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    カナト

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    カナト

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    指輪「ナジーン!」
     ばんと勢い良く扉が開かれ、ナジーンは読んでいた本から面倒くさそうに顔を上げた。
    「ユシュカ、扉は静かに開けてくれ。壊れる」
    「悪い、早くお前と話したくて気が急いだ」
     ユシュカは適当に荷物を放り出してどっかりとナジーンの隣に腰を下ろした。ナジーンは迷惑そうな顔をしているが、ユシュカは全く意に介していない。
     それどころか再び本に視線を戻したナジーンに、ずずいと顔を近づける。
    「なんだ、気持ち悪い」
     謎の行動に軽蔑の眼差しを向けると、ユシュカはそれでもニヤニヤと楽しげに笑っていた。
    「いや〜、こんなお前でもいつか結婚するんだろうなってな」
    「恋人もいないのにか。私はユシュカと違って節操なしではない」
     身持ちのかたいナジーンと違って、ユシュカは女性に呼ばれればフラフラとついて行くたちだ。酒を飲むと服を脱いでしまうところもそれを助長している。
    「いつかの話だ。オレたちの生は長いんだから、いつかお前にも手放し難くなる女が出来るさ」
     自らの守る国を滅ぼした隻眼の元王子さま。国民も、両親も、故郷も何もかも失ったナジーン。
     そんな彼が何かを得ることに臆病になっているのも、ユシュカの為に生きろと言ったその言葉を忠実に守ろうとすることも分かっていた。
     けれど、ユシュカは願わずにはいられないのだ。そんな彼に、新たに色んなものを与えられる存在が現れることを。
     頑なに手を握り締めて何も掴もうとしないその手のひらに、いつか誰かが、彼に再び守るべきものを、大切なものを与えてくれるだろう。
    「それでな、今日は師匠にアストルティアの風習を聞いたんだ」
    「唐突に結婚などと言い出したかと思えば、それが原因か」
     はぁとため息をつきながら、ナジーンは容赦なくユシュカの行動に呆れた。
    「何言ってるんだ、これはビジネスチャンスなんだぞ」
     ユシュカの言葉にナジーンは小首を傾げる。動きに合わせて黒い直毛がさらりと肩に滑る。国から命からがら逃げ出してから、もう随分と伸びたものだ。
    「アストルティアでは、婚約指輪というものを贈るらしい。それが大体給料三ヶ月分が目安なんだそうだ」
     将来的にアストルティアとの国交を結びたいと思っているユシュカの壮大な夢の片鱗が垣間見えて、ナジーンはようやくそこで得心がいった。
     とは言え、アストルティアへ向かうルクスガルン大空洞は未だ閉じられていて、アストルティアの住人も、魔族もお互いを憎しみあっている。
     それには一体どれ程の時間を要するのか、ナジーンには見当もつかないほどの膨大な時間だ。ユシュカたちが生きているうちに叶うかどうかも怪しい。
    「婚約指輪の他にも結婚指輪というものも贈るらしい。それで自分たちは既婚者だとアピールするんだそうだ」
     宝石商であるユシュカにはいい話だろう。運良くアストルティアと文化交流が出来、それが流行すれば、その特別な指輪を作る為に商談が舞い込んでくるはずだ。
    「指輪なんて普通のアクセサリーだろう。どうやってその既婚者かを見分けるんだ?」
    「なんでも、左手の薬指に嵌める指輪がそうらしいぜ。だからな、ナジーン」
     いつかお前が結婚する時、オレが宝石(いし)を用意してやるよ。

     唐突に昔の記憶が蘇って、ナジーンは瞠目した。
     その時は軽く流して終わったが、案外近い将来にアストルティアからとんでもない人物がやってきて、その人物の功績からアストルティアとの共闘関係を結ぶことに成功した。
     魔界を長らく苦しめていた、異界滅神ジャゴヌバも打ち倒され、魔界は魔瘴に苦しめられることはなくなった。
     連綿と連なる憎しみが、簡単に消えないことはよく分かる。それは、ネクロデアに起こった悲劇の最後の生き残りであるナジーンだからこそ、痛いほどに。
     それでも、その憎しみさえ乗り越えられる傑物が、この時代に数多存在していることもまた、知っていた。
     その傑物たちを束ねる要となっているのは、ひとりの少女だ。
     今代勇者の盟友、今代大魔王、三代目時の王者、ナドラガンドの解放者……等々その呼び名は多岐に渡るが、本人はそれらをあまり語ろうとはしない。
     そんな少女は今、ファラザード城にある元客室、現彼女の部屋となっている場所で、左手を目前に掲げていた。
     扉がきちんと閉まっていなかった、それだけのことで、ナジーンが意図して覗き見た訳では無い。けれど、どこか悲しげなその表情に動けなくなったのも確かだ。
     キラリと左手に輝くのは、銀色をした指輪。それも、ユシュカがアストルティアの住人が結婚するとつけるという薬指に煌めいている。
     誰かのものという訳でもないだろう、彼女の細い指にそれはピッタリのサイズをしていたし、何かの耐性が込められたものでもなさそうな、宝石もなく飾り気もない銀色のリングだった。
     どうして彼女がその場所に指輪をしているだけで、自分がこれ程までにショックを受けているのか、ナジーンには全くわからなかった。
     何故なら彼女は人間で、誰を愛そうともナジーンとは決して交わることの無い人物だったからだ。
     ユシュカを類友と評すだけあって、その破天荒さには頭が痛いが、それが新しい風を連れてくることをよく知っている。
     無邪気に跳ねているかと思えば、突然目を鋭くして本気で戦うこともある。
