Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    海乃くま

    @kumasea777

    好きな物をかいています。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 🐻 💮 🌛
    POIPOI 3

    海乃くま

    ☆quiet follow

    晶くんオンリー「ひかる星々の名前を教えて4」展示作品です。
    冒頭に注意事項がありますので、目を通してから閲覧していただけますよう、よろしくお願いいたします。
    数日公開のち、後日pixivに掲載予定となります。

    フィガ晶♂【美しい事象】+都合よく色んな改変があります。
    +設定は自分に都合よく捻じ曲がっています。
    +不穏な空気になりますが、ハピエンです。
    +好きな物を詰め込んだものです。
    +何でも美味しく頂ける人向けです。




    俺が魔法使いだったなら、綺麗な石になった貴方を一欠片も残さず食べてあげられたのだろうか。



    【美しい事象】



    何度も夢を見る。
    巨大な月を抱く魔法と混沌の世界。壊れかけた世界の夢だ。
    白昼夢や幻覚と言われればそうかもしれない、と俺は笑うのだろう。だってあの世界の事は今はもう微かな夢としか思い出せないものだったから。確かに過ごした記憶はここにある。あるのに俺の手元にそれを証明するものは何一つ残されていない。慣れないペンを握って書き記した賢者の書も、そのために出来てしまった利き手のペンだこも綺麗さっぱり無くなっていた。身に付けていたものは愚か、記憶すらも日に日に少しずつ抜け落ちてしまう。記憶すらもお前のものでは無い、と言われているようで恐ろしくて悲しくて、悔しくて、寂しい。

    気が付いたのは新月の夜。道路に立ちすくみ、目の前から消えていく一匹の黒猫のしっぽを呆然と見送ったあの夜。月明りのない夜なのに街灯に照らされた路地は明るく、無機質で冷たいと思った。冬の直前の夜空は澄んでいて、だけど星の明かりなんてほんの僅かしか見えなくてそれがまた悲しくて俺は少しだけ泣いた。
    泣いたところで足はちゃんと自宅への道筋を覚えていたし、自分が仕事終わりにとぼとぼと帰宅していて途中の道で猫を構っていたってこともちゃんと理解していた。同居する二つの記憶と意識は混乱しそうな物なのに、どうしてだか冷静に今自分が置かれている立場と場所と、時間を分かっていて妙な心地だった。踏みしめる石畳もない、命を奪うような突き刺す冷たさも、じっとりとした雨のふる街の匂いも、のんびりとした柔らかな空気の匂いも何もない。これが俺の世界で、俺の本来いるべき正しい場所であると認識しているのに、体を動かして心臓が動いて血液を送り出し、全身を駆け巡る脈動するそれらを感じる事が出来るのに異物感が拭いきれない。最初は俺の存在こそがあの世界で簡単に押しつぶされてしまえる異物だった筈なのに。何時の間にか馴染んでいたのだと言う事を認識した。あの世界が恋しいと思う程に。


    それほどまでに恋しかった世界が、出会った人々が、魔法使いたちの記憶がぽろぽろと零れている事に気付いたのは何時の頃だっただろうか。確か調理中に、  が作ってくれた料理はおいしかったからどのように作っていただろうかと思い出して、芋づる式に彼の食事を好んでいた  の事を、揉めては食堂を飛び出していく様子を反芻して一人でくすりと笑って、どうしようもなく空虚な心を収めていたと言うのに。昨日まで確かに思い出せていた事が出てこない。背中にひたりと張り付く冷たさに息を飲んで、慌てて彼らの名前を口にしようとした。なのに、分からなかった。
    確かに触れ合った、傍にいた、助けてもらったし、心をほんの少しだけ通わせる事が出来た。それなのにその面影も、詳細な言葉も今の俺には思い出す事が出来ない。喪失は突然で酷く恐ろしい。そしていずれはその恐ろしさすらも、自分が何かを失った事さえも分からないまま日々の中に溶け込んで忘れ去ってしまうのだ。ひ、と小さな悲鳴が喉の奥から絞り出される。彼らの、名前すら。

    辛うじて覚えている事を必死にノートに書き留めたのは、それを読み返す事で少しでも延命措置にならないかと思ったからだった。記憶が零れていく、取りこぼされて、指の間からぽろりぽろりと。砂のかけらを零さぬようにと必死になる俺をあざ笑うように思い出は曖昧に溶けていく。せめて今残っているものだけでも、と三日三晩かけて何の変哲もないノートに書き留めてた思い出は、書き記した傍から失われていくようで寂しくて悲しくて涙が溢れてしまった。それなのに書いていけば書いていくほど涙も胸のざわめきも収まって、落ち着いていく。この世界に馴染んでいく、記憶が抜けて落ちて行く度にその時に感じた思いすらも失っていくようだった。曖昧になっていく記憶をかろうじて反芻しながら、彼らもそうなのだろうかと思った。賢者が世界を去り、賢者の顔も名前も曖昧になり残した言葉の断片や少し残るだけ。そうして次の賢者を迎えて……そういうサイクルで、システム。システムからはじき出された自分は、その記憶を持つ資格も無いと言われているようだった。

    思い出せるものすべてを書き記して、空っぽになった心のままで俺はぼんやりと文字列を追う。
    何か、もっと大切なものを書き忘れてしまっているようでならなかった。苦しくて叫び出したいのに、頭の中を必死にかき回して探して探して、それでもつかめない何かがまだ残っている。決して忘れてはいけない、忘れたくないと強く願った事だった筈なのに。どれだけ絞り出そうとしても言葉も、何も浮かんでは来ない。消えそうに儚い残滓だけが漂っている、細い糸のような風に吹かれていまにも目の前から消えてしまうような意識していなければ、その朧げな感覚すらも失ってしまう気がした。掴んでいなければ、握りしめて居なければ。その最後の糸すら手放してしまったら、今度こそ自分からはすべてのものが失われる、そんな予感だけがあった。




