首輪 魔界の砂漠国家ファラザードのナンバーツー、ナジーンは肌の露出が非常に少ない。正装がほぼ半裸である主とはまるで対照的である。
砂漠国家であるからして、砂埃の多い土地柄であるにも関わらず、黒を基調としたナジーンの服が汚れることはあまりない。
真面目で几帳面な性格ゆえか、服装の乱れは心の乱れだと刻まれているフシがあるのかは分からないが、彼の服装は常にキッチリしていた。
そんな彼の違和感に気付いたのはひとりの執政官だった。
彼女は日頃、ナジーンをよく目で追っていて、もっと言うのならば好意を持って追っかけて最近下っ端として採用された人物だった。
執政官室でニャドータたち猫魔族に囲まれながら仕事をこなす日々も、時折姿を見せるナジーンがいたから頑張ってこれた。そのナジーンに変化があったのだ。
最初は違和感として感じた。いつもとは違う感覚。よくよく観察すれば、首の辺りに違和感がある。
ナジーンは立襟の服を着ているので、首元は殆ど隠れて見えない。けれど、前がとめられている訳では無いので、隙間から覗く喉仏は、男としての無骨な部分を垣間見れるようで殊の外気に入っていた部分だ。
それが、隠されている。
キラリと室内灯に煌めいたのは赤い石だ。黒い飾り気のないリボンに付けられている。チョーカーと言っても差し支えはないだろう。
しかし、それは見るものによってはよく分かる、隷属の首輪だった。
赤い石は元は透明で、主の血を垂らすことでその色を変え、術式として成立させる。
主の望まぬことをすると首が絞まるように出来ているそれは、悪趣味極まりないゼクレスで貴族たちに愛用される逸品だった。
そんなものを、ファラザードのナンバーツーが付けるなんて……!
「な、ナジーンさま、それ……!」
怒りと驚きが綯い交ぜになったまま、彼女はナジーンの首元を指摘した。もちろん、ニャドータたちほかの執政官が議論に夢中な間にである。知られてしまえば不利になるかもしれないのだ。
ナジーンは最初、何について言われたのか分からなかったようにその左眼を瞬いた。
次いで、示されている首元に何があるのかを思い出したのか、ああ、と呟いたかと思うとふわりと微笑んだ。
執政官は目を見張った。ナジーンが微笑んだことにである。悲しげな表情ならば分からなくもないが、何故嬉しそうなのか。執政官には理解できなかった。
「これは、私が用意してつけてもらったのものだ」
次いで告げられた言葉は更なる理解不能で溢れていて、執政官の思考は停止した。そして、それを嘘だと思った。
ナジーンの表情を見ればそれが嘘ではないと一目瞭然だったが、彼女の認めたくない気持ちがそれを見えないものとしたのだ。
ナジーンが首元のそれを撫でる手つきは優しいし、その瞳は充足感に満ちている。支配されて悦ぶなど、とんでもない性癖としか言いようがない。
「そ、れは誰に……?」
「大魔王殿だ」
簡潔に告げられて、執政官の瞳に怒りが灯った。
ナジーンは今代大魔王のお気に入りである。それはファラザードでは周知の事実だ。
ナジーンも大魔王を殊更可愛がって大事にしているが、大魔王という立場のものを無碍に扱うなど決してありえない。
大魔王が黒だと言えば白でも黒になるのだ。逆らえる人物ではない。
きっとナジーンも断ることが出来ずに首輪をつけられたのだ。なんという暴虐非道な大魔王だろうか。
大魔王はそういった人物であれと推奨されてはいるが、それとこれとは話が別であり、執政官には耐え難いことだった。
ぎゅうとその手が握りしめられたことには、誰も気づかなかった。
「ナジーンさまを解放してください!」
ある日、いつもの気まぐれでファラザードにやってきた大魔王の少女は、いきなり浴びせられた叫びにきょとりと瞳を瞬いた。