     彼女はとても強い人物だが、見た目や普段の行動からは皆目見当がつかないだろう。ユシュカがしもべにしたくらいなのだから。
    (……痛い)
     胸の痛みを感じて、ナジーンはず、と後ずさった。
     その音で彼女はこちらに気付いたようで、椅子から立ち上がってこちらへやって来る。
    「どうしたんですか、ナジーンさん」
     いつも通りの無邪気な笑顔が、今のナジーンにはただただ痛かった。
     彼女にあんな表情をさせる人物が羨ましくて憎たらしい。
    「きみが来ていると聞いて挨拶に伺っただけだ」
     ちらと、左手を見遣れば、そこに指輪の姿はもうなかった。普段は外しているのだろう。武器を握るこの手では、特殊効果もない指輪は砕けてしまうのかもしれない。
    「そうなんですね。お時間があるなら休憩でもしていきませんか?」
     少し様子がおかしいナジーンを働き過ぎだと思ったのだろう、彼女はなんの警戒心もなくナジーンを部屋に招き入れた。
     少女と大人の男が二人きりで同じ部屋にいるなんてよろしくないだろうに。
     彼女は迷いなくドーナツが常備された机の向かい側のソファーに腰を落ち着けた。ナジーンも招かれるままにその隣に座る。
     彼女の隣はとても居心地がいい。こんなに近くにいると、ついそのまま強引に触れ合ってしまいたくもなる。
     そんな心を押さえつけていることもつゆ知らず、彼女は手ずから茶を淹れてナジーンを持て成した。
    「機密事項はダメですけど、愚痴なら沢山聞きますよ。あっでも、私についての愚痴は耳が痛いから程々でお願いします」
     にこにこと楽しそうに微笑んで、彼女はナジーンを見詰めた。
    「では、聞きたいことがあるのだが」
    「はい」
    「アストルティアでは、左手の薬指に指輪をはめるのは既婚者だと昔耳にした」
    「はい、そうですね。心臓に一番近い指、らしいです確か」
     聞きかじった知識を掘り起こして、彼女は不思議そうに瞳を瞬く。ナジーンがどうしてそんな話をするのか分からないといった表情だ。
    「きみは、誰か想う人がいるのか?」
    「え?」
     いきなりの質問に、彼女は虚をつかれたようで、意味を徐々に理解したらしくぼっと顔を赤く染めた。
    「な、なんでいきなりそんな……」
     落ち着こうともったティーカップの中身が小刻みに揺れている。それだけ動揺しているということだろう。
     なんとか口元に持っていき、こくりと喉を潤すと、彼女は恥ずかしそうに目を逸らす。ナジーンがずっと見詰めていたからだろう。内心はかなり動揺していたが。
    「い、います……」
     消えてしまいそうな声で、俯いてしまった彼女は答えを返した。
     黒い髪に埋もれて見える耳まで真っ赤に染っている。
    「それは私の知っている人なのか? 私では、ダメなのだろうか」
     そこまで言ってナジーンは何を口走っているのだと己の口に手をやった。
     弾かれたように顔を上げた彼女から逃げるように「すまない仕事に戻らねば」と腰を浮かせれば、細い手がナジーンの服を掴む。
     小さな肩が震えていて、掴まれた力はナジーンが簡単に振り払えるくらいには弱いだろう。
     それでも、彼女の手を振り払うことはナジーンには出来なかった。
    「………が、……です……」
     消え入りそうなか細い声が、何事かをボソボソと告げて、ナジーンはその場で固まった。
     伏せられていた顔がナジーンに向けられ、これ以上のないほどに真っ赤に染まった顔で、今度は叫ぶように彼女は宣った。
    「ナジーンさんが好きです!」
     叫ぶだけ叫んで、彼女はばっとアビスジュエルを取り出して逃げるように転移してしまった。ルーラストーンのように天井のない場所でしか使用できないものならば良かったのにと、ナジーンは忌々しく思いながら、さっきまで二人で腰掛けていたソファーへと身を沈める。
     色んなものの混ざった、彼女の匂いがして、ナジーンは染まった頬を落ち着けるように深く息を吸った。

     *

    「お兄ちゃんんん……」
     逃げ出した少女は、ジャディンの園で兄に泣きついていた。
     シスコンのきらいがある彼は、自分にしがみついて混乱している妹が可愛くて仕方がなかった。
    「どうしたんだ?」
     優しく髪をすかしながら撫でてやると、震える肩が少しだけ落ち着いた。この華奢な双肩に世界の未来を託したのが自分だと思うと、少し申し訳ない気持ちになる。
     同じ色の紅い瞳が不安そうにちらりとこちらを見やって、抱きついていたからだが離れる。魔仙卿の衣装だからまだいいものの、流石にこの歳の兄妹が抱き合っているのはよろしくないだろう。
    「…………しちゃ………」
    「え?」
    「告白しちゃったぁ!」
     真っ赤な顔で叫んだ少女は、かなり情緒不安定だ。そのまま「わぁぁ!」と頭を掻きむしる。
    「待て待て待て待て、ちゃんと最初から兄ちゃんに話してくれないか?」
     魔界の全てを識るという魔仙卿なのに、形無しもいいところだ。全くもってこの妹の行動は予測がつかない。
     まるで幼い頃に戻ったかのように錯乱する妹を宥める。兄妹揃って割と問題児だった自覚はあるが、これ程取り乱す姿は見たことがなかった。
    「ほら、息を吸って〜、吐いて〜、大きくゆ〜っくりとぉ〜」
     薄い背を撫でながら、過呼吸気味で涙目になっている妹を宥めすかす。
     ようやく呼吸が落ち着いた妹は、真っ赤な瞳を更に赤く染めて、魔仙卿である兄から離れた。
     小さくなってしまったように感じる背をそっと押してやり、椅子と机を片手間で用意した。
     魔仙卿になって楽になったことの一つに念力が使えることがある。重たいものも楽々運べるし、一度に大量に運搬することも出来る。
