藍曦臣の告白(仮)冬の気配が強まりはじめた、霜月の雲夢。
蓮花塢の修練場では、宗主の誕生日を祝う宴が盛大に行われていた。
蘭陵金氏ほどきらびやかではなく、姑蘇藍氏のように慎ましやかでもない。
ほどよく贅沢で賑やかな宴は、夜どおし盛り上がるだろう。
露天の修練場には大きな卓と長椅子がいくつも並び、卓は豪華な料理や酒で埋め尽くされている。
江氏の門弟たちは、滅多に口にできない美味を全力で堪能していた。
長椅子に腰かけた江晩吟は、そんな彼らを静かに眺めている。
「江宗主……」
一人で杯を傾ける江晩吟に、誰かが背後から声をかけてきた。
振り向くと、そこには藍曦臣がいた。
体裁的に宴の招待状を送っていた事を、江晩吟はすっかり忘れていた。
今日の彼は喪服のような白い衣ではなく、爽やかな淡い水色の衣を纏っている。
透き通るような白肌に映えるその色合いは、とても美しい。
思わず見惚れてしまった自分に気づき、江晩吟は慌てて目をそらす。
「どうされました?」
それに気づいていないのか、それともあえてなのか。
藍曦臣は、やわらかく微笑みかけてくる。
上質の薄絹がふわふわ揺れるような笑みが眩しくて、江晩吟は言葉が返せなかった。
藍家双璧と呼ばれて名高い美男に笑いかけられて、平常心を保てる者はこの世にどれくらいいるだろうか?
「別に……なにも……」
どうにか返事を絞り出したが、驚くほど声がか細くなってしまった。
江晩吟の白い頬に、じわじわ熱が集まる。
(呑みすぎてしまったか……)
顔だけでなく身体まで熱いのは、強い酒のせいに違いない。
江晩吟は動揺を隠すため、わざと眉間にぎりりと皺を寄せた。
「お隣よろしいですか?」
「……どうぞ」
短く返事をすれば、藍曦臣は礼を述べて長椅子に腰を下ろした。
「江宗主、お誕生日おめでとうございます」
芳しい花の香りが漂うような面もちで祝いの言葉をかけられ、江晩吟の心臓がどきんっ!と跳ねる。
ますます調子が狂い、上手く言葉が出なくなってしまう。
「……ありがとうございます」
わずかな沈黙の後に出てきた礼の言葉は、ぶっきらぼうな響きを含んでいた。
江晩吟はそれが悪い癖だと自覚しているが、なかなか直せない。
「さきほどは魏公子と楽しげに話されていたので、声をかける機会を失ってしまいました」
空の杯に酒を注ぎながら、藍曦臣はどこか寂しげな表情を浮かべた。
憂いを帯びたその横顔は艶めいていて、江晩吟は再びどきりとしてしまう。
(美男は得だな。どんな表情も絵になる)
そんな事を考えつつ、注いでもらった酒に口をつけた。
突然襲ってきた緊張感のせいか、酒の味がまるで水のように感じる。
「やっと貴方の隣に座れて嬉しいです」
心底嬉しそうに笑いかけられ、江晩吟は酒を吹き出しそうになってしまった。
半端ない破壊力を持つ微笑みは、至近距離だと心臓に悪いことこの上ない。
「私の隣にいても何も面白くないでしょう」
「まさか。私にとっては、貴方とこうして話ができる今が何より幸せです」
杯を置いてそっぽ向くと、唐突に甘い言葉を放たれた江晩吟は耳まで真っ赤になってしまった。
(そ、そのような事は女人に言え!なぜ私に言う)
叫びたい衝動に駆られるが、そんな事を言えるはずもない。
どう反応すれば良いか分からず、江晩吟は黙り込んでしまった。
彼は誰にでも、このように歯の浮くようなことを言うのか?
