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    バミファンタジーパロ:クラーケン狩り日記〜中編〜
    皆でモンスター飯してモチ二人しっぽりする編。初めて若モさんを書きました

    バミファンタジーパロ:クラーケン狩り日記〜中編〜「だァ――――かァ――――ら‼︎‼︎一週間くらいあの村居座ったって良かっただろうが‼︎‼︎」
     木立の中に獣じみた盗賊の雄叫びが響き渡る。驚いて飛んでいく鳥達に微かに申し訳なさを感じながら、ルークは歩きながら後ろを振り向いた。
    「あのな、アーロン。謝礼なら十分過ぎるほどに頂いた。お風呂も貸してもらって装備や服も綺麗に戻せたし、毎晩豪勢な食事まで用意してくださった。」
     そう。今日はあの退治からまだ三日後―――。村落住民達はルーク一行を手厚い歓待でもてなしてくれた。村の救世主なので当然と言えばそうなのだが。だが―――折り目正しい勇者は決して自堕落な甘えを許さない男だったのである。
    「別にいーだろ。連中が勝手に恩義感じてんだから、スッキリするまで好きにさせりゃ。どーせ、俺たちが倒したクラーケン売り捌いて儲けるのは連中だ。多少長居したって―――」
    「そう。だからダメなんだよ、アーロン。」
    軽く顎先に手を当て、頭の中に浮かんだ仮説を組み立てながらルークが呟く。
    「僕たちが倒したクラーケンは“今から”解体され、各所へ売り込まれる。だが、逆に言えば今はまだ村には金が無い状態だ。ただでさえクラーケンが起こす荒天の所為で一月は漁に出られなかったという話だから、現時点での懐は厳しいに決まってる。僕たちに渡してくれたあれは、きっとなけなしの財産だった筈だ。」
    「――――……。」
    勇者の指摘に盗賊も気勢を緩めて溜息を吐いた。
    「それにあのクラーケンの解体作業の大変さといったら‼︎君だって直近で見てたし、なんなら少し手伝ってただろ。」
    「――――手伝ってねえわ。」
     ルークの指摘通り、翌日以降一行が村で休んでいる時も、住民達は老いも若きもくるくると目まぐるしく働いていた。小クラーケンを解体しては内臓を選り分け、選り分けては干し。
     沖に浮かぶ大クラーケンに至っては、ロープを結えた銛を何本も刺して幾艘もの船で曳航し、仕舞いには地引網の要領で丘に引き上げていた。驚いたルークの問いに村長が答える事には――――とにかく死した海の生き物は腐敗しやすいのだと。そのままにしておけば海が汚れるし、揚げて処理するにしてもそうなると品質も著しく落ちて売り物にならないとの事で、皆一同にこちらの作業にも大幅に手間取られ謝意を示しつつも歓待は夜にしか出来ないのだという話であった。
    「一日中解体で働いて、夜は毎日僕たちの歓迎してもらう…っていうのも流石に申し訳ないだろ。三日が限度だよ。」
    「――――ハァ――――……。ったく、シケてやがんな。」
     俺はあの村中の家畜食い尽くしたって釣りが来ると思ってたのによ。そう言いながらも、アーロンの目の奥は高潔な相棒の精神を目にしてホッと緩んだような色が煌めいていた。
     会話の切れ目を縫って、ふと背後から戯けた声が語りかけてくる。
    「――――まあ、アーロンもそろそろいつもの宿の飯が恋しくなってきたとこでない?お礼のお風呂と鶏肉豚肉頂いて、服もお肌もツヤツヤになって、すっかり和んでいい感じだねっ…‼︎」
     態とらしくぶりっ子ポーズを取る忍者の物言いに途端白けた顔で「それはアンタもだろ、墨引っ掛けられて全身スタンプになってたオッサン」と返すアーロンにモクマは「アハハ、バレてたか。記念におじさんの忍者拓も取っとけば良かったねえ」と笑う。ルークは真っ直ぐ彼を見返しながら、ふと浮かんだ疑問を口にした。
    「モクマさん…そういえば、謝礼の話の時一人だけ素材を譲って欲しいと仰ってましたよね。あれ、何か頂いたんですか?」
    「ん〜〜〜?ウンそう、ちょいと良いものをね〜〜〜。」
    「……?良い…もの……?」
     モクマが腰に下げていた皮袋を外し、顔の横に翳して振ってみせる。中には何やら流体染みたものが入っているらしく、揺らす度にタプタプと奇妙な音がした。
    「ふふふふ。今晩の食事―――街道脇でのバーベキューになると思うけど。…モクマさんの故郷料理をとくとご覧あれ〜〜〜。」
    「――――???」
     キョトンとした勇者の顔の向こう側で、鋭敏な鼻先を蠢かせたアーロンが渋面を作って心底嫌そうな顔を浮かべていた。


    ***


    「――――えっと……。モクマさん…これ、……。」