     ふわふわと宙を舞った椅子と机を兄妹の前に設置し、椅子を引いて妹を座らせた。とびっきりふかふかで、そのまま寝てもいい椅子だ。
     興奮した後は体力を消耗して疲れるものである。多分この後妹は寝てしまうだろうと予測した。
    (全く、世話の焼ける妹だぜ)
     だが、そんなところも可愛いのだ。そして、世話を焼くことが出来ることも嬉しいのだ。
     それもこれも、この破天荒な妹が自分を呪いから解放してくれたから。
     血が繋がっていなくても、本当の兄妹じゃなくても、家族だと断言してくれたから。
     歳を取らないからだ。同じ時を生きられない運命。
     何もかもが嫌になって、それでも最後に残った望みは、この妹の傍で馬鹿みたいに脳天気な兄をやっていたいというものだった。
     何よりも大切だったのだ。たった一人、残った家族が。
     未だに深呼吸をしている妹の前に、お茶とお茶菓子を用意して、椅子を隣に置いて座った。向かい合って座るよりも、隣合って座る方がしょうに合っている。
     存外、妹を甘やかすのは幸せな事だ。強がりで寂しがり屋な妹は、弱い所をあまり見せない。
     破天荒の影に隠して、ひとりでひっそりと涙を流す。そんな虚勢を張ることに慣れてしまった子供だった。
     それもこれも、両親が一気にいなくなった寂しさを隠す為だろう。妹が物心つくより前に、両親は何処かへ旅立ってしまった。
     自分が脳天気に振る舞って錬金術に傾倒したのも、妹に笑って欲しかったからだ。
     結局のところ、似た者兄妹なのだろう。
    「あのね、お兄ちゃん……」
     少し落ち着いたらしい妹が、ぽつりぽつりと言葉をつむぎ始める。
     決して急かすことはなく、先を促すこともせず、ただ相槌をうちながら耳を傾ける。
    「成程、両想いじゃねぇか」
     なぁんだと言いたい気持ちで言えば、妹は紅い瞳に涙を浮かべた。何故に。
    「だっ、て、心の準備が……」
    「そんなこと言ってたらいつまで経っても心の準備なんて出来ないぞ。ほら、呼び出しかけてやるから向き合え」
     魔仙卿の権限を横暴なまでの私用で行使しようとすれば、妹は真っ赤になって腕に縋り付いてきた。
     ぶっちゃけ可愛いから渡したくはないのだが、このまま悶々とされるのも困るのだ。
     それに、妹には幸せそうに笑っていて欲しい。
     妹は常日頃からもっと大切にされるべきだと思う。もっと重宝されて、もっと愛されて欲しいと。
     妹はそれに見合う実績も実力もある。最近知ったが血筋だってエテーネ王家の血族だ。この時代のエテーネ村に時わたりしなければ、エテーネ王国が平和ならば、妹は姫君と呼ばれる存在になっていた。
     まあ、今でも姫君なのだけれど。
     慌てふためく妹から、こっそりと移動手段を掠めとって、私用でのお呼び出しをかける。
     未来の義弟なのだから、少しくらいはからかってもいいだろう。可愛い可愛い妹が恋する、少し憎たらしい男。
     しばらく妹のお気に入りのお茶とお茶菓子を口元に運んでやりながら、あの手この手で甘やかしまくっているとアントワネットから連絡が入った。どうやら険しいデモンマウンテンを越えてきたようで、その心意気だけは評してもいいと思っている。
     この場所のアビスゲートは閉鎖しているし、大魔王選定の試練も解除されていない状況だ。
     力の試練のみ幻影の魔物たちを使役したが、それもきちんと撃破されている。
     ややこしい知の試練も一度話を聞いただけで整理できる頭脳を持っているし、最終試練の上下が分からなくなるルートも難なく突破したようだ。
     流石はネクロデア王家の遺児。魔王としての素質は十分だろう。まあ、大魔王は可愛い妹で終わりだけれども。
     久々に錬金釜で妹をあやしていると、ジャディンの園の幻影を越えてきたらしい男がやってきた。
    「「あ」」
     思わず声が重なったのは仕方の無いことだ。
     なにせ、気持ちがリンクしたのか、錬金釜から飛び出てきたのは巨大なニコちゃんだったのだから。
     ニコちゃんは枯れるまで全ての攻撃を代わりに受けてくれる。しかも、ダメージ完全ガードで。
     突然現れた巨大錬金植物に、呼び出しをかけた男は果敢にも立ち向かった。
     流石にこの状況で照れるとか恥ずかしいとかいう感情はぶっ飛んでしまったようで、妹は呆然とただひたすら攻撃を弾かれるさまを見ていた。
     しばらくしてニコちゃんが枯れると、今度は相手にしていた男が何があったんだと少し混乱したようで、それはそれで面白くなった。
     面白そうに笑う妹にほっとしながら、隣合う椅子から立ち上がる。
     途端に不安そうな顔を向けて来る妹が可愛いが、ここは心を鬼にしなければいけない。
    「今度はきちんと話すのだぞ。二人でな」
    「お兄ちゃ……」
     伸ばされた手は空を切って、名残惜しいと思いながらゴダ神殿の更に奥、ジャゴヌバ神殿の方へと去っていく。きちんと妹の逃走手段を全て奪った兄は義弟に拝まれるべきだと密かに思った。

     *

     正気に戻ったナジーンは、ユシュカの所へと来ていた。
     遠い遠い日の、しょうもない約束。ユシュカは忘れているだろう約束を、果たして貰うために。
    「どうした、ナジーン、そんなに慌てて」
     焦るでもなく泰然と構えているのは、ナジーンに絶対の信頼を置いているからだろう。
     ナジーンはいつも通りだらしなく玉座に腰かけるユシュカの前で膝を折る。それは魔剣アストロンを献上するさまによく似ていた。
    「遠い日の、約束を果たしてもらいに来ました」
    「あー、どの約束だ?」
     未来の約束事が多すぎて、ユシュカは瞳をさまよわせた。忘れたわけではない。断じて。
     全てを失った二百年前のナジーンは、生きることを諦めていた。生きる屍のような友人に、ユシュカはたくさんの約束をした。青い海を見たいとか、新しい国を作りたいとか。
