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    Lemon

    100%鯉月しかない。小説を書きます。すべて個人の妄想です。実在の人物、出来事、版権元とは一切関係ありません。

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    Lemon

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    【1217鯉月小説本のサンプル】
    坊メ。全年齢。

    ベタ打ちなので読みにくいかと思います。絶賛手直し中。
    ほぼほぼ全文アップしています。

    #鯉月
    Koito/Tsukishima

    コイノボリウオ薩摩の名家・鯉登家の本家の屋敷には、少し変わった習慣がある。
    現当主・鯉登平二の次男坊がうんと小さな頃、大人の男の人をひどく怖がったことから、次男坊に仕える下男下女は性別を問わず皆、「メイド服」と呼ばれる西洋の侍女の服を纏うことを課されたのだ。
    長年にわたり薩摩の地を治め、名家として名高い鯉登家の本家の当主が始めたことであるから、当初は奇異の目で見ていた民衆も、鯉登家のなさることだからと受け入れるようになった。「メイド服」を着た下男・下女の姿が錦江湾の風景に違和感なく溶け込むようになった頃、大きな戦争が海の向こうで起こり、それから数年の後、鯉登家は当主の昇級と共に遥か北の地へと赴任することとなった。大切な家族の一人、長子を薩摩の空っぽの墓地に残して。


    当主は薩摩から北の海の要港へと居を移すことが決まった際、屋敷に仕える下男下女のすべてに、新天地に付いてくるか、薩摩に残るかの選択を与えた。
    残る者たちへは、家令が責任をもって次の奉公先を紹介してやり、その中で、家令から見ておおよそ屋敷仕えに向かぬ者たちには、それぞれの特性に合いそうな勤め先に口をきいてやった。また、当時は鉄道すら存在せず、整備された道も少なく、移動手段に乏しい時代であったから、当主の赴任にに付いてくることを選んだものの、悪路の長旅に耐えることのできそうにない丁稚や下女、蒲柳の質の者、年老いた者は、当主・鯉登平二の判断により、連れて行くことはしなかった。
    鯉登平二は長旅に連れて行けぬ者らを集め、彼ら一人一人に随伴ができぬ理由を告げ、別の道を示した。薩摩の屋敷に留まる者には、当主一家がいなくなるから同じ仕事を続けるのは厳しくなるが、同じだけの給金を与えるし、他の働き口を探すのであれば家令が口を添える、と約束し、当主一家は北へと旅立っていった。



    船と陸の道をいくつも乗り継ぐ長旅ではあったが、当主一家ーー鯉登平二・ユキ夫妻と次男坊ーーは恙なく旅を終えた。付き従った下男下女たちの中には途中で病を得たり怪我を負ったりして旅程についていけず遅れた者も出たが、幸いにも命を落とす者は出ず、本格的な冬を迎える前に、ようやく全員が新居へとたどり着くことができた。
    当主は疲れているものも多いだろうからと、祝いの席こそ設けはしなかったが、不慣れな土地故、まずは心身をいたわるようにと、すべての下男下女に一週間の休暇を与えた。
    下男下女など替えのきく家財道具の一つとして扱われていた当時としては画期的なことであった。

    もうひとつ画期的なことと言えば、家令を本家に留めおき、二番手であった侍女頭が新居の家令を務めることになると鯉登平二が発表したことにも、下男下女たちはみな一様に驚いた。
    なにせ世が世である。男を差し置いて女が頭になるなど、天地がひっくり返ってもあり得ぬことであった。そも、薩摩の地は古くから男尊女卑の概念をさらに凝縮したような風土であり、その地で生まれ育った当主がどうしてそのようなことを口にしたのか、誰しもが驚きを隠せなかった。しかし、どれほど理解が及ばずとも黙ってお館様に付き従うのが下男下女の務めであるからして、彼らは新しい家令の指図の下、一丸となって、この雪深い土地に第二の鯉登本家邸宅を築き上げることに精一杯務めるようになった。そもそも学のない下仕えの者どもに、たいそう立派な鯉登家の当主の心積もりなど推し測りようもないのだ。


    だが、人の口に戸は立てられぬもの。
    鯉登家に仕える下男下女たちは、当主の命にも、新しい家令ー女家令ーにも、いっさいの不満はないが、どうにも理屈が分からぬ。そして、人は往々にしてわからぬものをわからぬままには放っておけぬ質なのである。
    その尻の据わりの悪さは時折、愚痴という形で休憩中の彼らの口にのぼる。それを聞いた出入りの御用聞きが面白おかしく吹聴し、北の果ての港町は、新しく赴任してきたたいそうご立派な名家の奇行の噂で持ちきりとなった。鯉登家の内では「驚き」であったものが、戸外に出た途端にいくつもの尾鰭がついて「気味の悪いもの」となったのだ。
    魚は鰭が無くとも多すぎても、上手には泳げぬ生き物。
    鯉登家の噂は多すぎる尾鰭のせいで、予期せぬ方へとあちらこちら、フラフラと流され、どんどん鰭を増やしながら港町を一周した。噂というのはとかく無責任なものであるが、その上、この港町に暮らす民にとって、鯉登家の人々は見知らぬ遠い土地から来たよそものなのだ。よそものに対するまなざしはいつの時代も冷ややかなものである。




    男を差し置いて女を重んじるなど有り得ない。
    この日ノ本の国に朝日が西から登るようなものだ。
    いやまて、たしか、薩摩は奔放な地で、家のつながりの外でも、男同士であっても、契りを結ぶことが奨励されるようであるから、 鯉登家の女家令はきっと当主のそばめに違いない。そばめでは聞こえが悪いから、肩書を与えたんだろう。
    本妻とそばめが一つ屋根の下で暮らすとは。何と野蛮なことか。そのような悪習を、この地には持ち込ませてなるものか。この地には、この地に相応しい伝統と秩序がある。