    焦燥と不安が俺を導いてくれたのかもしれない。
    空虚さすらも薄れ始めた満月の夜に、俺は夢を見る様になった。
    壊れかけた曖昧で不完全で、だからこそ美しい世界を。はじめは朧げだった夢の中の風景は日に日に明確に、色を持って生き生きとし始めた。次にそこに住まう人々の息吹を、気配を感じるようになった。夢の中でも俺はやっぱり異物で、幽霊のような不確かな存在のようだった。まず魔法も何も使えないのに宙に浮いている。それから俺の姿を誰も認識できない。肩を叩こうとしても触れている筈なのに相手は反応すらしない。不思議な夢だった。
    それでも忘れてしまった記憶を一つ一つ、頁をめくるように一枚ごとに思い出せているようで俺は嬉しかった。何度も歩いた魔法舎への道、パレードをした中央の通り、買い物の為に足を延ばした市場。溢れる程の思い出を景色と共に一つ、また一つ取り戻していく。目が覚めれば曖昧になる記憶も、夢の中では当たり前のように刻まれて積み重なっていく。不思議な事にいつもその世界は夜だった。厄災に照らされた美しい夜。光の筋が導くように行き先を照らしてくれる。
    そうして俺は彼らの姿も名前も思い出す事が出来た。目が覚めたら呼べない名前を、夢の中では声にならない声で叫ぶ事が出来る。世界から弾かれてしまった自分が、イレギュラー的にこんな夢を見て居られる事こそが奇跡だと感覚で理解していた。景色の端々にいつも彼らがいた。だからそれらの光景を見れば自然と思い出が引き出されていく。

    夢を見る。
    目を閉じれば俺は魔法舎の片隅で、ふわふわと浮いている。
    はじめは魔法舎の中に足を踏み入れる事に戸惑った。そこに彼らの姿が無ければきっと俺は落胆しただろうし、賢者の部屋に誰かがいたらと思うとどうにも息が詰まるような苦しさを覚えたから。その感情に名前を付けるのも恐ろしかった。だから暫くは夢の中で魔法舎を離れて五つの国を見て回った。そうすれば任務で訪れた事も、交わした言葉の断片も少しずつ胸に降り積もっていったから。
    けれどこれは俺の都合の良い妄想なのだろうから、妄想でくらい彼らの姿を見てもいいじゃないかと自分に言い訳をする事にした。要するに俺は寂しさに耐えられなかった。そこに居るだろう確信はあった。気配が雰囲気が彼らがそこにいると教えてくれていた。だから吸い寄せられるように魔法舎の中へと足を踏み入れた。そうして俺は何物でもない傍観者として、部屋の片隅で彼らの毎日をこうして妄想しているのだ。

    彼らは今も賢者の魔法使いのようだった。
    揉め事も多く大変だった共同生活も、なんだかんだでうまく回っていて用事だ任務だと時折留守にする事はあれど気が向いたら魔法舎へとやってくる。そうすれば関わりが生まれ言葉が交わされ、関係は繋がっていく。

    けれど臆病な俺は賢者の部屋にはどうしても入る事が出来なくて、彷徨った結果見慣れた扉の中へと滑り込んだ。それが数日前の事。
    見慣れた部屋の中で白衣を纏った彼は机に向かって何か書き物をしていた。その背中と形の良い後頭部を眺めているだけで不思議と心が凪いで落ち着いてくるのだ。静かで穏やかな空間の中、時折立ち上がって薬品の入った瓶を整理したり、休憩がてら紅茶を飲んだりする。そして部屋にやってくる子供たちの相手をしたり、そうかと思えばこっそりとお酒を飲んでいるのがバレかけて慌てて隠したり。そういった事をする。それを部屋の隅で浮かんだまま眺めているのが好きだった。眠る度にここにやってくる。数日前からずっとそう言う事を繰り返していた。真剣な表情が緩む瞬間も、寂しげに笑うところも、誤魔化すように表情を取り繕うような所まで鮮明に思い出せた。そして夢の中でそれを垣間見て、記憶の中の彼を補完していく。俺は彼の事がとても大切だった。
    もちろん賢者の魔法使いとして自分を支え、時に励まし、叱咤し共に歩いた彼らすべてが大切で特別だ。けれど彼の事は、自分にとってベクトルの違う大切のカテゴリに入ってしまった。こうしてただじっと見守るだけでも十分満たされると思ってしまうくらいには。

    作業に一区切りがついたのか、彼はぐっと腕を伸ばして肩をぐりぐりと回している。凝り固まった筋肉をほぐしているのだと教えてくれた事を思い出す。年かもねと笑った声も夢の中では簡単に思い出す事が出来る。
    微笑ましくその様子を眺めていた筈だったのに、立ち上がった彼は少し考える様な素振りを見せてから振り返った。不思議な光彩を持った瞳が俺を見つめているような錯覚に陥る。彼には見えていない筈なのに、じっと見透かすように。その視線には酷く覚えがあった。まだ彼と合って間もない頃に向けられたもの。相手を見極めるように、その内に孕んだ真意を見透かしてやろうとする瞳。ぞくりと寒気すら感じる程の鋭い視線は、しかしほんの少しの間をおいてすぐに逸らされた。当然だ、きっと彼の目には何も映っていない。
    首を傾げてから部屋を出て行った彼の、肩から掛けられた揺れる白衣の裾の動きを思い出しながら息を吐いた。
    見ていられるだけで幸福だ。
    けれどその瞳がこちらを向いた時、言いようのない高揚が全身を駆け巡った。もう二度と交わる事のない視線が絡んだような気がして。酷く大切で、忘れたくない忘れてはいけない思いは彼に向かっている。途切れそうな細い糸の先。そこにいるのが彼だった。

    フィガロ、と名前を口にした。
    そうして俺の意識は遠のく。それは夢の終わりを示していて、幸福だった時間の最後を告げるものだ。二度と手に入らないものを夢で補填して、誤魔化して。きっといつかは終わりが来るのだから、それまでの間幸福な夢を見る事を誰でもいいから許してほしい、と今日も俺は願っている。




