one two three step by step「ねぇ〜良いじゃん」
「何がですか?おやつはさっきあげたでしょ。ポチ」
「誰がポチだっての!!」
「おや、お犬様ではなかったですか?」
ワンワン、と鳴き真似をしてから茶目っ気たっぷりに笑う人物はシブヤディビジョン代表Fling Posseのメンバー兼俺の恋人である夢野幻太郎だ。
つい一ヶ月前に恋人になったばかりで俺たちはラブラブのアツアツである。と言いたいところだが、一つだけ不満を抱いていた。
「ポチじゃなくて一二三でしょ?ほら、リピートアフターミー!ひ、ふ、み」
「ジ、ゴ、ロ」
「もお〜幻太郎〜!」
幻太郎が恋人同士になっても未だに〝伊弉冉さん〟と呼んでくることだ。まだキスすらも交わしていない二人だから、恋人同士ということを実感するためにも名前で呼んで欲しいと頼んでいるのにこうやってのらりくらりとかわされてしまう。これでは友人同士となんら変わりがないではないか。
「呼び方なんてどうでも良いじゃないですか」
「どうでも良くねぇし!つか、ポッセの二人のことは名前で呼んでんじゃん!」
「ああ、そういやそうですねぇ。まあ彼らはダチ、ですから」
「はあ〜?じゃあ俺っちはダチ以下ってこと!?」
「別にそうとは言っていませんよ。ただもう伊弉冉さんって呼び方が染み付いてしまっているだけです」
「だーかーら、それだと友達だった頃と変わらないっしょ?俺っちは恋人として幻太郎と一緒にステップアップしていきたいの!」
「ステップアップねぇ」
幻太郎がどこか遠い目をしながら煎餅を齧ると途端に香ばしい匂いが充満する。既に俺の方には見向きもせず「良い天気ですねぇ」と呟いている。
シャクシャクと煎餅を咀嚼する音だけが部屋に響いて、それが俺の心の虚しさを助長させた。
思えば告白だって俺の方からだった。先に好きになったのも俺の方。だから、愛情の大きさに差があることも理解していた。
理解していたはずなのに呼び名一つでこんなにも距離を感じるとは思っていなかった。
そもそも、だ。もしかすると幻太郎は俺のことなど好きではないのかもしれないとも考える。こちらのアプローチに負けて情けで付き合ってくれているだけで、心までは一二三に向いていないのかもしれない。
告白したときだって「はあ……まあ、シンジュクナンバーワンホストと交際できるなんてなかなかない経験ですからね。お受けしましょう」という色良いとはとても言い切れない返事をもらった。
そうか、それだとしたら納得だ。俺一人だけ盛り上がって、俺一人だけ浮かれて……。
二人でいるのに寂しい。それなら……。
「ごめん。俺っち、今日は帰るね」
ぽつりと呟くと僅かに衣が擦れる音がしたが、俺は彼の顔を見ることが出来ない。
「おや、今日は夕飯にインドカレーを作ってくださる予定では?」
「ん〜、ごめん。どっかの店のやつ頼んで。ホントごめんね」
やっぱり彼の顔は見られない。見たら砦が決壊して感情が溢れ出ると思ったから。
きっと幻太郎は何でもないというような顔をしているに違いない。
革靴を履き終えると声もかけずに幻太郎の家を後にした。
「あーーーー」
やってしまった。俺の方が年上なのにいじけて帰るなんて情けない。自宅へ帰り、家事をする気も起きずにソファに寝転がっている。ごめん、独歩。今晩の我が家もどこかの店のデリバリーになりそうだ。
スマートフォンがメッセージの受信を知らせるが、相手が独歩だったため内容も見ずに目を閉じる。多分いつもの〝今日の晩飯はなんだ?〟といったとこだろう……返事が遅れたとしても差し支えはない。
こんなときでも幻太郎はメッセージ一つすら寄越さない。
「もー駄目なんかな」
自分で言った言葉に自分でぞっと寒気がした。駄目って何だよ、駄目って。せっかく恋人同士になったんだろ。いつものポジティブシンキングはどうしたんだ、俺。
「でもさぁ、好きな子に対しては不安で弱気になっちゃうんだよなぁ」
そうだ、好きだからこんなに苦しくて切ない。好きだからこんなに無様でかっこ悪くてみっともない。
自分〝らしく〟なくなってしまう愛は残酷で恐ろしくて、それでいて美しいのだ。
無駄かもしれないが、どうかこの恋が良い方へと向かい二人に幸福をもたらしますように、と祈りにも似た形でそっと願う。
「うあ〜〜!ホント、自分が女々しくてやんなる〜〜!」
という独り言をかき消すようにしてインターフォンのチャイムが部屋に響き渡った。
「はいはい、感傷に浸る暇もないってね」
