炊飯器と薬缶と鮭フレーク休日。
何て良い響きだ。
月島は一週間ぶりの休日の朝の訪れを噛みしめていた。時間的には昼に近い時間帯ではあるが、月島にとって休日の日は目覚めた時が朝なのである。
勤め始めて4年ほどが経ち、月島は半年前、今までの働きと腕っぷしを見込まれ、警備班に配属となった。
勤め先は日本有数の名家・鯉登本家である。身辺調査に合格し、研修に合格し、鯉登家の敷地内に入ることが許されるまでにおおよそ1年、その後は外掃除の清掃員(兼雑事係)として表屋敷と称される場所を掃除していた。
鯉登本家の屋敷は、来客をもてなす表屋敷と、鯉登本家の家族が暮らす奥屋敷に分かれており、使用人からも世間からも奥屋敷は億屋敷と呼ばれるほど立派な邸宅である。
表屋敷で働いていたせいで、月島は鯉登本家の屋敷に勤めておきながら、いまだに鯉登一家とは面識がない。表屋敷でも室内清掃の役割を割り当てられていれば、催事の際に彼らとの接点もあっただろうが、月島に任されたのは表屋敷を囲む広大な庭の落ち葉拾い、屋敷の外壁や窓の掃除、庭師の指示のもとに行う力仕事であった。
月島は、勤勉さと寡黙さ、そしてとある一件で披露した荒っぽい交渉ごとの上手さを見込まれて警備員になったものの、下っ端であるから、当然、表屋敷の担当である。
奥屋敷で働くには、身辺調査に合格することと有能であることが最低限であり、その上で、鯉登一家と性格の相性の良い、平たく言えば鯉登一家に好かれる人物が選り抜かれるのである。表屋敷に勤める使用人たちからは、「殿上人」と揶揄されるほどであった。
警備の仕事はルーティンワークだ。問題が起こらない限り、定時に始まり定時に終わる。
そもそも主な業務は問題そのものを起こさせない予防対策を何重にも実施することである。
警備の研修初日、インストラクターは、問題が起こった時点で警備の仕事は失敗だと吐き捨てた。
その後どれほど被害無く迅速に問題を解決しようが、失敗は失敗であると。
月島が警備班に配属となる前からも、鯉登本家に於いては、侵入者はゼロである。そもそも屋敷に出入りする業者は会社単位ではなく、個人単位で身元を洗うし、持ち込む荷物は私的なものを含めてすべて、出入りの際に必ずチェックされる。物理的な対策ーー監視カメラ、電気柵、赤外線センサー、インターネットの遮断装置といったものーーも万全である。
私物の持ち込みは業務上必要であれば認められるが、たとえ厳しい身辺調査をクリアして雇用されている身であっても、個人の飲食物の持ち込みはできない。
弁当を持ってこれないかわりに、鯉登家ではすべての使用人に雇用者用の食堂で無料の食事が振舞われるのだが、警備班は食事休憩中は監視カメラの録画のチェックをするのが慣例だ。つまり、炊飯係が作った弁当、冷や飯を数分でかっ込み、あとはモニターに張り付くことになる。
月島は、腹が満たされれば不満はない。不満はないが、温かい飯を食べたくなるのが人の情というものである。
そこで月島は、休日に大好きな白米を一升炊きの炊飯器いっぱいに炊き、あつあつの炊き立てを頬張ることにした。
炊きあがった直後の、甘い湯気にほんわり浮かび上がる白米の艶々さ。
月島が詩的なセンスを持ち合わせていれば、そんな風な表現をするだろうが、生憎、月島はそんなものとは無縁だ。白米は大好物であるが、味の違いが分かる訳でも炊き方にこだわっている訳でもない。
炊飯に使うのは水道水だし、買うコメの基準は「自分の給料で無理せず買える値段」である。鯉登家から支給される弁当は、冷や飯であっても米は固くもぱさぱさにもなっていないし、糠くさくもない。あの米に比べれば、月島が自宅で口にする米など月とスッポンどころか、スッポンが潜る砂利のようなものだろう。
だが月島にとっては両方とも白米であることに変わりはないし、両方ともおいしく食べられる。細かな味の違いを気にしない月島は、大概のものはおいしく食べられるのだ。育った環境のおかげで。
