互いの休みが重なる前の日の逢瀬は、もはや馴染んだ感もあって、今夜は壁にプロジェクタで映像の映せる宿泊施設の部屋に身を置いていた。
夜更けに近い時間、軽く夕食を済ませて身を清めて、壁から天井までを見上げるように置かれたローソファーに並んで身を沈める。照明の絞られた部屋は、しかし相手がリモコンでネット配信サービスを繰って選んだ、壁一面に投影されたクラゲ漂う海中の画像で、相対する互いの身体を発光させるようにほの明るい。
部屋の隅に仕込まれているのであろうスピーカーが、ダイバーがプクプクと水中に息を吐き出すかのような、規則正しい音を響かせている。穏やかな立体的な音に包まれていると、自然と意識が緩やかに拡散されていく。
今日はレジェンダーズとして、長丁場の撮影があったこともあるのだろう。気が張っていたのかもしれない。仕事の話をポツポツとしつつ、しかし応じる声が頻繁にクラゲの種別や生息域に逸れていくのに微笑ましくなりながら聞き役にまわる。
やがて会話が途切れて、海中の音が場に満ちる。ゆらゆらとゆらめく淡い光。居心地の悪いものではない沈黙に、相手の気配を隣に感じながらくつろいでいたものの、唐突に、ここぞとばかりに海の話を繰り出してこない相手に異和を感じて隣を見る。
すると、備え付けの寝巻きを着てソファに深く身を沈めた長身が、しかしこちらはどこか物言いたげにこちらを見ている。
どうかしたのかと、安心させるように微笑んで見せて、雨彦は隣に手を伸ばした。すらりとした指先を引き寄せて手のひらで包むようにすると、眠る前のいつもより少し高い体温とともに吐息が漏れる。
「その。……しないのですか?」
んん? と、クラゲのように漂っていた意識が現実に焦点を結んで、雨彦はあらためて相手を見やる。そこにある、どこか所在無げな表情に感情を掴み損ねて、隣の肩に手を回した。
「ん、したいのかい?」
はは。とからかうように笑いながら、隣の肩に腕を回し引き寄せて相手の瞳を覗き込むと、そのつもりで来たのですが。とでも言いたげな顔に見返されて、雨彦は苦笑する。
すでに数えるのを忘れるほどに身をかさねているというのに、普段はまるでそんな匂いをさせない凛としたありように煽られる心持ちがしつつ、しかし今夜はこの穏やかな時間を大切にしたいように思えて、茶化すように告げた。
「毎度毎度というのも、体目当てのようで、なあ」
「おや、違うのですか?」
戸惑うような何の含みもない声で問われて、いったいどういう了見なのかと問いたくなるが、しかし続く言葉に息が詰まった。
「いえ、その、……不要であれば、良いのですが……」
その言葉尻になんとも不穏なものを感じて、雨彦は目を細めた。
「お前さん、……」
うつむけられた顔。
求められることを、まるで何かの証明のように受け取られているのなら、それは違う。
特別な人になって欲しい、と告げて、それを受け入れられたつもりでいたが、どうにもうまく伝わっていないのかも知れない。
「古論」
名を呼び見返してくる顔、長い髪の流れる頬を両手で包んで、そっと引き寄せる。長い睫毛を伏せるさまに軽く唇を重ね合わせると、離れた先で安堵したように微笑まれて、どこか胸が軋む。
そのまま抱き寄せて胸に顔を埋めさせると、まるですがるように抱きしめ返される。
クラゲの漂う浅い海の映像は、やがて徐々に深みへと降りていく。太陽の光射す場所から、あぶくの音を残し、墨を流したかのようにけぶる静謐の世界へ。
「お前さん、一応聞きたいんだが」
俺のことを、好いてくれているのかい。
我ながらまるで不遜な問いかけに、慌てたように胸から顔を上げた相手がこちらを見上げてくる。
「ええ、もちろん!」
焦ったような顔に驚きつつも、もう一度軽く口づけをする。
「相想い、ってやつなはずなんだが」
不服かい? と冗談めかして言えば、曖昧に笑むまま、すみません、と返されて、更に状況が複雑になってしまった気がする。
どうにも、己は素直な物言いが苦手らしい。慌てて率直な言葉を探すものの糸口が掴めず、ずるいような気もするが、そのまま腕の中の相手をあらためて抱きしめた。
映像の中の潜水艇の鋭いサーチライトが、規則的な間を置いて部屋の壁を鋭く照らし出す。
「……今日はちょいと気疲れしたみたいでな。お前さんとこうしてゆっくりしたい気分だったんだが」
それでも構わないかい。相手の耳元でそう告げると、ほっとしたような吐息が漏れた。
「お疲れなのでしたら、私に何かできることはありますか」
よろしければ、よく眠れる波の音を流しましょうか。と、あっさりと腕を解くままプロジェクタのリモコンを探すようなそぶりをされて、動機付けされた目的に一直線な学者肌らしい行動に少し行き違いの理由が見えたような心持ちもしながら、不意に無性に甘えたくなって口にした。
「それじゃあ、ちいと頭を撫でちゃくれないかい」
これも軽口のつもりだったのだが、わかりました、お任せください! と嬉しそうな顔をして、クリスはこぶしで自分の胸元を叩く。なんだと思う間に、背に両腕を回され引き寄せられて、先ほど自分がしたことを真似るように、その胸に顔を埋めさせられる。
かがめた体勢を整えきれぬ間に、シャワーを浴びて乾かしたままの髪を撫で付けるように、あたたかな手が己の頭を繰り返し撫でる。
「雨彦は、前髪を下ろすと少し幼く見えますね」
目を見張るまま、目線を上げる。物心ついたころから図体が大きいせいか、ほんの子どもの頃をのぞき、思い出す限りそのようなことを言われた記憶はない。
相対するようにうつむく相手の眼差し。
深海に移り変わっていくプロジェクタの映像、淡い反射光を受けて嬉しそうに微笑みながら告げられた言葉。これも己の仕草の真似をするように、愛おしむように額にそっと唇を押しつけられて、裏表のない純粋な信頼の情が流れ込むのを感じる。
「雨彦……?」
戸惑うような声を耳にして、知らず己の目から涙がこぼれたのを知る。
自分でも説明できない状況に、ああ、すまない。なんだろうな。と、呟きながらソファの上で姿勢を正そうとするが、押しとどめるように相手の腕に絡め取られた。
「感情が動くと、そのようなこともあるかと」
お前さんは感情豊かだからなあ。と応じる間に、目尻に唇を寄せられて、涙の滴を舐めとった唇がささやいた。
「海の味がします」
ひどく優しい声音で囁く想い人に、まるで全てを暗がりを染め抜くかのような安堵が胸を満たし、喉がつまるまま、そうかい、と瞼を閉ざす。
相手の胸に抱かれ、片耳を寝巻き越しの胸に当てて鼓動する穏やかな心臓の音を聞きながら、雨彦の意識はあたたかな薄闇へと沈んでいった。