「あめひこ」
空が白み始める頃、古論は決まって雨彦の名を呼ぶ。起こす為ではなく、ただその名前を呼ぶだけの行為。
雨彦は吐息のような声で紡がれるそれを聞くことが好きだった。普段の溌剌とした、或いは凛とした姿からは想像もできない、雨彦しか知らない古論の一面だからだ。だから雨彦は必ずその時間に目を覚ますようにしていたし、古論に起きていることを気付かれないよう寝たふりをしたままでいる。
今日もまたそうして眠ったふりをしていると、ふと唇に柔らかな感触を覚えた。
そっと微かに触れるだけのそれは、すぐに離れていってしまう。名残惜しさを感じながらそれでもまだ寝ているフリを続けていれば、古論はもう一度だけ同じ行為をした。今度は少し長く触れてから、離れていく。まるで祈りを捧げるようなそれに、胸の奥が熱くなるような心地を覚える。
「…あめひこ」
今、古論はどんな表情をしているのだろうか。それを確かめられないことを惜しいと思う。けれど、それ以上にこの密やかで美しい時間を壊してしまいたくはなかった。
様々な感情を含ませた柔らかい古論の声を目を閉ざしたまま聞いていると、雨彦は自分が温かいものに包まれているような錯覚を覚える。もしかすると、古論が海に対して感じているのもこんな感覚なのかも知れないなと思う。
やがて満足したのか、古論は再び穏やかな寝息を立て始めた。それを確認してからゆっくりと瞼を開ける。
間近にある瞳は閉ざされたままで、長いまつげが影を落としている。それが何とも言えず美しくて、思わず見惚れてしまう。
「…愛してる、古論」
普段はあまり口にすることのない言葉を小さく呟く。それからまた静かに目を閉じると、雨彦も再び眠りに就いた。