それは、遠い昔になくしてしまったものだった。日中は熱すぎるくらいなのに陽が落ちると途端に寒くなって、そんな中で口にする薄味のスープ。具材なんてほとんどない、いっそ湯を沸かしただけといってもいいくらいのものだ。けれどそれを飲みながら過ごす日々は決して地獄なんかじゃなかった。血のつながった家族がいて、二人でそれを飲みながら他愛もない話をする。明日がどうなっているかも分からないのに、それでも確かに満たされていた。
地獄というのならその後、そんなたった一人の家族を亡くした時から始まったものだろう。どうして生きているのかも分からない、どうして死ななかったのかも分からない。ただこの『幸運』のおかげで生きながらえていて、この『幸運』のせいでまだあのオーロラの下には行くことができなくて。でも『幸運』以外にも、一族全員の命がこの生の土台にあるのだ。だからそれを自ら手放すなんてあってはならない。そんなことをしたら、オーロラの元で再会するなんて夢のまた夢だから。そんなことばかりを考えて、死ねなくて、ずっと生き続けて。
「どうした?」
「……ちょっと、思い出してたんだ」
「……気分が乗らないならやめておこう。別に、僕は君にこれを強制したいわけじゃない」
「えぇ、嫌だよ。ねぇ教授」
しようよ。そう口にしたって、薄暗がりの中にいる彼は眉間に皺を寄せたままだ。失敗したなぁ、とどこかで思う。彼はこの行為においては、何故か酷く消極的なのだ。潔癖というのは知っていたから行為自体があまり好きではないのかと思っていたけれどそうではないようで、ただこの身体に触れることを酷く恐れている、というか。遠慮しているとでも言うのだろうか。何となくそんな気がするのだ。
だからなるべく、彼の気を削がないようにと気を付けていたのだけれど。もう両手じゃ足りないくらいにはこれを繰り返していたのもあって、少し気が緩んでしまったのかもしれない。目の前に彼がいる状態で、押し倒されている状態で、こんなことを考えてしまうくらいには。
でも、だってずっと夢見心地だった。奴隷からカンパニーの犬になって、幹部にまで上り詰めて。でもそこには別に、安寧なんて存在しなかった。確かに死と隣り合わせのような日々からは脱却できた。この命を、幸運を物のように扱い、それを高みで見物する主人もいなくなった。いや、形を変えて上司という名前で今もいるのかもしれないけれど、だとしても奴隷時代とは比べ物にならない好待遇だ。そんな中で彼と、出会って。
この身体はずっと道具だった。『幸運』もその道具の一部でしかない。別にその通りだったし、アベンチュリン自身も自分をそうやって使うことがしばしばあったから気にしていなかった。けれど、それを見た彼が言ったのだ。無駄に長くて厭味ったらしい言葉で、その言外にいろんなものを含ませて。
「……最初はさ、レイシオ」
ただ、やり方が気に食わないだけだと思ったんだ。こちらを気遣うように触れてきた手のひらを捕まえて、その温かさに頬を寄せる。事実、やり方は気に食わなかっただろう。彼は誰であろうとその命を粗末にするようなやり方は好まないし、一か八かのギャンブルよりも堅実な方法を選ぶ。今までアベンチュリンのやり方にケチをつけてきた人も同じようなことを言っていたし、彼も同じだろうと最初は思った。こんなやり方でのし上がったところで利益は出ても信頼は得られない。ただ身の破滅を呼ぶだけだ、と。
同じだった。けれど他の誰かと違ったのは、彼がそんなアベンチュリンの手を決して離さなかったということだ。死の淵に足をかけて身を乗り出しても、どうしてか彼はその手を掴んで引き戻してしまう。一緒に落ちる危険性だってあるのに、それでもちゃんとこの身体を引き留めてくれる。
「……最近、さ」
吐露すれば、レイシオの赤色が見開かれた。だって仕方がないだろう、本当にそう思ってしまったのだから。あの砂漠で飲んだスープのようなものを、それを一緒に飲んでいるような感覚を、彼に感じてしまったのだから。
「僕みたいなギャンブラーが、って笑うかい?」
「そう思うのか」
「あはは! 思わないから、ほだされてるなぁって思うよ」
レイシオの巨躯が上から降ってきて、だからそれをベッドのスプリングと共に抱き留めた。実際はそこまで体重がかからないようにしてくれているのだろう。密着しているというほどの彼の体温は感じないし、押しつぶされるような息苦しさもない。
ここは砂漠のど真ん中じゃないし、薄い布一枚しかないような寒い夜でもない。血のつながった家族はもう一人もいない。そもそもこの瞳を持つのが、エヴィキンという名を冠せるのがもう自分だけなのだ。あの時共にいた人たちは皆、あの砂漠の下に埋まってしまった。
けれどここには彼がいる。レイシオという優しい優しいお人よし。そしてそんな彼が宇宙ステーションから引き取ってきたおかしな生命体たちが、今はきっと三つ隣の部屋で寝息を立てているだろう。あの時はペットなんていなかった。一緒にいたって死なせてしまうだけだったし、そもそも食料を持たない人のところに小さな生命体は住みつかない。
スープだって、今日は彼お手製のポタージュだった。水だなんてもっての外で、たくさんの具材を混ぜて砕いて濾して、たくさんの手間がかった誰が飲んでもおいしいと言うだろうスープだ。その全部が違う。あの時のアベンチュリンとは、そもそもアベンチュリンですらなかったあの頃とは、同じところを探す方がおかしいくらい。
なのに、同じなのだ。ただの作業だったこの行為が好きになるだなんて思わなかった。夜がこんなに温かいだなんて思わなかった。もう二度と、そう思うことはないだろうと思っていた。
「君の、」
「うん?」
「君が言うその『幸せ』の一助になれていたらいいと……心から、思う」
あぁ、なんて馬鹿なことを言うのだろう。だってそれはレイシオなしでは絶対に得られなかったものだ。彼がいるから、彼がいてくれたから、彼が手を離さずにこんな命に対して「生きろ」と、言ってくれたから。
「今君がここにいて、今僕が幸せだなぁって……そう思ってるのに?」
くっついたままの彼を抱きしめれば、まるでそこから抜け出すように身を離した彼がすぐに唇を重ねてくれた。あたたかくて愛おしくて、たったこれだけで溶けてしまいそうなほどのそれ。やっぱりあの時とは全然違う。こんな風に触れてくる人はいなくて、逆にこうやって触れてきた誰かには嫌悪感しか抱かなかった。彼だからだ。レイシオだから、あの時と同じこの温かさを感じられるのだ。
ゆっくりと夜は更けていく。その温かさで包み込み、アベンチュリンという一人の人間をこれでもかというほどに満たしながら。