タイミング悪く、ナジーンは大魔王城に出張中であり、弁明できる唯一の人物はいなかった。
「解放って?」
大魔王の少女は不思議そうに小首を傾げた。
「隷属の首輪のことです!」
「れいぞくの、くびわ」
何を言われているのかサッパリわからないと言った返答に、執政官は苛立った。
隷属の首輪は魔界では当たり前の品だが、アストルティア出身の少女が知るわけがない。
「そうです! ナジーンさまに首輪をつけたのは大魔王さまだと伺いました!」
隷属の首輪は命令を与える主しか外せない。故に、石の部分に血をつけた大魔王にしか外せないのだ。
少し視線をさ迷わせた少女は、ああ! と思い出したように手を叩いた。
「でもあれ、ナジーンさんがつけて欲しいって……」
「そんなはずありませんっ!」
戸惑う大魔王にずいと迫る執政官。圧迫感が凄くて少女は恐怖すら感じた。
普段相対するのはある程度戦える人なので、武力として無力な人に迫られるとどうすればいいのか分からない。
外すと言えばいいのだろうが、きっとナジーンは外すことを了承してくれないのだろうとぼんやりと思った。
そもそもあれはナジーンが自ら用意してつけて欲しいと言った代物で、少女は用途をよく知らなかった。
ナジーン曰く、少女の心配事をなくしてくれるもの、らしい。
請われるまま、太い首に布の部分を巻き付けて苦しくないかと何度も問いかけた。不思議なことに勝手に長さが調節されて、あっという間に首にフィットしてどこから取ればいいのやらになったのだが。
その後はなし崩しに流されてしまい、美味しく頂かれただけで全く記憶がない。ただいつもより視界に入る首輪にナジーンも少女も興奮してしまったように思う。考え直すと恥ずかしい。
「ナジーンさんとお話してからでも……」
「そんなのナジーンさまがいいとおっしゃるわけないじゃない!」
当時を思い出していたたまれない気持ちになりながらした提案を、執政官は金切り声で遮った。
小型犬を思わせる容姿をしているが、声までキャンキャン言わなくても……と少女は少しだけ眉を顰める。
「とにかく、早くナジーンさまからあの忌々しい首輪を外してくださいね!」
執政官は一方的に怒るだけ怒って去っていった。
なんだったんだと思いながら、少女は小さく息をつく。
気を取り直してユシュカに会いに玉座の間に行くと、最大のお目当てだったナジーンは不在だと告げられた。踏んだり蹴ったりである。
「なんだよ、そんなに落ち込むなよ。というか、俺に会いに来いよお・れ・に!」
ユシュカがぶぅぶぅ文句をたれるが、その顔は仲間に入れて貰えなくて拗ねている子供のものだ。ナジーンと数十歳しか変わらないくせに。
とはいえ、少女のことを何かと贔屓にしている魔王方は少女が訪ねてくるとかなり喜んでくださる。氷の魔女と名高いヴァレリアも冷たい口調だがもてなしは盛大だし、アスバルはオタク特有ノンブレストークでアストルティアのことについて語ってきたり質問してきたりする。
大魔王として一国家の執政官にナメられていると落ち込みはしたが、アレはやはりだいぶん特殊な存在らしい。
こっそりと息を吐くと、珍しくユシュカが見咎めた。
「なんだよ、ため息なんかついて」
「いや、なんでもないよ。よく分からないことを言われただけだから。隷属の首輪がどうのとか……」
「あー、ナジーンのやつか。あの首輪つけられて盛大に惚気けるのあいつだけだろうなぁ……」
「えっ、やっぱり非常識なものなの!?」
ぎょっとする少女にユシュカは本人が喜んでるんだからいいんだろととても投げやりな態度を見せた。
「とは言ってもナジーンの直属の主である俺じゃなくてお前なのはなんでだよって思うけどな。まあ、俺もお前にならつけられてもいいぜ?」