    そのように内心で思ってはいても、彼らは表向きには鯉登家に友好的であった。国の新しい秩序の元、海の軍を統べる司令官として赴任してきたのが鯉登平二なのである。民草に政など理解できぬが、港に築かれた大砲の威力は理解できる。軍のお偉いさん方というのは一つの地に定住せず、出世のたびにあちらこちらの基地へ行くのだから、しばしの間、辛抱していればよい。
    大半の市井の人々はそう考えていたのだが、そんな良からぬ噂のある新参者の家に仕える下男の中に、立派に成人した男のくせに何やら女と同じ西洋の服を着ているものが混じっていることがわかると、噂は好奇心から徐々に不信感へと姿を変えていった。
    どれもみな稚児というには見た目に劣り、薹が立ちすぎている。男が女と同じ服を着るなど、どういうことか。
    鯉登家が薩摩の出というのも浮薄な噂に拍車をかけた。北のはずれに位置するこの土地の人々にとって、地続きですらない薩摩は全くと言っていいほど馴染みのないものである。遥か南方の海を渡った先の島の更に最南端に位置する薩摩のことなど知りようもない。要港の人々は薩摩の地をどこか異国のようにとらえていた。当時は移動手段が限られていたから、旅というものは行楽ではなく、大店が商品を運ぶ以外では、苦役や戦争、夜逃げや犯罪に絡む危険なものであった。よって市井の人々の仕官や奉公、婚姻などでの移動は、小さな域内で済まされることが大半であった。
    電話も写真も発明されておらず、文字を読める人も少なく、郵便制度がかろうじて機能しているといった情報の伝達速度の中、男女の別なく揃えの同じ服を身につけ、肌の色も話す言葉も違う薩摩の人々は、その存在だけで警戒心や違和感を抱かせる存在であった。



    現状、大きな諍いなどは起こっていないが、下男下女たちが地元の人々とのやりとりに疲弊しているのは、彼らに傅かれて長い時間を過ごす鯉登平二の妻・ユキの目には明らかであった。はるか遠くの薩摩の地から当主の都合で連れてきた下働きの者たちに対し、私たちは彼らを守る責任がある。ユキの決意はまず当主である平二に伝えられ、平二の口から家令に、当面の間、屋敷の外に遣いに出すのはこの土地で雇い入れた者に限るように、との命が下った。
    その命を受け、家令はなるべく面倒ごとに巻き込まれなさそうな者ーーこの港での暮らしの長い者、如才ない者、喧嘩をふっかけられそうにない外見をしている者ーーを選んだが、それでも不安は残った。荒事が起こった時に、その場を収められるような者がいなかったのだ。鯉登家は軍隊に馴染みがある故に、単なる破落戸や用心棒などといった「腕に覚えのある者」を護衛係としては雇わない。腕っぷしだけなら役に立つかもしれぬが、どうにも頭の方が回らぬ輩が多く、騒ぎを大きくしてしまうからだ。家の格を守るため、そして一般市民の信頼を得るために、鯉登家としては何としてでも醜聞は避けたい。また、何か事が起これば、家だけの問題ではなく当主の軍内での立場にも関わってくるから、格闘技術以外に礼節を知り、かつ常に冷静な頭で立ち回れる者が必要である。
    そのような考えから、薩摩では海軍からの紹介で、除隊者のうち、欠格事項を持たず、まだ比較的若い者を雇っていたのだが、これが大層役に立ったのだ。彼は薩摩の地に留まったため、鯉登家は、近代的な訓練を受けたもの、できれば軍隊経験者を募ってはみたものの、移ってきたばかりの新たな土地では、鯉登平二の人脈を持ってしても、適任者は見つからなかった。


    そんな中、思わぬ縁から鯉登家に紹介されたのが、陸での従軍経験を持つ男であった。



    男は元軍人の割に小柄だが、冷静で、寡黙で、課された仕事は二つ返事で驚くほど素早くこなし、誰よりも長く働くことができる。まるで躾の行き届いた犬のように従順であった。小柄と言ってもひ弱とは縁遠い体つきである。服の上からでも分かる程に鍛え上げられた寸詰まりの体は首も腕も胴も太腿も何もかもが太く、どっしりとした体型は大地に根を張った切り株のようである。当然、力仕事に重宝されるようになるまでに時間はかからず、無駄口を叩かないから上からの覚えも良かった。
    面構えは決して男前ではない。坊主頭とがっしりとした顎に囲まれた生白い顔の真ん中に畜生鼻と揶揄われる低い鼻があり、その両側にある眼光は鋭く、その上に鎮座する眉毛は吊り上がっている。頬に刻まれたくっきりした皺が年齢を分からなくさせており、その風貌に箔をつけていた。


    男の名は月島基という。





    ************

    「音之進坊ちゃま。そこで何をしておいでです?」
    「キエエエエッ!月島あん!!!!何でバレてしもうたんじゃ!」
    「はあ………」

    目の前で奇声を発し反り返る坊ちゃまーー鯉登音之進、由緒正しき鯉登家のまごうことなき家督相続人であるーーに、月島は分かりやすく溜息を漏らした。


    何でもなにも、こんな庶民しか来ないような場所に、一目で特級品と分かる坊ちゃまの服装はひどく浮くからだ。
    月島は一つため息を吐き、両足でしっかり踏みしめて背を伸ばし、両手を腰の後ろで組み、目をひときわ鋭く眇めた。腹の底から声を出すための姿勢だ。兵卒どもを叱る時のそれであるが、ここは兵舎でも戦場でもなく軍港の下町の魚市場の路肩で、自分が袖を通しているのは固い生地の軍服ではなくスカアトなる筒状の布で足首まで覆われた上品のメイド服であるし、指導相手はあばた顔の一兵卒でもなければ一癖も二癖もある扱いづらい上等兵でもない紅顔の少年である。
    たいそう美しく華のある少年の名前は鯉登音之進といい、彼は月島の雇い主の子息であるから、蹲うことはあれども、決して月島が説教を垂れるべき相手ではない。垂れるべきは説教ではなく頭である。
    だが月島はしばらく前から、臆せず、へつらわず、かといって頭ごなしに怒鳴りつけることはせず、「窘める」や「諭す」と言われるような方法で音之進坊ちゃまの無茶ぶりを叱るようになった。きっかけは覚えていない。
    常に己を律し、命令に従う。命令を遂行する道具として随分と長い間生きてきたというのに、ついうっかり、で、服務の外のことーー雇い主の子供の生活態度ーーに口を出すなど、鬼軍曹が聞いて呆れる。