兎にも角にも、月島の休日は白米を炊くことから始まる。
一度起きて、米を研ぎ、炊飯器をセットし、「炊飯スタート」のボタンを押したらせんべい布団に逆戻り。二度寝の後の目覚ましは、炊飯器が知らせる「ご飯が炊けました」のいかにも機械的なメロディーだ。
米の炊ける甘いにおいが充満する狭いワンルームのアパートにそのメロディーが響き渡れば、月島に真の目覚めが訪れる。
面倒くさがりの月島だが、米が炊けたら軽く混ぜて蒸らすことだけは怠らない。だから今日も、米を混ぜ、炊飯器の蓋をきちんと閉じ、やかんに麦茶のパックを放り込んでコンロにかけ、その足で洗面所に向かった。
今から蒸らせば、昼飯にちょうど良い時間になるだろう。
そう思いながら、髭をあたり、顔を洗った。
洗面所から台所に戻ってくると、ピーピーと薬缶が音を立てはじめた。
炊飯器のメロディーと沸騰した薬缶が立てる音。月島の休日のはじまりを告げる音である。
コンロの火を止め、冷蔵庫のドアを開けると、月島は鮭フレークの瓶を取り出した。
月島の冷蔵庫の構成は単純である。
コンビニかスーパーの弁当と総菜、発泡酒、そしてご飯のおともだ。ご飯のおともは時に酒の肴にもなる。
ご飯のおとものうち、納豆と鮭フレーク、梅干し、佃煮海苔は常備、漬物は季節によって種類は変わるがその時々で一番安いもの、ザーサイや明太子、高菜といったものは安売りしている時に買うと決めている。消費期限も賞味期限も気にしない月島であるが、期限を過ぎた卵を生食した同僚の悲惨さを目の当たりにして以降、生卵は置かないようになった。消費期限までに計画的に卵を消費することを考えるくらいなら、スーパーで値引きされてる出汁巻き卵やほとんどのコンビニに置かれている茹で卵を買ってきた方が面倒くさくないからである。
キュウリが旬を迎える夏は、漬物ではない生キュウリをそのまま齧ると腹が膨れるのだが、今は秋が深まっていく季節だ。生の野菜の値段は跳ね上がる。
それに比べて鮭フレークの安定っぷりはどうだ。
いつ、どこの商品を食べても美味い。値段も安い。消費期限も長い。めったに腐らないし、時間がたっても漬物のように酸っぱくなっていったりしない。
そもそも鮭そのものが美味いのだ。激安の弁当に入ってる薄切りの塩辛く固い鮭も、鯉登家の料理人が作る弁当に入ってるふっくらした脂っこい鮭も、どちらも美味い。
そんな鮭を原材料としている鮭フレークも然り。
どれだけ安い鮭フレークを買っても食えないレベルのものは無い。鮭は偉大だ。
茶碗や箸をちゃぶ台に用意し、さあいざ、と炊飯器のふたを開けようとしたところで、別の音が鳴った。
月島の休日には鳴らないはずのその音は、仕事用の携帯であった。
警備班には休日であっても緊急時の連絡が付くように仕事用の携帯が供与されるのだが、今まで月島の携帯が休日に鳴ったことは一度も無かった。月島は瞬時に頭を切り替え、電話を取り、名前と雇用者番号を名乗り、相手の返事を待つ。
緊急時の行動マニュアルを頭の中で反芻していると、予想外の高い音が月島の耳元に届いた。
「だれ?」
いや、そっちこそ誰だ。
「…………はあ?」
「兄さあが、兄さあやおやっどやかかどんが近くにおらん時にケーサツ沙汰でのうて困ったことがあったら、こん番号にすぐ電話せえ、ちゆとった。じゃから掛けたんじゃ。」
「………」
「だれ?」
子供特有の高い声に、月島は面倒くささを早急に察知した。
つまるところ、身に危険が及ぶ以外の状況で、普段であれば家族に相談するような問題を解決しろ、と言っているのである。そもそもこれは警備班の電話番号であって、子守りSOSダイヤルではないのだが。
職業柄、相手の身分を確認せぬまま、自分の身分を明かすのは賢明ではない。警備班の規則上、明確な違反ではないが、訓告の対象にはなっている。
月島は鯉登一家と直接話したことは今まで一度も無いが、月島の知りうる限り、電話越しに聞こえてくる子供の訛りは一家の出身地である鹿児島独特のものだ。