    眠りに落ちる感覚は、水の中へ沈んでいくのと似ている気がする。
    夜の魔法舎は案外賑やかだ。ただ今夜は多くの部屋が空室でいつもよりずっと静まり返っている。ふわふわと廊下を移動するのも慣れた物だ。夢を見る様になってもう随分長い時間が経っているように思う。するりと扉を抜けて部屋に滑り込んだ。
    きっともう空気だって随分冷たいだろうのに、照明を落とし窓を開け放した薄暗い部屋の中で、フィガロは静かにグラスを傾けていた。弱い月明りに照らされた彼の顔はぞっとするほど美しく、どこか儚く見えた。口をつけては舐めるように酒を飲み、ぼんやりと窓の外を眺めている。月に心を奪われている訳でもなく、心をどこかに置き去りにしてきたように寂しげで静かな佇まいに心臓がちりちりと痛む。

    俺が覗き見し続けたこの世界は、穏やかで拍子抜けするほど平和だった。小さなトラブルやいざこざは日常茶飯事のようだったが、それなりの事件は起きても命がけの討伐も、きな臭い戦争の気配も感じられない。たぶん俺が望んだ平和で静かな毎日。人が人としてその国で生き、魔法使いたちが穏やかでけれど楽しく日々を過ごせるようなそんな世界。フィガロの部屋に血まみれの仲間が運び込まれる事も無く、おどろおどろしい予言に震える事も、目をそむけたくなるような場面に立ち会う事も、命に係わる決断を迫られる事もない。きっとこの部屋でならもっと静かに長い時間俺たちの仕事を、お茶の時間を過ごせただろう。しかし俺は思うのだ。本当にそんな世界であったのならばきっと賢者は必要なかったし、ただの無力な人間と魔法使いが心を通わせる機会など存在しなかったのだろうと。

    思考に耽っているとフィガロの顔がこちらを向いた。
    何もない壁を見つめる瞳は警戒、それから寂しさが混ざって揺れている。こうして視線がこちらを向く事は一度や二度ではない。始めこそ戸惑ったが彼の目に映っていないのは間違いのない事実なので、今はもう遠慮なくその整った顔を眺める事にしていた。賢者の魔法使いたちはそれぞれ眉目秀麗、息を飲むほど美しい。時々震えが走る程美しく、無機質な宝石のような顔をしていると思う事があった。フィガロなど特にそうだ。普段は穏やかな人の好さそうな顔をしていて、南の医者を名乗るだけあって子供に向ける笑顔は仮面だと言われても信じられないくらい、優しい慈愛の色を宿している。だがそれらをそぎ落とした時に見せる、場を支配する圧倒的な強者としての顔もこの世のものと思えない程に綺麗だと知っていた。
    触れるのも烏滸がましいと思う程に、美しく冷たい。
    「……」
    はあ、とフィガロは息を吐いた。それから脱力したように項垂れる。手から離れたグラスは意思を持っているようにふわふわと浮いてテーブルの上にきちんと腰を下ろす。月の光を雲が覆い隠していき、部屋の中は本当に弱い光だけが届く夜に包まれていく。厄災は俺の知る姿よりずっと遠くで、けれど変わらず恐ろしく美しい。
    「……君は、誰なんだろうね」
    聞こえた声は掠れていた。
    一体何の独り言なのだろう、と瞬きをしてフィガロを見つめる。憂いを帯びた瞳に隠し切れない戸惑いがあった。

    「そこで浮いている、亡霊のような君の事だよ」

    今度こそ視線は、はっきりとかち合った。
    見えていない筈の俺の目を、フィガロはしっかりととらえていて射抜かれた様に俺は動きを止めた。
    「見えて、いるんですか」
    「はっきりとはまだ見えない、だけどそこに居るのは分かってる」
    ぼんやりと人の形に見える、と目を細めてフィガロは言う。
    その時の俺の気持ちを言葉にするのは難しい。叫び出したいような逃げ出したいような、それでいて飛びついて手をとって踊りだしたくなるような気持ちが全部混ざり合っている。無茶苦茶なステップを踏んで、そうしていたら音楽の好きな魔法使いたちが飛んできて軽やかな音楽と、にぎやかな声に覆い尽くされていく。そんな浮ついたふわふわした気持ちと、重い石を飲み込まされたようなひやりとした嫌な感覚も同時に背中合わせにあるような。とにかく複雑で、もやもやとした言い合わらせない心地に襲われた。

    黙ったままの俺に焦れたのか、フィガロは立ち上がり距離を詰めて来る。
    「この部屋にはそれなりに強い結界が張ってある、もちろん魔法舎全体にも。それにスノウ様やホワイト様の目を掻い潜っている、事実だとしたらとんでもない事だ。最初はね俺の勘違いかと思った、だけど日に日に視線は不躾で遠慮が無くなってくる。いよいよ俺も耄碌したと思ったよね……あのオズでさえ気付いていない。魔力の強い魔法使いたちが多く集まるこの場所で存在すら悟らせない、一体君はナニモノだ」

    ナニモノ、と言われて言葉に迷った。賢者ですと言ってもおかしなことになるのは分かり切っていた。逡巡の後に俺は震える声で名前を名乗った。果たして声は聞こえるのだろうかと一抹の不安を振り切って、唇を動かす。
    「真木、晶です」
    「そう、それで君はどうしてここに?」
    「わかりません……ただこれは俺の夢じゃないかと思うんです」
    フィガロの目が細められ、見極めるように見透かすようにじっと見つめられた。先を促されていると気付いてまごつきながらどうにか言葉を絞り出していく。
    「……眠って気が付くと、俺はここで浮いているからです。この世界の色々な所を見て回りました、それから最近はずっとあなたの、フィガロの姿を見つめていました」
    「へぇ、なかなか面白い言い訳だ。何が目的だい?」
    返答によっては容赦はしない、そう言った意図の視線で見つめられると冷や汗が流れる。何の他意もなくただフィガロを見つめていただけだ、と言う事をうまく説明するのは難しいような気がした。
    「……会話する事で姿が鮮明になる、か。どういった種類の魔法かあるいは呪いか……どちらでもいいが無断で部屋に入り込むのは頂けないなぁ」
    俺は己の手を見つめる。今は彼に見えているらしい、握りしめては開いてする掌の動きに何の支障もなく浮いたり床に足を付けたり、そういう事も今まで通り問題なく出来る。
    「それは本当にすみません、あなたや魔法舎の人達に何か危害を加えたりそう言うつもりは一切ありません。信じてくださいと言っても難しいとは思いますが……俺はただ」
    ただ、と口籠った俺にフィガロは更に目を細めた。