    月島よりも背の低い男は兵舎にはおらぬから、音之進坊ちゃまと向き合う際、今でも月島はすわりの悪さを感じている。指導のときは常に顔を上げ、顎で使うような仕草で凄みをきかせて一喝するものだから、音之進坊ちゃま相手だと、視線のもっていきかたが分らないし、どれくらいの大きさの声を出せばいいのかも分からない。殴るなど論外である。そもそも子どもに説教するなどということをやった試しもなく、任務としてそのようなことを与えられたこともなく、また、今現在の任務もこの音之進坊ちゃまに説教をすることなど含まれておらぬし、自身も一度も子を持ったことが無い。つまり月島は、全く未経験のことを任務に関係のないところで積極的に試みて失敗し続けている。


    (俺はいったい何をやっているんだ。)

    毎回心を過る至極もっともな言葉が今回も出てきた。
    月島はため息をつきつつ、引き起こした音之進坊ちゃまの服についた埃を払ってやる。月島が服をパンパンと叩くと、音之進坊ちゃまは、最初の頃は、痛て、痛てっ、もっと加減せんかあ、新顔のソコツもんがあ。汚い顔しよって。もっと鯉登家に相応しい顔をせい、顔を変えろ、と、喚き暴れ、月島は顔と言わず手と言わず、メイド服に覆われていないあらゆる皮膚をひっかかれたものだが、月島相手に腕力で抵抗するのは無駄と学んだ今、坊ちゃまの態度はおとなしいものである。フン、と鼻息荒く横を向くだけで、じっと立っている音之進坊ちゃまの髪の毛をガシガシとふるって間に入り込んだ砂利を落とし、襯衣の上に落ちたそれらをそっと払えば、白地に煤塵の黒々とした汚れが残された。
    西洋の服装はこんな北の港町であっても、ようやく風景に溶け込むようになっては来たが、染みも汚れも無い襯衣は生地が良いせいか、火熨斗をしっかり当てているせいか、輝くように真っ白で、明らかに庶民の子供に着せるものではない。紺色の洋袴も同じだ。ゴム長靴に至っては、庶民どころか小金持ちであっても手に入れることはできないだろう。


    音之進坊ちゃまだけでなく、薩摩からこの地にやってきた者たちのほとんどは肌の色が濃いから、一目で鯉登家の関係者だと分かる。その中で子供は音之進坊ちゃまだけだ。一番幼い下男であっても音之進坊ちゃまよりはもう少し長じているし、何より坊ちゃまの存在そのものが一線を画している。クソガキと称される問題行動はあるが、見目の良さもさることながら、剣道を修めているせいか姿勢が良く、声も大きい。背もすらりと高く、鯉登家の最年少の下男を上回るほどである。
    何より、大人でもたじろぐほどの堂々たる言動は、この歳にしてもはや人の上に立つべくして育てられた者の風格である。そんな子供が視界の中をウロチョロしてれば、一目瞭然である。


    (………育ちというのはやはり侮れんものなのだな。)


    だがそんな立派さなど、今この場には一切の関係が無いことも、月島には明らかである。

    「一人で外をうろつくなと、お館様からきつく言われていらっしゃるでしょう。いいですか、坊ちゃま、危険な行動は慎み、鯉登家に相応しいふるまいを………」
    「フン。分かっちょらんなあ、月島。それに、おいの父である鯉登平二は、この軍港を治めておる。ここが危険と言うのは、つまり、父の采配が失敗していると言っていることと同義である。おいが何人もの護衛をつけて街を歩くなど、新任の将校殿は、自分の息子に街をひとりで歩かせることができんほど無能じゃと喧伝しているようなもの。よって、おいが一人でうろつくことは、まっこと、鯉登家に相応しい振る舞いであると言えよう。」
    「さようでございますか。そのような深慮の上の行動であったとは。音之進坊ちゃまは勇敢なのですね。」
    「月島あ、そいはな、かごんまではな、肝が太てちゆっど。それに、うろつかんから、いつまでたっても危険なままなんじゃ!知らずして安心などできる筈がなかあ。おいんことは巡邏と呼ぶがいい。」





    目付け役を撒いて一人で市街地をうろつくのは、このきかんきの強い坊ちゃまにとっては、趣味や流行りを取り越して、もはや洗面や歯磨きといった類の日常動作といえる。
    音之進坊ちゃまは目立つ風貌で、行動も声も大きく目を引くが、上手に目付け役の視界から消えるのだ。賢いという印象からは程遠い悪行三昧ではあるが、目端が利く。そして今さっきの言動から明らかだが、弁も立つし頭を下げる謙虚さはない。月島は心の中で頭を抱えた。ああ。面倒くさい。頭の出来が良く、好奇心や信念を行動に変えて危険に飛び込むことができる相手は厄介だ。

    月島は、あるじーー鯉登平二ではなく、月島の真のあるじだーーにいくつかの軍務を外れた訓練を課されたことから、スパイに関する知識や技術をある程度は身に付けている。音之進坊ちゃまの脱走など、防止するのはたやすい。しかし月島は音之進坊ちゃまお付きの下男ではないので、ずっと監視している訳にはいかない。
    今はまだ、そこまで懐に入り込んでいる訳ではないのだ。


    だが、一家に対して風当たりの強い街に一人で物見遊山に行く子どもを見逃すことは月島にはできない。この子どもを手懐けるのは月島の任務ではないのだが、だからといってむざむざ、鯉登家にたった一人残された跡取り息子を危ない目に遭わせる必要もない。いくら剣術に秀でていようが、銃にはかなわない。
    だから、脱走しようとしている音之進坊ちゃまを見つけたら、面倒くさいと思いながらも捕獲するくらいにはおせっかいを焼く。捕獲などという言葉はお館様の子息に対して大層不敬ではあるが、猿叫をあげる音之進坊ちゃまを最初に見た時の印象が猿みたいだというものであったので、致し方ない。心中で使うだけの言葉なので許してほしい。



