『冬は空気が澄んでいる』ーー
貧困差が激しくなった時期、街の治安は最悪になっていた。
そんな中で流行りだした民衆の為の娯楽が見世物である。誰もが奇っ怪なものに惹かれると言うのに聞こえはいいが、実質は自らと比べて"そうならなくて良かった"と自己満足と安堵を得るために行われる地獄のようなただの確認作業だった。
そんな世で当然非人道的な事柄は日常茶飯事で起きうる。
通りすがりの売人が目をつけたのは、まつ毛が長く顔立ちの整った青年だった。美麗であるが故に拉致られた幼少サンは、細く満足に食事も経ていない時を容赦なく縛り付けられた上床に投げ出されていた。
青年の彼が大人に対してできる抵抗などたかが知れてしまっている、怪我のひとつふたつ程度あいつらにとっては想定内で痛手にすらなり得ない。
よく暴れる奴だな
その一言を聞いて意識を落とし、気付いた時には見知らぬ薄暗い部屋に自分と似たような格好で打ち捨てられたような人が大勢いた。
あぁ…クソ。
この世に神がいるなら呪い殺してやりたいと思わずに居られようか。昔から聞かされていた祈りなど何の役にも立ちやしない、お高く止まって見下ろしているだけの奴に助けを求めたところで意味なんかなかったのだと、その時既に悟った。
部屋には人が増えていく、当然食事なんてなく環境は酷いものだった。
これからどうなる、売られバラされでもするか?
1文も入ることの無い自分への価値など今更どうだって良かった。
周囲の人間が日に日に減っていくのは、売られたからか死んだからか、5日過ぎたあたりで気にかけることもやめた。
いっそ死んでやろうかとさえ考え始めた時、いつものように部屋の扉が開いて子供が投げ込まれる。
何度人間が人間の扱いを受けないままこの扉を行き来したのだろう。
俺が入ってくる人間に対して向ける目はもはや同情すらも映すことはなくなっていた。
筈だった。
そいつはふらつきながら何も無いところでつまづいて転び、ずさっと大きな音を立ててちょうど俺の前に倒れ込んだ。
どんくせェガキだと、口にすることもめんどくさくて視線だけを向ける。近くに来られたら邪魔でしかないと目で訴えかけて、ガキがまだ歩けるうちに離れるよう意図したはずのそれだった。
すうっと、目の前に小さな星空が現れたのかと思った。
「…お兄さん…きれい…」
小さな言葉と共に向けられたのは、微かに青く濁りのないやけに美しい瞳だった。
「は…」
この薄暗い部屋の中でも、その目は確かにきらきらと輝いている。
その日の夜、初めて地獄のように感じていたこの場所で1つの光を見た。
…
「お兄さんのまつ毛すっごい長いですね!」
「……うるせぇ、話しかけんな」
あろう事か目が合った事を俺はかなり後悔していた。こいつ、今の自分の状況分かってんのか?
あまりにも場違いな明るさの声は嫌になるほど頭に響いた。
その上笑って声をかけてくる、正直もう気が狂ったのかと考えたが至ってそいつは平静らしい。
こんな中で声をかけていられるなんて、最早それこそ正気ではないような気がするが頭を動かそうとすればするほど体力も何もかも使う。
もう一言も返さないと決めて居眠りをし続けようと決めた。
というのに、やはりこいつは話しかけてきた。
1週間ぶりの少ない飯を投げ込まれた時、もはやこの部屋で生きている人間は半分くらいになっていた。
おかげでそれなりに飯は食えたが味のことを考えたら当然喉なんて通るもんじゃない。
味覚を考えないようにしてようやく解けた手の縄を括り付け、無心で口に運ぶ。
食感も何もかも最悪だったが、泥食って死ぬよりマシだと少しずつ食べ慣れ始めた瞬間に
「…ねんど食ってる気分…」
「…〜っクソが!」
隣でこいつが的確な表現をしちまったせいで、飲み込みかけていたそれを留めてしまったのだ。
最悪だ、考えないようにしていた努力は一瞬にして無になり食欲と言うには薄すぎるがそれすらも消え失せる。
隣でガキは小動物見てぇにビクッと肩を跳ねさせて小声で謝ってくるが、怒るのも馬鹿らしくてその日俺は1度もガキの目を見なかった。
…
食事とは言えない、限りなく残飯処理に近い事をさせられたからか微かに体力が戻っていた。
誰一人として顔を上げず横たわっているから今は夜なのだろう。ガキもそれなりには食べたらしく少し顔色が良くなったまま、ぐっすりと引っ付いて寝ていた。
「…通りで重ぇわけだわ」
ガキの体温は高い、やけに腹の辺りが熱いのはそのせいだったのだろう。冬には丁度いい熱源になりそうだなと考えた辺りで、もう一度俺は目を閉じた。
「起きろつってんだろ」
キンと冷たい水をかけられ目が覚める。あまりに突然で板でもぶつけられたのかと勘違いする、低い男の声がして自分がいつもの薄暗い部屋から出されたのだと直ぐに理解した。