途端にニヤニヤするユシュカに少女はぶんぶんと首を横に振って拒絶した。なんだか恐ろしいので却下である却下。元は小市民もとい、限界集落の村人である。
「お前は大魔王サマなんだから、お前が望めば魔王たちに隷属の首輪なんて難しくないと思うけどな。お前なら無茶なこと言わないだろうし」
「いや、バルとかトラウマだと思うけど!?」
「アレより強制力はないぜ。俺達にとっちゃいざとなったら引きちぎれる程度だしな」
となると、ナジーンも嫌になったら引きちぎれるという訳だ。少女にしか外せない訳ではなくて少しほっとした。
「で、それ誰に言われたんだ?」
ほっとしたのもつかの間、ユシュカの金色の瞳がキラリと怪しく煌めき、口元に酷薄な笑みを乗せる。猛禽類を思わせる瞳は、さすが大国の魔王だと少女に思わせた。
とはいえ、少女とてそのようなものを相手取るのはお手の物だったので、あまり気にはならなかったが。
「何か問題が?」
「あるだろう。この魔界で大魔王に意見できるものなんていない」
「ユシュカのそれも意見だと思うんですけど〜?」
「そうだな。一応俺がお前の忠実なる下僕だということは断言しておこう」
「……断言していいんだ」
慣れているので少女は全くもっていつも通りだった。いつも通りなのもどうなのかと思うが、さすが大物だとユシュカは嘆息する。
「断言した上で、俺の部下にそんなことを意見する奴がいるなら注意しなきゃいけないだろう? 大魔王に叛意を持っている部下なんて俺は要らない」
少女はそんなことで怒ったり気にしたりしはしないが、不興を買う芽は摘んでおきたいのだろう。少女は少し考えて、ぽつりぽつりと起こったことを話し始めた。
ファラザードに帰ってきたナジーンは、ユシュカからの話に盛大なため息をついた。
その首には変わらずに首輪が嵌められている。
「お前がそんなものするからだろう?」
呆れたようにユシュカが告げれば、ナジーンは心外だとばかりに肩を竦めた。
「前に彼女が、私がモテるのだと言っていたのです」
ナジーンはモテる。その容姿もさることながら、誠実な性格とファラザードのナンバーツーといった高位の立ち位置なのだ。モテない方が難しいほどに、ナジーンは好物件なのである。
「彼女は、自分が幼く凡庸な姿しかしていないから私が目移りをするのではないかと不安なのだと言いました。私としては、彼女は目に入れても痛くないくらいに大切なのですが、それは伝わらないでしょう?」
「……だからって、荒療治過ぎないか……?」
二百年来の親友の突飛な発想にユシュカは珍しく遠い目をした。困らせるのはユシュカの専売特許であったはずなのに。
「これで彼女が安心できるなら安いものです。私も独占欲を見せられて嬉しいですし」
シレッと言い切るナジーンに、ユシュカは頭を抱えた。
確かに少女はかなり淡白な性格をしている。あまりなにかに執着をしたりはしない。
それは今までの旅路であまりにもたくさんのものを失ってきたからだろう。執着すればするほど、失った時に絶望が大きくなるから。
「あー、本人たちが納得してるならそれで俺はいい……」
諦めてしまったユシュカに、ナジーンは大きく頷いただけだった。
「それでは、私はくだんの執政官にお話をしてきます」
「分かった」
優雅に頭を下げるナジーンに、ユシュカは早く行けと言わんばかりにしっしと手を払った。
階下へと降りたナジーンは、くだんの執政官を呼び出した。
「どう言った御用でしょうか?」
執政官は心做しか嬉しそうで、しかしナジーンの首元を見て少しだけ顔を歪めた。
「コレについての話を大魔王殿にしたらしいな。外すようにと」
「おそれながら、大魔王さまであろうとそのようなもの許されるべきではないだろうと」