    鯉登家から月島に与えられた仕事は、館の外での買い出しと、空いた時間での館の清掃である。最近では力仕事に駆り出されることが増え、清掃作業は後回しになりがちだ。外での買い出しは毎日必ず必要であるし、今のところ買い出しを担っている者は少なく、よって、月島の最重要任務は買い出しである。
    頼まれた品物を頼まれた数を買ってくるだけの単純な仕事ではあるが、どの店でどの品物が買えるのか、店の営業時間や注文方法、館から店までの道順、一人で運べる荷物の量や店を回る順番など、考えることは多い。繊細な品物の受け取りであれば、天候にも気を付けなくてはならない。支払いは約束手形が主で、店の要望によっては月極の現金支払いとなるが、月島に決裁権限はなく出納はすべて別の者が行っているから、金銭を持ち歩く必要は無い。
    その点では心配ごと(月島の身の安全という意味ではなく、金銭を奪おうと襲ってくる輩の身の心配である。)は一つばかし減る。
    ただし、店から渡される領収証や書付け、勘定書の品目や金額に相違がないのかは必ず目を通す必要があるから、単純と言えども頭も必要である。買い出しの業務は、鯉登家の目をかいくぐり真のあるじと連絡を取る必要がある月島にとって都合の良いものであったのだが、この目の前でぶすくれてる音之進坊ちゃまの付きまといに気が付いて以降、連絡は途絶えたままだ。
    音之進坊ちゃまは聡明なうえに妙に勘が鋭いところがあるから、いくら子供とはいえども、慎重にならざるを得ない。


    (面倒くさい。)

    もっとはっきり言えば、月島は、頭がよく行動力があって口もよく回って問題行動ばかりする上に高慢ちきなこの次男坊が苦手である。嫌いなのではない、苦手なのである。
    最初の頃こそ、クソガキ、と心中でお館様のご子息に対し大変不敬な印象を抱いていたのだが、音之進坊ちゃまが時折見せる寂しそうな表情、やけっぱちに吐き捨てる言葉に混じる、芯の強さや冷静さが、月島のこころに引っかかる。どれほどいたずらをしても、どれほど喧嘩をしても、心に空いた穴は埋まらない。自分の立場を忘れられるほど愚かではなく、よって、自分の愚行などはいうまでもなく、周囲の期待も、自分を見る目も、大人よりもよくよく理解しているのだ。

    月島には当たり前の家族のつながりというものが分からぬ。

    いいや、おつむでは理解できるが、それは「そういうものである」「そういう感覚を持つのが一般的である」と学んで得たものであり、自身の経験に基づく生の感情としては理解が及ばぬ事柄なのだ。家族や血縁との暖かな関係とは全く縁のない生い立ちなのだから、こればかりはどうしようもない。だが、だからといって月島に音之進坊ちゃまの喪失が全く理解できぬわけではない。大切な人を失うことで生まれる洞は、月島にとってはあの日から常に付きまとう人生の伴侶のようなものだ。そして月島にはあの日、大切なあの子を失ったあの日に、もう一つ得たものがある。血にまみれた拳が得たのは月島がどこに行こうとも生涯付きまとう監獄だ。
    無論、それはあの糞親父を殺めたことではない。月島が真のあるじを得たことにある。
    彼がどうやって一兵卒であった月島を見つけたかは見当もつかぬが、月島の真のあるじがあの狭く不潔で自身の体臭と糞尿のにおいの消えない独房から救い出してくれた後も、あるじを信じて共に渡った露国でも、あるじの噓を知り、はらわたと共に何かを失った戦地から戻ってきた今も、月島はずっと監獄にいる。
    何も感じなくなり、任務以外すべてを捨ててきたというのに。
    どうしてか、この坊ちゃまを任務だと割り切って接することができない。


    (こんな幼い身で、すでに大切な人を亡くし洞を持った音之進坊ちゃまが、これ以上、俺と同じものを得る必要はないだろう。)




    そう思うからこそ、月島は音之進坊ちゃまが愚かなふるまいをしないよう、つい首根っこをひっ捕まえて説教をしてしまうのだ。




    月島の真のあるじが最近の月島の振る舞いを知れば、甘いタレのかかった団子でも食みつつ、『それはもう、絆されてると言うんだろうなあ、月島』と柔和な笑みを向けるだろう。











    「………音之進坊ちゃま。お願いがございます。これから月島は市場で買い物をしなければなりません。そうしなければ音之進坊ちゃまも、御父上様、御母上様も、今晩食べるものがありません。
    買い物をしている間、はぐれないよう、月島とずっと手をつないでいてほしいのです。よろしいですか、音之進坊ちゃま。絶対に私の手を離してはいけませんよ。いいですね。」
    「ふん。よかろう月島。道に迷った部下を導くのは良い上官の役目。けもんでん、こそくいでん、月島が必要な私を信じてついてこい月島あ。」

    煩いを断ち切るように音之進坊ちゃまに声をかけ手をつないだら、この返事である。迷子はそっちの方だろうと思いつつ、月島は、はあ、と気の抜けた返事をした。まったくもって鯉登音之進らしい振る舞いである。
    音之進坊ちゃまの態度を改めさせるのは本来であれば力仕事担当の月島ではなく教育係の仕事であるし、何より、月島の今日の買い付けはまだ終わっていないので、急がなければならない。市場はほとんどの店が午前中に店じまいとなるからだ。
    大人の月島一人であれば十分間に合う刻限ではあるが、子供の足が加われば話は変わってくる。口は達者であるが、音之進坊ちゃまは子どもである。歩幅も違えば、歩く速さも違う。
    そして子どもというものは、まっすぐに道を目的に向かって歩いたりはしない。興味を惹くものがあればピュンっとどこへでも飛んで行ってしまう。大人の都合も周囲の状況も前後関係もまったく鑑みない。その時その時を生きている。それが子どもである。

    月島は音之進坊ちゃまを通してそのことを嫌というほど学んだ。『学びはいつでも身を助ける。それがいつどこで自分を助けてくれるかは分からないものだが。』とは月島の真のあるじの言葉であり、月島はロシア語の習得を通して身をもって学び、多少なりとも真の主のために役立てることもできたが、子どもに関する学びについては、今のところ音之進坊ちゃま以外に役立てられる見通しはない。だが真のあるじのその言葉を慰めにしなければやっていられない。
    俺は何をやっているんだ、任務以外の事にこれ以上かかずらう訳にはいかない、と、月島は幾度となく自問を繰り返しつつ、今もこうやって音之進坊ちゃまと手をつないでいる始末なのだから。


