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    ばじふゆ男性妊娠の前編
    尻叩きアップロード

    #ばじふゆ
    bajifuyu

    胎告【前編】 例えばとある有名な建築家は天井を床に、床を天井にした建築物を作り上げた。言葉の通り天地をひっくり返したのだ。有り得ないことの例えで使われる『天地がひっくり返る』を有り得ることにしてしまった。
     人類は今日まで思いつく限りの不可能を可能にしてきた。雲の散らばる大空を鉄クズの鳥は飛ぶことができたし、知性を作り上げて会話だってできるようになった。でもこれらは偉大な我々人間共が知識の全力を尽くしに尽くして可能にしてきたものだ。神が創りたもうた性別という概念ですら、知識によって今の人間は変えることを可能にしてしまった。
     ここで本題だが、オレはこの人生でそのような知識に縋りついた覚えなど無い。

    「陽性…?」

     不可能を可能にした人物の一ページに『松野千冬』の名が刻まれるのもそう遠くないだろう。




     さて、どうやらオレは今一人の身体ではなくなってしまったらしい。腹に手を当ててみてもこの中に本当に生物がいるとは考えられない。オレの預かり知らぬ所で勝手に命を宿して蠢いていると思うと感動と少しの気持ち悪さを煮込んだ気分になる。

    「驚きました…確かに妊娠しています」
    「あの…ちっちぇのが…?」
    「そう、ですね…」

     最初、冗談だろうという顔をしていた女医に家で試してきた妊娠検査薬を突きつけて呆れた顔で問診から始めてもらった。最後の月経の質問なんか来たことがないですとしか答えようがなく、それに女医も「でしょうね」と吐き捨てていた。当たり前だ。オレは元から女でもなければ性転換手術をした元男でもない、列記とした今までもこれからもただ一つ男のハズだからだ。

    「…おめでとうございます。お相手はわかっているんですね?」
    「はい…。あの人以外有り得ないという人が、ひとり。」

     あのちっちぇ塊が、オレと圭介さんの結晶なんだ。すご…。豆粒みたいにころんって丸まって、中坊の時の圭介さんの脳みそみてぇ。
     とても人とは思えない丸まりに胃から込み上げる嘔吐きを抑えながら女医の話に耳を傾けた。





     オレと圭介さんは約二年ほど前から結婚と同等の契りを互いに交わしあった仲だ。一緒に過ごしていない時間の方が短くなった頃に圭介さんからプロポーズしてくれた。オレとしては現状の関係に悩みを抱えていて、いつか終わるのではないかとナーバスになっていたところで申し込まれた結婚だった。
     捧げられたリングと真剣な圭介さんの表情と言葉に年甲斐もなく号泣してしまった。崩れ落ちるオレを見た圭介さんはギョッとして「嫌だった?」と聞いてきたくらいだ。嫌なわけない、フツツカモノですが。と微笑めば圭介さんは安心してキスしてくれた。
     オレと圭介さんの結婚に唯一反対したのは母ちゃんだった。それは反対とも言えない抵抗のようなものだった。結婚は祝福と共にあらんことだと思っていたオレは母ちゃんのささやかな抵抗に「なんで」と脱力して問うことしかできなかった。

    「千冬、忘れたわけじゃないでしょ?圭介くんにボコボコに殴られて帰ってきた日」
    「なんで、その話は関係ないじゃん…」
    「あるよ。大事な息子を目ん玉歪むまで殴った人と結婚したいって言ってるんでしょう?」
    「それは…あの時本当に仕方が無くて」
    「知らないわよそんなこと!」

     オレはあの日母ちゃんの激情を初めて目の当たりにした。

    「不良の事情も文化も母ちゃんにはわからないわよ…どんな理由があっても自分の息子をタコ殴りにした人を許せるわけないでしょ…」

    大事な私の息子なのよ…。

    「母ちゃん…」
    「母ちゃん、あの日から千冬のことがずっとわからない。…だからね、わかってあげられないからね、結婚は好きにしなさい。」

     激情で強ばっていた肩が柔らかさを取り戻していく。
     すっかり緊張が解けた母がオレを抱きしめて、小さい頃のように丸い頭を撫でてくる。

    「…いいの?」
    「ただし母ちゃんは認めないから、千冬が幸せじゃなさそうならすぐ離婚させる。圭介くんにそう伝えて。」

     母ちゃんの言葉の真意がオレにはよく理解できなかった。何故認められないのに結婚は好きにさせるのか、何故幸せを願うのに彼との結婚は認められないのか、オレには母ちゃんの、母の真意はよくわからなかった。
     あの日、顔がぐっちゃぐちゃになるまで殴られて帰ってきたあの日から、彼が退院して、遊びに来て、付き合って、また遊びに来て、テーブルに彼の分の食事を並べておいてくれた日だって、母は腹の底の火を絶やさなかったのだろうか。

