暗然と珈琲牛乳、闇と珈琲どんなに絶望に飲まれても、どんなに過去を悔いても、どんなに現状を嘆いても、思うだけじゃ何一つ変わりやしない。その上、その罪過を改革するに必要な時間は無情にも過ぎ去っていくのだから、いち早くこの鬱陶しいものをうち払わなければならない。
この、むやみやたらと脳内に木霊する、『死にたい』『解放されたい』『楽になりたい』等と到底出来やしない癖にほざく下賎な声を。
怖くて不安で苦々しくて堪らないそのしがらみからすぐにでも抜け出す為には、やはり好きなものに目を向けるのが一番だ。幾つかあるそれの中で、今すぐに手の届きそうなものは……猫、だろうか。
陰鬱に歪んだ視界を強引に押し上げた先に見掛けた路地裏。彼らは、こういった所によくたむろっている。
訪れた所の無い場所ではあったが、どうにも彼らが居そうな気がしてならなかったのか、或いは妙に惹かれる何かがあったのかは分からないが、気づけばおれはその路地に足を踏み入れていた。
猫たちは居なかった。そう都合良くゆく筈もないか。落胆して、路地の地面から視線を逸らしたその先に──何やら厳かな灯火の光る建物があった。
掲げられた看板には『喫茶 鬼』と。ドアノブには開店中の字が掛けられている。
なんて、奇妙で縁起の宜しくない名前なんだろうか。そもそもこんな、路地裏に……喫茶店?
……まさか、特殊喫茶の類のものじゃあるまいか。
そう疑っていた筈なのに、どうにも気になって仕方がない。
好奇心、なんだろうか。分からない。分からないのに、どうにも……抗えない。
名状しがきソレに根負けしたおれは、既にそのドアノブに手をかけていた。
ひやりと冷たい感覚が手元に走り、慌てて手を引っ込めた。今はもう九月。この気温下に置かれた金属ならばそれくらいの冷たさを孕んでいる事は当然か。
気を取り直し再びドアノブを握り締める。またしても得られる、冷たい感触。構わずノブを回し、ドアを押し開けた。
シャリン、と軽やかな鈴の音色が響き渡った。
眼前に広がるあたたかな色と、肌で感じるぬくもり。
鼻をくすぐる珈琲の匂いは、どこか懐かしさを感じさせるようなものだった。
やたらと永く感じた一瞬が過ぎ、カウンターにて珈琲カップを磨いていたらしい人影が、こちらに気づき、口を開く。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
そう言って微笑みかける。
「ど、どうも。」
そうとしか言えなかった。
見る限り、食事席はカウンター席とテーブル席の二種。
テーブル席は二人掛けのものと四人掛けのものがあるが、ひとりで来たからにはカウンター席に座るべきだろう。そう思って、右手奥にあるカウンター席の方へと向かっていった。
常連でもなんでもない割に店主と向き合って座るのは避けたかったため、一番隅の席に腰を下ろす。あまり間を開けずに店主がメニュー表と澄んだ水の入ったコップを渡して来た。軽く会釈し受け取る。ガラス製のコップに氷の当たる音が、蓄音機から流れるクラシック曲と混ざり合い、かろやかに響き渡っていた。
水を一口含んでから、受け取ったメニュー表に目を通す。
左面は多種多様な珈琲の名で埋まっていた。どうやら珈琲喫茶だったらしい。ここに来て入る前に怪しげな店だと思ってしまった事が申し訳なくなった。お詫びに──なるかは分からないが──なるべく多くのものを注文しようと思った。
右面にはよくある品々の名が連なっていた。あまり冒険はしたくないし、こちらから頼もうか。しかし……
クリームソーダにミルクセーキ、ホットケーキにプリンにケーキ。苦い珈琲に合わせるなら当然なのだろうが、甘いものばかりが並んでいた。甘いものは嫌いじゃないが、あまり沢山は食べられない。
さてどうしたものかと考えあぐねていた折、ふいに店主が声を掛けてきた。
「お悩みですか」
「は、はあ。まあ……そう、ですね」
突然だったため、ぎこちない受け答えになってしまった。店主が気を悪くした様子はなく、ただ少しだけにこりと笑ってから、
「宜しければ、お勧めのものを伝えさせて頂いても?」
そう言ってきた。
「あ……えっと……」
どうすべきかな。お勧めなんて聞いてしまった暁には絶対にそのメニューを頼まなくちゃ、相手に悪いだろう。見る限り、嫌いなものも食べられるものも無さそうだけれども、万が一メニュー表に乗ってないような変な物を提示されたらと思うと恐ろしいような。
或いはとんでもなく高価な珈琲を勧められたら?