    「ありがとうございます。音之進坊ちゃま。」


    音之進坊ちゃまが気まぐれを起こしたり我儘を言い出したり脱走したりしなければ良いのだが、という希望的観測を、おそらく今からそのすべてに対応しなければならなくなるだろう、という過去の経験に基づいた現実的な見通しが即座に打ち消した。危険予測は月島の得意とするところである。

    (ああ、面倒くさい。)

    そう遠くない先に確実に起こる厄介ごとを片付けながら、本来の任務である買い付けを完了する。考えただけで面倒くさい。面倒くさかろうが何だろうが、現実は月島の心境を慮って待ってはくれないし、どうやら何某かの任務を与えられたと勘違いしている音之進坊ちゃまは、お元気いっぱいにあさっての方向へ足を踏み出している。

    (ああ、さっそく厄介ごとが始まったな。面倒くさい。)

    目的地も分からぬまま突っ走ろうとする音之進坊ちゃまの手を後ろに引いたが、それで立ち止まる相手であれば苦労はない。出鼻をくじかれた音之進坊ちゃまは、手を振りほどくのではなく逆に月島の手を引っ張り、走り出そうとしている。
    月島が音之進坊ちゃまを捕獲し始めた頃、つないだ手を即座に叩き落としていた音之進坊ちゃまは、いつの頃からか月島の手を振りほどこうとはしなくなった。月島が絶対に己の手を離すことはないと理解し、男子がメイドごときと手をつなぐなど薩摩男子の名折れじゃ、と、いっぱしの男を気取って力の限りに反抗し、己の力量でそれは不可能であると理解し、受容したからである。手をつなぐなど、ほんの些細な行為であるが、音之進坊ちゃまを留め置くことは格段にやりやすくなった。それでも捕獲できる確率は月島であっても低い。
    子供特有の素早さもあるが、それに付け加えて、勘が鋭いのか武芸の才があるのか、音之進坊ちゃまは体の使い方が巧みで、また見た目以上に力があるからだ。音之進坊ちゃま、そちらではありません、まずはこのあたりで魚を買います。と、首根っこをひっ捕まえて引き留めると、キエェエエッ、何すっとか、わやぁ、こん馬鹿力があ!!と音之進坊ちゃまが猿叫を上げ、涙を溜めた目で月島を睨みつけてきた。月島の馬鹿すったれ、と、げしげしと脛を蹴ってくる音之進坊ちゃまに、申し訳ありませんと月島がため息を吐いて謝っていると、後ろから声がかかった。


    「ほら。これ。持って帰りんさい。小さいし、見た目が悪くて数もそれほど獲れる魚じゃないから売り物にはならんのやけど、塩で煮たり、焼くだけで十分美味しくなるの。鱗は固すぎて剥げないから、ようく洗ってやるだけでいい。この鱗は固いけど火を入れた後は簡単にはがれるからね。身は雪みたいに真っ白だし、柔らかいし、においも小骨も少ないから子供にも食べやすい。」
    「いや、しかし………」
    「ここの市場は小さい子供を連れてるくらいなら大丈夫だけど、こん子供は鯉登さんちの坊ちゃんじゃろ。どうしても肌の色でわかっちまう。だから、あまり不用心に連れ歩くもんではないよ。それにほら、頑固たれみてえだし。ちいそうても男やねえ。」
    「月島、月島、つきしまぁ………こん魚、真っ黒うて、鎧着ちょっど。変な魚じゃあ。ちっとも美味そうじゃなか。」


    魚売りが差し出してくれた籠には、小さくて黒い魚が盛られていた。だが、身を覆う鱗は音之進坊ちゃまの言う通り、異様であった。
    魚という生き物は身の上に皮を持ち、その上を一枚一枚独立した鱗が覆っているものであるが、この魚は真っ黒な鱗がすべて繋がっていて隙間がない。確かに鎧のように見える。下げた視界に、魚を掴んで振り回す音之進坊ちゃまの手が映りこむ。今泣いた烏がもう笑う、とはよく言ったものだ。月島は卑しい出自で軍の規律以外の礼儀を知らぬ粗忽者ではあるが、魚の胴体を潰さんばかりに握っているその掴み方は、どう見ても食べ物を扱う掴み方ではないことくらいは分かる。


    「誠に申し訳ございません。」
    「気にせんでええよ。」


    月島は魚売りに頭を下げた。その後、音之進坊ちゃまと視線を合わせるようにしゃがみ込み、少し力を込めてつないだ手を引いて注意を促す。

    「音之進坊ちゃま。その魚はご好意から頂いたものです。人様からの好意に礼も言わず、ましてや文句を言うなど、決してなさってはなりません。
    そして食べ物はおもちゃではありません。そのように粗末に扱ってはいけません。」
    「やぞろし!月島はいっつも説教ばっかりじゃ。おいの父は鯉登平二じゃっど。そんた分かっちょいはっじゃって、ないごてしやったどかぁ。
    月島、おまえ、出世せんぞ。ぜったい出世せんぞぉ。」


    俺の出世のことなど今は何の関係もないだろう、と呆れつつ、ひとたび月島が口を開いた時、魚売りの笑い声が仲裁に入ってきた。

    「構わんよぉ。この魚の見た目だと、まあ、子供の目には食べ物というより、おもちゃに見えても仕方がないだろうて。」
    「いえ、ですが………」
    「それにしても、見れば見るほど不細工な魚じゃっ。それにわっぜ黒くて硬て。食えたとしても、不味いに決まっちょっ。それにおいは魚は食(たも)ださんっじゃっで、貰うてん食(たも)らん 。ふん。魚売り、きさんにも分かるようにゆちょっ。”いらん。”」
    「ははは。ええ、ええ、そうです。坊ちゃんの言う通り、この魚は見てくれが悪いから、売り物にならんのです。でも、とても美味しい魚なんですよ。一度召し上がってみてください。」
    「………ん。」