     ユシュカの夢はナジーンの夢でもあった。共に夢を見たからこそ、ナジーンは今でも生きている。
     ナジーンはそれに感謝しているし、だからこそユシュカに膝を折って仕えている。
     ナジーンが心より膝を折り、誠心誠意尽くそうと恭順の意を示すのは、後にも先にもユシュカと大魔王の少女だけだろう。
     ナジーンはそれを思い出して口元に笑みを浮かべた。
    「いつか、私が結婚する時、宝石を用意するというものです」
    「けっこん……けっこん? え? 血痕じゃなく、結婚?」
     ナジーンから飛び出すとは思っていなかった言葉に、ユシュカは目を白黒させた。
    「確かにそう約束したが……え、いつの間に?」
    「正確には今から求婚しに行きます」
    「待て、展開が早すぎる」
     ユシュカは珍しく頭を抱えた。普段はナジーンがユシュカに振り回されて頭を抱えているが、まさかナジーンの発言で頭を抱える日が来ようとは思わなかった。
    「まあ、約束は約束だからな。で、どんな宝石が欲しいんだ?」
     商人モードになったユシュカはナジーンの前にいくつかの手持ちの宝石を差し出した。
     どれもこれも宝石魔術に使われる純度の高いもので、ひとつで家一件が買えるくらいのお値段がするものだ。
     ナジーンは元々散財をするタイプではなく、私財を溜め込んでいる。少なくともファラザードが建国されてから五十年分の副官としての給料はほぼ丸々残っているはずだ。
     使い道と言えば故郷に墓標を建てる為の材料費ぐらいで、食べ歩きは視察も兼ねることが多いので大抵経費で落とされる。ユシュカがあまりよく知らない裏稼業も国としてのことなので、こちらも経費で捻出されている。
     服装にあまりこだわりもなく、必要なものを揃えるだけなので経費で事足りてしまうのだ。その結果が殺風景なナジーンの私室と言えた。
     まあつまり、予算は糸目をつけなくともいいということである。
     下手したら国宝級のものでもいいのかもしれない。魔剣アストロンに輝く赤い菱形の宝石は、元はネクロデアの国宝で、命のルビーと呼ばれていたものだ。
     まさか相性がここまでいいとは思わず思いつきで合わせてみたら離れなくなった、なんていうことが起こって謝り倒して許してもらったものでもある。
    「この中で言えばこの色ですかね」
     ユシュカの手の中にあるものから、ナジーンは慎重に宝石を選んだ。魔力が宿る繊細なものなので、下手に触れることはしない。ユシュカの扱いが粗雑すぎると怒るくらいである。
    「やっぱ赤か。どういうイメージなんだ? お前の色か? それとも相手の色か?」
    「そうですね、出来れば私の瞳のようなものがいいです。あなたをいつも見守っています、と」
    「独占欲強いな……。お前の目か……なかなか難しい注文だな」
    「あなたに用意できない宝石なんてないでしょう?」
     頭の中でいくつかの種類を逡巡しているのであろうユシュカに、ナジーンは口元を不敵に吊り上げて笑みを作る。
     魔界には特殊な宝石や鉱物が多い。それは、異界滅神ジャゴヌバが、元は魔瘴を作り出すものではなく、物質を石化させるものだったことが大きな要因だろう。
     故に、魔瘴は鉱物類と結びつきやすく、魔瘴石は宝石であることが多い。だから気付かずに宝飾として使われたり、採掘されてしまうのだ。
     そして魔瘴への耐性は魔物としての強さに左右される。その点で言えば魔瘴を操り無効化するイルーシャは最強だが、彼女は女神ルティアナの神の器なのでその限りではない。
     魔神、ジャイラジャイラと契約した賢者マリーンは、魔神であるので耐性は高い。故に彼女がレディウルフとして処分する。
     ユシュカやナジーン、ヴァレリア、アスバルなどの高位魔族も耐性が高いので下手なことでは影響は受けない。
     ナジーンやユシュカはそれらを発見した時に、決して他人に任せずに自分で無効化させる布を巻き付ける。うっかり他のものが触れてしまえば、凶暴化して手がつけられなくなるからだ。
     こういったものを悪趣味に使うのはゼクレスでよく見られるのだが、もちろんユシュカやナジーンにそんな趣味はない。たまにアスバルから悪趣味の片鱗が覗く時がある事が末恐ろしいが。
     だが魔瘴の発生源がなくなった今、魔瘴石はこれ以上作られることはなく、減少の一途を辿るだけだろう。
     魔瘴によって変質させられた宝石は希少だが危険極まりないものだ。そういったものが減るという意味でも宝石商として安全性が上がったと言っても過言ではない。
     その後、ユシュカはいくつかの宝石の名前を挙げ連ねた。どれも大魔王を冠するに相応しく、先代の大魔王マデサゴーラがモチーフにしていたものでもある。
     芸術家として名を馳せ、マデッサンスという風潮を確立した彼が作ったアトリエ、魔幻園マデッサンスには、ナジーンの瞳と同じ色彩の眼球のオブジェまであるくらいだ。
     ある意味魔界では希少で特別な意味合いを持つ瞳は、強い魔力を秘めている。それこそ、片目でさえもかなりのものだ。故に、あれだけの民が無惨に殺された中、ナジーンは瞳を抉られるという屈辱を味わったのだろう。その瞳に価値がなれければ、そのままいたぶられて殺されていたはずだ。
     ナジーンは失われた眼球を覆い隠す眼帯へと指を滑らせる。この下を知る人は少ない。目の前にいるユシュカと、大魔王の少女くらいだろうか。
    「お前の瞳によく似たものが手に入ったら義眼でも入れるか?」
     そのさまを見ていたユシュカがニヤニヤと笑いながら冗談をとばす。ナジーンはユシュカの宝石箱ではないのだが。
    「要りませんよ、今更そんなもの。私の右眼は過去の私と一緒に死んだのですから」
    「相変わらずかたいな」