だとしたら、勘違いしてしまう女人が後を絶たないだろう。
それとも、自分だけが特別に言われているのだろうか?
どちらにせよ、江晩吟にとって心臓に悪いことに変わりはない。
江晩吟は酒器を掴むと、杯に注がずそのままぐいっと一気に呑み干してしまった。
強い酒が臓物を燃やしそうなほどに、熱くしみわたる。
「そんな呑み方はいけませんよ」
酒器を奪われたかと思ったら、酒で濡れた下唇を指でそっとなぞられた。
江晩吟の震える唇の端からわずかに唾液が漏れると、藍曦臣はそれを指先で受け止め、ぺろりと舐め取ってしまった。
(私の唾液を……舐めた?)
驚愕し、江晩吟は目を剥いた。
姑蘇藍氏の宗主が、まさかこのような行為に及ぶとは……
江晩吟は、彼の顔を直視できなくなってしまった。
慌てて立ち上がり、修練場の中央で肉を焼く魏無羨のところへ駆け寄ろうとした。
しかし、それは叶わなかった。
「ひっ……!」
突然、手首をがしっ!と強く掴まれ、江晩吟は小さな悲鳴をあげた。
振り払おうにも、力が強すぎてびくともしない。
「江宗主!」
切羽詰まったような呼びかけに、江澄はハッとして振り返った。
「お伝えしたいことがあります!」
いつも穏やかに喋る藍曦臣にしては珍しく、やや早口になっている。
そして、声が大きい。
耳が痛くなりそうな音量に、江晩吟は思わずびくっと肩を揺らしてしまった。
「その前に、貴方に捧げるものがありました!」
強張る江晩吟の手首を離すと、藍曦臣は軽やかに飛び上がり、蓮花塢の屋根の上に立った。
絵巻の天女のように優美な姿を見た来客たちが、驚いてざわめく。
「藍湛、沢蕪君の様子おかしくないか?」
豚一頭を真剣に焼いていた魏無羨も異変に気づき、藍忘機の袖をくいくい引っ張った。
満面の笑顔で屋根に立つ兄の姿を見た藍忘機は、ぎょっ!とした顔になり、溜め息をついた。
「誰かが兄上に酒を呑ませたな……」
「どういう事だ?」
道侶が呟いた言葉の意味がわからず、魏無羨は聞き返した。
「昔、兄上が酒と茶を間違えて呑んで大変な事になった」
「沢蕪君も酔ったら面白いのか?その時の話、もっと詳しく聞かせてくれよ!」
興味津々で目を輝かせる魏無羨に、藍忘機は静かに首を横に振った。
そのやりとりを傍らで見ていた江晩吟の顔色が、どんどん青ざめていく。
(まさか、唾液に混ざった酒で酔ったのか?)
家規で酒を禁じられている姑蘇藍氏の人間は、信じられないほど酒に弱い。
強い酒を口にした直後の江晩吟の唾液を舐めた藍曦臣は、それで完全に出来上がってしまったようだ。
「酔って屋根に登るなんて危ないじゃないか。連れ戻さなければ……」
「ああなった兄上は誰にも止められない」
責任を感じた江晩吟が慌てて屋根に登ろうとすると、藍忘機がそれを引き止めた。
「酔ってても落っこちるようなヘマする人じゃないだろ。屋根の上で何をしてくれるのか楽しみじゃないか!」
まるで子供のようにワクワクした様子で、魏無羨は江晩吟の腕を掴んだ。
「はなせ!宴で怪我人を出すわけにはいかない!」
二人がもつれあっていると、藍忘機が横から魏無羨を奪い取るようにサッと抱きすくめてしまった。
「らんじゃん……」
突然の抱擁にほんのり頬を染めた魏無羨は、甘えたようにその腕に頬をすりすり擦りつけはじめた。
二人のまわりにだけ桃色の空気が漂っているように見えて、江晩吟は不愉快そうに舌打ちした。