    「母ちゃんに結婚の話してきましたよ」

     圭介さんに母が言った言葉を伝えれば泣きながらオレを守るように抱き竦めた。この人がこんな悲しそうな顔で涙を零すところをオレは見たことが無かった。
     放たれた「ごめんなさい」の言葉は過去のオレへ向けられたものではない。

    「千冬に世界一相応しい人だって、一生かけて証明するから」

     あぁ…この人は本当にカッコいい。何度でも惚れ直してしまうな。絶対に幸せにしてくれるんだろうな。
     アリ一匹入る余裕が無い程きつく抱きしめ合ってその日は眠りについた。




     斯くして、それ程までにオレのことを愛してくれている圭介さんがオレとの子供を喜んでくれないわけがない。きっと100点満点満面の笑みでオレを抱きしめて、唇にもほっぺにも沢山キスしてくれて、まだ出ていない腹を撫でてその場でオレを世界一の幸せ者に仕立てあげてくれるんだろう。早く会いたいって言ってオレのことも子供のことも世界一愛してくれるんだろう。それが全くもって気に入らない。今まで独り占めしていた圭介さんからの愛情を他の人とシェアするのが、我慢ならない。
     デキた日自体は心当たりがある。ちょっと前、お互い仕事が忙しくなる中で、久々に夫婦の時間が取れることになった日。何度も身体を交える中でいつもなら出すたび交換するゴムを最後の方は面倒になってつけずに行為に及んだ。ヤケに彼がしつこかった熱い夜をこの身は覚えている。
     母親ではない、男としての、場地圭介の恋人としての自分の醜い部分がチラチラチラチラしてきて気分が悪い。
     母親ではないなんて当たり前だ。オレはまだガキを孕んだだけの身分にすぎない。母親なんて孕めば勝手になれるものじゃあない。孕むだけなら獣でもできるんだ。ガキが腹ん中いる時からガキと過ごす時間を愛しく思ってやっとなれるものなんだ。
     オレは今愛しく思うどころか、圭介さんからの愛情を奪われることに怯えるばかりだ。世の中の母親はこの重圧に耐えた末に子を産むというのか。正気ではない。

    「う"っ…」

     腹の底から、足先から吐き気が込み上げてくる。これは勘にすぎないが悪阻なるものではない気がするんだ。
     こぅっこぅっとネコがゲロ吐く寸前みたいに喉が鳴って体が揺れる。止まらない嘔吐きに恐怖を覚えて立ち尽くしていたフローリングを蹴る。
     ダメだ、一回トイレで吐いてしまおう。

    「ただいまァ…千冬!?」

     やばい。口押さえて便所駆け込んでるとこ見られちまった。これじゃあ今から吐きますと行っいるようなものだ。あまり圭介さんに心配かけるつもり無いのに。
     向こうからドタドタと建具を雑に扱う音が聞こえてくるがなりふり構っていられない。便座様の前に跪いて目ん玉ごと押し出す勢いで腹に力を込める。

    「ッ…!がっ!お"ぅっ…ッ!」
    「千冬!千冬千冬!おい大丈夫か!?」
    「ふっ、フーっ…う"ッ…」
    「千冬ぅ…千冬ぅ…大丈夫かよォ〜…」

     なんでアンタがそんな死にそうな顔してるんですか。形の整った眉が限界まで曲げられて、今にも泣き出しそう。そんな顔しないでくださいよ、絶対アンタが飛んで跳ねて喜ぶ報告があるっていうのに。
     腹を抱いて背を擦る大きな手に安心しきっていたら抱かれている部分に居座る塊のことを思い出してまた胃液が込み上げてくる。

    「圭介さ…大丈夫、大丈夫ですから」
    「大丈夫じゃない。どうしたんだよ千冬」

     粗方吐き終わって嘔吐感が過ぎ去っていった。腹の塊も一緒に出ていってくれたりしていないだろうか。
     胃液が垂れるオレの口元を圭介さんが泣きそうな顔で拭ってくれた。せっかく世界一カッコイイんだからそんな顔しないでくださいよ。

    「ちょっとガキを孕みまして」
    「冗談言ってる場合じゃねぇだろ」
    「冗談じゃないです」

     カバンの中から貰ってきたばかりのエコー写真を取り出して突きつける。ペラペラの紙に写し出された、どこにあるのかわからない子袋とその中でくるりと巻かさって眠るガキ。圭介さんは写真とオレの顔を二、三度往復してこの世で最も珍妙なものを目撃したと言わんばかりの顔をする。珍妙と言えば珍妙だが。

    「こ…れ、って…」
    「赤ちゃんです。オレの腹にいる、オレと圭介さんの」

     エコー写真を受け取った圭介さんがもう一度オレと写真の間を往復する。最後の往復で一気に綻んだ顔をこちらに見せて、愛情たっぷりに抱きしめてくれた。

    「やべーめっちゃ嬉しい!本当にここにいんの?」
    「ええ、いますよ。確かにオレ以外の生き物がここにいます。」
    「そっか…いつ産まれるんだ?」
    「圭介さん」
    「ん?」
    「産んでほしいですか?この子」
    「当たり前じゃん!」