     ユシュカは気分を害した風でもなく、いくつかの宝石を搾ったようだった。ナジーンは宝石に詳しい方ではないので、上げられた宝石がどのようなものなのか、いくつかは見てみないと分からない。
    「できるだけ早く手配するから楽しみにしとけよ。ところでお前の恋人って……」
    「感謝します。では、私は求婚してくるので」
    「あっちょっ……!」
     ナジーンから根掘り葉掘り下世話な話を聞こうとしたユシュカを、ナジーンはピシャリとシャットアウトした。取り付く島もないとはこのことだ。
     と、踵をかえしたナジーンの所に、ふわふわと白い物体が飛来する。
    「見つけました〜!」
     そう言ってやってきたのは真っ白なモーモン、モモモだった。
     モーモンは血を吸って大きくなり、将来はブラッドアーゴンになるのだが、モモモは血が苦手で花の蜜ばかり吸っている。その為からだは真っ白でモーモン族から軽く仲間外れにされていた。
     しかし、モーモン族を保護した魔仙卿の計らいで魔仙卿のお使いをしたりしてその地位を確固たるものに変えている。
     魔瘴に侵されたジャディンの園を救いたい一心で光モーモンに進化したので、今では落ちこぼれなどと言われることはない。
    「魔仙卿からナジーンさま宛にです!」
     魔仙卿からの伝達に心当たりのないナジーンは、思わずユシュカと顔を見合せた。
     手渡された紙には走り書きの文字が書かれている簡素なもので、どちらかと言えばメモである。
    「では、お渡ししましたからね!」
     そう言ってモモモはまたふわふわと空を飛んで行った。
     それを見送って、ナジーンは手元の紙に視線を落とす。背後からのユシュカの好奇心はシャットアウトだ。
     乱雑な字で書かれたそれは、何故か多少の恨み事から始まって、最終的には妹は俺のところにいる、ムカつくけど妹の為に迎えに来い、と要約すると書かれていた。それさえもかなり恨み言に埋もれていたが。
    「すげぇシスコン……」
     呆れたようなユシュカの呟きが背後から聞こえたが、聞こえなかったフリをした。
     そもそもあの兄妹は特殊なのだ。お互いがお互いにかなり執着している。
     本当ならば可愛がっている妹を渡したくはないだろう。居場所だって教えても利は無い。
     手放したくない気持ちと葛藤して、けれど認めようとしてくれる心の動きが伝わってくる手紙。
     それを無碍にできる訳もないし、このチャンスを逃す手もない。鉄は熱いうちに打て。
     そうと決まればサッサと向かうに限る。ナジーンは魔仙卿からの招待状とも言える紙を丁寧に折りたたんで懐に入れた。
    「では、行ってまいります」
    「お、おう、健闘を祈る……?」
     頬を引き攣らせるユシュカに丁寧にお辞儀をして、ナジーンは手持ちのアビスジュエルを起動させた。

     ナジーンが出てきたのは巨大な扉が開きっぱなしとなっている大審門だった。
     光が溢れる門までの道は緩やかな坂道で、ここから先も山に登る為ずっと険しい坂道になっている。殆ど舗装された階段なのは幸いか。
     大魔王が選定される前はそれなりにいた魔族たちも、選定された上大魔瘴期を乗り越え、更にもう魔瘴が発生することはないことで、各々好きな場所に散っていった。そのため、この場にいる魔族はそれほど多くはない。
     その中でもファラザードのナンバーツーとして広く知られているナジーンは、異質としか言いようがないだろう。
     魔界の中でも大物と言えるナジーンが、今更大審門になんの用なのか、ゴシップ誌があることないこと書き連ねそうだ。
     ナジーンのアビスジュエルにはゴダ神殿やジャディンの園は登録されていないので、ここから先は徒歩である。とはいえ、魔仙卿が管理しているアビスゲートは全て閉じられているのだが。
     ナジーンはひとり、デモンマウンテンの険しい階段を進む。その先にあるのは第一の試練、力の試練だ。
     候補者の数を減らす為に候補者同士で戦わせる試練である。
     現在、ゴダ神殿を目指しているのはナジーンひとりなので、競うような相手はいないが、どうやら幻影を使役しているらしい。
     ゆうらりと立ち上がったそれらは、黒い影に赤い瞳を輝かせるものだ。およそ、ここであった戦いの記憶を再現しているのだろう。
     魔族とひとくちに言っても形もサイズも様々だ。幻影もそれに漏れず、小さな魔物のようなものから、ナジーンよりも巨大なものもいる。
     魔法が得意なものもいれば、力任せに巨大な獲物を振り回す粗忽者もいた。
     ナジーンはある程度その手を血に染めているとはいえ、戦闘能力としては補助の方が得意だ。突っ走るユシュカのフォローをして回ってればそうなるのは仕方ない。
     大きく秀でているわけではないが、ナジーンはバランスタイプなので要領よく立ち回る。
     味方同士なのかは知らないが、敵同士で潰し合わせたり、混乱や幻惑などの状態異常を駆使しながら数を減らしていく。
     幸いにして試練の再現が強く出たらしく、幻影同士での戦いも繰り広げてくれたので、一対多数にはならなかった。
     最後の影を斬り払い、飛ばされた闘場から出れば、次の場所に向かう光の橋が架かった。
     それを更に二度繰り広げれば、次は知の試練だ。
     正解を当てる簡単なものから始まり、高さも関係し、正解が複数あるものに続く。最後の問題はややこしく、話を聞いてきちんと順番を分かっていなければならない。
     ナジーンにとって話を聞いて整理するというのは、普段からの仕事と変わらない。ファラザードの人材は個性が強めなので、それらを五十年はまとめてきたのだ。
     出される問題にも冷静に対処しつつ、よくこの問題をユシュカが解いたななどとかなり失礼なことも考えた。
     知の試練を抜けると中腹への道に出る。その先が審判の展望台で、ここからは魔の試練だ。