目を開くと眩しいくらいの明るさ、薄暗い場所にいた俺にとってすぐ隣にある轟々とした炎は強すぎて、目も向けられなかった。
「確かに…綺麗な顔してんな…」
必死に目を慣れさせようと瞬きを繰り返す、部屋全体にあかりが行き届くこの場所で拘束されて品定めを受けさせられていた。
「このまま売っちまえば確かに金にはなるが…でもなぁ…俺たちは"まっとう"な商売してるからよ。ガキ拉致って売ったなんて"すぐに"バレちゃダメなんだよなぁ…」
ゲス野郎が。
何を考えているかなんてすぐにでも分かっちまう。
要するに、こいつらは目に見える建前を今作ろうとしていた。
怪我をおって邪険にされ家族に捨てられてしまった"可哀想な青年"を作り上げることで、そんな問題は容易に解決してしまう。
薄汚い人間性なんか今更といったものだが、どういう訳かここ数日で俺は少しだけ初めの頃の抵抗心を思い出していたらしい。
「…あ?」
唾を吐き捨て口の端を吊り上げてやる。ニィと笑い滑稽だと目を細めてやれば、そいつは立ち上がって勢いよく手を乱雑に伸ばし、商人は俺を掴みあげて拳を振り上げた。
…しかし、残念なことにその衝撃がいつまで経っても来ることは無い。
「あーあー…もう少しでこのガキ(商品)ダメにしちまうとこだったな。」
咄嗟に浮かんだそれはあえなく失敗した。腐っても底辺の商人だ、商品を傷つけることへの損失を理解しているらしい。
「あー腕とか足だけでせめて、大事そうな顔だけは傷つけねぇようにしようと思ってたが…
お前…唾吐いたよなぁ!」
俺の顔位ある手で頭を掴むと、そいつは俺の頭を壁に押さえつけた。
「…っぐ」
嘘だろ
甲高い、金属が擦れるような音がする。視界の端をキラリと銀が反射して心臓が嫌な音を立て始めた。
それはゆっくりと目の前に晒され、鋭い刃が目の前の壁に刺される。
「やめろ…」
「口が悪ぃんだろ、もっと悪くしてやるからよぉ…!」
口に突っ込まれた刃物は即座に引き抜かれ、直後に頭のすぐ近くを激しい熱量が走り抜けては悪寒と交互に襲ってくる。
「あ"っ…ぐ…」
ボタボタと口の中と外を血が滴る。痛みと衝撃で首を嫌な汗が流れた。
手で抑えようと咄嗟に口元に持っていくが、それは阻まれもう一度、今度はテーブルに叩きつけられる。
見える世界が白黒になったようにすら感じた、点滅を繰り返し痛みの感覚が遠くなりかけた時今度はもう片方の口の端を上に向けさせられる。
シュッという音がして視界を赤がゆっくりと飛んだのが見えた。
手が離されたと同時に掴まれていた手を口元に持っていき抑える、ぬるりとした水っぽさがてを伝って落ちていく事と口の中に広がる血の味が今の状況をはっきりと示していた。
「ほらさっさと戻れ。まだ傷増やしてやろうか?」
そいつはナイフをおもちゃのように扱いながら俺へ向ける。睨みつけたところで意味はなく、背中を蹴られて元いたあの部屋へと追いやられた。
戻った時、ガキは直ぐに俺の近くによってきた。顔全体が熱っぽく、喉は血が通り過ぎて乾ききっていた。
「お兄さ…だいじょ…」
「…」
口を抑えて元の場所へ歩き座り込んだ。ガキは心配そうに俺を見つめてはオロオロとした様子を辞めない。視界にうっとおしさを感じて、ガキを座らせるために片手で頭を掴んだ時だった。
そいつは何を勘違いしたのか、手に頭を擦り寄せた。俺がガキを撫でているかのようで、呆然とした瞬間にするりとその温もりは離れる。
そうしてつぎには、抑えてる口元へ小さく触れるように唇を押し付けた。
音もなく、ただ肌が触れただけ。
だと言うのに、このささやかなガキの行動はやけに慈しみに満ちていて。ゆっくりと間近で向けられた星空の瞳に全てを見透かされたような気さえした。
「てめっ…ぇ…っ……」
間を置いて言葉が飛び出たが口を開く度に痛みが走って喋る所ではない。ぐるぐると頭の中を痛みと直前の星空が繰り返し現れては、心臓がバクバクとうるさかった。
…もうしばらくこいつに口を聞いてる場合じゃないと、ガキに背を向けて横たわる。
「…お兄さん?お兄…さん…」
「…」
ゆさゆさと背中を小さい手が押すが振り返る気は無い。次第に呼ぶ声は消えていき、その夜薄暗い部屋には囁くような鳴き声が響いていた。
…
…
目が覚めた時、そこにはやはり星空が広がっていた。ガキは輝く瞳で俺を見下ろして、何も言うことなく静かに手で触れてくる。
「…」
うるさくなくていいと、目を逸らしながら思う。何も答える必要が無いから口も動かす必要が無い。昨日の今日で傷跡は少しだけ塞がり、喉に張り付いていた血の味も少しだけ薄くなってきた。