     その日の夜。焚き火に照らされる勇者の顔が強張って引き攣る。その視線の先で。
    「ジャ〜〜ン‼︎村長からお裾分けしてもらった蛸の脚!串に刺してみました〜〜〜‼︎‼︎」
     ウキウキと全身から花を飛ばす勢いで、忍者は蛸脚―――もといクラーケンの触手を尖らせた小枝で串刺しにしたものを複数本、楽しげに一同に見せつけていた。
    「――――………。」
     このメンバーで組むようになってから大概の事態に耐性が付きつつあるルークではあるが、それでも眼前の光景には驚きを隠せないし―――それに何だかモクマの様子から猛烈に嫌な予感が漂ってきて、無言で隣に座る相棒に視線を送る。―――が。
    「――――くぁ……。」
     アーロンは端から会話に関わる気がないかのように顔を背けて欠伸をしていた。―――ダメだ、相棒は助け舟を出してくれる気はないらしい。そう結論付けて、顔をヒクつかせたまま勇者は忍者に向き直った。
    「あの……。モクマさん、もしかしてこれ……。」
    「およ。ルーク、蛸って食べた事ない?見た目は初見だとグロいかもだけど、結構イケるんだよ〜〜〜。」
    (こ、これ…。本当に食べる気なんだ……⁉︎)
     言われれば村民らもあれらクラーケンを保存“食”にすると言っていた気がする。気がするがしかし、あの時は対象討伐直後の疲労で聞き流していた。つまりは、沿岸地域等ではクラーケンを食用にしているのだろう。地域によって食文化とは様々であり、自分の常識から見た尺度で推し量るべきではない。そう分かってはいるのだが――――。
    (…すっごいヌルヌルしてる…。吸盤のブツブツも絶妙にゾワッとするというか…本当にこれ食べれるのか…⁉︎)
     モクマが手にする蛸串は未だてらてらと光を反射しており、薄緑の体色がまた大いに抵抗感を煽る。遠国出身の仲間の食性にカルチャーショックを受けているルークを気にした風もなく、モクマは炎の側に座り込んでよいせ、と焚き木に翳すように串を地面に突き刺しながら話し始めた。
    「ほら、俺の故郷って島国でしょ。一応主食は別にあるんだけど、どうしても植物だと栽培面積が限られててね。そんな時助けになってきたのが海産物なのよ。」
    「―――な、成程……。文化的背景によって、食事の成り立ちも変わりますからね…。」
     そう理性では理解を示しつつも、眼前に広がるのは結構なインパクトのある光景だ。なにせ、数日前に戦ったクラーケンの不気味な見た目、動作、そして粘液と臭みが思い起こされてしまう。
    (うう……。これはモクマさんにとっては当たり前なんだから、変な風に思う事自体が失礼だぞ、僕…‼︎)
     そう自身を叱咤し顔を百面相させている勇者を和やかな目で見つめながら、モクマは懐から―――何やら釉薬の掛かった小瓶を取り出した。

     パチッ……パチパチ、チ……ジュワ……―――

    「――――んっ……?」
     辺りに次第に、香ばしい――――なんとも言えない馥郁たる空気が立ち込め始めた。触手たちは熱を得て、吸盤が並んだ触手の先端がキュゥッと丸まり、色も奇妙な黄緑色から仄かな赤みを帯びたなんとも食欲そそる見た目に変化していく。
    「――――……。」
    「………。」
     距離を置いて成り行きを見物していた盗賊とエルフの目が、チラリと串の方向に向いた。勇者に至っては――――。ぐうぅ…と鳴る腹を抑えて赤面している。そんな分かりやすい若者三人の反応に微笑みながら、モクマはポン、と音を立てて手中の瓶を開栓すると、内側に封入されていた小さな刷毛を使って―――パチパチと炎に炙られるクラーケン脚に手早く“何か”を塗り広げる。忍者の手によって串は調味料を塗られてはくるくると角度を変えられ、それが均等に熱を加えられるにつれて、艶やかな赤紅色の表面はよりこんがり焼けて――――さらに、小瓶から塗られる調味料が都度コーティングされては焼ける本体の香りと混然一体となって全員の鼻先を擽った。
    「――――……なんか…凄く……良い匂いですね…?」
     恐る恐るでありながらも、空腹を刺激する香りに抗えずルークが覗き込む。そんな純朴な仕草に笑みを濃くして、忍者は嬉しそうに返した。
    「えっへへへ。良い匂いでしょ?前に珍しく地元産の調味ダレを見かけてね。ひと瓶買っておいたんだけども、大正解だったみたいだね。」
     ジュワワァ、と内側から湧き出す水分が濃厚なタレの下で弾けて、一層美味そうだ。形はやはりグロテスクさが否めないが―――表面の照りは鶏の丸焼きの艶にも似て、最早ルークは好奇心と食欲を抑えきれなくなっていた。
    「モ…モクマさん…!その、もしよかったら…この串、一本頂けませんか?」