    「ただ、俺の良く知る人たちが暮らしている姿を、楽しそうに生きている様子を見守っていたかった、それだけなんです」

    ぺこりと頭を下げる。
    今の俺に出来るのは真摯に向き合い、嘘偽りなく言葉を伝える事だと思った。
    暫しの無音、衣擦れすらもしない静かな部屋で俺はただ頭を下げ続けていた。もしかするとこの穏やかな夢も今日が最後なのだろうかとか、彼の魔法によって遥か彼方に飛ばされても文句は言えないなと、そんなことを考えながら。
    「……そもそもここの結界を掻い潜って無事でいる時点で、悪意や敵意のある物の可能性はほぼゼロに近い」
    はあ、とだるそうに押し出されたため息に合わせて俺は恐る恐る顔を上げる。
    こつこつと靴音を響かせて近付いてきたフィガロは、俺に触ろうと手を伸ばす。けれどそこに実体はない。すり抜けてしまった手を見つめてフィガロは再び息を吐いた。
    「一体君が何なのかは分からないって事だけは分かったよ。それから俺にとっては知らない誰かだけど、君にとってはそうじゃないって事もね」
    「フィガロ……」
    「害があればここから追い出すし、その気になれば君が何者であろうと存在を消滅させる事だって出来るだろうしね」
    見えて言葉が交わせると言う事は、存在している証明になる。存在があると言う事は世界とのつながりがあると言う事、大なり小なり世界の仕組みに組み込まれている。だから魔法を使ってどうにかする事が出来る、理論上はとフィガロはグラスを手に取って口を付けた。氷と共に揺れる液体が雲の切れ間から差し込んだ光に反射する。
    俺はぐ、と掌を握りしめる。
    体が引き上げられるような感覚が遠くからやってくる、目覚めが近い事を告げている。

    「俺は魔法使いではないし何の効力も根拠もない。だけど俺はあなたを、あなたたちを害さないと約束します」

    かつん、と置かれたグラスがテーブルに当たって硬質な音を立てた。

    「あなたたちが嫌だと思う事はしたくありません、出来れば笑って快適に楽しく過ごしてほしいと今でも思っています。これは俺の勝手な約束で誓いです。だけどそれを、フィガロには知っていて欲しいから」

    俺は約束します、と誓った声が上手く音になったかは分からなかった。へえ、と感情が読めない声がする。俺の意識はもう存在が怪しくなっていて、そうして何時もの様に夢は唐突に終わりへと突き進んでいく。意識は混濁し思考は朝の光によって覚醒へと導かれる。
    フィガロ、賢者の魔法使い。俺が大切にしたいと願った人、夢で逢えるだけで見つめているだけで十分だとそう信じていた相手と言葉を交わした日。これが夢でも幻でも、幻覚や呪いだったとしても構わないとさえ思った。




    相変わらず夢は曖昧だ。
    起きてしまえばぼんやりと記憶は掠れていってしまうが、眠るのを楽しみにしている俺がいた。すぐに掻き消える霞の様な曖昧さなのに、そこに行けば俺はきっと満たされると分かっている。
    毎日のルーティンを終え、眠りにつく。
    そうして見慣れた魔法舎を彷徨い、何時もの部屋へとたどり着くのだ。

    フィガロはもう何も言わなかった。ただふらりと現れる俺と気まぐれに話をしてくれる。今日の出来事、他の魔法使いたちの話、世界の話、ずっと話し続ける訳じゃない。無音の室内で俺はじっとフィガロを眺め、フィガロはグラスを眺めて居たりする。思い出したようにぽつりぽつりと話をして、また静かになって。
    空けていく空をみながら目覚めに引きずられていく俺を、フィガロは何も言わずに見送る。そうしてまた夜になって部屋の中に舞い戻ってくる俺を、当たり前のように認識している。その関係が酷く心地良かった。たまに話し相手になって、酒のつまみに何か楽しい話でもしてよ、なんて強請られて最近見かけた小さな猫の話をした。俺のくだらない話にも彼は笑ったり驚いたり、まるで普通の友人のように親しい相手のように振る舞ってくれた。それだけで胸がぎゅうと締め付けられるような苦しさと、そんなものすべてがどうでも良くなるような満足感を得られる。だから俺はその時間が、夜がずっと待ち遠しかった。

    今夜は少しだけフィガロは饒舌だった。酒の入った瓶はとうの昔に空になっていて、二本目、三本目と空けていくのを眺めて、また怒られてしまいますよと一応止めてはみたものの「今日は飲みたい気分だから」と少し拗ねたように言うのでそれ以上声を掛けるのは諦めた。
    フィガロは億劫そうにグラスを引き寄せて、新しい瓶を空けて酒を注ぐ。酔って前後不覚になるような姿はあまり記憶にも無かったが、今日のフィガロはアルコールに侵されていて白い頬がほんのりと赤らんでいるのが目の毒だった。

    「…………暫くさ、君はここに来ない方がいい」

    唐突に呟かれた言葉に一瞬何を言っているのか分からなかった。数秒おくれて「え?」と間抜けな声を零した俺にフィガロはもう一度同じ言葉を吐いた。
    「それは、どうしてですか……」
    やはり邪魔だっただろうか、とさっと青ざめる。拒否されない事をいいことに夜な夜な彼の部屋にやってくる、そう考えればあまりにも非常識であることは疑いようがなかった。慌てて言葉を探そうとする俺にフィガロは指先一つで静かに、と合図を送る。
    「君が考えてるような事じゃない、そうじゃない」
    「なら……どうして」
    「厄災だよ」
    そう言って窓の外で爛々と輝く月に視線をやった。つられて俺も視線を外に向ける。
    気が付けば厄災は随分と近い所まできていた。けれど俺の知っている厄災よりずっと穏やかで、優しくて、温かみすら感じる程よい距離感で夜の地表を照らしている。