俺の目が開いたのを見てガキは触れていた手を名残惜しそうに離して、自分も離れようか少し迷っているように見えた。
…何をどうしたらこんなにも思いやれるガキが生まれるんだと、考えずにはいられなかった。
ひとつだけ。初めに言われた言葉を思い出した。
大きく口は開けないから、小さく口先だけを動かし言葉を紡ぐ。
「ガキ…、俺の顔…醜いだろ…」
答えを聞くことが恐ろしかった。それでも聞かずには居られなかったから、掠れそうな震え声で尋ねる。
ガキは少し間を置いて、口を開いた。
聞きたくないというように、俺は自然と目を閉じてそっぽを向く。
されど、
「お兄さんは、ずっとずぅっと綺麗ですよ」
「っ…」
続いた言葉は柔らかいものだった。
「わ…」
その日初めて、俺は自分からガキに手を伸ばした。
驚いたように見開かれて向けられた瞳には、いつもよりも多く星があるように見える。
きらきらと音すら聞こえてきそうな、あたたかい存在を両手で抱きしめる。小さくて温いそれは、やはり冬場にあって欲しいと思わずには居られなかった。
「…お兄さん、赤ちゃんみたい」
ふふと笑う声が耳に届いて、心の中で小さくうるせぇと悪態を着く。
口の端を上げても痛みはない、ただ少しだけ。
ピリと、鉄に混じってしょっぱい味もした位だった。
腕の中の温もりを抱えて、まるで母がそばに居るように包まれてその日俺はぐっすりと眠った。
離したくないと、思えた小さな存在に間違いなく俺は救われていたのだ。
明日からもう少し話すことを増やそう、こいつで遊んでやろうか。ほんの僅かに見えた生きる希望を明日に置いて、星を最後に瞳を閉じる。
そうしてつぎに目を覚ました時、
腕の中から星空はまっさらと消えていたのだ。
…
…
…何日が経っただろう。
光のない部屋で軽い食事と水で流されるだけの洗浄をくらい、基準も何も無い中で日付の感覚は無いに等しかった。
口元のそれはカサブタとなり、あともう少しすれば治ると直感は告げている。
けど、そんなことどうでも良くなっていた。
周期を失った星空のない夜は、ただただ何よりも地獄だった。
痛みも希望も明日も分からない空間で、ひたすら時間が過ぎているだけ。
微かな物音に視線だけ向けては元に戻す作業をしばらく繰り返していた。
冷たい板を辛うじて床だと認識して、横になった時。いつぶりかの足音が聞こえた。
それは近くでやみ、扉がひらかれる。
顔を上げると、ふらつきながら小さな存在が確かにこちらへと歩んで目の前で転げたのだ。
間違いなく、それはあいつだった。
すぐに寄って支える、どんくせェと口の端を上げて口にするはずだった。
…虚空の闇を見るまでは。
「…ぁ、おにい…さん…?」
か細い声とぶるぶると震える体は、最後に触れた時よりも随分と冷たかった。
あれだけ温かった体温はほとんど無く、何よりも頭に巻かれた白い包帯は本来見えるはずの星空をすっぽりと覆い隠していた。
包帯を上げようとした手を止めて、ゆっくりと瞳の部分に手をかざす。
ガキはそれに気づくと震えながら俺の手に手を重ねた。
冷たく小さい手だった。ポタリと、雫が零れて俺たちの手にかかる。
俺の手よりは冷たくて、こいつの手よりはあたたかい雫。
ガキは見えない目でも全てをわかったように、俺の顔へ手を伸ばした。
すぐ近くに顔を寄せて届く様にすると、ふふっとそいつは前みたいに笑う。
そして言葉が出てこない俺の代わりに、ゆっくりと口を開いた。
「おにいさん…やっぱり、ずぅっと…きれいだなぁ」
笑って、そういったのだ。
段々と失われていく熱を覆うように強く抱き締める。
瞳にかざしていた手を少し撫でるように下ろし、星空を閉ざさせた。
ようやく絞り出した言葉を形作って優しく大事そうに俺は言葉を呟いた。
何よりも綺麗なのは
「…お前の方だ」
…
「…おい、そのガキ死んだだろ」
「…」
「はぁー…部屋に死体置いとくと怒られんだよ。さっさと渡せ」
「…」
「おい!聞いてんのか?さっさと」
「……幾らだった」
「は?」
「こいつの目は、幾らで売れたんだよ」
「さぁな。けど頭が鼻歌歌ってたし、相当良い値したんじゃねぇの?ほらそいつ渡せ」
「…」
「…てめぇいい加減にしろ、こっちも…あ?目、、?」
劣化していた床から剥いだ石版を、そいつの目に叩きつける。酷く狼狽えながら、足をよろめかせて男は壁にもたれかかった
「…」
手の中で冷えきった存在をもう一度抱え直す。
二度と開かれることも戻ることも無い星空は、瞳を閉じればいつでも思い浮かぶのに、この先本物を見ることはおそらく叶わない。
扉の先に差し込む光を見て深呼吸をする。
白い息が現れて、形もなく消えていった。
ーーー
冬の方が空気澄んでるから夜は星が綺麗に見えるよねっていう話。