     勇者の申し出に―――何ら含むこともなく、忍者は朗らかに返した。
    「――――一応皆んなにも食べて欲しくて用意したんだから。そりゃ勿論、よろこんで。」
    「ありがとうございます‼︎」
     確認するが早いかルークは地面から串焼きを一本手に取り、ふうふうと息を吹きかけて粗熱を冷ますと―――思い切って横からガブリと噛み付いた。途端、口内に香ばしい幸せの味が弾ける。
    「〜〜〜〜〜〜んんッ……これは…あまりにも……うま〜〜〜い‼︎‼︎」
     ルークの眼がパァッと輝いて、リスの様に頬袋を膨らませた口から感激の言葉が飛び出た。
    「この圧倒的な歯応えとムッチリ感!戦った時に感じた臭みも嫌な匂いも微塵もない!それどころか…淡白な中に仄かな甘みを感じる!シンプルな本体の味わいを補完するかのように濃厚で甘辛いソースが香って、これは…いくらでも食べれます‼︎‼︎」
    「――――はは、そりゃ良かった。産地が違っても烏賊蛸類の美味しさは万国共通ってことだね。」
     ルークの評と止まらない食に、会話に入らずスルーの姿勢を取っていた残りからも二人じっと興味深そうな視線が注がれ始めた。
    「〜〜うん…!触手の付け根の方は歯応えと素材本来の味が楽しめますけど、先端の方はよく焦げてソースの濃厚さが味わえますね‼︎プリプリからカリカリへの食感の違いも面白い‼︎」
    「お、ルーク分かってるねぇ。このお焦げの部分って味が濃くて美味いんだよね〜〜〜。どれ、おじさんもひとつ…。」
     そう言ってモクマが抜き取ろうとした焼き串を―――向かいから伸びてきた腕が攫った。
    「おいオッサン。俺にもひとつ寄越せ。」
    「――――あ、アーロン……。」
     モクマが瞬きする前で、盗賊は尖った歯を剥き出しにしてワシっと触手焼きに齧り付く。モグモグと咀嚼しながら、褐色の頬を緩めて彼は鼻先から息を吐いた。
    「――――フン、悪くねえな。」
    「おいアーロン、失礼だぞ。人が食べようとしていたところを横取りするなんて。」
    「煩え。取られる方が悪ィんだよ。」
     口の中いっぱいに触手焼きを頬張ってモゴモゴさせながら勇者に反論する彼こそが――――今回の戦いで最もクラーケンに苦しめられ、食すにあたってのハードルも高かったであろう事は想像に難くない。それでも仲間を信頼して口をつけ、そして高評価を下してくれたという事実にモクマの心は温められた。
    「や〜〜〜、いいよいいよおじさんはどんどん焼きに徹するからさ。これも故郷の料理や文化を広められる良い機会っていうか――――…」
    「ふむ――――…。では私もお一つ頂けますか?モクマさん。」
     左隣からすっと通った声が掛かって、忍者はいよいよ驚いて目を見開いた。
    「えっ⁉︎⁉︎チェズレイも食べるの⁉︎」
    「「――――‼︎‼︎」」
     言い合いをしていた勇者と盗賊も驚いて顔を上げる。薪の火に照らされた白皙が、アンニュイな表情を作って一同を見渡した。
    「――――おや、私が食べることに何か問題が?」
    「や〜〜〜、そんな事無いよ‼︎ただお前さん潔癖症だし、食べ物にも拘りあるから嬉しい意外性が…。」
     顔の前で手を振って相棒エルフに相合を崩すモクマの右隣でルークが目を輝かせる。
    「チェズレイももちろん食べていいさ!これすっごく美味しいから、きっと気に入るよ‼︎」
     言いながら更に串に齧り付く勇者に、盗賊がヘッと揶揄うように唇を吊り上げた。
    「糞エルフがゲテモンメシ食うとか、槍でも降るんじゃねえのか。」
    「アーロン‼︎言い方‼︎」
     隣から厳しく制するルークの言葉をスルーして、盗賊は触手の残骸を齧りとり裸になった串を放るとすぐさま二本目に手を伸ばした。
    「―――まあいい。おうオッサン、ガンガン焼け。でねえとエルフがちみちみ食ってる間に全部俺が平らげるぞ。」
    「あっコラ!ちゃんと均等に分けなきゃ駄目だぞ!」
    「ハハハ、焦んなくてもどんどん作るからゆっくり食べなよ。―――ほら、チェズレイ。お前のだよ。」
     やいやいと言い合う二人を笑って眺めながら、モクマは地面から頃合いに焼けた串を外してエルフに手渡す。彼は手袋越しにそれを受け取ると、宝石の様な紫眼を眇めてまじまじと見下ろした。
    「――――……。」
     高い鼻先をそっと寄せて、香りを嗅ぎ―――やがて。『あ、』と口を開いて綺麗に生え揃った歯で触手焼きの先端を齧りとった。口の中に破片を取り込み、ゆっくりと咀嚼する。
    「「「――――……」」」