どうせ宅配業者とかいった類だろう。受け取ったら、体が動いたついでに夕飯作って掃除でもして気を紛らわそう。
「はいはーい、何の御用でしょうか〜」
「あ、あの……夢野です。夢野幻太郎」
「……はい!?」
流し見したインターフォンの画面を弾かれるようにしてもう一度見ると、たしかに夢野幻太郎が映っていた。紛れもなく恋人の幻太郎だった。
「幻太郎!?何でここに?」
「えっと……一言謝りたくて。小生の顔なんて見たくないかもしれないですが……もし、そうだとすれば、今日は帰りますので……とりあえずインターフォン越しにでも謝罪を、と……」
「えっ、ちょっ、えー?待って。今開けるから上がっておいで」
そう言ってオートロックを解除する。部屋はこまめに掃除してるから大丈夫だろう。服装もスウェットだが、まあ許容範囲。あとは珈琲にお茶に、お茶請けに……と彼が部屋に上がってくるまでソワソワと落ち着きなく過ごす。待っている時間すらももどかしく出迎えようと玄関ドアを開けると丁度、幻太郎と鉢合わせした。
「あっ……」
「おわっ!ナイスタイミング〜!ってか幻太郎、汗だくじゃん。大丈夫?」
「は、走って、きた、ので」
「走って!?とりあえず入って入って」
お邪魔します、と行儀よく上がった彼をリビングに案内する。走ってきたというのは事実のようで、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているため、すぐにソファに座らせる。珈琲やお茶よりは水の方が良いだろう、と判断しミネラルウォーターを手渡すと、喉が渇いていたのか一気に飲み干した。
「落ち着いた?」
「……はい。少しだけ、ですけど」
「話、聞いても大丈夫?」
彼はこくりと頷くと隣に座る俺に向かい合うような形で座り直し、背筋をぴんと伸ばした。俺も何となくそれに倣い背筋を伸ばして彼の言葉を待つ。
「あの……本当にごめんなさい」
勢いよく頭が下げられたかと思うと眼前に茶色のつむじが晒される。
「えっ、何で幻太郎が謝んのー!?ほら、顔上げて」
「……貴方が名前で呼ばれたがっているのを知っているのに……呼べなくて……申し訳ないんです」
「あーー、ね」
先程までそのことで思い悩んでいた身としては痛いところを突かれてしまい間延びした声が出る。しかも年下の恋人に気を遣わせるなんて本当に無様だ。
「大丈夫、大丈夫。幻太郎が呼びたくないんだったら今まで通り〝伊弉冉さん〟で良いんだし。名前で呼んで欲しいって流石に自分勝手過ぎたね。ホントごめん」
本心からそう言った。気に病む恋人を安心させるためでもあり、自分を言い聞かせるためにも。そうだ。呼び名なんて本人の好きにさせたら良いのだ。たとえ寂しさを感じようとも、彼とともに過ごせる日々の幸せを噛み締めるべきなのに、あんなこと言って恋人を困らせるなんて本当にどうかしていた。
そう考えていると俯いた彼の口から小さく何かが呟かれたため「ん、何?」と聞き返す。
「嫌、だとかじゃなくて……名前で呼ぶの……恥ずかしいんです」
「……へ?恥ずかしい?」
嫌じゃなくて、恥ずかしい……予想外の告白に暫し目を瞬かせる。
「……何度か貴方のことを名前で呼ぶ練習をしてみたんですけど、こう、恋人感がありすぎて……嬉しくて、恥ずかしくて……汗がいっぱい出て、顔も熱くなるし……こんな姿見られたくなくて……一人で呼び慣れるまでは名字で呼ぼうと……」
そう言って黙り込んでしまった彼の表情はよく分からないが、前髪の隙間からちらりと見える頬が真っ赤に染まっていたため、言っていることに嘘はないだろう。
「いやいやいや。ちょっと幻太郎、顔上げてよ〜」
「だ、駄目です。今、小生かなり情けない顔をしてますので」
「良いから上げて。ほら」
両頬を手で優しく包むと、目線を合わせるようにして顔を上げる。そこには顔を赤く染め、翡翠の瞳を美しく潤ませる幻太郎の姿があった。
「はは!全然、情けなくないじゃん。めっちゃ可愛い」
「〜〜〜〜っ!ホストだからって小生にまで世辞を言わないでください!」
「そんなんじゃねぇって〜!ホントに幻太郎が可愛くて言ってるんだから〜!」
「……本当ですか?」
「ホントのホント!信じて」
「……分かりました」
「俺っちはどんな顔の幻太郎でも可愛いって思うし好きだからね」
「……よくもまあそんな恥ずかしい台詞吐けますね」
「ホントのことだから全然恥ずかしくないし〜!」
「……じゃあ名前を呼んで、小生が変な顔になっても絶対に揶揄ったりしないでくださいね」
「呼んでくれんの!?」
