誰彼刻のCULT(或いはweird fox)ヴォックスが消えた。
寿命とか、そんなのでは無い。
昼食後、気怠いリビングで、サラサラと砂の城が風に攫われる様に。
「おや?」
最後の言葉、なんていう程の意味も持たない2音を震わせて、消えた。
些事だとでも言う風に、片眉を上げてウインクを1つ落として。
アイクとルカは、手にしていたグラスが足元で硝子の屑になっても暫く動かなかった。シュウは、一瞬だけ目を見開いた後、俺を見て、哀しそうにその長い睫毛を伏せた。
俺ーーーミスタ・リアスは、床でキンと跳ねたヘアピンを回収して右の前髪に挿し、微かに温もりを遺す羽織を綺麗に畳んで、ループを保った儘の飾り紐を指で翫ぶ。
マネージャーに連絡して、ヴォックスの親戚が危篤であり、事情により(こう言えば相手が勝手に理由を付けてくれると言っていた)付き添わなくてはならなくなったと伝え、Discordで片っ端からヴォックスが大変である事を俺の愚痴ってカタチで書き込んで皆に伝える。(俺を放置して行きやがって!ってね。半分本気)
リスナーの皆へのツイートや配信でのお知らせは公式発表の後だったっけ。
ここら辺りで、アイクが保ち直して、俺の両肩を掴んでガックンガックン揺すりながら尋問するんだ。
「ミスタ!何で?ヴォックスは?君は知ってたの?」
余りにも想定通りの遣り取りで。俺は少し泣いてしまった。
◆
肌に吸い付く柔らかいシルクのデューベイの下、肩先で。或いは指先を絡ませて。僅かな体温を共有しながら眠る。
俺達はウンザリする程沢山のセックスをして、ソレよりも沢山の触れるだけの、繭の中に居るようなユルい時間を過ごし、ていた。
「召喚(よ)ばれるかもしれん」
「うン?」
ベッドに横臥して頬杖を付いたヴォックスが、よく分からないワードを発するから、出かけた欠伸が引っ込んだ。
ヴォックス曰く、極東の端から地球の裏側迄どの様に移動したか?と云う考察の幾つかの仮説を立てたうちの1つに、妙にしっくり来るものがあったと。
「唯の思考的遊戯だったのだけどね」
最近そんな感覚が有るのだ。と。懐かしくも腹立たしく目障りな。そんな不協和音を誰がか奏でている。らしい。
俺とヴォックスは、シュウを交えて、色々な仮定を想定して、ひとつひとつ方策を練り上げた。
不思議な事にヴォックスもシュウも、『戻ってくる事』を前提とした対応しか選定しなかった。
だから、この状況も想定通り。
不慥かなのは、期間。
◆
ひと月目は、混乱
ふた月目は、悲歎
み月目に、俺は『淋しい』と呟いて、画面の向こうのリスナーに、ヴォックスの輪郭を固定する。
極東の神も妖も、忘れられなければ消滅しないんだって。だったら、沢山の人が『ヴォックス』を待ってれば、安心だよね?
「俺が生きてる内に帰って来てくんない?」
右手の親指の爪は、すっかりボロボロになって、ココだけネイルが映えない。
◆
よ月目を迎えた時、シュウが倒れた。
其れは想定外なんじゃない?なんでなの?
俺に隠し事しないで。
世間は、小さなカルト教団の集団消失事件で持ち切りだ。
「ミスタ、君、何で嘲笑ってるの?」
高度150キロで煌くオーロラの瞳に恐怖を滲ませて、アイクが俺に問う。
そんなの、嬉しいからに決まってるじゃ無いか。
◆
いつ月目。月の無い夜。
ねぇ、シュウ。そんな体調でドコ行くの?
尾行は久し振りだけど、探偵職のスキルは伊達じゃ無いんだ。
「…!」
「!!…!」
「…ミスタ?」
ズルいじゃん。シュウ、何時からヴォックスと逢ってたの?ヴォックスは、何で一番に俺のトコに来なかったの?