     否応なしに、ほか三者の視線が注がれる中―――。チェズレイはゆっくり食材を噛み締め飲み込んで。―――フ、と唇に笑みを浮かべた。
    「……、なんとも粗野かつオリエンタル感の溢れる味わいですねェ。ベタベタと塗り込められた調味料もクドく上品とは言い難い。―――が、…本体の醜悪さを脳から薄れさせる程度には、味わい深いといっても宜しいかと。」
    「――――……‼︎」
     モクマの黒目の奥に、驚きと同時に喜びが爆ぜた。何と言っても、彼――――エルフのチェズレイの潔癖さと一流嗜好は共に居る仲間であればこそ、一線を画す厳しさであることを知っている。そんな相棒が己の矜持を曲げてこちらの風俗に歩み寄ってくれた喜びに、モクマの胸は益々いっぱいになった。
    「――――ハッ‼︎クドクド言いやがって。美味えなら美味えって言やいいだろ鬱陶しい。」
    「――――チェズレイも美味しかったか!だよな、これ食べてるとこう…美味しすぎてあの見た目忘れちゃうよな‼︎」
     盗賊が横から皮肉混じりの茶々を入れ、勇者が嬉しげに同意する。
    「まあ、自己責任のモクマさんと悪食の盗賊殿はともかく、ボスにばかり味見はさせられませんからね。ですが…想定よりもまずまずの風味ですよ。」
     尤もらしい理論で武装しながらも、エルフは口を休めることなく触手焼きを堪能する。その有様こそが雄弁に彼の本心を語っていて、モクマは垂れた目尻を更に緩めながらニコニコの笑顔になって腕まくりをした。
    「――――よぉ〜〜〜し!皆が気に入ってくれた事だし、おじさんさらに気合い入れて焼いちゃおうかな⁉︎」
    「あ、モクマさん、次は僕が焼きますよ!モクマさんも食べて下さい‼︎」
    「ドギー、俺の分はさっきの倍タレ塗れ。あと1番デカいの焼け。」
    「君、食欲旺盛すぎだぞ⁉︎村でもあんなに肉食べてただろ⁉︎」
    「あんなの食った内に入らねえよ」
    「――――ハァ……。まったく、喧しいですねェ…。」
     柔らかく暖かく、香ばしいにおいを辺りに振り撒きながら。ワイワイ仲間と過ごす内に、時間は過ぎていく。パーティの和やかな夕飯はその日、夜半を過ぎるまで続いたのであった。


    ***


     夜も更けて――――。焚き火の炎がすっかり落ち着いた頃。モクマは一人、その側で宴の余韻を楽しんでいた。村長とのやり取りをはじめパーティの仕切りにも気を回していたルークと、疲労が未だ尾を引いているらしいアーロンは早々に就寝している。
     炭化しつつある薪から時折パチリと爆ぜる焔を眺めながら、忍びは程よい位置に転がっていた丸太に腰掛け、手にした猪口に濁り酒を注いではちびりちびりと舌を楽しませていた。
    「――――そろそろ交代時間ですよ、モクマさん。」
     そんな彼の背後から、麗しい声が響く。顔を上げると、艶やかな黄金の長髪を揺らしてエルフが覗き込んでいた。
    「――チェズレイ。…ん〜、おじさんまだお酒楽しみたい気分だし、もうちょいここに居よっかなって…。」
    「ご勝手にどうぞ?私は割り当てられた時刻に合わせて焚き火番を担当させて頂くのみですから。」
     ツンと澄ましてそう言いながら、青年は棘を孕んで聞こえかねない言葉とは裏腹に忍者のごく隣に腰を下ろす。そんな相棒の可愛げに無言で目を細めながら、モクマは更に杯の中の酒を舐めた。
    「――――やぁ…。参ったね…今日はいつもより一層酒が美味く感じるや。任務の成功に郷土料理の好評。加えて――――」
     こんな美人と二人きりで居る時間まで取れるなんて。言いながら、男の小さな黒目の中に薪の炎が映り込んでしっとりと色香を含んで輝く。それを紫水晶の瞳でチラリと見返すと、エルフは皮肉っぽく片眉を上げた。
    「貴方の飲酒の理由付けに使わないで頂きますか?いつもの如く鯨飲したいだけでしょうに。」
     ハア、と肩をすくめる生意気なポーズも、先程の食事シーンを思い出せばなんとも幼く感じられるものである。モクマは些かも気を害する事なく、ふにゃりと笑って酒瓶を振った。
    「ありゃ、バレちまったか。―――でもね、今日いつも以上にいい気分なのは本当だよ。…お前が側に来てくれて、浮き上がるような気分なのもね。」
     減りつつあった猪口に徳利からどぶろくを注ぎ込む。まだまだ飲み終える気のないらしい相棒を呆れた目で眺めながら、チェズレイはふとモクマの膝の上に乗せられていた器に目をやった。
    「――――その小鉢……一体何です?」
    「お、気付いたか。」
     エルフの視線の先、黒装束の腿の上にちょこんと乗った木彫りの器の中には、ドロリとした粘液状の液体に―――生っぽい“何か”が和えられている。