この電話番号にかけてくる心当たりの中で、鹿児島弁を使う人物は鯉登家しかいない。その中で、「兄さあ」が存在する鯉登家の人間は、次男坊の鯉登音之進だけである。
そのうえ、不貞腐れた子供の声に、少しの不安が混じっていることに気が付いた月島は、ルールに則って処理することはどうしてもできなかった。
平たく言うと、ほだされたのである。
「私は、鯉登本家の表屋敷で警備をしている月島基と申します。………鯉登音之進坊ちゃまで間違いないでしょうか。」
「ん。わいじゃ。音之進じゃ。よお分かったのお。さすが鯉登家の使用人じゃて。」
「この電話にかけてきているという事は、今はお屋敷にはいらっしゃらないんですね?」
「そうじゃ。公園におるっ。」
「かしこまりました。至急、ご両親か音之進坊ちゃま付きの警備係に連絡をいたします。ですがまず、安全な所に避難してください。警察署は近くにありますか?」
「ちごっ。さっき、ゆたじゃろ、月島。ケーサツ沙汰でのうて困ったことがあっど。
おいは危険な訳じゃなか。迷子にもなっとらん。今は小学校の遠足で、公園に来とるんじゃ。」
「………はあ?」
あいにくこっちにできるのは、ケーサツ沙汰の対応オンリーである。
絶対に面倒くさいことになる。
だが自分の方から助けを申し出たのだから、ここで放り出す訳にはいかない。
「おやっどやかかどんに連絡したかったら、家の電話番号にかけちょっ。」
「そうですか。音之進坊ちゃま、それでは一体、私はどのようにお助けすればよろしいでしょうか。」
「んー………」
「………」
「………月島あ。」
「大丈夫ですよ。音之進坊ちゃま。月島がおります。」
何が大丈夫なんだか。状況を何一つ分かっちゃいないのに。
自分の言葉の軽薄さに、月島は心の中で大きなため息を吐きつつも、質問を続けた。
「知らない人に、何か質問されたり、物をもらったり、逆にものを渡されましたか?」
「しとらん。」
「怪我をしたり、どこか痛いところはありますか?」
「んーん。無い。そいはなかごたね。」
「犬や猫がいて、付きまとわれてますか?」
「おらん。ここにおったら良かったのにな!おいは犬を飼いたいんじゃが、おやっどが許してくれんのじゃ。だから外で見かけたら思いっきり撫でちょる!月島は何か動物を飼ったことはあるか?犬も猫もむぜね。」
「いいえ。私は、動物を飼ったことはありません。それでは、何か忘れ物をしましたか?」
「………」
さっきまでお元気いっぱいで返事をしていた音之進坊ちゃまが、ちごっ、おいはそんなまぬけじゃなかあ、これにはジジョウというものがあってだな、とごにょごにょと言い訳をはじめ、電話越しでも分かるくらい動揺しているのが伝わってきた。
「誰にも言いません。だから事情を話してくれませんか?」
「まこち?男同士の約束じゃっ。嘘ついたらカゲロウすっど月島あ!」
鯉登本家の男子は皆、鹿児島に伝わる剣道、薩摩示現流を幼いころから修める習わしがある。その構えの一つに蜻蛉があるのだが、それを知らぬ月島にとって、音之進坊ちゃまの返答はまるで意味が分からないものであった。
だが、月島は、何故ここで虫が出てくるんだ?という疑問をぐっとこらえた。
子供の脱線話に付き合っている暇はない。さっさと問題を解決して、休日に戻るのだ。目の前の炊飯器の中で、炊き立ての白米が待っている。
月島が、ええ、男同士の約束です。嘘は申しませんよ、と、先を促すと、しどろもどろながら、音之進坊ちゃまが素直に事情を話した。
要約すると、音之進坊ちゃまの要望は、「今日の遠足に持ってくる筈だった弁当を忘れてしまったので、家族に見つからないように届けてほしい。」であった。