「貴様ら!人の誕生会でいちゃ……」
「江宗主!」
呆れた江晩吟の文句は、屋根の上から藍曦臣の大声によって遮られた。
その場に居る全員の視線が、屋根の上に集中する。
「お誕生日おめでとうございます!貴方の為に作ったこの曲を捧げます!」
蓮花塢に響き渡るような声で叫ぶと、藍曦臣は懐から裂氷をそっと取り出して構えた。
夜風が強まり、彼の豊かな黒髪をさらさらと揺らしていく。
世界中のあらゆる美を凝縮したような、甘くとろけるような調べが拡がる。
現世にこれ以上綺麗な音は存在しないのでは?と、思うほどに美しい音色にはかすかな哀愁も感じる。
三日月を背にし、神仏のような崇高さを醸し出しながら裂氷を奏でる姿に、誰もが見惚れてしまった。
江晩吟も例外ではない。
演奏が終わり、静寂が訪れた後もしばし誰も声を発する事ができなかった。
藍曦臣の笛の音に恍惚とした人々は、盛大な拍手で彼を讃えた。
「沢蕪君!素晴らしかったです!」
「まるで天上の音楽を奏でているようでした!」
称賛の声に照れたように笑うと、藍曦臣は突然表情をきりっと真剣なものに変えた。
そして、すぅっと息を吸うと、凛とした声で思いを叫んだ。
「江宗主!私は貴方をお慕いし、お付き合いをしたいと思っています!」
その言葉を耳にした全員が、驚愕して目を見開く。
今この場に居る誰もが、この展開を想像してなどいなかっただろう。
一番驚いたのは、告白された本人。
あまりにも突然すぎて、一体何が起きたのか理解できずにいる。
(沢蕪君が私を慕っている……?)
あの沢蕪君が自分に想いを寄せているとは、夢にも思ってもいなかったのだ。
驚きを隠せず、江晩吟は固まったまま動けなくなってしまった。
「貴方のその綺麗な黒髪一本一本も、その眉間の皺もなにもかもが愛しい!」
熱烈な告白が、さらに続く。
その言葉選びに、魏無羨は道侶の腕の中でうっかり「ぷっ!」と、吹き出してしまった。
藍忘機は心の中で、「兄上は趣味がよくない」と呟いた。
一方、江晩吟はあまりの衝撃的な言葉の数々に混乱し、上手く思考をまとめられなかった。
「沢蕪君、それはどういう意味で……?」
やっと出た問いかけに対して、藍曦臣は口角をぎゅいんっと引き上げながら即答した。
「そのままの意味です!貴方を愛しています!」
「…………」
沢蕪君はどうやら本気のようだと、皆ようやく気づいたらしい。
宴は別の意味で大騒ぎになりはじめた。
江晩吟はこの世に存在しないものを見るような目で、藍曦臣を見つめている。
(これは夢だ……悪い夢に違いない。こんなことがあるはずがない!私は今まで誰かに好かれたことなどない!見合いだって、何度失敗したかわからないというのに…)
「月を背に愛を告白とは、沢蕪君もなかなかやるな!江澄、まんざらでもないんだろ?顔が赤いぞ~」
魏無羨はにやにやしながら、染まった江晩吟の頬を指でつついた。
魂を抜かれたような様子の江晩吟だったが、厠に行っていた金凌が戻ってくる気配を感じて我に返った。
(阿凌にこの状況を知られたら、外叔父としての威厳が丸潰れだ……)
ようやく思考力が戻ってきて状況を把握すると、急に冷や汗がだらだら出てきた。
宴の参加者達の好奇に満ちた視線が突き刺さってくるような錯覚に襲われ、いても立っても居られなくなる。
(とりあえず、沢蕪君をなんとかしなければ!)