「おかえり。ヴォックス」
随分、イカした外見になってんね。俺、こっちのスタイルも好きだよ。
◆
「ミスタ!来ちゃ駄目だ!」
全部無い。
月光を鞣して創った白く耀く様な肌も、漉いた指の間を誂う様に滑る艷やかな黒髪も、俺を見留めて優しく細まる涼やかな切れ長の目も。
全部無い。
月夜の自分の足元に延びる、黒い黒い、奈落の底に続く影みたいな、深い闇で塗り潰された、大きなカタマリ。
肉食動物みたいな唸り声だけ、バスバリトンなんだ。笑っちゃうな。
でも、ベッドの上で聞く唸り声の方がもっとSexyなのを知ってる。
「ミスタっ!」
「コイツが言ったんでショ?『皆に危害を加えてしまうかも知れないから止めてくれ』とかさ。シュウ、ありがと」
俺はこっそり、『皆』を『俺』に置き換えて反芻する。これは内緒。
グル、だかゴルゥだか、低いガラガラと喉を回す様な音と共に、シュウの式神がジリッと炭化して乾いた匂いが広がる。
俺はシュウの肩をポンポンと叩いて、普通の歩幅で脇を通り過ぎた。がくん。って膝を付いた気配がする。
大丈夫。後ろからルカもアイクも、目視出来る位まで追い付いた。
3メートル位かな?ヴォックスを見上げて対峙して、首が痛くなりそうなんて思いながら声を掛けた。
「ヴォックス、お前さぁ、時々俺の事見誤るよね」
俺は、怒ってる。
俺達のヴォックスは、そんなカタチじゃ無いでしょ?
お前のファンアート、どれ位ネットの海に存在してると思ってるの?
ズル。と意外と滑らかな動きで、頭部?が俺の目の前に降りて来た。
貧血の時に視界を覆う様な、細かい黒い粒子がザワザワと忙しなく蠢いて不定形な輪郭を保っている。
フザケンナ。
「お前ばっかり俺の事好きとか悲観しちゃってさぁ。何勝手に保護者ヅラしてくれてんの?」
高々数百人程度のヤツ等に、こんなにされちゃって。『人魚』のお前に喰い殺されたkindredの数、覚えてる?
別に、カタチなんてどうでもイイけど、ヴォックスの体温は惜しい。丁度、ほんといいカンジだったんだ。
嘘。
お前のソブリン金貨みたいな瞳が。熱で熔けて色付いたクランベリーグラスみたいな瞳が。俺の名前を呼ぶ掠れたバリトンが、スキ。
「お前の大好きな狐さんはサァ、人見知りで臆病で人生経験もお前の10分の1にも満たないひよっこだけど…我慢強さダケは一級品よ?」
ぼた。と落ちる、丸さを保った体液が地面を叩く音。2度目を聞く前に、質量を持った暗闇にゴクンと呑み込まれた。
何にも無い、真黒の中で、月蝕の紅い月がコチラを見つめて居たから、安心して身を任せ、瞳を閉じた。
◆
どぷり。と重い音を立てて、僕の兄弟が呑み込まれた。デビュー当時の真白なスーツを着たミスタへ、黒い黒い漆黒のタールみたいな液体が覆い被さる様が、フラッシュで作ったコマ送りの静止画になって網膜へ連続的に焼き付く。
「ダメ!ミスタにも当たっちゃう!」
「Shit!銀の弾にしてくれば良かった!きっと、大して効果ナイから中まで届かないよ!」
「それでもダメ!」
ルカが、メンバーの前では絶対に抜かなかった銃を構えて、アイクに止められて居る。シャープな銃身がルカみたいにハンサムだ。僕は頭を振って、ヴォックスを止める為に割いていたリソースを他へ廻す。
「ルカ、アイク、今から連携する連絡先に分担してアクセスしてくれる?」
ナイフを構えたアイクに笑い掛けながら、僕は連絡先と伝言内容を書いたメモを二人に渡す。
『アイデンティティの消失?』
『そう。次に現れたヴォックスが、俺達の知ってるヴォックスじゃ無くなってる可能性があるらしいよね?』
ね?の語尾を強めて、ミスタから告げられた悲しい可能性。
嗚呼、君の探偵能力は相変わらず優秀だ。
思念体だろうが炭素であろうが、質量を持ったナニかが移動するのだ。
分解、集束、再構成。要素が増えても欠けても従前通りとは成らないだろう。
ヴォックスと僕が、敢えて外した可能性。
勿論その時は僕が。僕で力不足の場合は。
『我等が所属するcompanyは人材豊富で幸甚の至りだな』
ごめんヴォックス。君の寂しげな笑顔、ミスタに伝えるよ。
『いろんなヒトに聞いた。ヴォックスは鬼と悪魔が雑じってる。あと、若いから、影響受けるかもって』
アイツ若僧なンだってさウケるって話すミスタの瞳の奥には、ジリッと、暗い焔が灯っていて。
それからのミスタは、彼の生来の質も手伝って、狂気的なスピードで僕等の領域に踏み込み、取れる最善の手段を持って、『ヴォックス』を保持した。
「ヴォックス、ミスタを失望させないで下さいねー」
全開に見開いた瞳で熱っぽく『ヴォックス』を見つめて、歪に口角を上げた笑顔で闇に呑み込まれたミスタを想いながら、シュウは呟いた。
◆
暗闇の中は結構居心地が善い。
自分の手足も視えないし、立っているかも座っているかも判らない。暑くも寒くも無いし、なんなら快適ですらある。
煩いのは耳の奥でざうっざうっと毛細血管をこじ開けながら流れる赤血球の流れ。
目を開けると、正面に紅い月。
「ねぇ、ヴォックス。何でダンマリなン?」
シュウとは意思疎通してたみたいだけど?