    「数日以内に厄災が近付いてくる。恐らくここも戦場になるだろうからね、存在もあやふやな君が巻き込まれて無事でいられる保証はない」

    はあ、とやけに艶のあるため息を吐いてフィガロは視線を中空に向けた。
    「前の厄災の時はとんでもなかった。さすがに誰かは石になるんじゃないかって思った、まぁ実際は誰も欠ける事なく無事に乗り切ったんだけどね。不思議なもので今年の厄災は緩やかで、世界への影響もそう大きくはない。だけどだからと言って何も起こらないとは言い切れない。今回こそ、石になるかもしれない」
    こくりと頷いた。輝く厄災はあの時のような恐ろしさを感じさせない。
    賢者として対峙した厄災の禍々しい光は、こんなものでは無かった。
    「君は眠る事でこの世界、君の言う所だと夢の世界に来ることができる。難しいかもしれないが暫く眠らないって言う手もあるかもしれないね。それに君気付いてる?」
    「何を、ですか」
    気付いているか、と問われてもピンとこない。首を傾げていると指先が俺の足元を指し示す。

    「影がある、初めは確かになかったよ。厄災が近付いてくるにつれて少しずつ影が生まれて濃くなっている。それに今の君は質量もあるんじゃないかな、無意識かもしれないけどいつの間にか浮かなくなってたから」

    言われて初めて自分が今床に足を付けて立っている事に気付いた。そこから伸びる影も。
    「……全く気付いていませんでした」
    「だろうね、いつ気付くかなと思って見てたけど」
    「扉は相変わらずすり抜けられるので、気が付きもしなかった」
    「未だに君の正体は不明、だけど確実に厄災の影響を受けているのは間違いないんじゃないかと思ってね」
    「……」
    厄災が何らかの影響を及ぼしているのだとしたら、俺は今回の厄災を退けたあと何かしら変質してしまうのだろうか。また記憶を失って、どうしようもない喪失感を抱えながらその理由さえ分からないままに毎日を繰り返していく。

    フィガロはまたグラスを傾けた。さっき注いだばかりのグラスはとっくに空になっている。
    「さて……晶」
    とフィガロは俺の名前を呼んだ。ついぞ呼ばれる事の無かった名前に思わず背筋が伸びる。名前は記号であり個を個として認識し、その場に繋ぎ止める大切な物だ。あえて今まで口にしなかっただけかもしれない、そこに意図がある事を嫌が応にもわかってしまう。彼と重ねた記憶は、思い出は確かに自分にそう告げていた。

    「そろそろ教えてもらえないかな、晶が隠している君の正体」
    「っ……」
    「それとも俺には言えない事だったかな」

    穏やかに眠るように目をゆっくりと瞬かせて、責めるでも詰るでもなく穏やかな声でフィガロはそう言った。
    「ちが、違いますフィガロ、あなただから言えない訳じゃない」
    「うん、それならどうして口にしなかったのか。言えるタイミングは恐らく何度かあったね、それでも言わなかった理由を考えてみたんだ。もし君が呪いや怨念の類であればわざと隙を見せた所を逃す事はなかっただろうし、そもそも君の侵入を俺が許し続けている事自体が普通じゃない」
    どうしてだろうね、と昔を思い出すように目を細めた。
    「君は俺たちと深い関わりがある、けれど俺はそれを知らない。覚えていない。それに君は明らかに怪しい存在だ、だと言うのに警戒しようと言う気が失せる。思い出せない何かが引っかかっている。まるで頭の中を書き換えられたようにね。これでも俺は精神操作系の魔法は得意だし、簡単に記憶を弄られるようなヘマはしない。だけど覚えていない、そこから導き出される答えは一つ」

    晶は、とフィガロが視線を投げてくる。
    俺は観念して、長く長く息を吐いた。


    俺は前の厄災を共に戦った賢者です、と口に出してもフィガロは驚きもしなかった。予想はついていただろうし、雑談の端々であがる魔法使いの名前もマナエリアや好みの話、趣味の話を当然のような顔で聞いていたのだから関わりが深い事は分かり切っていたのだろう。
    俺が思い出せる範囲で、俺の辿ってきた記憶を一つ一つ開示していく。恐ろしい厄災との戦い、様々な困難を乗り越えて厄災を押し返した後で、俺は気付けば元の世界へと戻っていた事。はじめは鮮明に覚えていた記憶が手のひらから零れる砂のようにぼろぼろと欠落し始めた事、恐ろしくなって必死にメモをとってそれでも消えていく記憶に恐怖し、その恐怖さえ忘れてしまった頃に夢を見るようになったこと。
    そうしてどうしても引っかかっていた記憶の細い糸、その先にあるのがフィガロの存在だと言う事も。

    推測と経験と、想像でしか状況を説明出来なかったがフィガロは先ほどまで酒に溺れてぼんやりとしていたのが嘘のように、真剣に俺の話を聞いてくれた。時折質問が飛んできて、それに応えて。
    会話の応酬が何度も続き、そして無言になった。静かな夜は朝に向かい続けている。

    「概ね想像通りだったよ、いまの賢者様がいない理由も何となく察しが付く。誰も欠けなかったから充填する必要がなかった訳だ。それに君の判断は正しかったと思うよ、記憶を持たない俺の前で同じ事を告げたとして信じたかどうかは怪しいからね。晶は本当に俺たちを良く分かってた」

    そう告げてから、フィガロは小さく「ごめんね」と呟いた。
    「フィガロ?」
    「話を聞いて朧げに思い出せたものもある。だけど晶の、賢者様に関する記憶はやっぱり虫食いのように曖昧だ。君はどうにかして記憶をとどめておこうと必死になってくれたのにね」
    だからごめんね、寂しげに落とされた声に俺は慌てて首を振った。そんな風に思ってほしかった訳じゃない、謝罪が欲しいだなんて思ったりもしない。
    「違いますフィガロ、俺が……俺がただ忘れたくなかっただけです」
    大事にして、忘れたくなくて、真綿で包んで抱きしめておきたかった。それくらい大切な記憶だった。