今朝、お付きの侍女が音之進坊ちゃまの遠足の準備をしようとするのを、おいはもう子どんじゃなか!自分一人ですっ!と、当人が突っぱねた。それを聞いた音之進坊ちゃまの母親、つまり現当主の妻である鯉登ユキが、ちょうどいい訓練になるから一人でやらせなさい、と言ったらしい。侍女は、音之進坊ちゃま、お弁当は冷蔵庫の一番下の段に入っていますから、忘れずに持って行ってくださいね、と言ってくれたのだが、肝心の坊ちゃまは、朝食を食べてる間にそのことをすっかり忘れて登校してしまったらしい。
月島は面倒くさくなりそうな気配をずいぶん前から充分感じ取ってはいたが、10歳の男の子の我儘さーーいっちょ前に男のプライドで意地を張り、家族に泣きつきたくない、でも、自分だけお弁当がないのはいやだ、という我儘さだーーを、たかだが一食抜いたくらいで倒れたりしない。腹が減ったら公園の水道で水でも飲んでろ、とは突き放せなかった。
腹が減った時のひもじさ。
クラスメート全員が弁当を食べているのに、自分ひとりだけその時間を手持ち無沙汰で過ごさねばならぬ気持ち。
だが、それを表に出したり、ましてや同情なんてされたくない。
弁当を持たせてくれるような家庭ではなかった月島に、それらが分からぬ筈がない。
貧乏育ちの月島でも、メシのにおいの中で水で腹を膨らませるのはみじめであった。あの裕福な鯉登家で甘やかされて育てられた坊ちゃまなら猶更つらいだろう。
弁当を忘れたのは音之進坊ちゃまなのだから、自業自得であるし、坊ちゃまの面倒を見るのは月島の仕事の範疇ではない。
無いのだが。
(はああああ、面倒くさい。)
相手はたかだか人生10年目の若者である。
月島が正論を諭したところで理解しないだろうし、そんなものは月島の役目ではない。
心の中でだけ盛大な溜息を吐き、小さなスマートフォンにはなるだけ優しく声をかけた。
「分かりました。早急に弁当を持っていきます。屋敷の冷蔵庫に忘れてきたんですよね?今どの公園にいらっしゃるんですか?」
「まこち?あんがと、月島あん。感謝すっ。」
「公園の名前を教えていただいてもよろしいですか?」
「ん………△△△公園じゃ。」
「………」
△△△公園は、月島のアパートから10分ほどの距離にある。それほど大きな公園ではないし、視界を遮るような遊具や木々、塀などもなく、通りを挟んで駐在所がある。周囲には商業施設も工場も無いし、車の通行量は少なく、歩道と車道は完全に分離している。
なるほど、小学生の子供の遠足にはうってつけである。
うってつけではあるのだが、鯉登家から公園まではバイクを飛ばしても30分はかかるだろう。遠足の昼飯の時間には絶対に間に合わない。
「ええと、音之進坊ちゃま、少しよろしいで………」
「あっ、先生が呼んどる。昼飯前の点呼じゃ。もう行くっ。それじゃあな、待ってるぞ、月島あ!!!!」
「え、ちょ、ちょっと………!」
一方的に電話を切られ、月島は茫然とした。
電話をかけなおして、音之進坊ちゃまに事情を説明するか?それともやはり警備班の上長に報告し、急ぎで弁当を運んでもらうか?いいや、そんなのは絶対に間に合わないし、何より音之進坊ちゃまとの約束に反する。
「………………………………………」
月島のアパートから最短距離で公園に向かう道には、コンビニや弁当屋は一軒もない。遠回りしている時間も、迷っている時間もない。
ああ、面倒くさい。面倒くさいが仕方が無い。
「………むんっ。」
月島は炊飯器のケーブルを引っこ抜き、ちゃぶ台の上に並べた茶碗と箸と湯飲みとご飯のおともをエコバックという名前のズタ袋に放り込んむと、やかんを引っ掴んで、まだ炊けた米のにおいが残るアパートを飛び出した。
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公園に着いた月島は引率の先生を見つけると、身分証と雇用証明書を提示して事情を説明し、音之進坊ちゃまのところに向かう許可を得た。
電話越しに話しただけで、月島は音之進坊ちゃまとは面識がない。
勿論、警備班の資料で外見の特徴は確認済みであるから、月島には何の問題はないが、10歳の子供が見ず知らずの大人、しかも月島のようないかついオッサンに出会ったら、どう反応するかは未知数であった。