    (椀の淵には削られた二本の棒。恐らくこれは、モクマさんの故郷文化圏で見られるカトラリー。器の内面は七分目の辺りまで液体が張られていた形跡がある――――要は現在は“減っている”状態である事を表している。つまり、これらの要素を総合すると。)
    「――――食べ物、なのですか?その…沈殿物のようなもの……。」
     眉間に皺を寄せながらもこちらを覗き込んでくるチェズレイの容赦のない物言いに、モクマは苦笑しながら頭を掻く。
    「アハハ、まあうん。ってもお前さんらに食べさせた焼きよりもかなり通好みな代物でね。見ての通り、あの蛸の胴とワタ―――内臓をペーストにして、身を和えたモンだね。“塩辛”って言うんだけど。」
    「…………。」
     エルフの眉間に刻まれた皺が益々深くなる。ルークでさえ引いてたし、内陸地も内陸地出身のチェズレイには厳しかったか、と心中察しつつも忍者はかと言って萎縮することもなくと説明を続けた。
    「これがまたお酒のアテに丁度良いのよ。こう、ちょっと苦味があって味が濃くてその中に旨味もあって…身の触感も程よくて酒が進む進む…。」
    「…………。」
     青年の眼が奇妙奇天烈なものを眺めるように器とモクマの顔を行き来する。そんな反応を理解しつつも、男はヒョイと故郷の食器―――箸で中身を摘み上げると、口の中に放り込んだ。モグモグと味わうと、目を細めて猪口に唇を付ける。
    「〜〜〜ん〜〜〜‼︎美味いッ‼︎ぷはぁ〜〜、沁みるねぇ…。」
    「―――…。」
     楽しげに食事を堪能するモクマの様子を、チェズレイは引き続き無言で眺めていた。その視線からはいつしか未知の食物への警戒も薄れ、どちらかと言うと見たことのないものを見つめる子供のような無垢な好奇心が満ちはじめている。
    「や〜〜〜、村長さんが話の分かる人で良かったよ。こういうの生で手に入ること少ないもんねえ。おじさんもコレ食べたのは故郷を出て以来―――…」
     言いながら二口目を口に運ぼうとしていた男の手首が、ふいに横から伸びてきた細い指先に制止された。
    「――――…?チェズレイ…?」
     きょとんと目を瞬かせるモクマを正面に見据えながら、エルフは薄い唇を開き―――はっきりと告げる。
    「私も…一口、頂いても宜しいですか。」
    「――――‼︎‼︎…」
     忍者の目が驚きに見開かれた。パチパチと瞬きをしながらも、その顔には薄らと惑い混じりの喜びが浮かびつつある。
    「…いや、俺は全然いいんだけども。…結構独特な味だよ?」
    「それは先ほどの説明から推測できます。」
    「火も通ってないからチト海の香りもするし…。」
    「ええ、でしょうねェ。まあ海産物を非加熱で食するのだから当然です。」
    「……まずい、って感じちゃうかもよ。」
    「―――モクマさん。」
     いざ相棒が己の故郷の味に積極的になって途端に予防線を張ってしまう忍びに、エルフはキッパリと返す。
    「御託を並べるのは結構です。……早く、貴方が食するそれを私にも理解させてください。」
    「――――…、」
     その宣言から言外にもっと己を知りたいのだと告げられているのを理解して。心の奥を気恥ずかしさでこそばゆくしながらも、モクマはそっと塩辛を挟んだ箸を青年の口元に近づけた。
    「……んじゃあ、無理にならないよう少しだけ。…ほら、口開けて。」
    「――――、」
     モクマの指示通り、日頃の捻くれた態度が嘘のようにチェズレイは素直に口を開いた。真珠のように輝く歯と、官能的な紅い舌先が仄かに照らされて浮かび上がる。その真ん中にそっと食品を置くと、男は青年の咥内から箸を引き抜いた。
    「………どう…?」
    「――――……。」
     桜色の花弁のような唇を静かに閉じると、エルフは表情を変えることなくゆっくりと咀嚼した。充分すぎるほどに噛み締めて、丹念に唾液と絡めて―――一息に嚥下する。やがて―――ほう、と息を吐くと。青年はアメシストの瞳を揺らしながら、男に微笑みかけた。
    「――――なんとも特殊な食品ですねェ。粘るような滑る食感に、苦味のあるソースが独特の風合いをもって鼻腔を擽る。潮の香りは火を通していない以上こういったもの、ですが。」
    「……やっぱり、不味かった?」
     恐る恐る問いかけるモクマに、チェズレイはフ、と笑みを浮かべたまま首の角度を傾ける。
    「まァ……生産過程を訊けば理解できる味わいの範囲内かと。…私は酒豪ではないですが、酒が進むというのは理解出来ます。ワインに対するチーズのような…そういった嗜好品なのですね。辛味が絶妙に飲食物を促す…。」