サービス料なんて言って変にぼったくられたら?
それに、もし聞かないと何も決められないような優柔不断な奴だって印象を受けられたら?
段々と陰鬱に沈んでいくくだらない考えが頭の中にじわじわと広がっていく、それは。一度なってしまうと手が付けられなくなるのだ。
こんな、こんなちょっとした会話でも引き金になるなんて。それがまたどうにも恐ろしくて、人前だというのにその禍々しくて苦いそのものに飲み込まれそうになった時、それらを遮るかのように店主の声が聞こえた。
「……珈琲牛乳」
「……?」
「なんて、どうでしょう」
「へ……?」
あまりにも間抜けな腑抜けた声が、勝手に喉から飛び出してきた。店主は構う事なく続ける。
「貴方にぜひお勧めしたい珈琲です。すみません、お勧めを伝えるかの許可について問うておきながら、結局無断で選んでしまって」
「あ……いえ……」
「サービス料などは勿論要求いたしませぬ上、ごくありふれた珈琲でお作りしますので高額すぎる事もないかと存じますが、如何いたしますか?」
ぎくりと背筋が凍った。おれの懸念が見透かされていた。けちくさいって思われただろうか。注文する気がない客だって思われただろうか。
手ずから産み出されていくその考えに少しづついたぶられていく。このままじゃいけない、このままじゃそのまま深みに嵌って戻って来れなくなる。早く、早く、抜け出さなきゃいけない人が見てる!誰にもこの下賎なものを悟らせる訳にはいきやしない
ごくりと喉が鳴った。
「おっと……。申し訳ありません、出過ぎた真似を。ごゆっくり、」
申し訳そうな顔をしていた店主に謝罪を述べることも無く、その言葉を押しのけながら言った。
「い、いえ!その……是非お願いします……」
作り笑いで引き攣った頬と、張り付いたような声。不審に思われたに違いない。それでもコレに気づかれるくらいなら遥かにマシだ。……いや
不審な奴だって思われたならその時点でここに居ちゃいけなかったんじゃ?……ああ、どうしよう……!
少しだけ空いた時間の間に必要以上の意味を見出そうとして、暗然に溺れそうになった時。ゆっくりと、店主が口を開いていた。
「ではご注文は珈琲牛乳で宜しいですね?」
「へあっ……は、はい……!」
「かしこまりました。少々お待ちください」
「あ……はい……」
……そういえば、お願いしますとだけ言って、注文内容は伝えていなかった。少しだけ間が空いていたのは店主が確認をとるか迷ったからだろう。……強ばっていた肩の力が、ふっと抜けた。
しばらく経つと、材料を揃え終えたらしく、あちこち動き回っていた店主が足を止めた。
それでも手を止めることは無く、流れるように用意をしていくその様をぼんやりと眺めていたら、再び店主が声を掛けてきた。
「この喫茶、立地条件が悪いものですから客足が少なくてね。ですがその分、お客さんひとりひとりと向き合うことができるので、私はそれで良いと思っているのです」
「……そうですか」
「ええ。」
「……人間社会を生きる方々は、得てして何かしらの悩みを抱えていらっしゃいます。それを相談できる相手が居れば良いのですが、そうでない場合は……皆さんとても辛そうで、見てられないのです」
そこまで言って、店主は手を止めこちらを見やって言った。
「貴方も例外無く、ね」
ぎょっとした。この店主、どこまで人の事を見透かしてるんだ……いや、客商売をやってるものならそういうものなのだろうか……?
ただ呆気にとられているおれに、店主は続けて言う。
「もし宜しければ、その悩みについてお聞かせ願いたいです。何かお力になれるかもしれませんし、そうでなくても……誰かに悩みを聞いてもらうと、随分楽になるそうですから」
楽になる、か……。それはおれが幾度も願った事だ。しかし人に迷惑をかける訳にはいかないからと、ずっと抱え込んで押し殺してきたそれを、……話してしまっても、良いのだろうか?
そもそもなんでこれを誰にも相談できなかったんだっけ。同情を買おうとしていると思われるのを避けたかったから?そんなものは甘えだと否定されるのが怖かったから?……後々になって気を使われるのが、嫌だったから……?
