(泥庭)※現代学パロ 私立学校の構内で用務員として働くピアソンを、目に見えて侮る生徒が多かったというわけではない。ある種制服めいたグレーのつなぎを着て、揃いの色の鍔付き帽子を目深に被り、いかにも人目を忍ぶように、首を竦めてこそこそ歩く痩せた男を見咎めて、敢えて構う生徒などはいなかった。大概の生徒は、彼について特に触れなかったし、それは一般的な態度の範疇だった。
今が盛りと日々自分ごとで手一杯の彼彼女らにとって、否応なく直接関わり合いになる学校の教員はともかく、用務員というのは完全な裏方であり、透明人間にも近い存在だった。うっかり、偶然目なんかが合ってしまって、その存在に気付いてしまったようなとき、大体の生徒は、仕方なく会釈をして誤魔化すか、見なかったことにして黙殺する。それが気に食わないのはピアソンの方だ。ガキが、デカイ面して威張り散らしやがって。教師なんてものは、もっと気に食わなかった。まるで自分を王族が何かと勘違いして、「そこが散らかっている」だの、他人を顎で使いやがる。
日々顎で使われくさくさしながらも、様々な経緯があり今の職に収まっているピアソンには、一人心に決めた相手がいる。それは、この学校の生徒だった。日常の生活苦が染み付いたような胡乱な雰囲気のある顔立ち、左右で色の違う目はお世辞にも「目つきがいい」とは言えず、しかもそれを隠す所作が習慣化していていかにも怪しい。その上、貧相な髭を顎に生やしているピアソンは、新任で入ってくる教師のそれよりも少なからず年嵩で、生徒との「関係」なんてものは、それこそ、「倫理的に問題がある」と糾弾されるに違いない、という程度の認識はピアソンも持っており、彼はそのことをちゃんと胸に秘めていた。一方で、彼はふとしたきっかけから恋に落ちる程度にはロマンチストでもあり、何かと口を挟みたがる外野の並べ立てるようなあらゆることは、愛があれば問題にならないとも思っている。
ピアソンが「彼女」と初めて出会ったのは、今から数ヶ月前のことだ。その日は雨こそ降っていないものの、朝から空は雲に覆われ通して、薄暗く淀んでいた。嵐の前触れめいて風が強く、清掃ルートを余計に行き来しなければならなかった。池に浮いているゴミやら落ち葉を取っては湿ったゴミをポケットに詰め込み、その不愉快な感触に苛々していたピアソンが、猫の額ほどの広さの中庭の、ガラスドームの覆う温室に差し掛かると、そこに、生徒が一人座り込んでいた。
「おい、そこで何をしている?」
ピアソンがそうやって警告めいた調子で声をかけたのは、その生徒が、中庭の花壇と通路を隔てる背の低い柵の内側に入り、庭の植物を触っていたからだ。中庭の植物はピアソンの管轄外だったが、生徒が実習で育てているという訳でもない。
ピアソンの声を聞いた麦わら帽子の彼女は顔を上げると、彼の不機嫌をまるで隠しもしない語調に、そこまで臆することもなく、「部活動なの」と返してきた。そうやって、大して恐れもしないで堂々と言い返されたことがこの上なく気に食わず、頭に血が上ったピアソンは「ガキが、バカにしやがって!」と出し抜けに高く叫びながら、足でその場の地面を蹴った。
「っま、まだ授業中だろう!? それぐらい、クリーチャーだって知っている……!」
見るからにいきり立ったピアソンが唾を飛ばしながら語気を荒くするのを見ると、怒鳴りつけられたその女生徒は、可愛らしいほどの素朴な顔立ちや、そばかすの目立つ頬を白くして、すぐに「ごめんなさい、先生!」と謝ってきた。
「あの、あと、ちょっとで、その、咲きそうだったから、エマ、どうしても気になっちゃって……」
彼女がそう言いながら、花のない鉢植えを、指なし手袋(フィンガーレスグローブ)を嵌めた手で庇うように撫でつつ、蒼白の顔で必死に見つめてくるのにやや溜飲が下がったピアソンは、よく見れば可愛らしい程の若い娘が、目に見えて萎れているものをいっそう怒鳴って萎縮させる気分にもならずに、「……ぬ、抜け出してきたってわけか 良いご身分なこって……」と、ボソボソ独り言ちるに留める。ピアソンの低い呟きに、その生徒が何かを返してくることはなかった。