それだけしか考えられなくなった江晩吟は、素早く屋根に飛び上がった。
「沢蕪君、失礼します!」
同時に体当たりしたかと思うと、正面から腰を掴んで藍曦臣を一気に担ぎあげてしまった。
さほど身長差はないとはいえ、鋼鉄ような筋肉に覆われた肉体はかなり重い。
腕も肩も引きちぎれてしまいそうだったが、江晩吟は歯を食いしばって全力で屋根の上を走った。
されるがままの藍曦臣を担いで走る江晩吟に誰もが注目していたが、彼にとってはそれどころではない。
金凌が戻る前にこの場を離れなければ……と、必死だった。
***
私室から近い屋根に着いたところで、江晩吟はようやく足を緩めた。
藍曦臣を落としてしまわないようにしっかり抱えなおし、慎重に屋根から回廊に下り立つ。
男二人分の重みのせいで、どすん!ぎしぃぃ……と、派手な音を立てて床板が軋んだ。
( 兎の餌みたいな物しか食っていないはずなのに、なんでこんなに重いんだ! )
さすがに足腰にきてふらついたものの、なんとか倒れずに踏みとどまった。
常人が飲酒して全力疾走すれば心臓に負担がかかり、最悪死ぬ可能性もある。
しかし、鍛えられた仙師であれば多少息切れする程度。
長身で筋骨隆々の男を担いで走ったことは、江晩吟にそれなりの疲労を感じさせるには十分すぎた。
「大丈夫ですか?」
担ぎ上げた時も移動中も一言も発しなかった藍曦臣が、江晩吟は心配になってきた。
床に寝かせて顔を覗きこんでみても、返事はない。
瞼を閉じ、嬉しそうに笑っているような顔で眠ったままだ。
(あの状況で眠れるなんてどういう神経をしてるんだ……)
江晩吟は怒りを通り越して、呆れ果ててしまった。
しかし、客人である藍曦臣を、このまま放置していくわけにもいかない。
肩を貸す形でどうにか立たせると、自室まで連れて行くことにした。
一歩進むごとに、ずしりと腕にかかる重みが増す。
それでもなんとか歩き続け、私室の前にたどり着く頃にはもうくたくたになっていた。
(なんで誕生日にこんな目にっ……!)
江晩吟は己の運の悪さに腹を立てながら、片手で扉を開けた。
室内は真っ暗だったが、窓辺に近寄れば月光が差し込んでくる。
扉を閉めると、死人と見紛うほど静かに眠る男を起こさぬよう、そっと寝台に寝かせた。
さて、問題はこの厄介な客人をどうするか。
酔い潰れて寝落ちた者を起こす方法といえば……
頬を張る、揺さぶる、大声で呼びかけるなど様々。
起こす方法を考えながら、江晩吟は寝台の側に座って寝顔を覗きこんだ。
十代の頃から世家公子風格容貌格付一位だけあって、きっちり目を閉じた寝顔も美しい。
眉目秀麗とはまさに、彼の為にある言葉だろう。
(本当に整った顔だな……)
江晩吟はそう考えながら、まじまじと観察した。
伏せた瞼を縁取る睫毛は長く、鼻梁は高くて形が良い。
寝息を漏らす薄い唇からかすかに覗く歯は白く、真珠のような輝きがある。
その美貌を見つめていると、先ほどの告白を思い出し、江晩吟の胸の奥はじわっ……と熱くなった。
(これほどの美男が同性に愛を告げるなんて、なにかの間違いだ…… )
酔いのせいで、思考回路が正常ではなかったに違いない……
そう自分に言い聞かせ、 そろそろ起こすことにした。
そっと肩に手をかけた途端、藍曦臣の白い手が素早く動き、江晩吟の手首を掴んだ。
「はっ…… 」
そのまま強い力でぐいっと腕を引っ張られ、江晩吟は体勢を崩して藍曦臣の胸に倒れ込んでしまった。
すぐに身体を引き離そうとしたものの、いつの間にか両腕を腰に回されてしまっている。
【後編R18に続きます】