    しばらく疑り深い目を向けていた音之進坊ちゃまが首を縦に振ったことに、月島は内心驚きを隠せないでいた。
    何故なら、音之進坊ちゃまは魚が食べられないのだ。これは買い出し担当に決まった時、厨の担当の男から聞かされたことである。だから月島は毎回の買い出しで魚市場と精肉店の二店舗を必ず回らされるのだが、実際に鯉登一家が食事をするところを見たことが無いから、確証が持てないでいた。単に好き嫌いを甘やかしているだけだろう、もしくは、二親ですら腫れもの扱いをする音之進坊ちゃまの機嫌を損なうのを怖れているんだろうと。その後、月島が鯉登家に勤め始めてしばらく経ち、徐々に信頼を得るようになっていく中で、古参の侍女の草むしりを手伝っていると、合間の暇つぶしに鯉登兄弟のことを話してくれたことがあった。
    どうやら音之進坊ちゃまは、魚を食べると、故郷、薩摩で今は亡き兄、平之丞と過ごした日々が思い出されて、それが嫌で魚を口にしなくなったらしい。
    年の離れた兄は学舎や軍から帰省するといつも音之進坊ちゃまを連れて港で魚釣りをし、共に釣った魚を食べて過ごすのが彼ら兄弟の夏の楽しみであったのだが、兄亡き後、音之進坊ちゃまが魚を口にすることは滅多になく、魚を見ることすら嫌がるようになり、親族の会食の席で魚の載った膳をひっくり返したこともあったのだと。

    始まりは確かに心の痛みであった。だが時が経つにつれ、音之進坊ちゃまは魚を食べると本当に気分が悪くなったり、吐き戻したりするようになり、やがて魚が食卓に上ることは無くなった。
    そんな音之進坊ちゃまが、どういう心境の変化か、今、魚を食べると言いだしたのだ。




    「月島、つきしま、月島あ。この魚、焼いてくいやい!」
    「はい。かしこまりました。音之進坊ちゃま。」


    月島に料理の心得は一つも無い。そもそも鯉登家に雇い入れられたのも、言い方は悪いが、あのお方ーー月島の真のあるじーーの差し金であるから、能力を認められての雇用ではない。
    入隊できなければあの親父同様に破落戸になっていたであろう、社会の底辺を這いずり生きてきた月島に大店や屋敷への奉公の経験はないから、下男下女が行う仕事など、まともにこなせるはずが無いのだ。できることと言えば、効率的に人を殺すことぐらいである。だが根が真面目な月島は、お館様のご子息の要望を断ることなどできぬ。月島だって音之進坊ちゃまの願いをかなえてやるのはやぶさかではないのだ。それが苦い思い出のに縁のあるものなら尚更に。

    それに、この魚売りの言うとおり、音之進坊ちゃまを連れて市場での買い物は情勢的に厳しいものがある。月島は訓練を受けた軍人なのだから、一般人や破落戸相手に命を落とすことは無いだろうが、かといって、むざむざ坊ちゃまを危険に晒すなど言語道断。一刻も早くこの場を離脱することが今の月島の任務だ。
    言い付かった今日の買い出しは、ほぼ終えており、残すはお館様たち家族の夕食に出す肉と魚、奥方様付きの下女たちへの褒美の菓子だったから、この魚があればどうにかなるだろう。肉が無いのは、調理係に何とかしてもらうしかない。下女たちへは頭を下げて、明日、改めて菓子を求めに来ればよい。




    「あの、もし。すみません。私は料理の心得がありません。この魚の焼き方を教えていただけませんでしょうか。」

    そう声をかけると、人のよさそうな魚売りは丁寧に調理方法を教えてくれた。

    「北の魚はたいてい脂が多いんだけど、こいつはちょっと変わってて、いつ獲っても脂が少ないの。
    だから、七輪の網をうんと熱くしてから洗った魚を乗せるといい。脂の少ない魚や肉を焼く時は網を思いっきり熱くしてやるんだ。そうしたらこびりつかないから。油をぬってもいいけど、もったいないからねえ。さっき言った通り、鱗を剥いだり、内臓を外したりする必要は無いよ。小さい魚だから、火の通りはそんなに気を付けなくても大丈夫。小骨もほとんど無い。焼けたら皮ごと鱗を引っぺがして、背骨を取ってやって、坊ちゃまに食べさせておやり。」
    「ありがとうございます。やってみます。」


    月島はメイド服のポケットに畳んでしまっていた紙切れと短い鉛筆を取り出すと、魚売りの言ったことを忘れないように書き記した。その様を、音之進坊ちゃまは黙ってつぶさに見上げていた。





    ************

    貰った魚を背嚢に入れて背負いなおすと、月島は最後にもう一度魚売りに礼を述べ、音之進坊ちゃまを伴って市場を後にした。魚売りはずいぶん長い間、手を振ってくれていた。一人でどこかに行ってしまわぬよう、しっかり音之進坊ちゃまの手をつないで屋敷へと帰る道はここ数日の嵐のせいでぬかるんでいるが、中天まで登った太陽は燦燦と光を放っている。

    「月島あ。」
    「はい。何でしょうか、音之進坊ちゃま。」
    「月島は字が書けるんじゃな。」
    「はい。」
    「………月島は、軍人さんだったんか。」


    珍しく音之進坊ちゃまが言いよどんだが、月島にはその理由までは分からなかった。いつもハキハキと物を言う音之進坊ちゃまの口元は、今はつん、と尖って閉じられている。まあるい頬のかたちと相まって、拗ねているようにも見える。坊ちゃまは良家の子供にしては珍しく子供らしい気まぐれの多い方だが、これも気まぐれのひとつなのだろうか。良家の子供を知らない月島には分からぬことだ。ご当主が現役の軍人であることを鑑みると滑稽ではあるが、長兄が没して後、鯉登家で軍の話は禁句となっている。適当にごまかすことは可能ではあるが、月島は違うことを口にした。


    「はい。音之進坊ちゃまのおっしゃる通りです。月島は軍に勤めておりました。軍での縁で、今は鯉登家に勤めさせていただいております。」
    「うふふ。おいの予想してたとおりじゃ。あん媼め、月島は破落戸だの、非人だの、無責任な噂をまき散らしおってからに。」


    (あの媼とは………?)