「帰って来ないの?」
つまんないな。じゃあ、独り言でも聴いてくれ。
「先々月、淋しいってツイートしたらさ、皆心配してくれて。特にレンなんか、『これを期にコッチに乗り換える?』とか言ってくンの」
んふ。ちょっと空間が揺らいだ。
此れ位の意地悪位いいだろ?
「でさ、俺、何も考えずにココに来た訳じゃ無いから。お前が戻って来ないなら置いて帰るよ」
大人しく待ってるワケ無いでしょ?
ニナやポムやレイム、JPのガクセンパイや長尾センパイ、甲斐田センパイ、でびる様にだって連絡したさ。
「前にさ、俺、ラクシエムの皆の定義したワケ。そう。お前がBOX演ってる裏で、ちょっとカルト教祖になってた時ね」
「『bottom』『himbo』『ヤンデレ』『常識人』で、最後は『イカれた狐のDaddy』どう?結構イイでしょ?」
「このままだと、欠員が出るんだよね。誰が適任だと思う?」
重ったるいソレが俺の表皮を舐めながら排水口に向う水流の様に動いて、紅い月を中心に凝固している。感覚がする。
正しく定義して。
ポケットからループのままだった組紐を取り出して、リボンで造ったネックレスみたいにソレに掛けようと手を延ばすと、クルクルと3重程螺旋を描いてクビの位置に留まった。
正しく配置して。
前髪に着けていたジグザグのヘアピンを外して、クビより高い位置の、こめかみ辺りに挿し込むと、サラサラと滑る繊維の触感。
正しく固定して。
肘に掛けていた羽織を、フワリと包む様に拡げると、筋肉の分、俺より少し分厚い成人男性の輪郭線に添って裾が流れた。
分子が凝結したせいか、周囲は薄ぼんやりと白い。青みも黄みも無い、無垢の白。真黒なヒトガタが佇む。
シルエットを飾る紅。ほら、オマエの色彩。
俺は緩く握った掌に、温度のある空間を攫みながら、両手で下顎骨から頬骨をなぞり、側頭骨を包むように抱えた。
ソコに皓月が宿る事を願って。
正しく成る様に名付ける。
『ヴォックス』
◆
夕暮れ時のオレンジ色の廊下を鼻歌混じりでスキップ。踵を鳴らしてrat-tat.rat-tat.
「ヴォックス、気分はどう?」
「ありがとう。ミスタ。今日の配信予定は終わりかな?アペロでもどうだ?」
「甘いのがあれば飲むけど。小腹空いたよ」
「本日のブルスケッタは自信作だ。お前の胃袋のキャパシティが心配だ」
太陽が墜ちて、夜のカーテンが星屑を撒きながら翻る。
大分安定したヴォックスだけど、まだ日中は少し辛そうだ。
It's the witching hour of night.
深碧の空を暁の光彩が切裂く迄が俺達の時間。
お互いの手が頬の稜線を滑り、そっと包み包まれて。じんわりと伝染る体温が愛しい。
この掌、その瞳、サラサラと揺れる髪、温かい身体、ココロ。
嗚呼、俺のヴォックス。
つ か ま え た