その時、それまで温室の回りをゴウゴウと取り巻いていた強風が不意に止むと、グラウンドで活動するクラスのない時間だったこともあり、辺りは急に静まり返った。今はもう怒鳴る程の気分でもないし、こうも静まり返られると先程怒鳴りつけた私がまるで子供のようだと、気まずさから目を逸らし声を低く落としたピアソンが、「ク、クリーチャーは、せ、せんせ、せんせい、なんかじゃ、な、ないぞ」とぶつぶつ口籠っていると、先刻と打って変わっていきり立った様子もなく、気まずげに自分の首後ろに手をやっている大人をまっすぐに見ると、「でも、大人の人だから……」と、こだわりのない調子で返した。
その態度に、(よくわかってるじゃないか。)と、ピアソンは思う。この娘は他の生徒(ガキども)と、少し違うのかもしれない。彼女は、「大人の男」を敬う態度というものを持っているし、それをクリーチャーに向けるほどの目がある。
「………そ、その、お前、いや、きっ、君は、」
知らず知らず震えだした唇を苦労して動かして、ピアソンが名前を聞こうとすると、ガスコンロの着火音に似た音を立てて丁度スピーカーの電源が入り、一秒と間を置かずに、チャイムの野暮ったい音が続く。担当教師が欠席したことで「自習」となったクラスから抜け出してきていた生徒はそれに素早く反応し、「いけない!」と焦る息を零しながら立ち上がると庭と通路を隔てる低い柵をぴょんと飛び越え、ピアソンの脇を擦り抜けて、足早に中庭を駆け抜ける。瞬く間に遠ざかっていくその姿に、ピアソンが慌てて「あっ、おい!」と声を投げかけると、生徒は一瞬立ち止まり、膝丈より長いチェックのスカートの裾を抓んで、立ち止まったその場で軽く膝を屈め、目を伏せる程度の簡単な礼をしてから、そそくさと走り去った。
それからというもの、ピアソンは彼を敬う態度を見せた例の女生徒のことをしきりに考えるようになった。とはいえ、手がかりは少ない。何なら名前も知らない相手だった。制服を着ていたから、この学校の生徒だろう、というところまでははっきりしているが、ここはそれなりに規模のある学校だ。「部活動」と言ったからには、放課後にはあそこで活動しているものかと、手が空いた時には中庭を覗くようにしたが、運動部のように連日活動をしているわけでもないようで、例の女生徒は現れなかった。
彼女の名前を聞きたかったし、もう少し話をしたかった。俺はあの時怒鳴ってしまったから、きっと怖がらせただろう。それを謝りたい、とも思った。まあ、紛らわしいことをしている君だって悪いんだから、少しは自分の行動に気を付けろと、注意をしてやる必要もあるとも思っていた。そのために、ピアソンはそれから二日三日と、そうしたところで賃金が上がるわけでもないところを、わざわざ時間を取って敷地内を清掃して回ったり、中庭で座り込んで、彼女が来るのを待ちわびても見たが、どうにもタイミングが悪いらしい。そろそろ、他の手段を使うべき時だろう。
夕方、「っみ、三日前、中庭で、か、花壇を弄っている生徒がいたが、」と、少なくとも彼よりは生徒に詳しいであろう教員に聞いてみると、ピアソンが返却する鍵の管理を担当する中年の女性教員は、「テスト期間中に?」と、欠伸めいた呆れ声を漏らしたかと思えば、「園芸部の生徒ですかね、」と目元に皺の刻まれた無気力な目を細め、叱る先の検討を付けるように返す。ピアソンがさらに続けた、「ひ、一人しかいなかったが、そ、それでも、部活動、なのか?」という問いかけには、「部活動は最低三人からです。」と、的外れな返事と共に、夜間用のスペアキーの束を片手間に差し出す。さっさと話を切り上げたがっていることを隠しもしない(と、ピアソンは捉えた)その態度に、ピアソンの方も、諸々隠し立てしない不機嫌な舌打ちと共に、引っ手繰るように鍵束を取った。
本来、夜間の構内見回りは守衛の仕事だ。守衛と用務員の仕事は、そもそもの性質が違う。だが、日中校門前に詰めているあの守衛を、夜間に歩かせると払う金額が多くなるとか、今の雇用条件を変えて、さらに外部に委託するとなると諸々の手続きが面倒だとか、或いは、元々はこれも守衛に任せていたものの、色々不具合があって雇止めになった経緯があったんだか、とにかく守衛を歩かせるには不具合があるらしく、内製の用務員を代わりに歩かせてどうにかしようということらしい。
要は、人件費削減の一環である。決して上品な経歴の持ち主ではないピアソンがこの職を得たのは、無論、経歴に多少細工や化粧をしたということもあるが、「長期休み期間を除き、ほぼ毎晩「管理員」として、構内の見回りする」という勤務条件を、容易に満たしたからだった。見回りをするどころか、持ち物の少ない彼は、夜間の待機所となる宿直室に、自分の全財産――トランクに入る分だけのシャツと擦り切れたズボン、こまごまとした財布や携帯、ピッキングの道具なんかだけを持ってきて、ちゃっかりそこに住み着いている。
