あなたがゆめからさめるまで(エマエミ)「先生あのね、エマのお腹、膨らんできちゃったの」
エマ・ウッズから出し抜けにそう相談された、荘園唯一の――繰り返される試合が「終わる」まで、誰一人ここから出ることのできないこの場所で唯一の――医師であるエミリー・ダイアーは、エマが普段着にしているツギのあたった緑のエプロンを脱がせ、言われてみれば、確かに丸みを帯び、僅かに膨らんでいるようにも見える――「食べ過ぎた」と言われれば、それはそれで納得できる程度ではあるが――腹部を確認すると、思わず深刻めいて息を呑んでしまったことを誤魔化すように笑顔を取り繕いながら、それとなく“相手”について尋ねてみる。エミリーの質問に対して、エマは「カカシさんだと思うの……」と言うと、恥ずかしがるように俯き、自分の人差し指同士をつんつんと合わせた。
「だって、その、この間、キス、しちゃったから……」
エミリーはその日のエマの“診察”(おしゃべり)をそこそこに切り上げると、丁度試合から戻ってきたところで、衣服からは試合でひっかぶせられた黒いヘドロの臭気を放っているクリーチャー・ピアソンを捕まえた。エミリーの中でこの男が真っ先に疑わしい容疑者として浮上したのは、口先だけで“慈善家”を騙るこの男が、日頃から彼女への性的な関心を隠し立てもしないからであったが、彼は思いの他はっきりとした口調でそれを否定し、「あの売女、誰彼構わず股開きやがって」というように口汚く、ここにはいない彼女を罵りもした。
その断固とした回答に、(エマが「望まぬ暴力」を受けていないというのなら、それが一番喜ばしいことであるとはいえ、)かえって少し面食らったエミリーが、他に誰か「そういうこと」をしでかす相手に覚えはあるか、というようなことを、続けて聞いてみた――何せ、この男がエマの後をつけて歩いていることがあることを知らない招待客(サバイバー)は少ない。彼女に付き纏う第三者がいるのであれば、まずこの男が気が付いているだろうと、エミリーは考えていた――ものの、今や取りつく島もなくいきり立ったピアソンは、エミリーからしてみればおよそ見当違いな怒りに顔を真っ赤にしながら、今にもエマの部屋に怒鳴り込みに行きそうな勢いでエミリーに返事をするでもなく猛然と廊下を進み始めており、慌てたエミリーは丁度試合から戻ってきたか何かで通りかかったオフェンスことウィリアム・エリスに、「あなたにしか頼めない」と言い添えつつ、怒り狂うピアソンを取り押さえていてくれるように頼むと、慌ててその場を離れた。
そして、様子見のためにエマの部屋を訪れ、彼女からの歓迎を受けながら、しばらくドアの方を警戒していたものの、乱暴にドアを叩く音はいっこうに響いてこない。どうやら今この場では、あのスポーツマンがどうにかしてくれたらしい……と、エミリーは彼女から受け取ったハーブティーに口を着けながらほっと一息つきつつ、考える。
(これで、あの薄汚く危険な男のエマへの関心が薄れるのならば、それはそれで結構と思うけれど……なら、一体誰が?)
エミリーの疑念は、時間が過ぎるにつれ予想とは異なる方向から、徐々に明らかになることとなった。
週を重ねるにつれて、彼女の少しばかり丸みを帯び膨らんでいるとはいえ、平たいと言えばまあ平たいと言えなくもないその腹がそれ以上膨張することはなく、エプロンを身に着けていれば全くと言っていい程目立たなかった。彼女が妊娠の話を打ち明けてから数週間経った後、診察を続けるエミリーが、エマのシャツを寛げさせ、その下から白く僅かに膨らんだその腹に直接聴診器を宛がってみても、微かな心音は聞こえない。しかし、エマは可愛らしく素朴な少女めいたかんばせを嬉しそうに綻ばせながら、「ね、先生」と屈託なくエミリーの手を取ると、綿のインナーシャツの下をくぐらせ、直接、柔らかな自分の腹を触らせる。
「今ちょっと動いたの、わかる……?」
エミリーの手に、胎動の手応えはない。しかし、彼女は患者を安心させるような微笑みと共に「ええ、そうね」と言い、患者の言い分を肯定した。
エミリーは可能性を二つまでに絞っていた。一つは、胎児が既に死んでいる可能性。これなら、しばらく様子を観察していれば、自然と胎児が排出される可能性が高い。けれど、排出されないのであれば、薬の服用等外的な刺激によって排出を促すか、場合によっては手術をする必要があるだろう。
もう一つは、妊娠が彼女の妄想だという可能性だった。不安定な状態にある彼女の妄想を頭ごなしに否定することは避けたい。けれど、いつまでも「妊娠ごっこ」を続けさせるのは不健全だとエミリーは思う。
この頃はやたらに腹を庇い、エミリーが気休めに勧めてみた通り、紅茶ではなく白湯を飲むエマは、その様子を見た他の招待客から世間話程度に「何かあったのか」と聞かれると屈託なく自分の“妊娠”の話をする。しかし、彼女を庇うようにその隣に立っていたり、座って彼女の話し相手をしている医師のエミリーが、エマからの出し抜けの告白に面食らった招待客にすかさず、「病状が不安定で、想像妊娠をしているようなの。話を合わせて下さると助かるわ」と耳打ちをする。こうしてエマの「妊娠」の妄想は、一種の聖域、或いは、腫物のようにして、この荘園の中で平穏無事に保たれていた。
