ハツコイ「ナジーンさま」
どこか嬉しそうな声に呼びかけられたナジーンは、埋もれていた書類から顔を上げた。
眼前には執政官がひとりいるが、その手には何も無い。
普段ならば書類か、もしくは休憩をと飲み物や軽食を渡されることが多いが、誰かが扉から呼んでいる、とかだろうか。
ちらりと出入口に目をやるも、扉はきっちりと閉めきられていた。
「私事で非常に恐縮なのですが、この度結婚することになりまして」
照れながら二の句を継いだ執政官に、ナジーンは数度瞬く。
「それは悦ばしいことだ」
「はい。それに伴い、仕事を辞めたいと思っているのです」
時刻は終業間近だ。ずっと言い出すタイミングを伺っていたのだろう。
「彼女の実家の商いを学ぶことになりまして」
執政官は数字に強い。帳簿つけや国に提出する書類申請などで即戦力間違いなしだ。
給料としては城務めの方がいいだろうが、妻の家族と二人三脚で歩んでいくのも悪くは無い。
それでなくともファラザードは現在、アストルティア景気に潤っている。新しい商売のチャンスがごろごろ転がっているのだ。
少年のように目を輝かせる執政官を引き留めるのは難しいだろう。ナジーンは知らず苦笑した。
「分かった。では仕事の引き継ぎの計画を立てよう」
「はい。現在大きな仕事は任されていないので、通常業務のみになります」
「君の後任を選出しなければならないな。誰か候補はあるだろうか」
「それでしたら私の補佐官はどうでしょうか。今まで雑多な仕事を補佐して貰ってきました。私の代わりも務まるかと思います」
「検討しよう」
推挙された人物の人柄を思い起こしながら、ナジーンは頭の中で引き継ぎと教育予定を組み立てた。
「建国からよく働いてくれた君が寿退職とは分からないものだな」
「そうですね。招待状は出しますが、お忙しければ欠席していただいて構いません」
「いや、予定を空けよう。君にはかなり世話になった」
「ありがとうございます。ナジーンさまも大魔王さまと早く想いが通じ合うといいですね」
「!?」
にやにやと口元に意地悪な笑みを刻んで、執政官はからかいを口にする。
「私は彼女を好きだとは……」
「仰られなくても分かりますよ」
ねえ、といつの間にやら聞き耳を立てていた部屋の職員に話が振られる。
「ナジーンさま大魔王さまの時は目が優しいんですよね〜」
「なにくれと世話を焼いてますし、甘やかしてますよね〜」
「大魔王さまが来た日には一日機嫌がいいですニャ〜」
示し合わせたように「ね〜」「ニャ〜」と声を合わせる執政官たちに、ナジーンは頭を抱えた。
「もしかして遅い初恋ですか?」
からかい混じりの発言は、執政官たちにとってあながち間違いでもない事柄だと思われている。
ファラザード建国から五十年、ナジーンにそういった浮いた話はなかったのだ。
それでなくとも普段のおカタい性格である。正直、今代大魔王にほの字なのが意外ですらあった。
「いや、初恋は違う人だな……」
「えっ聞きたい」
ナジーンの否定に即座に食いつくのは女性陣である。女性とは恋バナとお菓子が好きな生き物だ。
目をきらきらさせて迫られ、ナジーンはうっと呻き声を上げた。
「だがまだ就業時刻だろう」
「いいえ、今日の就業時刻は先程終わりましたよ」
時計を示されて逃げ道が塞がれる。残業が、などと言えば執政官たちは揃ってナジーンの仕事を肩代わりし始めるだろう。全員で残業してでも聞きたいという顔をしている。
困りきって逃げ道を探したナジーンだが、どこにも用意などされていないそれに諦めの、深い深いため息をついた。
「……あれは、ファラザード建国以前の話だ」
ファラザード建国以前、ユシュカとナジーンは宝石商として各地を転々としていた。
取り扱っているものが非常に高価な宝石の為、ならず者に襲われることはよくあることだった。
ユシュカもナジーンも渡り合うにはまだまだ技量は未熟。かといって信頼出来る護衛がいるかと言われれば日も浅い。
得意先というものも、誰を信用できるかも分からない状態だった。
ユシュカが父親と共に旅をしていた時の馴染みはいたが、長い間空けていた為顔ぶれがだいぶん変わってもいた。
魔界の環境は常に厳しく、容赦なく牙を剥く。突然出没する魔瘴塚は最たる脅威ではあるが、それ以外にも幾つも数えられる。
そもそもが弱肉強食だ。弱いものはすぐに死んでしまう。顔ぶれが変わることなどザラで、普通ならばこんな状態のユシュカとナジーンが生き残れたことは奇跡に等しい。
それを特にありありと感じたのは、顔ぶれの大半が変わってしまった馴染みの護衛が裏切ったときだ。
味方が敵になって、信用できる味方はお互いだけと言う状況。まだ年若いユシュカとナジーンが複数人を相手どれるかと言えば難しい。かといって積荷を渡してしまえば大きな痛手だ。
資産は分けて隠しているが、素直に渡す訳にはいかない。