二十時前、見回り前の腹ごしらえをしているところで、宿直室の戸を叩かれた。上下長袖のつなぎの上半分を脱いで袖を腰に巻き、上半身はランニングシャツ一枚というラフな格好で寛いでいたピアソンが、何なんだこんな時間にと、決して愛想がいいとは言えない、鋭い程の目つきのまま出てみると、そこには、紫のリボンを巻かれた白い麦わら帽子に制服姿の、例の生徒が立っていた。
「す、すみません、その、エマ、忘れ物をしちゃったの……入れてもらえますか?」
遠慮がちな娘の声に、割り箸を片手に握ったまま顔を出したピアソンは何も言えないまま一旦顔を引っ込め、握っていた箸をちゃぶ台の上のソース焼きそばのプラ容器に渡し掛けた。続いて、バインダーに引っ掻けた紐を画鋲に掛けて、入り口横に垂らしていた入構者記名リストを取り外すと、いつからそこに挟まれていたのかはっきりしないボールペンを、わざわざバインダーの金具から毟り取って手渡す。
「なっ、なな、名前と、じ、時間、あ、ああ、あと用件を、その、」
「書いてくれ」と、尻すぼみに続けられたピアソンの指示に、彼女は別段訝る様子もなく従った。押し付けられるように渡されたボードを受け取ると、ピアソンが握っていたボールペンを手に取り、可愛らしい丸文字を並べていく。その様から顔を背けるフリをしながら、滑るペン先をジッと目で追っていたピアソンは、記名欄を埋めていく文字をなぞるように、「ウッズさん」と読み上げた。
そこには、いきなりファーストネームで呼ぶのは馴れ馴れしすぎるだろうかという配慮があった。掃除用具で野球をやって宿直室の窓を割ったクソガキなんかであれば話は別だが、彼女は私を「先生」と、年上の男を敬うのに具合のいいやり方で呼んだから。だから、クリーチャーもそれにふさわしいような、それなりの経緯を払うべきだ。大人の男として。それが付き合いというものだろう。
ピアソンに名前を呼ばれたエマは、特段ぎょっと驚いたりするような様子もなく、不快さを態度に表すように怪訝な顔で、ピアソンを睨むこともしなかった。まるで、そうやって名前を呼ばれることを、当然のように受け入れているような彼女の様子に、いい気になったピアソンが口角をにんまりと引き上げながら、続けて「わた、私は、クッ、クリーチャー・ピアソンと言う」と、胸に手を当てながら軽く頭を下げて、存外丁寧なやり方で挨拶をしてみると、今度は、彼女は驚いたように緑の目を丸くすると、急に親し気に話しかけてきた、顔も知らない他人を見るような具合で、ピアソンをまじまじと見つめた。ああそうだ。この生徒はただの入構者で、私に自己紹介をしに来た訳じゃなかったな。期待外れの態度に不貞腐れる心地のまま、ピアソンはうっかり舌打ちをすると、それを誤魔化すようにわざとらしい咳払いを続け、目を泳がせながら、適当な言い訳を探る。
「…………じっ、自分の、な、なまえ、名前ばっかり、し、しら、知られてる、って、いうのは、さ、その、きき、き、気分が、よ、良くないだろう?」
汗ジミのあるランニングシャツの肩ひもを握りながら、居心地の悪そうに胸元を引っ掻きつつ早口にそう言い募るピアソンを見て、エマはそれまで強張らせていた頬を緩めると、ふっと微笑んだ。そういう性質の人だと、納得することにしたのだろう。花の綻ぶように笑いかけられたピアソンの方は、喉に何か物のつまったような心地になって、ひどい顔色のまま、ふいと背を向けたかと思うと、生え際から額まで溢れ出してきていた汗を手の甲で拭き、その手をひらひらと乾かした。続けて、先程湯切りをしたばかりのインスタント焼きそばを放置したまま、卓上に転がしていた懐中電灯を手早く掴み、それをとりあえず口に咥えながら、急ぐ手で腰に巻き付けていた袖を解くと、そこに袖を通して、作業着の体裁を整える。
それから、日頃は間違ってもしない仕草で襟元を整え、帽子を二度三度角度を変えて(しかし結局は、色の違う目の片側を隠すように目深に)被り直したピアソンは「……じ、じゃ、じゃあ、い、行こうか。」と、妙に畏まろうとした分奇妙に裏返った声で言いかけた。(時間外の入構は管理員に従うように規定されているから、まあ当然なのだが、)エマは大人しく、それも恐縮するように「すいません」と零しながら、ピアソンの後について歩いて来た。