     魔界とアストルティアを隔てるのは光の河だが、それ以外のルートがないわけではない。
     その代表格がルクスガルン大空洞だ。
     魔界のザハディカル岩峰とアストルティアのガミルゴの盾島を繋ぐ大空洞は、この魔の試練と同じ仕掛けがされている。もっとも、こちらの方が複雑だが。
     上下感覚や位置情報が狂ってしまいそうな空間は、動かすことで通れるようになるルートも含めてとても手間がかかる。三半規管が弱いものは吐き気を覚えるかもしれない。
     他の階層に移動する為に穴に落下しなければならなかったりと、なかなか勇気も必要な試練である。何せ、魔界最高峰のデモンマウンテンから飛び降りるのだ。飛べるものならいざ知らず、生憎とナジーンの背中に羽など生えていない。
     気持ち悪くなりそうな程にぐるぐると回った結果、何とか魔の試練を超えれば、頂上への道が続く。
     ここは階段でもなく、崖沿いに細い道が続いている。急勾配ではないが、頂上への道というだけはあるという心もとなさだ。
     ユシュカたちはここで一旦休憩を挟んだが、ナジーンは急いでいる。休憩など挟まずにその先の大審判の絶壁へ向かえば、謎のテンツクがぴょんぴょんと跳ねていた。
    「いやぁ、どうもですじゃ」
     いかにも怪しいテンツクに、ナジーンは武器を構えた。テンツクは跳ねながらほっほっほっと笑っている。それでもナジーンは警戒を解かない。弱き姿をしているからといって油断してはいけないのだとランテルに学んだ。
    「旅の商人、スッテンテンと言いますじゃ。こちらには、魔仙卿さまに呼ばれて品をお持ちした次第」
     テンツクはスッテンテンと名乗ったが、ナジーンは警戒を緩めなかった。一応は切っ先を下げたが、それでも直ぐに迎撃できる構えを取っている。
    「旅の商人、か」
     皮肉そうに口端を釣り上げるナジーン。しかし、その目は一ミリも笑ってはいなかった。
     スッテンテンはただ飛び跳ねていただけだったが、いくつか言葉を重ねてもそれは意味の無いことだと悟ったのだろう、突然紫色の煙が溢れ出しそのからだを全くの別物に作り替えた。
    「ふうむ、面白い」
     巨体を揺らして嗤うのは、大審門の門番、デモンズゲート。
     幻影などとは比べ物にならない破壊力を持った、魔仙卿の守護者である。
     大魔王候補たちがひとり一体を相手にする魔物。その強さは折り紙つきだが、二体を相手にして同時に倒さなければいけなかった現大魔王とユシュカコンビに比べれば実は楽である。
     ナジーンはヴァレリアやユシュカ程の巨大な魔法を纏った物理攻撃力は持っていない。アスバルほどの魔法が使えるわけでもなく、勿論規格外もいいところの少女には正攻法では手も足も出ない。
     それでも、ここを超えなければ手に入れられないものがある。手に入れるチャンスすら失ってしまうくらいなら、必死になって食らいつくしかない。
     ナジーンは、自らを大魔王になれる器だと思ったことがない。それは、ネクロデアの王子であった時からだ。
     歴代大魔王たちは揃って野心家であり、探究心が強かった。
     アストルティアを我が手にと強く望むことは、他国に侵略の手を伸ばそうとも思わなかったナジーンたちネクロデア王族にはない感情だったのだ。
     ネクロデア自体、暗鉄神ネクロジウムから預けられた土地という概念が強かったせいもある。
     対して、歴代の大魔王たちはアストルティアを強く望み、また貪欲に己の道を突き進んだ。先代大魔王のマデサゴーラはそうでも無かったようだが、結果的に己の中の声に従い侵攻している。
     その点で言えば今代大魔王は異質極まりないが。
     ナジーンにはデモンズゲートの攻撃を避けるのがやっとだ。ここから攻勢に転じようにも通用する攻撃手段を持っていない。
     それでも水が岩を穿つように、小さなダメージを積み重ねていく。
     四本の足の間をくぐりぬけ、襲い来る武器をからだを捻って飛び退るように躱す。
     どんなに表面が固くとも、内面は必ず柔く、関節部分は稼働のために固くしづらい。
     そういった場所に魔法を打ち込み、剣を突き立てる。
     正直に言って消耗戦に他ならない戦いはしかし、ナジーンの執念が実を結ぶ結果となった。
     デモンズゲートは音を立てて崩れ落ち、ナジーンも無傷ではないが大した怪我では無い。
     回復する魔力もつきかけていたが、ナジーンはそのまま大審判の絶壁からその場に現れた天を衝く光の階に足をかけた。
     しゃん、しゃんと足を踏み出す度に階段が不思議な音を立てる。
     ナジーンを包む景色は霧に覆われていて、現在地があっているのかも分からない。
     それでも進まねばならない理由があるのだ。
     ナジーンは迷うことなく足を踏み出す。やがて霧は晴れ、見えてきた景色は美しいものだった。
     黄色を基調とした柔らかな色の背の高い草が生い茂る草原。空の色もパステルカラーで、桃色や緑など不思議な色合いをしている。
     背の高い草に囲まれた道は一本道で、遥か先の神殿へと続いていた。
     弱小魔族たちが楽しげに駆け回る楽園、それがジャディンの園である。
     弱小魔族たちの保護区であるジャディンの園は、一度魔瘴によりその姿を惨たらしいものに変えた。
     この地を統括していた巨大なモーモンのモモリオン王も、それによって命を落とした。
     現在、この地を統括しているのはモモリオン王の妃である王妃アントワネットである。アントワネットはいずれその役目をモモリオン王の忘れ形見であるモネットに託そうと考えているが。
     まるで魔界だとは思えない平和で美しい場所。ナジーンはそんなジャディンの園を道に沿って歩いていた。
     ジャディンの園は果てしなく続き、道を外れれば迷ってしまいそうだ。デモンマウンテンの頂上のはずなのに、面積がおおよそそぐわない。
    「待っていたのだわ」