だが月島のそんな杞憂は音之進坊ちゃまに引き合わされてものの数秒で秋の晴れた空に消えていった。
浅黒い肌に、特徴的な眉毛、つややかな黒髪。誰もがハッとするような華のある顔立ちは、ふっくらした愛らしい輪郭に反し、いっそ近寄りがたいほどであったが、鯉登くん、月島さんが会いに来たよ、という引率の先生の言葉に、つきしま?と言葉を返し、月島の方を振り返った音之進坊ちゃまは、ぱあああっと笑顔になった。
「待っておったぞ、月島あん!!!!」
初めて見た音之進坊ちゃまの輝く笑顔にあっけにとられていた月島のもとに駆けてきた坊ちゃまは、月島が定型のあいさつをするよりも素早く、お、月島、こいが今日のお弁当かあ、と、月島が抱えた炊飯器を見上げた。
鯉登家が用意していた弁当を持ってこれなかったことを、どう説明しようかと月島は悩んでいたのだが、音之進坊ちゃまは、そんなことは気にも留めず、炊飯器と薬缶に夢中であった。
「すごいぞ、月島あ!米はこうやって作られるのか!」
敷物シートに座り、炊飯器のふたを開けた途端、音之進坊ちゃまが楽しそうに叫んだ。
「はあ………?」
まさか米は炊飯器で炊くという事を知らないのか?月島は心の中でそう突っ込みながら、水道で濡らしたしゃもじで米を混ぜ始めた。音之進坊ちゃまの大声にひかれるように集まってきたクラスメートたちも、炊飯器を物珍しそうにのぞき込む。
「すげえ、鯉登、あったかい米持ってきてるぜ!さすが鯉登家!」
「え?いいなー弁当って冷たいもん。あったかい方が良いよなー」
「しかもすっげえたくさん米あるじゃん。」
「お茶もこれに入ってるんだって!すっげえ。初めて見た、こんなの。お茶も温かいし。全部でかくてあったかい。さすが鯉登家。すげえ。」
「俺もこの茶の入ってる丸いやつ、初めて見た~それに、これ、米しか入ってないけど、これって弁当箱?米ってこういう容器に入れるの?すげえ。全部でけえ。さすが鯉登家。」
「………………………………………………………」
10歳の小学生男子の考えることなど単純である。
月島はこの日、しゃもじで米を混ぜながらそれを再確認した。
弁当ではない昼飯を持ってきたこと、なぜか炊飯器や薬缶、茶碗があること、先生ではない知らない大人が遠足に混じっていること、そういう諸々のことを子供たちに説明するにはどうすればよいかを悩んでいた月島は、この時点で考えることを放棄した。
これですべてがピカピカに磨かれた良家のピクニックにふさわしい食器と食事で、スーツ姿の給仕係でもいれば絵になっただろうが、茶碗や湯飲みは使い古しの安もので、月島の服装にいたっては、寝る時に着ていたくたくたスウェットのまま、上着すら羽織っていない。
老け顔で坊主頭でがっちりした体型の月島がこういう格で歩いているとそれだけで問答無用で職質コース一直線になるから、音之進坊ちゃまやクラスメートの子供たちの反応が気になっていたのだ。いいや、むしろ、公園に無事たどり着けるかというのが、アパートの階段を降り始めた時からの月島の懸念事項であった。
想像してみてほしい。
平日の昼日中、くたびれたスウェット姿の堅気とは言い難い人相のマッチョなおっさんが、両手に3L丸薬缶と一升炊き炊飯器を抱えてスリッパで疾走している姿を。
どう考えても怪しさ満点である。一分の隙も無い怪しさだ。
自分が警備員として仕事をしている時にそんな奴に出会ったら、即、声をかけるだろうが、道路を挟んで公園の反対側にある駐在所の前を通った時に、呼び止められることはなかった。偶然か、それともマッポですら声をかけるのを躊躇うほどであったのか。
そう思っている月島のことなど気にも留めず、音之進ぼっちゃまは月島の隣に座って、クラスメートにでかい炊飯器とでかい薬缶を自慢しており、どの子供たちも大きさもさることながら、あまり炊飯器や薬缶に馴染みのない様子だった。
