、じじいになっちまいそうだな」
「うん、だから、キスしたあとにひとつづつ、ぜんぶ、していこう、おじいちゃんになるまで、おじいちゃんになっても」
「…心臓マヒで死んじまいそうだ、」
「職業柄、心臓マッサージなら得意だからまかせてくれ」
ルークは自信満々に得意な顔で目をきらきらさせた。ルークが何か言うたびに心臓がとまるアーロンをルークが心臓マッサージをして蘇生させる。それをくりかえす、何度も何度も、十年後も、五十年後も、共に歳をとりながら。コントかよ、そう、揶揄おうとして、目のまえいっぱいに描かれたその未来に、アーロンは胸がしめつけられて何も言えずに、目をとじた。ふたりではじめる、最初のキス。これからふたりで、ぜんぶはじめていこう。はじめてすることも、そうでないことも、すべてここからはじまる。このキスから。綿々と脈々とつづいてゆくふたりの人生。その人生の何時でも何処でもとなりに在るのは今、唇にふれているたまらなく愛おしい存在。
遥か宙の彼方に何千年、何億年と云う永い時間、共に在りつづけるふたつの星。そして、この地上にも星はかがやく。それは永久にふたついつまでも共にきらめきつづける、地上の双星。