「“掻きだして”やったフリをすればいいんじゃないか?」
ある日の試合中、隙なく白粉を叩いた奇妙に若々しい面差しに似つかわしくない疲労の色をうっすらと浮かべながら解読の進捗を進めるエミリーにそう声を掛けたのは、弁護士のフレディ・ライリーだった。ところどころ綻びはあるものの概ね清潔に保たれたワイシャツの襟に馴染んだ調子でネクタイを締めている彼は、前歯の覗く口元をしかし愛嬌の欠片もなく軽薄に歪め、エミリーを嘲笑うようにレンズの奥の目を細めている。
「……彼女は不安定な状態にありますから、」
自分の患者の病状について、しかも素人から無責任な口を出されたことに対し、少なからず不愉快そうに柳眉を顰めたエミリーに、ライリーは白々しい態度で続ける。
「だからといって、だ。いつまでもごっこ遊びを眺めていて、それで良くなるんなら、医者なんて職業は要らんだろう」
きっぱりと言い切るその語調に即座に反応できないのは、エミリー自身にも思うところがあったからだ。
彼女の専門は産婦人科であり、脳外科でもなければ精神科でもなく、心療内科でもない。エマの呈している症状、彼女の迷い込んだ精神という迷宮に対して、何らかの自信めいたものを持って挑めたことは一度もない。彼女の幸福をせめて第一に考え、自分の持てる医師としての知識をもとに、手探りに事を進めることしかできない……。
エミリーが年甲斐もなく唇を噛んでしまいそうになるのを堪えつつ、努めて冷静に手を動かそうとする様子を伺っていたライリーは、これ見よがしな調子で「それに」と言葉を続けた。
「これはおたくの専門だろう? ダイアー先生」
彼女の――エマの、そして、医師として数多の誓いと約束を破ってきた彼女にとって唯一、約束を果たす機会を与えてくれたあの子の、リサの――身の上に、そんなことをするなんて“許されない”と言い返すなんてことは、エミリー・ダイアーにとって、できるようなことではなかった。
ただでさえ不安定な彼女の身の上にそのような“ショッキングなこと”を、ごっこの範疇であってもさせるべきではない。しかし、いつまでも“妊娠ごっこ”をさせて、身体に無用な不可を掛けるわけにもいかないというのは、エミリーの思うところでもある。
これから先、どうするべきかを考えあぐねながら床に就いたエミリーが迎えたあくる日の朝、エマは彼女の部屋にやってくると、規則正しく二回ノックをしてから、小鳥のように可愛らしい声でエミリーを呼んだ。
「先生、朝早くにごめんなさい。エマなの、入っていいかしら?」
目を覚ましていたもののまだ身支度を整えておらず、枯草色のネグリジェという格好だったエミリーが壁に掛けている時計を見ると、七時頃だった。上からローブを羽織り、顔を洗ってから出るかどうか少し迷ったものの、あまり待たせるのも悪いからと軽く目元を拭いながら「どうぞ」とドアに向かって声を掛けると、麦わら帽子をかぶり、もう庭の草木を手入れしてきた様子のエマが扉を開ける。
「あのね、先生。赤ちゃんが行っちゃったの」
白く清潔な朝日の差し込んでくる部屋の中でそう言い出した彼女は、顔色を変えるでもなく普段通りの様子で、柔らかく微笑んでいる。
「親切な人がね、教えてくれたの。『キスじゃ赤ちゃんはできない』って。そうしたら、赤ちゃんが行っちゃった」
そう言いながらエミリーに近づいて来たエマは、少し土のついた手袋をはめたままの両手を伸ばすと、顔にはそれと出さないもののどう反応するべきか迷い、その場に立ち尽くしているエミリーの白い手を取り、それに自分の頬を触らせながら「でもね、赤ちゃんは本当にいたのよ」と、秘密を打ち明けるようにひそやかな声でそっと続けた。
「そうでしょう? エミリー、カカシさんとエマの赤ちゃんは、本当にいたのよ。だって私たち、愛し合っているのだもの……」
かすかに震えている両手に手首をそっと握られ、自分の手の平に頬擦りをされながら、「ね」と、彼女の無垢な若草色の瞳に見つめられたエミリーは、彼女を安心させるために口元を緩め、しかし彼女が感じている喪失に心を傾け、痛みを堪えるようにほっそりとした柳眉を下げながら、穏やかに返す。「ええ、その通りよ。ウッズさん。あなたの……エマと、“カカシさん”の赤ちゃんは、本当にいたわ」
エマはその答えに安心するように円らな目をうっとりと細めながら、ほうと息を吐くと、捕まえていたエミリーの手にいっそう頬を摺り寄せ、最後にその手の平に軽く唇を寄せてから、その手を頬から離しつつも、エミリーのほっそりとして、顔立ちの割には節の浮いているように見える手首を、両手でそっと握ったまま、「あのね、一緒にお庭に来てほしいの」と言い出した。行ってしまった赤ちゃんのことを、お庭に埋めてあげたいのだそうだ。エミリーはそれを快諾しつつ、着替える間だけ待っていてほしいと言い添えた。