     この人は、なんの疑いも無くオレも子供も幸せにする気なんだろうな。じゃなきゃこんな堂々と喜べないだろう。
     育ちゆく命を素直に喜べる彼と比べて、自分がこの人を取られたらどうしようということばかり。照り輝く朝日のようなこの人と対照的に自分があまりにせまっ苦しく小さなな存在に見えた。

    「ごめんなさい」
    「ん?」
    「産みたくないです」
    「っえ?」
    「ごめんなさい」
    「なんで?」
    「本当に」
    「子供いや?」
    「すみません」
    「体つらい?」
    「本当にごめんなさい」

     泣き出しそうな圭介さんの声につられて次から次へと涙が止まってくれない。背中を撫でる圭介さんの手が汗ばんで震えている。
     その日は飯も食わず終ぞ泣き止むことも無く、そこにあるのは人が二人重なった形の塊だけだった。

     目を覚ましたとき妙に部屋が明るかった。流れ続ける涙を見た圭介さんがオレをベッドまで連れてきてくれたのが多分午後6時くらい。わからない。昨日は時計を見たって時間を認識する心の余裕なんざ無かった。今が明朝か黄昏か、その違いもわからない。
     目は触らなくてもわかるほど腫れ上がりいつもより視界が狭い気さえした。寝汗をたっぷり吸ったスウェットは恐らく圭介さんが着替えさせてくれたもの。

    「千冬?」
    「ぁ…圭介さん」

     昨日はちゃんと寝れなかったのかな。すごい人相悪くなってる。眉顰めていつもより目付き悪くなってるのに、オレが心配で仕方ないっていう優しい顔。

    「昨日はごめんなさい。手間かけさせて」
    「謝んなよ」
    「はい…」

     横たわっていたベッドに圭介さんが腰掛けて 何か言いたそうに視線を合わせては逸らし、口を開いては閉じてを繰り返している。
     オレの『ごめんなさい』は何に対して?圭介さんの『謝んな』も、なんのこと?

    「なぁ千冬…あのさ…」
    「はい」
    「その…赤ちゃんのさ…」
    「はい」
    「…なんで産みたくねーのかなって」

     なんででしょうね。
     この人に思いの丈をすべてぶつけたとして、幻滅することも呆れ返ることも有り得ないことだとはわかっている。醜く歪んだ、オレが左目を閉じたときの右目の視界のような、そんなぐにゃぐにゃの感情をぶつけたところでこの人が生涯オレを愛すのに変わりはない、が。万が一、億が一のことを考え始めてしまうと謝罪の言葉が口から途絶えない。

    「ごめんなさい」
    「謝んない」
    「オレ嫌なんです」
    「体つらいのが?」
    「ぽっと出の命とアンタの愛情を半分こするのが」

     圭介さんが声にもならない掠れた吐息を漏らしたのが聞こえた。意味がわからないと思う。ワケがわからないと思う。愛し合って体を重ねてデキたってのに、それを抱える母体が夫からの愛情を少しも奪われたくないと歯ぎしりしているんだ。
     幻滅はしていないが、更に理解に苦しむという顔をしている。

    「オレは嬉しいよ、千冬との子供」
    「産んでほしいですか?」
    「勿論。その赤ちゃん、あの日デキたやつだろ?」
    「あの日?」
    「久しぶりにえっちした日」

     骨ばった手が腹を撫でる。丁度出処不明の子袋の辺りを優しく、優しく。ワイルドで精巧な顔が腹にキスを落として臍の辺りで二人の熱がじんわり交わる。これで妊婦さえ笑顔なら美しいマタニティフォトになれたのに。

    「オレ、ずっとずっと千冬との子供欲しかった。あの日も、そう思って何回も出してた。まさか本当に孕むとは思ってなかったケド」
    「…な、んで…?」
    「千冬は優しいからさ、孕んで産めばオレと子供がもっと大切になってもっとオレから離れられなくなるだろ?あ、勘違いするなよ子供は勿論大好きだし大切にする。千冬との子供なんて可愛くないわけないし。…だから孕んじまえ孕んじまえってずっと思ってた。ずっと傍にいてくれる確証が欲しかった。」

     唖然呆然とするのはオレの番だった。

    「苦労かけると思うし千冬が一番大変になるのはわかってる。…赤ちゃんがいると千冬が不安になるのも、わかった。でもオレが子供欲しい理由とかも含めて、もっかい考えてみてほしい」

     愛してる。最後にそう言って唇がふにゅっと触れ合う。瞬きも忘れて、ただ、彼を見ている。「今日は晩飯オレが作るから」と言って寝室を後にした圭介さんの背中に返事を投げることもできなかった。
     突然明かされた自分の知らない圭介さんの一面に、映画のエンディングでも見ているようにぼんやり、ぼーっと閉じていく扉をただ、見た。
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