    「……俺がどうしても警戒し切れなかったのも、恐らくそういうことなんだろうね。話してくれてありがとう。……やっぱり君は厄災の影響を大きく受けている。だから」

    フィガロにしては言い難そうに言葉を切った、そして微かに息を吐いて言葉を落とす。

    「ここに来るのはもう諦めたほうがいい」

    とん、と突き放されたようだった。
    頭が真っ白になって二の句が継げない。どうでもいい言葉が浮かんでは消えていく。
    月の光が差し込む部屋が、まるで冷たい深海に感じられるほど周囲の温度が冷え込んでいくような気がした。何時の間に、俺はこの世界で温度を感じるようになっていたのだろうか。

    いやだ、と反射的に叫びそうになった途端、覚醒の気配が近付いてくるのがわかった。抗うように手を伸ばして、俺は初めてこの体が触れられる実体を持ったことに気付いた。指先は、ひんやりとした形の良い手に囚われる。泣き出したくなるほどうれしかった、触れられた。欠けていたピースがかちりと嵌るような安心感と満足感に満たされて、同時に突き放された心は戸惑いに揺れている。

    「夢は終わるんだよ、賢者様」

    もう俺はあなたの賢者でもない、違う世界で生きているただの人間だ。分かっている、夢の終わりはそこにある。
    フィガロの手がぎゅうと俺の指先を握り、それから離れていく。この手に触られるのが好きだった、具合を確認して宥めて、時に叱咤してくれる、撫でてくれる指先。ふわりと香る薬品の混じった香りも。
    ここで抗わなければ、もう二度と会えない。そんな気がして。
    俺は必死で意識を繋ごうとした。けれどそれは許されなかった。

    覚醒に引きずられていく中で俺はフィガロの詠唱を聞いた。懐かしい、何度も聞いた凛とした声。
    それは子守歌のようにも、柔らかな囁きにも聞こえた。穏やかに閉じていく世界。

    夢の扉はそうして閉じられてしまった。







    掛けられた魔法が何だったのかを俺は身を持って知る事になる。
    夜になって布団にもぐっても眠る事が出来なくなった。それだけ目を閉じていても眠れない、寝不足でぼんやりする事も無くただひたすらに眠れないのだ。いっそ疲れすぎて倒れて眠る事が出来たらと思ったがそれもうまくいかず、まんじりともせずに朝を迎える日々に俺はもうすっかり参ってしまった。
    今頃あちらはどうなっているのだろう。不思議な事にあの夜から俺の記憶は起きている間でもはっきりと残っている。記憶が零れていく事もない。あれがただの夢だと俺はもう思っていない。どんな運命のいたずらか、あれはきっとあちらの世界に何らかの形でつながってしまった、そう言う物だと信じている。

    眠れないまま数日を過ごし、一日一日積み重なる不安は俺を凶行に走らせる。
    眠れないのなら無理に寝てしまえればいい、ほんの一瞬であっても可能性はゼロではない。その思考から買い集めてきた錠剤を口の中に流し込んだ。粉っぽくケミカルな味がして眉を寄せて、それでも無理やりに飲み下す。これ以外にもう他に選択肢はないような気がしたから。ただ忘れてしまうのを失くしてしまうのを良しとして受け入れられるほど、運命だと割り切れるほど聞き分けの良い人間のつもりはない。

    それに俺は決めたのだ、あの時手を掴んだ時から。




    重たい瞼をこじ開けるとそこは確かに見慣れた場所だった。魔法舎の中庭に俺は立っている。今までのように浮いて移動する事は出来なくて、俺は何度か足踏みをする。動きやすさ重視のスニーカーにズボン、何時も着ていた衣服のまま。
    不思議と気持ちは凪いで、心も体も穏やかに落ち着いていた。
    空を見上げれば厄災は大きく輝いていた、けれどその距離は近いとは言えない。恐らく魔法使いたちが押し返している。もう少しできっと終わる、そんな確信を得て俺は走り出した。

    何処に向かえばいいか、何を目標にすればいいかなど分からない。ただ本能がこっちだと叫ぶ方へ、引っ張られるような気配があった。だからそれを信じて足を動かす。魔法舎の敷地から出ればいくつかの建物は被害を受けて瓦礫が転がっていた。人々は早々に避難しているのだろう、人の気配は感じられない。建物の被害は時間をかけて持ち直すことが出来る、けれど命は、命だけはどうしたって取り戻せない。魔法の力をもってしても。砂ぼこりの舞う石畳の道を駆け抜けていく。心臓が早鐘を打って息は浅くなっていく、けれど足を止める事はない。
    走って走って、視界がどんどん狭くなるような感覚。聴覚だけが冴えていき遠くで聞こえる爆発音や魔法が炸裂している音を知覚する。自分の体が自分のものじゃなくなってしまったように、俺はただ走っていた。わからないのにこっちだと、体が思う方へ前へ前へ。瓦礫が衣服を裂いても、崩れた足場で足首を捻っても、転んでも躓いても足を止めてはいけないのだ。
    まるで追い詰められるように、焦燥に背を押されて走り続けた。

    気付けば厄災は、もう随分と離れた所できらきらと光りを照らしていた。
    たどり着いたのは崩れかけた塔の近くだった。ここに居る、と感覚が訴えている。呼ばれるように半壊している塔の入り口をのぞき込む。足場は悪いが登れない程ではないだろう。逸る気持ちを抑えて階段を一歩一歩踏みしめていく。塔は丁度半分くらいのところで見事に折れてしまい上部は地面へと落下し、残骸となり果てていた。所々崩れた階段を苦労しながらゆっくりと、確実に上がる。
    一番上が見えた頃、穏やかな月の光が階段まで差し込んでいてその眩しさに思わず目を細めた。
    彼に会ったら何を言おうか、とふとそんな事を思った。いま持ち合わせている言葉で全ての感情を、今自分の内側にぐるぐると渦巻いている気持ちを伝えられるのだろうかと思うとどうにも足りない気がした。けれどほんの少しでもそれを開いて、伝えなければいけないと言う事は良く分かっていた。俺も、彼も一人にならない為に。

