「君は神様らしいよ」
「……は?」
汚れたシーツを取り替えて、風呂に行く体力は残っていないこの身体を優しく拭きあげて。その最中だった。右腕をとり、細すぎるそれに濡れタオルを滑らせていた彼の手が止まる。
「何の話だ」
「さっきまでのパーティの話だよ。ほら、小さなレディがいただろう?」
「……あぁ、あそこの令嬢の」
「そう。お兄さんがまだ外に出れないからって連れてこられていた彼女さ」
止まっていた手はその動きを再開させ、肘から手首までをするりとなぞった。手のひらに触れたそれが指を一本ずつ丁寧に拭っていく。最中はほとんど何もさせてくれないせいで、この手はほとんど汚れていないというのに。まぁでもベッドがひとつしかないこの部屋では共に眠るしかないのだし、そうなると潔癖症の彼は汗の一滴でさえも残したくないのかもしれない。変に義理堅くて優しくて、だからソファーに追いやるなんてこともしてくれないし。
「あそこのお兄さんさ、病気だったんだって」
「知っている。快方に向かっていることもな」
「じゃあなんで彼女が君を『神様』って称したのかくらい分かるだろう?」
タオルを当てられていた右腕が解放されて、今度は反対側の左腕を取られる。同じようにするりと滑っていくそれがくすぐったい。触れられた場所もそうだけれど、触り方がそれの最中と同じように酷く優しいから思い出してしまうのだ。肉と骨に守られたその臓器がぞわぞわする。それが、なんだか落ち着かない。
「レイシオ」
「なんだ」
「僕は君と、結構長くこういうことを続けているわけだけどさ」
また手が止まる。ゆるりと向けられた赤色は雄弁だった。いつもは饒舌であるはずのそれをかなぐり捨てた沈黙。けれど彼が言いたいことは痛いくらいに、わかる。
「あの子が、『神様』と元奴隷の死刑囚がこんなことをする仲なんて知ったらどうなるかな」
卒倒するかも。いや、まだ性というものには触れないくらいの歳の子だったから、ただ首を傾げるだけかもしれない。親からの情報規制にだってまだかかっていそうだ。それを告げたアベンチュリン側が犯罪者として判断され、独房にお世話になるかもしれない。
「『神様』が僕みたいなのを好き勝手に使ってるなんて知ったら、っんむ」
目の前で吐き出されたため息。それは彼の心情を如実に表していて、しかしアベンチュリンが言の葉を紡いでいる最中に塞がれてしまった。触れ合うだけの戯れ、と思っていたらぬるりと熱いそれが入り込んできて舌をなぞる。あ、おい。
「ンぁ、ぅ……っ」
逃げようと身体を引けばそのままベッドに上半身を落とされて、そのうえ口は解放されない。角度を変えて合わさって、肉厚の彼の舌が歯列、上顎、そして奥に逃げた舌をまた捕まえて、吸い上げて。
「れ、いしお!」
流石に呼吸が続かなかった。鍛えてはいるものの彼のように体格がいいわけでも、こういうことの対処に慣れている訳でもないのだ。流れるように行為に持ち込むような彼とは違って。唾液にまみれた唇をぺろりと舐めながら見下ろしてくる、手馴れた彼とは、レイシオとは違って。
「なんだよ。ただのピロートークで暇つぶしの会話だろう、こんなの」
その瞳は雄弁だった。まるで不機嫌ですと口にしたのでは無いかと思えるくらいのそれ。だからそれに答えるように、アベンチュリンは言葉を紡ぐ。子供を話題に出したのがいけなかったのだろうか。教育者という立場も持つ彼だから、そこに何か思うところがあったのかもしれない。それなら悪いことをしたとは思うが、だからといってこの仕打ちを受ける理由にはならないだろうに。
「ピロートークの話題にしては不適切だな」
「それなら君が話題を提供してくれよ」
「少しは黙れないのか」
「無理だね。誰かさんがずっと口を塞いだりしゃべれるくらいの余裕を残してくれなかったりして、鬱憤が溜まってるのかも」
げし、と乗っかってきた大きな身体を蹴ってやれば、その足すら捕まえられて布団の中に押し込まれてしまった。何も纏っていない肌に柔らかなシルクの布団が心地いい。寝かせにかかっている。あぁもう、腹立つ。
「別に彼女じゃなくたって、あの薬を使った人には君が神のように見えてるだろうさ。薬を開発するのなんて初めてじゃないし、神聖視されるのだってそう珍しいことじゃないだろう?」
「……確かに、僕を神の如く崇め奉ろうとする人がいなかったわけじゃないが」
布団がしっかりと肩までかけられる。レイシオの低い声が耳朶を打って、それがまるで眠りへと誘うようにも感じてしまう。事実、疲れてはいるのだ。この行為は体力を使うし、彼はそれなりにねちっこいし。いや、それを拒絶せずに受け入れてしまっているアベンチュリンもアベンチュリンなのだけれど。
「僕は決して神などではない。そこまで高尚な存在でもなければ……君と同じ、この地を踏んで生きているただの凡人だ」
すぐ近くでベッドが沈んで、彼がそこに横たわったことを知る。けれど背中をさする手のせいで目が開けられない。きっと至近距離にある赤は、紫は、きっと綺麗で見ごたえがあるのに。うと、うと。起きていたいのに、まだ話していたいのに、それを拒むように意識が少しずつぼやけていく。
「ひと、かぁ」
「そうだ」
「……まぁ、そっか」
まぶたは完全にくっついていて、もう開くことはできないだろう。彼のかんばせは明日にお預けのようだ。でも、これだけは言わなければならないと、思って。だってレイシオを『神様』だって誰かが言うのだ。『神様』を知らない誰かが、その存在を彼に勝手に当てはめる。
そんなのは、嫌だ。
「きみが、」
神なんて誰も助けてくれやしないのだ。ただ見ているだけで、人を上から勝手に観察しているだけで、そこで誰が泣こうが喚こうが手を差し伸べてなんかくれるわけもない。この地に立つものだけが、ここで抗うものだけが、それを無視できない人だけが、こうやって藻掻いて何かを残す。
「かみさまなんかじゃなくて、よかった」
語らい、触れ合い、共に生きれる。そんな人で、本当に。言葉になったかどうかも分からないそれを残して、アベンチュリンは誘われた夢の世界へと旅立っていった。