    「――――…‼︎」
     美味い―――という評こそ得られなかったものの、彼の食性や拘りを考えれば致し方ない。それでも言葉を尽くして己の文化を、故郷を、精神を理解しようと歩み寄る、そんなエルフの在り方にこそモクマは酷く心を温められた。
    「そう、そうなんだよ……。お酒のアテだからね。―――と、そうだ。」
     ほろ酔い心地に良い気分が重なって、忍びは先ほどまで舐めていた猪口を相棒に向かって差し出してみる。
    「これさ、やっぱり味的にもうちの故郷のお酒と合うんだ。チェズレイも、ちこっと舐めてみない?」
    「――――……。」
     焚き火に照らされた耳先が、少し惑うように揺れる。それを承知の上で、モクマはそっとチェズレイの手の中に杯を乗せてみた。
    「お前さんが酒に弱いのは知っとるから無理強いはせんけども。…香りだけでも、味わってみない?」
     美味しいよと囁く声に、じっと猪口を眺めた後に――――青年は花弁の唇にそっと縁を近づけて、こく、と濃い酒気を体内に取り込んだ。
    「――――ンん……これは……。」
     長い指先で額を抑えて、整った口元が仄かに苦笑を浮かべる。
    「――――なんとも強烈な……。―――ですが成程、先程の食品の辛味と酒の酩酊感、香りと風味が一体となって―――。」
     男の視線の先で、エルフは腑に落ちた表情でくすりと笑った。
    「――――なんとも、癖になる。」
     その言葉に、忍びは――――相棒がまたひとつ胸襟を開いたのを確認したのであった。


    「――――ん……ふ……。」
     あれから数杯。何だかすっかり嬉しくなってしまったモクマに乗せられて、チェズレイは猪口を傾け――――今ではすっかり頬と耳の先端を真っ赤に染めてしまっていた。ゆらゆらと揺れる頭が時折コテン、とモクマの肩に触れてしまう辺り、限界だろう。
    (……しまった。調子に乗って飲ませ過ぎたかな…。)
     くったり身体から力が抜けつつある相棒の肩を叩いて、男は声をかける。
    「チェズレイ、大丈夫?気持ち悪くないかい?」
    「――――…口の中…お酒の味と、“シオカラ”の味で……しょっぱいです、ね……。」
     日頃からは考えられないくらいにフワフワとした表情で返す言葉に、モクマは立ち上がると―――少々の無礼を承知ながら、キャンプの脇に固められていた荷物から彼の装備を探って―――魔術紋の描かれた皮袋を取り出した。焚き火の側に戻ると、チェズレイにそれを差し出す。
    「荷物の中失礼して、お前さんの水袋を借りたよ。スッキリするまで、暫くそれで口濯いどくといい。」
    「――――ありがとう、ございます…。」
     己を酩酊させた張本人にそう告げるあたり、やはり意識が相当緩んでいるらしい。そんな相棒を見てやらかしちまったなあ、と頭を掻きながら、モクマは改めて彼の隣に座った。ゴソゴソと皮袋の栓を開け、静かに水で口を清め始めた彼を―――見咎める相手もいないのにこっそりと眺める。
     落ち着いた炎の揺らめきに照らされて、金糸の豊かな髪が揺れ、宝飾のような瞳は幼い光を湛えている。ほんのり紅に染まった、きめ細やかな白い肌。濡れた唇。その内側をつい先刻まで支配していた触手―――。それらを見るにつけ。男の心中に、とある遠い日の記憶が蘇っていた。


    ***


    『――――ガコン?何をやっているんだ?』
    『―――ッ…‼︎モクマ…‼︎』
     モクマがまだ故郷を離れる前―――齢にして十二を過ぎた頃。里の外れにある朽ちかけたお堂の奥で、彼は友人の背に声を掛けていた。時は夕刻。寺子屋もとうに終わった後である。モクマに声をかけられた友―――絡繰師の息子ガコンは、大層慌てた風に背に何かを隠した。モクマの目が僅かに鋭くなる。
    『―――…何故ここに。つけていたのか?』
     問いかける友にモクマは返す。
    『ああ。気付いていなかったのか?お前、いつもは俺よりよっぽど真面目なのに…今日は師範の質問にもまともに答えられないくらいに気もそぞろだったろう。おまけに終わった途端逃げるように寺子屋から去った。おかしいと思わない方が不自然だ。』
     いつもなら残って復習までするのに。そう続けた言葉にぐうの音も出ず、ガコンは額を抑えて大きく溜息を吐いた。
    『――〜〜はぁ……。まったく俺も、隠し事が下手くそだな……。』
    『その背に隠した紙…一体何だ?…お前のことだから、まさか里に仇なす何某かとも思えないが。』
     その指摘に、友人はギョッと目を剥いて首を振る。
    『当たり前だ!そんな事あってたまるか‼︎』