     そんなナジーンを出迎えたのは、大きな青いモーモン、青い薔薇と例えられるアントワネットだ。
    「今、ジャディンの園では問題が起こっているの」
     そう話すアントワネットは物憂げだ。ふたつ並んだ石造りの大きな椅子の小さい方にからだを怠そうに預けている。
     アントワネットはちらりと隣の空席の椅子を見やる。ナジーンもつられて同じ方向を見た。
     椅子と椅子の間に生えている謎の七色の花びらを持った植物(?)については見て見ぬふりをした。
    「わらわの可愛いモネットが行方不明になってしまったのだわ」
     それは言外に探して欲しいと言っているのだろう。
     魔族としてはどうでもいいことだ。以前のナジーンならば自らの欲求を最優先して、適当に理由をつけて先に進んだだろう。
     けれど、今のナジーンは違う。
     それはきっと、お人好しの大魔王のせいだと思うのだ。
     ナジーンはアントワネットの要請に協力し、モネットを探す手伝いをすることにした。
     この地に暮らすモーモンや、ドラキー、スライムなどの話を聞いて情報を精査していく。デモンズゲートを相手取るよりもよっぽどかしょうに合っていた。
     途中、駆け落ちの手伝いをさせられそうになったり、ぱふぱふの誘惑に耐えたりしながら、ナジーンはモネットを見つけ出した。
     プチアーノンにプチアーノンと名付けるような合言葉を探り出すのは結構な労力を要したが。何せ、ジャディンの園は広く、弱小魔族たちは小さいものが多い。殆どが背の高い草に隠れて見えないのだ。
    「ふふ、きれものね」
     そんな声が聞こえてきたと思ったら、ナジーンはアントワネットの目の前にいた。空席だった隣の椅子には、小さなモーモンモネットがちょこんと座っている。
     まるで白昼夢のような出来事に、ナジーンは左眼を瞬かせた。
    「これは魔仙卿のご意思なのよ。お詫びに大魔王の選んだ性格を教えてあげるのだわ」
     こしょこしょと内緒話をするように告げられた性格に、ナジーンは目をひん剥いたが。
    「さあ、ゴダ神殿であなたのアムールに会いに行くといいのだわ」
     アントワネットは楽しげに笑って、短い手をぱたぱたと振った。振り回されっぱなしのような気もするが、気にしたら負けだとナジーンはゴダ神殿に伸びる階段を登る。
     ジャディンの園とゴダ神殿は空気から全くの別物だった。
     デモンマウンテンにも似ているが、それよりも荘厳で重苦しい。
     神殿へと続く短い廊下を抜けて、両開きの扉に手をかけて開けば、目の前に広がっていたのは巨大な謎の花に襲われている少女たち兄妹だった。
     襲われている、とは言っても兄妹たちの表情は妙に間抜けだったのだが、目の前の巨大な花のインパクトの方が強く、ナジーンが気付くことはなかったが。
     ナジーンはいてもたってもいられず、剣を抜いて花へと斬りかかった。
     デモンズゲートに比べれば相手は植物だ。刃物はよく効くだろうと思ったのに、それは簡単に弾かれた。
     ならばと炎の魔法を放ってみるもそれも通用しない。
     後から思えばナジーンよりも戦闘に慣れている少女が立ち向かわなかったことが答えなのだが、必死なナジーンがそんなことに気づくわけもない。
     打開策も見つからぬまま、背中に冷や汗も流れる頃、謎の巨大花はいきなりしおしおと枯れた。全く意味がわからない。
     ナジーンが混乱していると、その姿を見て少女が面白そうに笑った。
     それを見た魔仙卿は、妹である少女になにか告げるとサッサと奥へと引っ込んで行った。残されたのは固まる少女と混乱から立ち直れないナジーンだけだ。
     最初に我に返ったのは少女だった。伊達に修羅場をくぐりぬけてないというか、立ち直りは早くなければいけない環境にいたというか。
     我に返った少女は慌てて逃走手段であるアビスジュエルを探した。しかし普段持っている場所にないらしく、わたわたしながらからだじゅうをぺたぺた触っている。
    「あわわわあわあわ……」
     ついでに言語能力も死滅したらしく、あわあわ言いながらも必死だ。
     次いで我に返ったナジーンは、慌てる少女にできるだけ気配を殺して近寄り、ぺたぺたとからだを触る手を取った。万一見つけられて逃走されたらかなわない。
    「ぴゃっ!?」
     先程から動物の鳴き声の如き言語能力の死が顕著な少女が、更に動物の鳴き声のような声を上げる。ついでにびくりと肩を揺らした上、複雑な感情が浮かぶ瞳で見上げるさまは、なんというか怯えた動物だった。
     ナジーンは少女の名前を呼んで、手を取ったまますっと跪く。それだけで少女が見上げなければいけなかった身長差はあっという間に縮まった。
     手を取ったままなのは逃走防止の為だ。触れてさえいれば、少女がアビスジュエルで逃げ出しても一緒に移動できる。
    「私の気持ちを、聞いて欲しい」
     力づくならば、少女にとってナジーンの手を振り払うことは難しいことではないはずだ。それでも少女がそれをしないのは、期待してもいいということだろうか。
     真っ直ぐな左眼が少女を射抜く。その真剣さに、少女は泣きたいような気持ちになった。
    「ご、めんなさい……」
     震える声が零れて、少女の表情が歪む。違うのだ、そんな表情をさせたいわけではない。
    「迷惑、でしたよね」
     言い逃げした自覚はあるのだろう。黒いまつ毛が伏せられて紅い瞳に影が落ちる。きらりと光って見えるのは瞳が潤んでいるからだろう。
     若干の鼻声になっているのは泣くのを堪えているからか。
    「私の気持ちを勝手に決め付けないで欲しい」
     そんな少女の顔を覗き込んで、ナジーンは華奢なからだを抱き寄せた。ナジーンよりも戦闘面では強い、本来ならば庇護されるべき少女。