    けしからん、と子供の口から出てくるには少し年寄りじみた言葉を吐き捨て、フンス、と音之進坊ちゃまが鼻を鳴らした。

    この当時、文字の読み書きができるのは上流階級に限られていた。
    鯉登家に雇われている下男下女たちは、それなりの身元審査を通った者たちであるが、大半は大衆向けの文章が読める程度で、書くことができる者は稀であった。鯉登家の下働きの内では、家令と出納係くらいのものである。古い時代より祐筆で飯を食ってきた家と、文筆家や俳人といった書きものに秀でた才のある者を除けば、文字が書けるのは、庶民のうちでは一握りの商人か、その商家に勤めている者くらいである。例外は軍人であるが、どうして音之進坊ちゃまはその他の可能性を排除し、そういう結論に至ったのだろう。

    「音之進坊ちゃまは、どうして私を軍人だと思ったのです?」
    「月島は、歩き方や姿勢がおやっどそっくりじゃって。おやっどに付いてる軍人も同じような歩き方をしちょっ。
    それに、人にものを尋ねられて、口を利く時、はい、いいえ、から始めるんもおんなじじゃ。あとは……思い出せんが、軍人はみんな、似たような話し方をすっ。御用聞きどもの喋りとは全然違うから、商人じゃあなか。月島は若いし、どっこも身体が悪いようには見えん。どこもかしこもがっしりしちょっ。じゃっどん、何か理由があって軍を辞めたんじゃろ。じゃが、そういうのを聞くのはお里が知れるちゅうもんじゃ。………人にはそれぞれ事情があるから、詮索したりしてはいけもはん、ちゆて、昔、かかどんにがられた。あってん、おいはどうしても聞いてみたくてたまらんかった。」
    「そうでしたか。」
    「もう今は、おいんこっ、がらるっ人(し)は、おいん家(げ)には一人もおらんようになってもた。」



    そう呟くと、音之進坊ちゃまはつないだ手をぶらぶらさせ、石を蹴った。


    (………本当に敏い。とてもよく周りを見ている。)


    月島はどう返していいかわからず、無言でつないだ手にほんの少し力を込めた。月島は現役の軍人であるから、傷病退役軍人へのそういった気遣いは無用なのだが、さすがにそれを教えて差し上げることはできなかった。
    月島の真のあるじが月島を”元軍人の用心棒”として鯉登家に潜り込ませたのには、それなりの理由がある。その嘘の上を月島は生きていかねばならぬのだ。
    音之進坊ちゃまは、軍人の中にも月島のような下劣な輩が混じっているという事までは知らないようだ。父のように生まれも育ちも立派な人間が軍人なのだから、そんな父に付き従う部下たちも、同じように高貴な出自だと疑いもしないのだろう。鯉登家に召し抱えられた時、月島の真のあるじは月島の過去を鯉登平二に洗いざらい告げた訳ではないが、軍の人事局に問い合わせをすれば、月島の暗い過去ーー尊属殺しの罪で収監されていたという瑕疵ーーは、つまびらかな報告書が上がってくるだろうに。
    そのような疑念を抱かぬほど、真のあるじの計画は順調に進んでいると言えよう。



    「食べ物だってそうじゃ。月島、おいは魚が食べられないのではなく、食べんだけじゃっど。………おいには、『たもいもんのこまごっどん、ゆめど。』ち、くろたくっ価値(がっ)もなか。」



    月島は薩摩の出てはなく、また、薩摩の人や土地との縁もまったくないものだから、音之進坊ちゃまの言葉の半分も理解できずにいたが、彼の口ぶりに、やけっぱちとさみしさが入り混じっていることだけは分かった。
    やはり子どもは苦手だ、と思いつつ、月島はつないだ手と反対の手で雑嚢の紐を音が鳴るほど握りしめた。





    結論から言うと、月島はこの失敗でずいぶん評価を下げた。
    下女たちの褒美の菓子を買えなかったことは恨みを買いこそすれ、謝れば済むことであったが、お館様たちの晩飯の買い物ができなかったことは家令からきつく注意を受けることとなった。
    鯉登家では鶏を飼っているが、採卵目的での飼育であるので、つぶして肉を食用にするのは廃鶏になった時だけだ。家畜は貴重な財産であり、飢饉などの緊急時の備えでもあるから、おいそれとつぶすことはできない。月島は厨を預かる親方に怒鳴り散らされたが、お館様はしばらく司令部に詰めることになると、従卒が着替えを取りに来て、更には、あいさつ回りに出ていた奥方様が悪路で立ち往生してしまい、人夫を迎えにやったり、替えの馬車を用意したりと、大騒ぎとなり、この日は晩飯どころではなくなった。
    月島自身は、どんな事情があれ任務を完遂できなかったことは己の非であるから、訓告を受けるのも悪し様に罵られるのも当然のこととして受け入れていたが、お咎めなしとなった音之進坊ちゃまは家令の後ろをついて回り、屋敷のいたるところに飾られている壺や絵画といった調度品を落としまくるという嫌がらせをし、厨の親方の脛を蹴った。
    本来であれば、月島も他の人夫たちと共に奥方様の迎えに参じるべきであったのだが、音之進坊ちゃまがいたずらの限りを尽くし、月島の傍を離れようとしなかったので、いたずらをしないよう見張っているように、と、疲れ切った顔の家令に厳命を受けた。
    人夫として大半の下男が出払ったため、夕日が差し込む調理場はがらんとしていた。月島は、己のメイド服の裾をぎゅうっと握りこむ音之進坊ちゃまの手にそっと触れて注意を促した。


    「音之進坊ちゃま。月島は今から魚を焼きます。」
    「あい。」
    「本来であれば、音之進坊ちゃまは厨に立ち入るべきではありません。」
    「フン。おいだって、こげんとこにおいたくなかっ。じゃっどん、月島が魚を焼くように命じたのはおいじゃから、おいには月島の仕事をカントクする必要があるっ。」

    文面だけを見れば音之進坊ちゃまの発言はたいそう立派なものであるが、子どもが慣れない言葉を使うとき特有のたどたどしさと、魚をはじめ、目についたものは何でもつつく仕草がすべてを台無しにしている。

    「音之進坊ちゃま、お心遣いありがとうございます。私は音之進坊ちゃまのお目付け役を仰せつかりましたから、調理場から追い出すことはできません。
    調理場には危険なものがたくさん置いてありますので、私に無断で勝手に触ってはいけませんよ。大人しくしていてください。よろしいですか。」