    『では一体何だ?親父さんに隠れて作った絡繰小物の図面なら、いつも見せてくれるだろう。』
     モクマの追求に―――ガコンはとうとう天を向き。降参した様子で頭を掻いた。
    『まあ、これは――――……見せた方が早いか…。』
     言いながら、背に隠していた髪をモクマの眼前に晒す。それは―――図面ではなく、絵であった。
     肌の白い女が一人、仰向けになって横たわっている。衣服は身につけず、胸元と股間も露わにして―――その下肢から全身にかけて、大きな蛸が絡みつく―――淫靡な図柄。年の割に落ち着きがあったとはいえまだ若い少年の時分である。黒目には隠せない同様が走っていた。
    『――――これ……。』
    『…ああ、春画だよ。』
     ハア、と溜息を吐いて照れ臭そうに鼻先を掻くガコンに、モクマはポツリと返した。
    『……すごい状況だな。』
     女性は明らかに襲われている風ながらもその表情は艶やかな悦びに満ち、嫌悪感といったものは欠片も無い。どころか、背後に書き出されている台詞を見るにどうやらなかなか悪くない、といった風合いのやり取りがどこか滑稽に描き出されていた。瞬きをしながら絵を見下ろしている彼の言葉にガコンが反論する。
    『――――言っておくが。これは俺の趣味じゃないからな。』
    『違うのか?』
     顔を見上げると、羞恥を交えた渋面を作りながら友人は首を振った。
    『そう思われるから隠そうとしたんだ。―――…俺の家の隣に、独り身の爺さんが居るだろう。』
    『ああ、結構なお年だったな。』
     モクマの脳裏に杖をつきながら村の中を歩いていた姿が浮かぶ。
    『最近年で右手が動かしづらいって言っててさ。俺が補助具を作ってやったんだよ。親父はこの頃、城の絡繰整備で忙しかったしな。』
     なるほど、と頷くモクマにげんなりした顔でガコンは顎をしゃくった。
    『そしたら―――物凄く喜んではくれたんだが。……それを渡されてな。』
    『これを……。』
     改めて紙を見下ろす。モクマとて年頃、春画に興味がない訳ではない。何だったらコッソリ隠し持っているお宝もあったなかったり。しかし、それらと比べてもこれは―――。
    『…これ、どういう状況の絵なんだ?』
    『俺だって知らん!…蛸に襲われはしたものの…楽しんでいる、という風に…見えるな…。』
     説明しながらガコンの語尾がしどろもどろに窄まる。
    『爺さんは…なんだか大層自信がある様子でな。俺も若い頃世話になっただの、お前らくらいの年頃にはこれしか無いだろうとまあ、胸を張った様子で…』
    『それ、断った方が良かったんじゃ』
    『出来るわけ無いだろうよ。寂しい独居老人が、気を利かせたつもりで差し出してきたもんだぞ。俺はそこまで鬼になれん。』
     そこまで一気に説明すると、ガコンは改めて額を抑えて大きな溜息を吐いた。
    『だがな…そうは言っても、だ。…こんな特殊な趣味の春画、持ってるのがバレたらコトだ。散々馬鹿にされて死ぬまでネタにされるに決まってる。』
    『…こういうの、趣味じゃないのか。』
     瞬きをしながら問うモクマにガコンは語気荒く返す。
    『当たり前だ、馬鹿‼︎…俺が好きなのはだな…その…普通の…女が胸を出したり裸になってるような…そんなので…、……とにかく、それは全く琴線に触れん‼︎‼︎』
    『…まあ、普通そうだよな。…これ、どうするんだ。』
     さして追求するでもなく話題を切り替えられた事にホッとした風に友人は続けた。
    『…だから困っとるんだ…。返しに行く訳にもいかん、捨てるのも忍びない。…かと言って、ここに隠しておくのも限界がある。』
     現にお前に見つかったしな、と溜息を漏らし、見た目よりもずっと繊細な絡繰師の息子はどんよりした顔で俯いた。
    『――――こうなったらいっそ埋めるか……でも獣に掘り返されたら…。嵐に紛れて川に流すか…。』
     うんうん唸る友人の言葉にハッと閃きを覚えて。モクマはぽつりとつぶやいた。
    『――――雲爺。』
    『……うん?』
     顔を上げたガコンを正面から見据え、再度言葉を投げかける。
    『雲爺にあげたらどうだ。あの人、結構凄いの持ってるって噂だぞ。』
    『そう――――なのか…?お前、見た事あるのか?』
    『…ちょっとだけ。野盗に若夫婦の旦那が襲われてるのを妻の方が嘆きながら見てるとか、女同士で口吸いしてるのを旦那二人が眺めてるとか…よく分からない感じだったけど。』
    『よ……よく分からんが、…なんだか複雑な趣味をお持ちなのだな…。』