     震える背中をさすって、苦しげに喘ぐ呼吸が落ち着くのを待つ。泣かせてしまったのは、他でもないナジーンなのだから。
     呼吸が落ち着いた頃、ナジーンはそっとからだを離した。
     体温が混ざりあって心地よかったが、いつまでもそれに浸っているわけにはいかない。
     小さな両手を握って、ナジーンは思いを告げる為に口を開く。不思議と心は穏やかだった。
    「私は、きみが好きらしい」
     その言葉に弾かれたように少女が顔を上げた。
     涙の跡が赤くなって痛々しい。
    「らしい、というのは自覚してそれ程経っていないからなのだが、きみは、私が好きなのだろう?」
     ナジーンの問いに、少女はふるりとからだを震わせたが、分からないくらいに小さく頷いた。
    「だったら、私たちは両想い、ではないのか?」
     告げられた言葉に、少女は瞳が零れ落ちそうな程に目を見開いた。
     小さな唇からはうそ、だとか、まさか、だとか否定の言葉が並べ立てられているが、こればかりは本当のことなので受け入れて欲しいと思う。
    「どうしたらきみに信じて貰えるだろうか」
     切実な声で問うても返事は返ってこない。分かっていても止められないのは、恋は病だからだろう。
     考えた結果、ナジーンはもう一度少女を抱き締めた。今度はその耳を胸に押し当てるようにして。
    「……聞こえるだろうか」
     激しく脈打つ心臓の音は、ナジーンにはうるさいくらいに聞こえるものだ。まるで、耳のそばに心臓が移動してきているかのように。
    「私は、きみが薬指に指輪をしているのを見て、嫉妬して気づくような鈍感な男だ。だが、その分誠実であるつもりだし、きみに愛される努力をすると誓う。だから……」
     ナジーンの頭は真っ白だった。
     口は勝手に動くし、自分でも何を言っているのだと思う。けれど、止められない。
     自分でもわかるほどにパニックになっていると、不意に口に固いものが当たってすぐに離れていった。
     何が起こったのかさっぱり分からないでいると、赤い顔をした少女がぷるぷるとからだを震わせていた。
     瞬間、ナジーンは何をされたのか悟り、少女と同じく顔を真っ赤に染めあげる。まるで初心のような、そんな反応に大人気ないと思うのだが止めることは出来ない。
    「う、嘘だったら、三魔王に告げ口しますからねッ!」
     ヤケクソのように叫ばれた言葉に、ナジーンは思わず吹いてしまった。
    「ふ……はは、それは、恐ろしいな」
     なんだか強ばっていた力が抜けて、ナジーンは抱き締めた少女の柔らかな髪を撫でる。少女は大人しくされるがままになっていた。
     早鐘を打っていた心臓が、だんだんと落ち着いてきて、ナジーンを幸せで穏やかな気持ちにしてくれた。
    「愛している、私だけの大魔王どの」
     そのまま、ナジーンと少女は小一時間ずっと抱き合っていた。

     *

    「そういえば」
     思い出したかのように呟かれた言葉に、少女は不思議そうな瞳を向けた。
     現在地はファラザードのバザールだ。ナジーンは少女とデート中で、可愛らしい小物を取り扱う店を見ていた。
     戦闘をする少女にはおおよそ壊れてしまうだけであろう代物だが、こうして平和な時に身につけてくれていたらと、似合うものがあれば購入するつもりだ。
    「私が自覚したとき、きみがつけていた指輪はなんだったのだろうか」
     ナジーンの質問に、少女はぱちくりと瞳を瞬いた。が、次の瞬間ぶわっと頬を染めて真っ赤になった。
     ナジーンはそれに機嫌が急降下する。ナジーンが贈ったものでもない指輪で頬を染める姿など見たくはなかった。
    「装備品できみはこれからも指輪をつける機会があると思う。だが、ここだけは私の予約なのでつけないでほしい」
     少女の小さな左手を取り、薬指の付け根を念入りになぞる。
    「……痛ッ」
     しかし、それだけでは足りないかとナジーンはその指を口に含み、がりと歯を立てた。
     少女の左手に、ナジーンの歯型がしっかりとつけられる。なんともわかりやすいマーキングだ。
    「約束だ」
    「は、はい」
     よい返事が貰えてナジーンの機嫌は少しだけなおった。ユシュカに依頼している宝石はまだまだ吟味の途中で、ナジーンが気に入るものは見つかっていない。
     仮の宝石を……とも考えはしたが、そんな代替品をここに飾りたくはなかった。
    「あ、の、えーっと、あの指輪、は、ですね」
     そんなことを考えていると、少女がゴソゴソと懐を漁って何かキラリと輝くものを取りだした。
     それは、あの日見た、なんの飾り気もないシンプルな指輪だ。だというのに、何故こんなにも目が離せずに惹かれてしまうのだろう。
    「エテーネルリング、という指輪で、縁を繋ぐ代物なんです」
    「縁を、繋ぐ」
    「はい。私のご先祖さまに贈られたものなんですが、不思議なことにはめるとピッタリなんです」
     本当に不思議なもので、その指輪は少女のどの指にはめてもピッタリとサイズがあった。まるで、少女に合わせて作られたかのようだ。
    「私……あの……ナジーンさんとの縁、繋いでもらいたくて」
     小さな声で呟く少女の供述に、不機嫌になっていたナジーンの機嫌は一気に好転した。己の恋人が可愛い。
     ナジーンは少女を抱きしめて、勢いのままキスをした。往来だとかそんなことは頭からすっぽ抜けている。すっかりと恋に狂わされた男に成り下がっていたが、幸せなので問題ない。
     少女は恥ずかしがって身を捩る。その小さな抵抗でさえ、今のナジーンには幸せの一部で。
     憎たらしいだけだった少女の薬指に陣取っていた指輪は、結果的にナジーンと少女の恋の縁を繋いだのだ。
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