    手を繋ぎ続けるために。


    最後の段差は崩れていて登れそうもなかった。辛うじて残っている壁に手をかけ力を込めて体を引き上げる。落ちかけたがどうにか上まで登る事が出来た時、俺は全てが手遅れだったことを知った。
    そこに彼はいた。いた、と言う言葉が適切なのかどうかそんな事を考える猶予も、心の余裕も何もかもがどうでもよくなってしまった。いや、無駄だと分かってしまった。
    そこは静かで、夜の気配が色濃い。魔法の気配や精霊の気配なんてもの俺にはわからないが、それでも今この場所があまりにも静かにな夜に包まれているのは、きっとそれらと関係があるのだと思った。

    そこにあったのはいくつかのかけらだった。
    光を浴びてきらきらと輝く、美しい石。

    走り続けた足が力を失って膝を着く。震える指で欠片の一つを摘まんだ。冷たくて硬くて、それだけだった。もう一つかけらを掴む。握りしめてもただ石は石だった。何も言わず何も語らず、そして何を語っても受け止める術を持たない。
    魔法使いはこれを食べる。己のうちに取り込む。無意識に小さなかけらを口元に運んでいた。けれど入れる事はどうしてもできなかった。ただの人間で、この場所に間に合わせる事すら出来なかった無力な人間に魔力が籠った石を、最後のかけらをどうこうする事は出来ないと思ってしまった。代わりに強く握りしめた欠片は掌の皮を裂いた。溢れた血液は赤くて生暖かい。ぬるりとする感触は痛みも悲しみも感じられなかった。ただ空虚な胸がそこにあるだけ。
    どこまでも俺は人で、彼は魔法使いだった。

    「……フィガロ」

    もしも俺が魔法使いだったのなら、同じ世界で生きるそういうものだったのなら。
    俺はあなたのかけらを全て取り込んで飲み下す事が出来たのだろうか。あなたの最期にきちんと立ち会えたのだろうか。あなたを、ひとりぼっちで石にしてしまわなかったのだろうか。たられば、もしも。

    そんなくだらない事を考えてしまうくらい、転がった彼のかけらは美しくて悲しかった。
    空から伸びる月の道が、間に合えばよかったのに。













    ばち、とはじき出されるように目が開く。
    反射的に飛び起きた俺の心臓は寝起きとは思えないくらいにばくばくと五月蠅く鳴り響いている。全力疾走した後のようで、暫く自分がどこで何をしているのか分からないくらいに動揺していた。
    周りを見渡してここが自宅のリビングで、フローリングの上に倒れていたのだとようやく思い至った。体中が痛んで頭もがんがんと痛む。散らかった錠剤の袋、中身が零れたペットボトル。無残な惨状に自分がやった事を思い出して深く溜息をついた。
    心臓は相変わらず五月蠅く、駆け回った後のように足はじんじんとした。瓦礫で切った覚えのある場所もぱっくりと傷になって血が滲んでいたし心なしか埃っぽい空気まで連れ戻ったようで、ほんの少し笑ってから俺の目からは涙が転がり落ちる。間に合わなかったことの後悔、一人で冷たい石になってしまった彼の事を思えば悲しみや苦しさが次々と湧いてきて涙となって体から噴出していくようだった。
    服の袖で乱暴に涙をぬぐう、それでも涙は止まらず涙腺が馬鹿になったように次々と液体は流れ出す。このまま泣いて枯れてしまえば楽になるだろうか、そんな風に考えていたらちくりと掌に痛みを感じた。恐る恐る開いた掌は真っ赤に染まっていて、その真ん中に小さな石があった。弾かれたように立ち上がり蛇口にかじりついて血液を丁寧に洗い流す。裂けた傷口は染みて痛みを訴えたがそんなものに気を取られている時間はない。柔らかなタオルでそっと水気を拭えば、きらきらと光りを反射する小さなかけらは俺の目の前でも綺麗で。

    何も証拠はなかった。紙の一枚それさえも手元に残らなかったのに。
    これだけが唯一の、俺の記憶を肯定してくれる欠片になった。きっと何の価値もないだろう石が。それだけが。

    「フィガロ、ふぃがろ……」

    悲鳴のような声を絞り出して俺は泣いた。
    何度も名前を呼んで、小さな石を握りしめて。ただ感情の荒ぶるまま、叫びたいと思うままに声をあげて泣いた。泣いて泣いて泣きわめいて、それから俺だけは覚えていてあげたいと思った。彼の事も、記憶も、全部。賢者として夜を重ねた日々も、あやふやな亡霊じみた俺と記憶を失った彼との夜も。全部。

    泣き疲れてフローリングに転がった俺の体は満身創痍と言うに相応しく、薬物の過剰摂取でぐらぐらする頭も酷く痛んだ。それでも心は落ち着いた。石を握りしめていれば何でも出来そうな気がしたから。忘れないうちに書き留めておかなければいけない、と使命感のようなものに駆られて体を起こそうとした。だが思っていた以上に疲弊しているらしく、上手く力が入らずまたフローリングの上へと体を横たえる。
    散乱した室内もひどいものだし、何より開けっ放しのカーテンの向こうはいつ開けたか定かではないが、ベランダの扉も開いたまま。酷い泣き声が外に漏れてしまっていた事に今更ながら気が付いて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だがいま立ち上がることもままならない体では窓を閉めるにも難しい。仕方なく力を抜いて窓から外を眺める。暗い夜の空にぽっかりと満月が浮いている。柔らかく清浄な光が暗い室内に差し込んでくる。厄災と同じ姿をした、優しい光。

    俺はそっと目を閉じる。
    その瞼の裏で、何度もあなたの事を思い出せる。その事に安心してそれ以外の事は今はどうでもいいと思えた。
    賢者様、と呼ぶ声も本音を隠すのが上手い微笑みも。
    「賢者様」
    りん、と声がした。
    優しくて特徴的な、魅力的な声。俺の記憶の再現力もなかなかのものでしょう?そんな風に考えていたら、窓から入り込む風が頬を撫でていく。閉じた瞼の上をつるりと指先が撫でるように。
    「賢者様、寝てるの?」
    彼の部屋で寝かかってしまった時に聞こえた声だった。伺うようにけれど起こしてしまわないように少しだけ潜めた声で近くで聞こえる声。小さなため息、けれど落胆や失笑ではない。穏やかで優しい気配。俺が大好きだった気配。