まあ確かに、裕福な家庭では、調理から配膳、片付けに至るまでは料理人が行うだろうし、屋敷の構造的にも食卓と調理場は別であるから、調理器具を目にする機会は無いのだろう。
クラスメートに褒めそやされ、有頂天になった音之進坊ちゃまの顔には、先ほどまでの不安そうな表情は欠片も残っていない。
月島はそのことにほっと胸をなでおろし、茶碗にご飯をよそった。
音之進坊ちゃまの興味は鮭フレークにも及んだ。
月島が持参した鮭フレークは安価な食品の宿命か、不自然な色付けをされている。それはおおよそ本物の鮭のような薄い色ではなかったので、音之進坊ちゃまは最初、瓶に詰まったほろほろした欠片がほぐした鮭だとわからなかったのだ。これは鮭の身をほぐしたものです、召し上がりますか、と聞くと、じっと瓶を見つめて小首をかしげ、しばらく後に、「うん、月島、入れてくいやい」と大きな茶碗を両手で差し出した。
冷蔵庫に放置していたこの鮭フレークの瓶は未開封だ。今日、急いで公園に向かう際にたまたまちゃぶ台に出してあったので、何も考えずにひっつかんできただけであったのだが、月島は最近自炊をさぼっていた自分に感謝した。さすがに雇い主のご子息に開封済みの食べ物を食べさせる訳にはいくまい。
かしこまりました、少々お待ちください、と言いおいて、月島は近くにある公園の水飲み場に向かい、瓶をざっと洗った。
だが「少し待ってろ」と言われて、おとなしく待っていられないのが子供というものである。
当然、音之進坊ちゃまは月島の言葉なぞ無視して月島を追いかけてきて、蛇口から流れ落ちる水を弾く瓶をのぞき込む。あまりに近づいたせいで濡れてしまった音之進坊ちゃまの髪の毛や顔を拭いてやりながら、何で言うことをきいてくれないんだ、と月島は内心でため息をついた。
月島には弟や妹もおらず、生れ落ちてから成人するまで自分より年下の存在とは無縁であったし、結婚をして子供を持つという一般的な人生イベントも経験していないので、今の今まで、子供という存在と深くかかわったことがなかったので、音之進坊ちゃまの行動がまったく読めない。
親の言うことを素直に聞く子供など、子供自身が余程おとなしい性質でなければ、児相通報案件である。
無鉄砲で無邪気で無頓着で、自分の思うままに、弾ける生命力で傍若無人にふるまう。子供とは大人の都合など気にせずに今を生きる生き物なのである。
この後、月島基はその傍若無人さと真正面から向き合う日々が続くことになるのだが、この時の彼は未来に待ち構える騒々しさなど知る由もなく、鮭フレークを持つ方とは反対の手を当然の様に握ってきた音之進坊ちゃまの手の感触に驚くばかりであった。
月島は唯一の肉親である糞親父と手をつないだ思い出など一つもない。
大人の手は悪童と呼ばれた月島にとって、殴られたり、引きずり回されたり、危害を加えられるものであり、こんな風に無防備に手を伸ばす対象ではなかった。拒まれるなどと思いもせず、迷いなく伸ばされる手。
月島は戸惑いつつもその小さな手を握り返してやり、おもちゃの絵が描かれた敷物シートまでの短い道を歩いた。
月島は突拍子のない行動に振り回されてはいたが、初めて目にする鮭フレークに「キエッ、このしゃけは、骨を取らずとも食べられるのか!月島は便利なものを知っちょるんじゃな!!!」と叫び声をあげ、初めて自分で炊飯器からしゃもじでご飯をよそい、クラスメートに「おいの弁当ん米は温かいんじゃ」と自慢している音之進坊ちゃまの姿は微笑ましかった。
用意した茶碗も箸も湯飲みも、一人暮らしの月島のアパートにあったものだから、当然、大人用のものだ。10歳の音之進坊ちゃまには使いづらいだろう。
しかもここには食卓は無いから、大人の食器を扱うのはもっと難しくなる。かといって、クラスメートが見ている中で食事の介助をされるのは屈辱だろう。