思い当たるのはそれくらいだ。この中のどれかではないのかもしれない。あるいはその全部なのか。分からない、分からないけれど。
……どう思われようと、一度限りなら。想定していた事が起こってしまったとして、ここに来なければどうとでもなるのなら。……話してしまっても、良い気がした。
「……少しだけ……お言葉に、甘えさせて頂こうかと思います」
店主はその言葉を聞き逃さず、笑って言った。
「喜んで」
おれは頷いて、そのまま目線を下ろしてから口を開いた。
「ほんの些細なきっかけで、全てが嫌になってしまったんです。大切なものも、好きなものも、確かにある筈なのに、全てを打ち捨てて逃げ出してしまいたいと思う程に」
「それが大切で、好きであるのは事実で、失いたくなんかないのに……どうしておれは全部を捨てたくて、終わりにしたくて堪らないんでしょうか」
事情の全てを説明するのははばかられたので、随分ぼかしてものを言った。店主からの返答はまだない。ぼかしすぎて伝わらなかった、のだろうか?それとも……。
その先は考えないようにして、適当に言葉を続ける。
「……はは、すみません。こんな事、突然言われても訳わかんなくて困りますよね」
……言ってしまった後で後悔した。皮肉めいたように聞こえてしまったかもしれなかったから。慌てて取り消そうとしたが、予想外の店主の返答に遮られた。
「いえ……。分かります……。私は其の感覚に、多少の覚えが御座いますから」
「え……?」
どういうことかと聞き返そうと顔を上げた所に、店主がおれの正面へと向かってきたのが見えた。
なんとなく、身構えたその直後。ことり、と音がして小さな皿がカウンターに置かれた。
更にその上へとのせられたのは、穏やかな湯気のたつ珈琲牛乳だった。
「完成致しましたので、お先に提供させて頂きますね。淹れたてですので是非、まず一口どうぞ」
「あ……りがとうございます、いただきます」
正直、少し驚いた。いつのまに淹れ終わっていたのだろうか。顔を下げていたとはいえ、音は聞こえていたはずなのに気づかなかった。
やはりおれという奴は……。また、沈みかけたところで、店主に淹れたてを飲むよう勧められていたことを思い起こし珈琲カップに手を伸ばした。ゆっくりと持ち上げる。珈琲とミルクの香りが、湯気にのってほんのりと香ってきた。
そのまま口元まで持ってくる。口をつけ、カップを傾けると、あたたかいものが滑り込むように口の中へと入ってきた。
そう、あたたかい……。この所、面倒がって買ってきた食事を温めるような事はしていなかった上に、自炊なんてせず外食なんてもってのほかだったため……あたたかいものを口にしたのは、久々だった。
珈琲牛乳を口の中でころがすと、少しづつ甘みを感じてきた。久々のあたたかいものに驚いて処理できていなかった味覚が徐々に目を覚ましてきたようだった。
それから珈琲と牛乳のコクを僅かに感じたところで、こくりと飲み下すと……珈琲特有の苦味が、口の中に広がっていった。心地よい苦味だった。
その余韻に浸っていた所に、店主が、
「では、先程の続きを」
と告げた。
「……はい」
おれがそれだけ言うと、店主は頷いてから言う。
「あの苦痛で堪らない魔の手から逃れる為の行動の一つとして、甘い物を口にするという手段があります。あたたかいとより効果的なようです。」
……あたたかくて、あまいもの。成程、だから珈琲牛乳を勧めてきたのか。そんなことを思いながら、二口めを啜ろうと、またカップを持ち上げた。
「何でも、脳内にて快楽物質の精製が促進されるだの、血行が良くなるとその回りが良くなるだの……細かな理屈は知りませんが、ともかく一時的な対処法としては有効なようです。」
おれは珈琲牛乳を飲み下してから、
「……そのようですね。かなり、楽になってきた気がします」
と言った。
「それは良かった、お客さんにもちゃんと有用だったようですね。何よりです」
店主がそう言ってきたので、感謝を伝えて話をうち切ろうとしたが、彼が先に口を開いた。
「それともう一つ。」
……他にも、あったのか。どうも『多少』の覚えでは無さそうだとは思ったが、指摘するような真似はしなかった。
「疲れが蓄積しきった際に、そのような状態に陥りやすいと聞きました。当分は早めに睡眠を取られる事をお勧めします。」
