駆け出したら止まらない「じゃあ、次回作も期待しているよ」
「はい、ありがとうございます。失礼します」
「おっまた〜せ……って誰かと話してた?」
トイレから戻ってきた一二三が去って行く背中を訝しげに見つめた。くすり、と笑いを一つこぼす。この男は嫉妬深いのだ。
「ええ。◯◯先生ですよ」
「◯◯って……あの有名な作家さん!?」
「まさにそのお方です」
「ほえ〜。あんな見た目してんだ〜。意外とおっさんじゃん!」
「こら、聞こえますよ」
相変わらずな物言いの恋人を嗜める。しかし「メンゴメンゴ」と言いながら太陽のような笑顔を見せられてしまうとついつい許してしまうのは惚れた弱みだろうか。伊弉冉一二三は罪深い人物である。
「何話してたん?」
「偶然お会いしたからご挨拶と……小生の書いた本についてですかね」
「えー!あんな大御所に読んでもらってるとか幻太郎すげぇじゃん!」
「読んでないと思いますよ」
「へっ?」
一二三が出した声が秋の空気にそっと消えてゆく。時は夕間暮れ。この公園で遊んでいた児童たちも既にそれぞれの自宅に帰ったのか、人はここから見える限りでは数名だ。
誰も見ていないだろう、と判断し右手側にある温もりをぎゅっと握り込む。一二三は目を丸くしたものの、それは一瞬だけですぐに蕩けるような微笑みを浮かべ、呼応するように幻太郎の手を握り返してきた。
変わらない笑顔がそこにあるだけで俺はいつも救われている。
二人揃ってゆっくりと歩き出す。乾いた落ち葉がぱりっと鳴る音でさえすぐに静寂に包まれた。秋から冬へと向かうもの寂しさは風情があって嫌いではない。
「『期待しているよ』『次回作楽しみだな』……そんなことを言っておきながらああいう人たちは小生の小説なんて読んでいないんですよ。いわゆる社交辞令ってやつですね」
「えー!そんな社交辞令なら言わなきゃ良いじゃんね!」
「さあ。彼らにとっては挨拶と同じようなものなんでしょう」
「幻太郎の本、面白いのにね」
わざとらしく膨らませた頬が滑稽で、ふふっと短い笑みをこぼした。きっと彼は俺を励ますだとか慰めるだとかは計算しておらず、本心から〝本が面白い〟と言ってくれているのだろう。本当に真っ直ぐで純粋な人だ。
「読みたい方が読んでくだされば結構ですから。それに……」
「それに?」
「あの方たちが読んでくれないのは自分の実力不足って思えば別に。それなら、読みたいと思わせるような小説を書けば良いだけなので」
木々がざわざわと騒ぎ出した。日も落ちてきたせいか風が体を冷やしてゆく。夕飯は何か温かい物をリクエストしよう。おでん、鍋、ポトフ、シチュー……一二三の作った物は例外なくどれも美味しいので悩ましい。などと考えていると相槌にしては遅い「ふぅん」という声が隣から聞こえてきた。
たまらずくつくつとした笑いが喉の奥から溢れ出た。
「どうして拗ねているんですか?そんなにあの方の社交辞令が許せなかったですか?」
「そうじゃねぇけど」
「けど?」
母親が子を諭すかのように優しく続きを促す。一二三が地面を見ながらぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「何かさ、普段は甘えん坊な幻太郎が……達観したような言い方しててさ……ちょっと、ちょっとだけ寂しいなって……」
「ふふ、何ですかそれ」
「だ、だってさぁ〜!俺っち一人だけあの人の言うことにむくれててめっちゃガキみてぇじゃん〜!」
「あはは。貴方、そんなこと気にするんですねぇ」
「……普段とは違う姿の幻太郎見られて嬉しくもあり寂しくもありって感じ」
「なるほど〜」
頭の中で再び夕飯に思いを巡らせる。
ど、れ、に、し、よ、う、か、な。よし、シチューで決まりだ。ルゥなどを使わずともこの男にかかればシチューなんてお茶の子さいさいだ。追加で買い足す物もなさそうだ。
さて、一二三の言うこともまったく理解出来ないわけではない。恋人の新たな面を知ることが出来た場合〝ギャップ〟というものに惹かれて胸がときめくこともあるそうだ。
だが、変わらないものを望むことだってある。一二三がまさにそうだ。俺の新しい姿を見て、存外にも寂しがり屋の彼は何かが変わってしまうのかも、と恐れているのだろう。
自身も一二三のいつもと変わらない笑顔に救われている身だから気持ちは分かる。だが……。
「あのですね、一二三。たしかに貴方の知らない小生の姿はたくさんあると思います。そして、これからもきっと貴方が驚くような姿を見せるでしょう。全てを受け入れてくれ、なんて贅沢なことは言いません。でも……甘えん坊な幻太郎は貴方の前だけですから。それだけは忘れないでくださいね」
手は繋いだまま、それを口元へ寄せて滑らかな手の甲に優しく口付けを落とす。上目遣いをしながら頬を緩めると一二三が目を白黒とさせた。
「やっべ。今、めっちゃドキドキしちった。幻太郎、王子様みたいじゃん」
「ふふふ。言ったでしょう。貴方が驚くような姿を見せる、と」
「マージで!」
「この姿を知った今も寂しいですか?」
「……ううん。幻太郎のおかげで結局どんな姿の幻太郎でも俺っちを好きでいてくれることに変わりはないって分かったから大丈夫」
「おや、随分と自信過剰ですねぇ」
「えー!俺っちのこと好きじゃないの!?」
「さあ?貴方の考えではどうだと思いますか?」
「ん〜、幻太郎は俺っちのことが好きで好きで大好きでたまらないっ!ってカンジ〜!?」
何の迷いもないその答えに声を出して笑った。いつもの調子に戻ったようだ。
「一二三、あの木まで競走しませんか?」
「ねぇ、今の俺っちが言ったこと無視する!?フツー!」
「……寒いですし体動かしましょう!」
「もー!聞いてないしぃ!……どうせ何言ったってやるって流れっしょ?」
「ふふ。よくお分かりで」
「言っとくけど俺っち、走るの速いからね〜!」
「おや、小生だって雪国のウサインボルトと呼ばれたんですよ」
「うわ〜!嘘くせぇ〜!」
一二三がストレッチするのに倣い、自身もアキレス腱を伸ばす。職業柄ということもあってか、普段大して動かすことのない体がミシミシと音を立てる。健康のためには運動することも大事とは分かっているがつい怠けてしまうのが現状だ。
準備体操を終えると二人で騒ぎ立てながらスタートラインを決める。
さあ、始めよう。
「じゃあ、いきますよ」
「おけまるー!」
「位置について。よーーい、どんっ!」
駆け出した背中に向かって
「その通りです。貴方が好きで仕方ありません」と呟いてから、自身も駆け出すために袴の裾をつと上げた。