月島はそ知らぬふりをしつつ、クラスメートが気付かないほどのさりげなさで、小さな左手が抱えた茶碗がぐらついた時はそっと支えてやり、鮭フレークに取り切れずに混じっている髪の毛ほどの小骨を取ってやり、お茶を冷ましてやった。
炊飯器や薬缶ほどでもないが、鮭フレークも子供達には知名度が低かった。おそらく世の中には月島が持ってきた鮭フレークと値段が一桁違うような高級な鮭フレークだって存在するだろうが、ここにいるのは皆、良家の子息なのである。
彼らは、切り身の鮭を正しい作法に則って食べれるようにならねばならない。
おいしいだとか便利だとか手軽だとか、そういう次元の話ではないのだ。そのことに気づいた月島が周りを見渡すと、どの子供も正しく箸を握り、とてもきれいな食べ方をしていた。
言葉通り、彼らは住まう世界が違うのだ。
月島は今更ながらに自分がここにいることがどれほど場違いであるかを実感したが、月島、月島、月島あん、と、音之進坊ちゃまが事あるごとに自分の名前を呼ぶものだから、感慨にふける暇もない。
月島の服装も、子供どころか大人ですらビビる月島の風貌も、気にすることなく月島を呼び、大きな口を開けて庶民スーパーの鮭フレークがかかった特売の白米を頬張り、ずいぶん薄く煮だしたお茶を飲む音之進坊ちゃまは、終始笑顔だった。
「ほら、月島も食べろッ!」
「ぶほっ………」
月島が、第一印象のすまし顔よりこっちの方がよっぽどいいな、と思っていると、音之進坊ちゃまが月島の口に箸を突っ込んだ。
その場面をたまたま引率の先生が目撃し、慌てて音之進坊ちゃまの手から箸を取り上げ、人の口に箸を突き立てる行為の危険さを説きはじめた。
途端に、今さっきまでクラスの中心でちやほやされていた音之進坊ちゃまの機嫌はわかりやすく急降下し、ぶすくれた表情で先生から目を離し、つんと口を尖らせた。
まったく反省する素振りがない。
自分もかつて子供だったくせに、大人になった今、子供の考えていることなど月島にはほとほと遠いものになってしまった。
だが、教師でもある大人の言うことに耳を貸さず、反省もせず、ふてくされて謝りもしない。俺は何も間違ってない!と全身で叫んでいる音之進坊ちゃまの様子は、月島に、はるか遠くに過ぎ去った子供時代の己の気持ちを、ほんのちょっとだけ今に引き寄せた。
なるほど、どうやら音之進坊ちゃまは、育ちの良い素直なお坊ちゃんというだけではなさそうである。
特徴的な眉にしわを寄せて、への字口。大人の叱り声にビビったりしない。肝が据わっていて、なかなかの頑固者だ。教育者にとって扱いやすい生徒ではないだろうが、大人相手でも物怖じしない音之進坊ちゃまの態度は、月島は嫌いではない。
おめも、かたもっこだっちゃ。
まってすてやんちゃでらちかん。
教師は縋るような眼を月島に向けてきたが、月島は音之進坊ちゃまの家族でもなければ、教育係でもないのだ。ただ単に昼飯を届けに来ただけの一従業員に過ぎない。
そんな月島が音之進坊ちゃまの教育に口出しなどできる筈がない。
申し訳ありません、としか言わない月島の態度に、引率の先生が失望のため息を吐く。
周囲は相変わらず子供の甲高い声に包まれ、メシのにおいが充満し、そして月島は自らの空腹も、隣に座る音之進坊ちゃまの不機嫌さも持て余している。
何なのだこれは。
そう思いながら突っ込まれた米と鮭フレークを咀嚼すると、更に空腹を感じた腹がぐうっと鳴った。
「いやあ、薬缶で煮だした麦茶なんて久々に見ましたよ!今はペットボトルが主流ですからね。僕の入っていた部活は弱小で人数が少なくて、同じような大きさの薬缶を使ってたので懐かしくなりました。」
この日の遠足が終わって学校へ戻り、下校する際、音之進坊ちゃまを迎えに来ていた坊ちゃまの母親、鯉登ユキに、クラスの担任がそう言ってしまい、結局、音之進坊ちゃまが弁当を持っていくのを忘れてしまったことは両親の知るところとなる。
その後、色々あって月島は音之進坊ちゃま付きの警備を任され、それは終身に渡るお役目となるのだが、それはまた、別のお話。