睡眠、睡眠か……。そういえばこの所ずっと、成すべき事があったためにその時間を削ったままで過ごしていた。加えていざ床に就こうとも今日の行いの後悔だの明日以降への不安だの、色々が重なって中々寝付けなかったものだから、精々二・三時間程度しか眠れていなかった。
でも今なら……あたたかいものを口にしたら、寝付けるような気がする。こうまで心が穏やかになるなら、きっと……。今晩は早めに眠る事にした。
今度こそ、感謝を伝えようとしたが、
「最後にもう一つ。」
またしてもそれははばかられた。というか、……まだ、あるのか……
驚きつつも店主の言葉を待つ。そう間が空くことはなかった。
「貴方の仰っていた、『大切なもの』『好きなもの』が在るというのは……至極、素晴らしい事です。それらがある限り、貴方が真に終わりを迎える事は決してないでしょう。」
っ……。ああ、やっぱりそうだったのか。おれはいつだって彼らに救われてる……。彼らに、……猫に傾倒している限りはずっと、大丈夫なんだ。
ほっと安心感に包まれる。店主の言葉はまだ続けられていた。
「魔の手の居座っているのは一時的ものです。甘味なり何なりにて奴を追いやったならば、彼らを思ってやればきっと、冷えきった心に温みが舞い戻って来るでしょう。」
随分詩的な表現だった。しかしこの穏やかな雰囲気のなせる技なのか、キザな感じはしなかった。
「私が伝えたい事は以上になります。参考にはなりましたか?」
微笑みながらそう言った店主に、やっと言えると思いながら感謝を伝えた。
「ええ、とても……。その、ありがとうございました」
それだけじゃ足りない気がして、なんとなく、
「また……来ても、良いですか」
口をついて出た言葉がそれだった。
「勿論です」
店主は笑っていった。
店を出る頃には陰鬱な気はすっかり落ち着いていた。一時的に収まっているだけかもしれない。それでも、妙に晴れやかな気分になっていた。それだからか、なんとなくだけれど、……もう、大丈夫な気がした。
「早く帰ろ」
ひとりで呟く。誰に聞かせるでもない、独り言。それでも笑みが零れたのは、まだ僅かに残っていた珈琲の苦味が、『美味しい』と感じられたからなのかもしれない。
*
紫の魂を宿したその青年は帰っていった。視る限りは闇を払うのに貢献することはできたんだろう。
『闇堕ち』
それは精神を蝕まれた妖怪が至る境地。未熟な者は呑み込まれたが最後、正気を取り戻すことなく暴れて回る。
そうなってしまうと厄介で、処理が面倒になる故、前段階で元凶を消し去る……要するに悩みを聞いてやるだけで手駒が壊れるのを防げたが為、成していたにすぎない。
そう、あの頃の癖が残っているだけだ。これは善意なんて崇高なものじゃない。
現にあの青年、闇を完全に消してやる事は出来なかった。所詮は一時しのぎなのだ。あとになってまた苦しむ事になるに違いない……。
完全に取り去る事はしてやれなかった。
もし俺が、陽属性の神であったなら可能だったんだろう。しかし生憎俺はそうではない。
むしろその真逆の……陰属性の、鬼なのだ。
破壊する事がばかりが得意の俺はずっと、誰ひとりとして救えやしない。
そこでふいに先代店主の顔が浮かんだ。
同時に見開かれた目を閉じ、想う。
(先代……貴方なら……)
神でもないのに彼を救えたに違いない。
そう確信できる何かが、彼にはあった。
……彼にできたなら、俺にもいつかはできるようになるのだろうか……?
なんて考えが想起される。
ふっと零れた自嘲の笑み。ああ、なんてくだらない。
後代が初代に敵う事なぞ有りやしないのに。
……そんな事を考えていたら、珈琲が飲みたくなってきた。
先代店主に教わった珈琲。これだけはいつだって美味しい。
人も妖怪も、〝これさえあれば生きられる〟何かがあれば良いのだ。
俺にとってのそれは、今や珈琲と化していた。
客の食器を片付け、俺は自分用の珈琲を淹れる用意を始めた。
しばしの訪問客が去った後のこの店には、俺ひとりだけだった。
一応勤務中の身だが、諌める者はいない。
あの日以来、俺はいつだって独りで……これからもその、筈なのだが。
少しだけその考えに確信が持てなくなってきた。それは、
……あの青年の魂の色が弟のひとりの色に随分と近いものだったから。
弟達にまた会えると、そう信じずにはいられなかったからなんだろう。愚かなものだ。
弟達とは五百年近く前に、死別したというのに。