「本人が合意しているのに、か?」
「それは大魔王さまのご命令に断れなかっただけではありませんか?」
本気でそう思っているのだろう顔に、ナジーンは深く深くため息をついて、その口元に嘲笑を浮かべた。
「前にも言ったがこれは私が用意して、私が彼女につけて欲しいと頼んだものだ。彼女はこれがどういったものか知らないし、勝手に主にしたのは私だ」
ナジーンは少女に首輪をつけて欲しいとは頼んだ。しかし、主として登録するには血が必要で、少女はナジーンの首輪の石に血をつけた記憶がない。
多少強引にナジーンは少女を手篭めにして、その時にナジーンが勝手につけたのだ。
行為の最中、本能なのかナジーンはよく少女に噛み付く。
あまりにも気持ちが良くて抑えが効かず、血が出ることは当たり前だ。なまじ戦闘をする為痛覚が鈍い少女は痛がることなく、また生傷が絶えないため頓着することはない。
その為、噛み付いて負わせた怪我の血で勝手に首輪の主としたのだ。
以来、少女の口に出さない嫉妬心やらなんやらが分かってナジーンはとてつもなく満たされている。
行為の最中に口にするイヤもダメも無理も、本気と裏返しが分かってたまらなく愛おしいのだ。
「首輪を外す気はない。余計なことを口出しするようならば、君には職を辞してもらわねばならなくなる。これはユシュカの意思でもある」
「どうしてです! 私は……!」
「何度も言わせるな。これは私の意思だ。彼女を傷つけるならば私たちが許さない」
話は終わりだとばかりにナジーンはくるりと踵を返す。
執政官は、その場に崩れ落ち、呆然としていた。
「そういえば魔界では気に入ったものに首輪とか焼印とかって聞きました」
「使われるのは主にゼクレスだな。どこで聞いてきたんだ?」
「あー、リソルくんゼクレスの貴族だからかぁ」
ひとり納得したようにうんうん頷く少女に、ナジーンは苦笑する。せっかく久方振りにふたりきりになれたのに、他の男の名前など出さないで欲しいものだ。
少女は現在ナジーンの膝の上で、その目はナジーンの首に釘付けだ。言わずと知れた騒動の原因、隷属の首輪である。
騒動の発端となった執政官は、あれから何度か大魔王に突っかかり、ナジーンやユシュカに撃退されて最終的にクビになった。ナジーン目当てでろくに仕事をできない執政官など必要ではないのだ。
大魔王を敵視する彼女は魔界では上手くやっていくのが難しいだろうが、それは彼女次第である。
ナジーンの故郷であるネクロデアも、大好きな大魔王を誹った彼女を受け入れはしないだろう。死者の土地となったネクロデアでも絶大な人気を誇るのが大魔王である。
「ねえ、ナジーンさん。私だけナジーンさんにコレつけるなんて不公平じゃないですかね?」
「……私は君にコレをつけようとは思わない。……本当はつけたいが、つけたら君を離せなくなってしまう」
ずっとファラザードで暮らして欲しいと願ってしまうし、他の男と話さないで欲しいとも思ってしまう。ナジーンは存外狭量な男なのだ。度量の広い男のフリをしているだけに過ぎない。
ナジーンは自由な少女を愛しているし、少女の行動力があったからこそ魔界が救われたことをよく分かっている。
少女の力を必要としている場所があることもきちんと理解しているのだ。だから、少女を独り占めしようなどと、決して思わない。
「ふふっ。ナジーンさんが不安にならないように頑張りますね」
目移りの心配はしていないが、生死の心配だけは尽きない。それだけが懸念事項だと、ナジーンは膝の上の小さな少女を思いっきり抱きすくめた。
……首がすこし締まったのは、抱擁が苦しかったからだと思われる。
後に魔界で結婚首輪が流行るのはまだ先のお話。