    月島は壁にかけてあるてぼを片手に竈に登り始めた音之進坊ちゃまを後ろから抱えて土間に下ろすと、しゃがみこんで視線を合わせ、念を押した。

    「あい。月島。分かりもした。」


    月島は一つため息を吐いた。口ではいくら殊勝なことを言おうが、この坊ちゃまが大人しくしていることなどできる筈が無いと知っているからだ。
    案の定、魚を焼くという単純な作業は、音之進坊ちゃまの傍若無人な振る舞いによってずいぶん面倒くさいものとなったが、それ以上に、月島の心を占めたのは、本当にこの坊ちゃんが魚を食えるのか、一度言い出したものを引っ込めることができずに無理をしてるのではないか、と言う不安であった。もしそうであれば、大人である俺が上手く言ってやめさせてやるべきだろう。魚など食えずとも生きていける。だがそんな子どもをあやす甘い言葉など俺には無理だ、という月島の心配をよそに、音之進坊ちゃまは、いただきます、と手を合わせ、何の躊躇いもなくほぐした白身に箸を伸ばした。
    鎧のような固い黒い鱗は、焼けたそばからぼろぼろと剥がれ落ち、その下には、魚売りの言葉通り、真っ白な身が詰まっていた。骨は身の小ささに比べて大きく、素人である月島であっても、成程、これでは売り物にはならんだろう、と思うほどであったが、するりと身から抜けて手間はかからない。
    焼けた魚を頬張た音之進坊ちゃまの、「こん魚、兄さあと釣って食べた魚と同じ味がすっ。」という一言に月島は目を瞠った。
    音之進坊ちゃまが亡き兄のことを口にすることは今まで一切聞いたことがなかったからである。
    そう呟いた音之進坊ちゃまの横顔は、寂しんでいるような、悲しんでいるような、喜んでいるような、どちらともつかない表情を浮かべていた。月島は、そうですか、といつも通りの平板な声で答え、目の前の魚に嚙り付いた。







    名前も付けてもらえず、人にとって食べごろになる時期すら誰も知らないくらいの小さい雑魚。
    音之進坊ちゃまはこの魚を殊の外気に入ったようで、月島、あんこんまか黒い魚、うんめかったね、と時々思い出して言うようになり、月島はその度に、市場に出かけてゆき、わざわざ売り物でない雑魚を頼み込んで売ってもらった。
    結論から言うと、音之進坊ちゃまがこの地で暮らしたのは季節が三度めぐる程の短さに過ぎなかった。鯉登家当主夫妻はこの地に留まり、音之進坊ちゃまは進学や任官によってあちこちに移り住むようになったからである。月島は真のあるじの意図と鯉登家当主・鯉登平二たっての願いで、音之進坊ちゃまに付き従うこととなった。どこに行っても月島は変わらずこの魚を買い求めるようになり、名を持たぬ雑魚であったこの黒い小さな魚は、月島のメイド姿にちなみ、あちこちで侍女の魚だか媼魚だとか呼ばれるようになった。
    その後、月島基は音之進坊ちゃまのお付きの下男となり、権謀術数渦巻く中、どうやって鯉登音之進の右腕を全うしたのかは、またお別の話。

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    Lemon

    DONE🌙お誕生日おめでとうございます!!!!!!!!!!
    現パロ鯉月の小説。全年齢。

    軍会イベント参加記念の小説です。
    ※誤字脱字など、チェックできていないので後で修正します。
    ※はるか昔の明治時代を駆け抜けた人たちに似たような登場人物が出てきますが、当て馬も浮気も一切ありません。100%安心安全の鯉月設計でお送りします。
    お誕生日おめでとう!!!
    酔いどれエイプリルフール慣れない苦味が喉を滑り落ちて、かっと腹の方からの熱が全身に広がる。もう既に頭は朦朧としていて、我ながら吐き出す息は酒臭く、鼻を摘まみたくなった。俺の鼻に摘まめるほどの高さがあればの話だが。鼻を摘まむ代わりにアテを少し摘まみ、再びジョッキをグイっとあおる。

    エイプリルフールの日に年甲斐も無く酔っぱらうことが、ここ数年間の月島の恒例行事となっている。


    三十路の大人がする飲み方じゃないのは分かっている。
    分かっているが、この日は正体が分からなくなるくらいに酔っぱらいたいのだ。だが、同時に、この日だけは酔いつぶれることなく、なるべく長い間、酔っぱらっていたい。酒の美味さだとか、種類ごとの味の違いだとか、俺にはさっぱり分からない。貧乏人の舌にそんなことは判別できないのか、俺が味音痴なのか。そもそも酒には嫌な思い出しか持たないから、味わおうとすらしていないのが正直なところだ。
    18457

    Lemon

    DONE🎏お誕生日おめでとうございます。
    現パロ鯉月の小説。全年齢。

    初めて現パロを書きました。
    いとはじイベント参加記念の小説です。
    どうしても12月23日の早いうちにアップしたかった(🎏ちゃんの誕生日を当日に思いっきり祝いたい)のでイベント前ですがアップします。
    お誕生日おめでとう!!!
    あなたの恋人がSEX以外に考えているたくさんのこと。鯉登音之進さんと月島基さんとが恋人としてお付き合いを始めたのは、夏の終わりのことでした。
    一回りほどある年齢の差、鹿児島と新潟という出身地の違い、暮らしている地域も異なり、バイトをせずに親の仕送りで生活を送っている大学生と、配送業のドライバーで生活を立てている社会人の間に、出会う接点など一つもなさそうなものですが、鯉登さんは月島さんをどこかで見初めたらしく、朝一番の飲食店への配送を終え、トラックを戻して営業所から出てきた月島さんに向かって、こう言い放ちました。


    「好きだ、月島。私と付き合ってほしい。」


    初対面の人間に何を言ってるんだ、と、月島さんの口は呆れたように少し開きました。目の前に立つ青年は、すらりと背が高く、浅黒い肌が健康的で、つややかな黒髪が夏の高い空のてっぺんに昇ったお日様からの日差しを受けて輝いています。その豊かな黒髪がさらりと流れる前髪の下にはびっくりするくらいに美しく整った小さな顔があり、ただ立っているだけでーーたとえ排ガスで煤けた営業所の壁や運動靴とカートのタイヤの跡だらけの地面が背景であってもーーまるで美術館に飾られる一枚の絵のような気品に満ちておりました。姿形が美しいのはもちろん、意志の強そうな瞳が人目を惹きつけ、特徴的な眉毛ですら魅力に変えてしまう青年でした。
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