「貴方が揶揄わないって約束してくれるなら……ですけど……」
「するする!約束する!呼んで呼んで!」
幻太郎は頬にある俺の手を自分の手で握り込み、深呼吸を繰り返した。暫くそうしていたが意を決したのか、上目気味に俺の瞳を見つめると小さな声で「……一二三」と呟いた。
言った通り、顔は更に赤みを増して、あらゆるところから汗が吹き出している。限界とばかりにぎゅっと目を閉じる姿に愛おしさが募った。
「……やっべー。思った以上に嬉しい」
握られた手からそのまま体を引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまう。本当に本当に大好きが溢れて仕方ない。
「ちょ、ちょっと!小生、汗かいてるので!」
「ん〜?幻太郎の汗の匂いも大好きだよ」
「へ、変態!」
「はいはい、変態です。てか幻太郎、何でここ知ってるの?住所教えたっけ?」
「……いえ、観音坂殿に教えていただきました。観音坂殿の会社に行って」
「はぁ〜!?」
体を離して幻太郎の顔を見ると、きょとんとした表情をしていた。いやいや、きょとんじゃねぇし。
そしてはたと気が付く。独歩からのメッセージって……。スマートフォンを手に取りメッセージアプリを開くと、独歩から『おい、夢野先生が家を教えてくれって会社に来たぞ。どういうことだ?』という内容が送られてきていた。
「そこはフツー、俺っちに連絡取るとこじゃないん!?」
「あ、そうですね。言われてみれば」
「えぇ〜!今気づいた系〜?」
「……気が動転していたんだと思います。貴方から愛想を尽かされて捨てられるんじゃないかと」
なるほど。汗だくになっていた理由がやっと分かった。幻太郎だって不安だったのだ。走って汗だくになって、わざわざ独歩の会社まで行き、また走って俺に会いに来てくれた。一二三が幻太郎のことを考えていた裏で幻太郎も一二三のことを考えてくれていたのだ。好きだから無様でかっこ悪くてみっともない。
「あーもう、嬉しすぎる。反則」
彼の肩にもたれかかると再び抱き締める。おずおずと背中に回された手の熱さでさえ愛おしい。
「愛って良いねぇ〜……」
「ふふ、何ですかそれ」
「んーん、何にも。ね、また名前呼んで」
「……貴方、小生の顔が変になるの楽しんでいませんか?」
「違うって〜!初めて名前で呼んで貰うのが嬉しいだけだって〜!お願い、呼んで」
「……一二三は変わり者ですねぇ」
本人としてはさらっと言ったつもりだろうが横目で見ると耳も顔も赤く染まっているため、まだ恥ずかしさが勝っているのだろう。
「幻太郎は何でそんなに可愛いかな〜」
「は、はあ〜!?」
「恥ずかしがってんの超可愛い」
額と額をコツンと合わせるとそのまま鼻先も触れ合わせた。近くなった距離に心臓が騒ぎ出す。それは幻太郎も同じのようで頬を染めたまま忙しなく瞳を泳がせた。
「あ、あの……」
「幻太郎。恥ずかしさついでにさ……このままキスして良い?」
「なっっ!!」
慌てふためく彼に追い討ちをかけるように「駄目?」と囁く。もう答えなんて分かりきっているようなものなのに、律儀に了承を得たくなってしまうのは自分の性質からか。それとも彼が狼狽える姿が見たいという意地の悪い心根ゆえか。
「そ、そういうのを聞くって、貴方って本当にデリカシーがないですよね!第一、こんなに顔を近付けておきながら今更、口付けのっ……んっっ」
もうこの際どちらでも構わない、と減らず口を黙らせるために唇を重ね合わせた。唇から発火したように全身に熱が走る。好きな人とキスをすることがこんなにも幸せだなんて知らなかった。刹那の触れ合いだったが、この一瞬は二度と忘れないだろう。
唇が離れると嬉しさから頬が緩む。照れ隠しに幻太郎の頬を摘むと当の本人はこちらを睨みつけながら「……どうせするなら聞かないでくださいよ」と呟いた。
「ふはっ!初チューした後の第一声がそれ〜!?」
「……貴方のやり方がまどろっこいからですよ」
「あー!そんなこと言っちゃう口にはまたチューしちゃうぜ〜?」
「だから……言わずにすれば良いじゃないですか」
口を尖らせてどこか拗ねたような表情を浮かべる幻太郎に思わず言葉を失う。不意打ちじゃん。ノックアウト。やられてしまった。
最初の出会いから一転して、ふたりがこんなにも甘い関係になることを誰が想像しただろうか。自らも想像出来なかった展開に愛というものの偉大さを思い知って短く笑った。
頬を撫でるとくすぐったいのか破顔する幻太郎を愛おしく思う。
「じゃあ遠慮なく」と囁けば、ふたりの影が再び重なった。