いざとなればユシュカは宝石魔術を使うつもりだっただろうが、宝石魔術に使う宝石はとびきり高い。最後の手段と言えた。
お互いに剣を握りじりじりと睨み合いが続く中、突如閃光が走った。
実際には閃光は走っていなかったが、その太刀筋はまさに電光石火と言って差し支えないものだった。
まるで舞い踊るように華麗に、それでいて美しい動きにユシュカもナジーンも目が釘付けになった。
あっという間に複数人の手練をのしてしまったのは、まだ年若い少女だった。
意志の強い瞳がこちらを見やり、向けられた殺気に鳥肌が立った。本能が警鐘を鳴らす。彼女は間違いなく相当な使い手だ。
火事場泥棒ならば油断はできない。ナジーンは震える腕を叱咤して柄を握り直す。
少女はナジーンとユシュカを一瞥しただけですぐに顔を逸らし、伸した大男たちを足蹴にしてその生存を確認していた。
その後、荷物から縄を取り出して手際よく捕縛する。国の警邏か何かの人なのだろうか。
「ふう。これで全部かな」
先程までの肌に痛い殺気をあっという間に消し去って、少女はふにゃりと微笑む。先程の視線との激しいギャップに、ナジーンの鼓動は自らの意思を無視して高鳴った。
恋は落ちるものというが、まさしくその通りで、それは思い通りにはならない感情だった。
「こいつら好きにしてもいいけどどうする?」
「次の場所まで連れていく。落とし前はつけさせないといけない」
少女の言葉にハッとしたようにユシュカが応えを返した。
「じゃあとりあえずそこまで私も着いていくね」
ぽいぽいと男たちを手際よく荷台へと放り込む少女。見た目にそぐわず怪力らしい。
そうこうしているうちに少女も荷台へと乗り込んだ。
「助けてくれてありがとな」
ユシュカが駆け寄って礼を言う。褐色の肌で分かりづらいがその頬は上気していた。
ユシュカもまた、彼女のことが気に入ってしまったらしい。
ユシュカとナジーンは親友だ。好みが似ることもあるだろう。だが、好きな人が同じというのはいただけない。
しかし当時のナジーンは酷く臆病な生き物だった。辛い過去が大切な人を持つことを怖がらせたのだ。
それから少女はユシュカとナジーンの旅に同行してくれることとなったまでは良かった。ついでに戦闘の訓練もつけてくれてありがたくもあった。
少女はあらゆる武器を腕の延長線上のように扱い、体術も非常に優れていた。ユシュカとは違い、魔法の才能も多彩で、攻撃、回復、補助なんでもこなした。
少女は自分のことを語らなかった。名前さえもはぐらかして教えてくれなかった。
ユシュカとナジーンは少女に鍛えられてどんどん実力を上げていった。少女がいなくとも賊を軽く撃退できる程度に強くなったところで、少女は帰るのだと言い出したのだ。
どこに、という問に答えは返ってこなかった。そして、少女が帰らないという選択肢もなかった。
頑なな少女に、ナジーンはリボンを贈った。ナジーンの瞳の色と同じリボンを、コッソリと少女の腕に括り付けたのだ。
少女は変な人物で、気配に敏感だが心を許している人物にはとことん気を許すところがある。
おそらくだが微かな殺気を感じ取っているのだろう。
ナジーンとユシュカに対しては起こしてもなかなか起きないという状態だったので、むしろ飛び起きて欲しいぐらいだったが。
そうして少女が帰ると言い、しばらくしてから少女は忽然と姿を消した。
ユシュカとナジーンは各地を回る行商人だ、また出会うだろうと思っていたが結局二百年近く、少女に出会うことはなかった。ナジーンの淡い初恋も、あっという間に露と消えたのだ。
「これが私の初恋だった」
恥ずかしい昔話を終えて、ナジーンはこれで満足かとぐるりと執政官たちを見やった。
「なぜシレッと混ざっているんだ」
そしてなぜか違和感なく混ざっている大魔王の少女を見つけ、再び重苦しいため息をつく。
初恋は初恋であり、現在とは割り切られたものだ。しかし、あまり知られたくなかった。特に今現在恋焦がれている人には。
「さっき来たところですよ〜。ところで、そのリボンってこんな色ですか?」
呆れているところに少女がすっと腕を上げる。その細い手首には赤と黄色のリボンが巻かれていた。
ナジーンの脳裏に当時の記憶が鮮明に蘇る。巻き方までまるで同じだが、二百年近く前の代物にしては色鮮やかすぎた。
二百年近く経っていれば布などボロボロになっているし、状態が良くても色褪せているだろう。
だが、なんだろうか。この言い知れぬ胸のざわめきは。
ナジーンが思い起こした記憶の少女と、目の前の少女はあまりにも……似ていた。
寝穢いところ、愉快犯なところ、問題児なところ、破天荒なところ。
いや、まさか。少女は人間で、二百年近く生きられるわけがない。
だというのに少女は確信めいた表情をしていて。
「今度どのくらい腕を上げたのか手合わせしてくださいよ。あ、ユシュカはデモンマウンテンで戦ったので単体でお願いしますね?」
楽しげに告げられた台詞に、ナジーンは言葉を失ったのだった。