五七版夏の企画「クチナシ」「ね、七海! あれたべたい!」
つらつらと続いていた声のトーンが、ひときわ高いものになった。
革張りのソファに投げ出された五条の長い脚が、ばたばたと上下に振れている。そのやかましい動きが、隣に座る七海の視界の隅に引っかかる。
「あれ、とは?」
七海は目線を上げることなく問いかけた。本は今まさに佳境に入ったところだ。ここで切り上げるという選択肢は、七海のなかに存在しない。
「あれだよ! えーっと、あまくて黄色い、そう、オマエがお正月に作ってくれたやつ!」
「もしかして、栗きんとんですか?」
「そう、それそれ!」
五条のつま先がぴん、と伸びた。彼が履いている紺色のスリッパのかかとも、そのつま先の動きと連動するかのように、床に向かって真っ直ぐに垂れている。
「……アナタ、今の季節がわかっていますか?」
長いため息をついてから、七海は読みかけの本を閉じた。先ほどまでは確かにみなぎっていたはずの読む気力が、みるみるうちに消え失せてしまった。
「ん? 夏だね?」
「そう、夏です。さつまいもならまだしも。アナタ、栗の収穫時期はさすがにご存じですよね?」
「うーん、秋だねぇ」
「そうです。秋です」
五条はこてりと首を傾けるようにして、こちらを向いた。その表情から察せられるものに、七海はまたひとつ、ため息をついた。
「秋まで待てないんですか?」
「だって、今食べたい」
五条はじつにあっけからんとしている。七海は指の腹で己のこめかみを揉んだ。
「作るにしても、栗の甘露煮の冷凍ストックがないので、市販品を使用することになります。ですから、今年の正月に作ったものとは味が変わると思いますよ?」
「それでもいいよ」
よっと、という掛け声とともに、五条が反動をつけて上体を起こした。そうしてソファの上であぐらをかくと、真正面から七海の顔をぴたりと見据えてくる。
「だって、オマエの作ったやつが食べたいからさ」
五条は笑った。
その笑顔は、最強の呪術師としての彼が見せる、挑発的なものではない。
五条悟という名前の、ただのひとりの人間としての彼が見せる、屈託のない笑顔だった。
「……わかりましたよ」
七海はふっ、と小さく息をついた。この笑顔にだけは、昔からめっぽう弱い自覚がある。
七海は膝に手をつき、ソファから立ち上がった。
「その代わり、おつかいに行ってきてください」
「えー。七海も一緒に行こうよ」
すかさず五条が駄々をこねてくる。
「暑いのでいやです」
七海は窓のほうを見た。レースカーテン越しに透けて見えている窓ガラスは、刺されるのではと思わんばかりの、ぎらりとした輝きを放っている。
「作るのは私なんですから。アナタもそれくらいの労働はしてください」
「ちぇっ、わかったよ」
五条はゆるく頭を振ると、ソファから腰を浮かせた。天井に向けて両腕を突きあげ、背中をしならせ大きく伸びている。その姿は、猫がこれから散歩に出かけようとする様にも似ていた。
「なにを買ってきたらいいの?」
「栗の甘露煮とさつまいも。あと、クチナシの実です」
「クチナシの実?」
「さつまいもを色づけるのに使うんです。栗の甘露煮を作る際にも使用しますが、今回は市販品なので」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、行ってくるね」
五条は会話もそこそこに、そそくさと玄関に続く廊下へ消えていった。
いつもよりも格段に行動が早い。
そんなに食べたかったのかと、七海はくつくつと喉の奥で笑った。
真夏に食べる、季節はずれの栗きんとん。
果たして栗きんとんにアイスコーヒーは合うのだろうか、などと考えながら、七海もまた支度に取りかかることにした。
大きな入道雲が、高い空にぷかぷかと浮かんでいる。もこもことしていて形のはっきりとわかるそれは、手で掴めそうなほどに分厚い。
「クチナシってさぁ、花は白いんだね。実があんな感じだからさ。僕、てっきり花も黄色いのかと思ってたよ」
遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。五条は木桶からひしゃくに水を掬った。
水は夏のまぶしい陽の光を受けて、揺れ動くたびにきらきらととりとめのない反射を繰り返している。
「あのとき、なぜだか無性に食べたくなっちゃったんだよね。でも、やっぱり作ってもらっといて良かったよ。オマエが作るやつがいちばん、おいしいから」
少し開けた場所だからか、ここは幾分、風通しがいい。風は生ぬるい。しかし空気の流れがあるだけでも、体のなかから沸き起こるほてりが、わずかばかりマシになるような心地がする。
五条はひしゃくをかかげると、つるりとした石のてっぺんから水をかけた。水は筋を生み、枝のように分かれ、下を目指しておりていく。
水が地に染み込むまで、五条はその流れを見つめていた。
「……いや、違うな。オマエが作ってくれるからこそ。いちばん、おいしかったんだろうな」
五条は目の前に建つ石に手で触れた。そのまま片膝をつく。なめらかな石の側面に刻まれている彼の名を、指先で一文字ずつ、丁寧になぞっていく。
「僕は幸せ者だよ」
五条はそっと目を閉じた。
彼と過ごした日々。その記憶を辿り、己の胸のなかでひとつひとつ、想い起こしていく。
彼が居なくとも、自分は生きていく。
それでもこの行為だけが、己を五条悟という名前の、ただのひとりの人間に戻してくれる。ひとりの人間であることを、思い出させてくれる。
五条は閉じたときと同じように、ゆっくりとその目を開いた。
「あれからさ、僕もまじめに料理ってやつをするようになったんだ。オマエが几帳面にレシピを残してくれてたおかげだね」
五条は笑った。屈託のない笑顔だった。
「オマエがいたときは、作ってもらってばっかりだったけど。次は僕がオマエに手料理をふるまうよ」
もう一度、彼の名をなぞる。
「だからさ、楽しみにしてて」
石から手を離し、五条はひしゃくと木桶を手に取った。
「じゃあまたね、七海」
風がそよぐ。手前に供えた花が、穏やかに揺らいだような気がした。