     目上の偉人が持つ秘密の嗜好に、ガコンはやや動揺しながらも深く頷く。
    『雲爺の場合、変なのが好きっていうより色んなのを見るのが好きなんだと思う。…あの方なら、揶揄ったり言いふらしたりもしないと思うし』
    『そうか。……―――モクマ、良ければなのだが…。委譲役を頼まれてはくれんだろうか。』
     友はこちらを拝み倒さんばかりに頼み込んでくる。
    『俺は座学は悪くないが、忍びの術はからっきしだからな。あのお方との距離も遠い。変に周りをうろついたらそこから疑られかねん。だが、可愛がられているお前なら自然だ。』
     勝手な頼みなのは百も承知、一つ貸しにするからどうか頼まれてはくれんか――――。そう言って頭を下げるガコンに、モクマは二つ返事で頷いた。
     それから――――彼から渡された春画を懐の奥に丁寧に仕舞って。数日後、雲爺の元へ行ってそれとない空気を作って渡した。雲爺は二人の信頼通り、大きく笑う事も出所を探る事もなく『おぉ、これはまたオツなものをくれるものだな』とだけ言って受け取ってくれた。それ以来里の中に噂が流れる事もなく―――ガコンは心底喜んで、その年の初冬には返礼として絡繰仕込みの立派な釣竿を贈ってくれた。手繰らなくとも柄元の取手を回すと糸を巻き取る事が出来る優れもので、モクマもそれを使って川魚を釣るとガコンの所と―――ついでに彼の隣の家の老人に届けに行ったものだ。だが諸事情により、貴重なそれを使い込む事なくモクマは故郷を出ることになる。それっきり―――ただそれだけの、遠い日の細やかな少年時代の面映い記憶―――。


    (続)
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    nuru_nurukinoko

    DOODLE彼と彼女のバレッタと。
    彼と彼女のバレッタと。「モクマさん。そちらの飾り棚の上に置いてある髪留めを取って頂けますか?」
    「うん?」
     揃って休日のとある日の朝食後。食器をシンクに持って行った帰りがけ、相棒にそう声をかけられてモクマはきょとりと首を巡らせた。国から国へ、裏社会の統一のために渡り歩く二人の棲家は物でごった返すということがない。主にチェズレイがチョイスするシックな家具が殺風景にならない程度に置かれ、そこに互いの日常で携わる小物―――ニンジャジャンショーのチラシやら、季節の花々を生ける花瓶やらが溶け合って寂しさを感じさせない彩りになっていくのが常であった。
     そんな風景の一部―――日当たりの良い窓際に設置された飾り棚の上。よくよく見れば、見慣れないものがぽつんと置かれている。近寄って手に取り見れば、それは連なる野花が彫り込まれた髪留めであった。生まれ故郷のマイカではもっぱら簪が使われるものであったし、自身は雑に髪紐で括っていた記憶しかないモクマにとっては金具のついた西洋風のそれは随分と馴染みのないものである。おっかなびっくり、手のひらの上にそっと持ち上げて、万が一にも壊さないように相棒に手渡した。
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    nuru_nurukinoko

    DOODLE南国イチャイチャモクチェズ
    南国イチャイチャモクチェズ ブ……ン……
     耳障りにならない程度の駆動音をたてて空調設備が働く。湿度と温度を完璧に調整するそれらの働きによって建物の外とは別世界かの如く快適な環境が保たれる中、カタカタとキーボードを打つ音が伴奏に加わった。時折入れ替わる様にして、タブレットのタップ音、書面を捲る音、ペンが紙面を引っ掻く音がアンサンブルを奏でていく。
    (―――ハーモニーが取れている、とはとても言えないが。まったく…ワーグナーでもここまでは掛かるまい。)
     第一、観客の居ないオペラなど噴飯物だ。そう呟くのは、部屋の最奥に設置された広いデスクに座して黙々と事務作業を続ける青年であった。プラチナブロンドの長髪を首の後ろでひとつに括り、滑らかな白磁の肌を持つ絶世の美貌の彼は―――しかし常には無いほどに分かりやすく疲労の影を顔に滲ませている。チェズレイ・ニコルズ。仮面の詐欺師の二つ名を恣に裏社会を破竹の勢いで己の支配下に置きつつあるその様に、同業者からは畏怖の眼で見られがちな青年は而して人智を超えた異能の持ち主では決して無い。会得した変装や催眠術等と同じく、血の滲むような努力と研鑽のもとに成り立っているのだ。そう、丁度新天地の征服に係る雑務で忙殺されている今現在の姿そのままに。
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