第一部 第一話『博士とニーナと時々チキン』 世界線が異なると言うことは、同じ年代ながらにして実質、時間軸すら異なる事と同義だ。たった一つの発見、発明の違いで軽く百年分の技術レベルの優劣に繋がる。
現にこちらは別の世界線の存在を認知し、あまつさえ安定性を欠くとは言え行き来さえ出来るが、あちらは未だに理論上ですら平行世界の存在を証明できていない。
しかし、それが良い事なのかと問われれば素直に肯定する事が出来なかった。俺の愛しい子供たちは、その高い技術レベルの恩恵を一身に受けたが故に戦場で血に染まる事となったのだから。
「依然として通信途絶、か」
薄暗い部屋の中、ひとり呟いた。
目線の先には何かの化け物の如くおびただしい配線を生やしたモニター(お偉いさんの目を欺くために、偽装プロトコル付きのファイアウォールだのダミーデータプログラムだの独立ネットワークだの、ありったけの防衛策を講じた結果こうなった)。その無数に開かれているウィンドウの一つに、先の発言の通りの状況を示す文言が居座り続けている。
NO.217からの通信が途絶えて既に数日が経過していた。そもそもとして並行世界間の通信は時空以上のものを歪めているのだから不安定は前提事項ではあるが、それでも落ち着いて構えるなんて事はどうしても出来ない。
何かを紛らわすように上着のポケットからシガーケースを取り出す。ショートサイズの、とびきり強い銘柄だ。コイツは味がいい。うまい。そして身体には良くない。実に素晴らしい。
一本目を口に咥えつつ、ライターを探す。上着の右ポケット。ない。左ポケット。ない。落とした可能性が浮かび、ひどく焦ったものの、さっき使ったばかりだった事を思い出した。どこかにあるはずだ。ああ、ほら、あった。右のズボンのポケットだった。火を付ける。煙を吸い込む。深々と。ありとあらゆる毒が、自分の身体を攻撃していると思う。煙草の害というものは、なかなかのものだ。口腔ガンの発生率は、非喫煙者のおよそ三倍。食道ガンは二倍。肺ガンだと四倍。喉頭ガンに至っては、何と三十二倍だ。実にいい。素晴らしい。
俺の研究が、俺の愛しい子供が戦場に出た時から、何が正しいのかがわからなくなった。
自分で正しいと思う事をしたところで、結局のところそれが正しかったかどうかがわかるのは気が遠くなるほど後。いや、わかればまだマシだ。わからないまま終わるなんて事は十分にあり得る。だったら、もう終わってくれとさえ思う時がある。
早々に一本目を吸い切り、二本目に火を付ける。また深々と煙を吸い込む。何が正しいかわからないようになってから、明らかに喫煙量が増えている。
俺の研究は間違っていたのだろうか。もしそうだとするなら、俺は、今も間違い続けているのか。
澱んだ思考の端で視界が微かな変化を捉えた気がした。煙草はそのままに、意識だけそちらに向ける。
その変化が何であるかを認識した途端、俺は吸い殻で山が出来上がっている灰皿に煙草を押し付けていた。まだ半分以上残っていたが知ったことか。
卓上に散らばっている書類と邪魔な灰皿を隅に追いやり、コンソールを引き寄せた。そしてつい先程まで通信途絶の表示が居座っていたウィンドウを開く。
NO.217との通信回復を確認。間もなく簡素な状況報告のメッセージを受信。こちらも同じく大きな異常は無い旨のメッセージを送り返す。
それからしばらくの間文面にて事務的な報告、質問の応酬が続いた。いつまた通信不全に陥るかわからない以上、迅速に情報は受けなければいけないし、与えなければならないからだ。
初めこそはNO.217に各種異常が見られないかといった緊急性の高い話だったものの、幸いな事に通信状況に変化は見られず段々と緊急性の低い報告へと移行していき、そして完全に世間話の様相を呈してきた頃、あちらから映像でのやり取りをしないかという提案があった。
こちらとしても、自己申告だけではなく直接(たとえモニター越しだとしても)姿を見ることには大いに意味があるため、二つ返事で了承する。
あちらの世界線に行ったNO.217と言葉を交わすのは、これが初めてでは無い。俺はふと、NO.217の声を思い返す。
あちらの世界線では、こちらの生体パーツを流用できず、『人』である事を維持できない。そのため声帯はあちらの世界線の協力者のものだ。だから声に変化が見られるのは当然のことであるが、単純な声質による変化だけではなく……そう、内面的な要因による変化を感じたのが良く印象に残っている。
妙な感慨にふけっていたところで、あちらとの映像回線が繋がった。
それはもう何の異常もなくクリアな映像がモニターに映し出された。映し出されて、見事に止まった。
映像がじゃない。俺がだ。
「ァーーーーーーーー!」
奇妙なトサカとクチバシを付けたNO.217が奇妙な叫び声を上げる。俺は動けない。体は勿論の事、頭が一切動かない。
動けない俺の前で妙なクチバシとトサカが増える。NO.217がその人形の腹を押すと奇妙な声まで増える。
「ァ
切った。残響を残して薄暗い部屋に静寂が訪れる。
「……なんだいまの……」
なんだいまの。もう一度呟いてみるがやっぱり頭は働かない。なんだいまの。自分で言うのも何だが、俺はそれなりの修羅場は経験している。一歩間違えば死ぬなんて事は何度かあったし、今だって国を相手取って化かし合いをしているのだから、ちょっとやそっとの事では動じる事はないと自信を持って言える。だが、本当になんだいまの。
程無くして、再び映像が繋がった。トサカもクチバシも付けていないNO.217が今度は気まずさを、丼に盛ったらこぼれ落ちてしまいそうな程全身に纏っていた。
「ごめん、博士。怒った?」
「いや」
簡潔に答える。すぐに沈黙が訪れる。
「どうだ、ニーナ。楽しいか、そっちは」
自分で言った事ではあるものの、えらく陳腐な質問をしたものだ。遊びで向こうに送った訳ではないだろうに。俺の頭はまだ働いてくれてないらしい。
俺の急な質問にNO.217は幾分か驚いた様子だったが、そのおかげでか気まずさは多少和らいだようだ。直ぐに口角を上げて、笑った。
「うん、楽しいよ。大変な事はあるけど、それでも」
「そうか。なら、いい」
何が『いい』のかは自分でもわからない。だが、とにかくそう思った。
「ただ、ああいう事をする時は次から前置きをしてくれ。そうでないとこっちはキチンと反応が出来ない」
「え、チキン?」
「言ってない。おい、出すなそれを。出すな。出すなって」
そこからは完全な世間話に他ならなかった。緊急性のある話はなかったし重要な内容も何一つない。世間一般で言うところの、中身がないくだらない話だ。
ああ、でもNO.217はよく笑っていたな。俺も、少しは笑ったかもしれない。
通信を終えた俺はしばらく振りにカーテンを開けた。差し込んでくる光は朝焼けなのか夕焼けなのかすらも定かではなかったが、何故だか不思議と清々しい気分だった。
先程の楽しそうに笑ったニーナを思い返す。自分の研究が間違っていたかを、もう一度自問する。
「間違いなものかよ」
煙草を吸おうとして、やめた。
禁煙でもしてみるか。