ただでさえ暗い夜の校舎は、懐中電灯で足元を照らしながら進むと、照らされていない部分の暗さがひときわ際立つ。窓を閉め切っているせいで空気が澱んでいるくせに、日頃人いきれに蒸しているところから一転して、人の不在を強調するような肌寒さがあった。
照らされたところだけ深い緑色がかって見える廊下を歩く途中、話題はないが、そうやって黙り込んでいるのにもむず痒くなったピアソンが、「あ、あんた、その、そのさ、なっ、何を、わ、忘れたんだ?」と、やや今更な感のある質問をしてみると、「お弁当箱を……」と、恥じ入るように控えめな声が返ってきた。
「エミリーと……その、仲良しの子と、お弁当をね、交換っこしたの。だから、絶対に綺麗にして、明日には返したくって……」
「へぇ、……」
続けて時間外入構の理由を改めて述べるエマの声に、殆どため息のような上の空の相槌をうちながらぼんやり歩くピアソンが想像したのは、エマが調理実習で使うようなシンプルなエプロンを身に着け、彼が想像できる程度に簡素な――それこそ、一口コンロが付いた宿直室の流し場なんかで弁当を作っている光景だった。
「クロッカスなの」
階段をのぼりながら、妙な妄想に浸ってぼんやりと先導するピアソンを、エマの声が引き戻した。彼女も状況に多少慣れたのか、先程よりも恐縮する様子は薄く、寛いだような声だった。まだ妄想冷めやらぬピアソンが、その分穏やかなトーンではあるものの、「うん?」と聞き返すのにも臆さず、エマは「花の名前なの」と、気取りのない調子で言う。
「前に、中庭でピアソンさんに怒られちゃったでしょう。あのとき見てた花がね、昨日、ちゃんと咲いたのよ。」
花なんか水をやってれば咲くものじゃないのか、何をそんなに気を揉むことがあるんだ。というのが、ピアソンの率直なところだったものの、そう言って揶揄るには、彼の舌の回りはどうにも悪い。ピアソンが何かを言おうとして口を開けずにいるのを気に掛けず、エマは何気なくも拳を握り、少し気持ちの入った調子で、「本当はね、遅くても、四月の頭には咲くんだけどね、なかなか咲かなかったの。」と、クロッカスの経過について語り続ける。
「駄目になっちゃったかなって、ちょっと思ったんだけど……でも咲いたわ! 良かったの。」
「……そそ、そ、そうかい。じ、じき、じきに、六月になるってのに、ず、随分、のんきなことやってたんだな、そっ、その、種は……」
ようやく口を開くことに成功したピアソンが続けた言葉に、エマは、「クロッカスは球根から育つ植物で、」というような、園芸図鑑を引いたような文句を返し掛けたものの、ピアソンはそれを骨ばった手を振る仕草で露骨に遮ると、エマがきょとんと口を噤んだのをそれとなく見計らって、「ウ、ウウ、ウッズさんは、さ、その、え、えん、園芸部なのか?」と、場を繋ぐための会話を続けるというには、不自然なぐらいの質問を捻じ込んだ。
「そうよ」
エマは、ピアソンのその態度を不審と見るでもなく、あっさりと肯定する。
「あ、……あそこで、その、はっ、花とかをさ、そ、育てるのか。」
「お花だけじゃないわ!」
「ひ、ひー、ひと、一人で、や、やってるのか?」
「いいえ? エミリーと、マーサちゃんもいるのよ。エミリーはいま受験で忙しいし、マーサちゃんも、掛け持ちとかで色々忙しいから、みんなが揃うってことは、あんまりないけれど……」
「……へ、へえ、そうなのかい。」
「そら、まあ、なんだ、さ、寂しいもんだね」と、薄笑い交じりに返したところで、目当ての教室の前に着いた。
戻りの道すがらに何を口走った(それとも黙り込んでいた)のか、ピアソンははっきりとは覚えていない。その晩も、彼女を出入口まで見送ってやってから、普段通りの見回りをした筈だが、印象に残るようなことは何もなかった。その日の晩について、ピアソンが他に覚えていることと言えば、巡回ルートから外れて立ち寄った中庭の温室で、懐中電灯を片手に彼女が言っていた「クロッカス」を探してみたことだ。いくつかの花がちらほらと咲いていて、どれがその花なのか、ピアソンにはよくわからなかった。スマホで調べてみればいいのだろうが、そこまで頭が回らなかったともいえるし、それほどのことでもないと思っていた。