    「……あきら」

    あきら、と呼ばれた。それは夢の中で、それ以外に記憶はない。頬を滑っていくひやりとした温度はつるんとしていて、柔らかかった。

    ゆっくりと重い瞼を引き上げる。まず目に入ってきたのはその独特の光彩だった。石のかけらを砕いたような小さな煌めきを持つ、魅力的で美しい瞳。そこに引き込まれるような感覚が少し怖くて、だけど好きだった。
    ゆっくりと瞬きをする。閉じて、開いて。幻は消えない。微笑んで俺をのぞき込んでいる。
    「……ねえ晶、何考えてる?」
    優しい声が問う。
    「……良い夢だなって、思ってます」
    「そっかぁ……じゃぁ俺が何て言ったか覚えてる?」
    最後に、と彼は眼を細めた。

    「夢はさ、覚めるから夢なんだよ」

    確かに彼は、夢は終わるものだとそう言っていた。
    それから聞き慣れた詠唱の言葉、まるで淡い光の渦が出来るように月の光が塵になって彼の周りに集まってくる。自分に向けて掛けられた魔法の言葉、それが体を癒すために使われたのだと気付くのは、全身を襲っていた様々な痛みや、じくじくと痛んでいた傷の痕跡が無くなった時だった。疲弊していた体はすっかり軽く、今なら体を起こす事だって出来そうだ。
    腕を着いて体を持ち上げる、すぐに背中に差し込まれた腕は感触があって温度があった。
    「……フィガロ……?」
    「それ以外の誰かに見える?」
    揶揄うような、甘やかな声。
    見慣れた白衣と優しい落ち着く香り。まじまじと見つめる顔は生気に溢れていて血色がよかった。震える手を伸ばしてそっと触れた。頬はちゃんと人の肌をしていて温度がある。なのに実感が湧かなくて衝動のままに両手でぺたぺたと不躾に触っていると、耐えきれないと言う風に彼が笑う。
    「くすぐったいよ」
    「すみません、なんだか信じられなくて」
    確かに俺はあの時、石になった姿を見たと思った。あそこで感じた気配は間違いなくフィガロのもので。
    慌てて握り込んでいた筈のかけらを探した。床にころりと落ちている小さなかけらは、あんなに美しくぴかぴか光っていたのに、今は色あせて小さなヒビがたくさん入っている。まるですべての魔力を失った様に。
    「俺も何が起こったか説明しろって言われたら正直わからない」
    だけど、とフィガロは俺を立たせると傷やケガがないか医者の目をして確認した。傷も何もかもが幻のように消えてしまった事で不安になった俺を安心させるように、ぽんぽんと頭を撫でてくれる。

    「ひとりぼっちで石になるのは嫌だなって思ってさ。ここに晶が居たらいいのにって願った」

    来るなって言った癖にね、と困ったように眉を下げて微笑んだ。
    「君を元の世界に返して、それからどんどん君との事を思い出していったよ。どうして忘れられていたんだろうって思う位、色んなことがあったのにね」
    そういうシステムだったから、とフィガロは言う。世界のシステムが、規則が記憶を惑わせる。
    「石になるのは仕方がないと思った、でもやっぱり寂しかったんだろうね俺は」
    強い魔法使いの最期の願いがとんでもない奇跡を引き寄せたのだろうか。世界の垣根も、システムもひっくり返すようなそんな規格外の事が。
    「それに晶は守ってくれたからね」
    「え……?」
    お互いに向き合って立ち竦んだまま視線を絡ませる。
    「俺や俺たちを傷付けないって約束してくれただろう? 君は最後まで約束を守り抜いた、なら俺もそれに応えないとって思って。それで気付いたらここに居たんだ」
    と窓の外を指さした。月明りに照らされた狭いベランダ。魔法使いが窓からやってくるなんて、童話的で穏やかで最高の物語の終わりじゃないか。

    呆然としながら月と、フィガロの顔を見つめる。彼は微笑んで、そこに存在していた。

    「君はこんなめちゃくちゃな魔法を信じる?」

    俺の答えなんて問う前から分かっている筈なのに、それでも答えを求めて言葉を求めて問うてくる。それが彼の、ほんの少しの甘えだと言う事を俺はもう知っている。だから俺は思いきり心のままに答えを唇に乗せるのだ。

    「もちろんですフィガロ。あなたを、俺の魔法使いを信じない訳がない」

    差し出した手をフィガロはしっかりと握りしめてくれた。
    魔法も使えない、器用でもない、何の変哲もないただの人間の頼りない手を迷いなく。それは泣いてしまいたくなるほど、美しくて綺麗なもの。重ねたものを、失くしたものを取り戻すための。
    もしも俺が魔法使いであったのなら、こんな未来はなかったかもしれない。あなたのかけらのひとつも身の内に取り込めない、違う世界の俺だったのにそれでもこの手はしっかりと繋がれている。

    俺はもう手を離さない。強欲に、どこまでも貪欲になる覚悟はとっくに決めていた。
    これは、きっと幸福な話。

    魔法使いと、どこにでもいる平凡な人間が魔法を引き寄せた物語。



    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭😭😭😭👏👏👏👏👏👏😭😭😭😭👏👏👏😭😭😭😭👏👏👏😭
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    海乃くま

    DONE晶くんオンリー「ひかる星々の名前を教えて4」展示作品です。
    冒頭に注意事項がありますので、目を通してから閲覧していただけますよう、よろしくお願いいたします。
    数日公開のち、後日pixivに掲載予定となります。
    フィガ晶♂【美しい事象】+都合よく色んな改変があります。
    +設定は自分に都合よく捻じ曲がっています。
    +不穏な空気になりますが、ハピエンです。
    +好きな物を詰め込んだものです。
    +何でも美味しく頂ける人向けです。




    俺が魔法使いだったなら、綺麗な石になった貴方を一欠片も残さず食べてあげられたのだろうか。



    【美しい事象】



    何度も夢を見る。
    巨大な月を抱く魔法と混沌の世界。壊れかけた世界の夢だ。
    白昼夢や幻覚と言われればそうかもしれない、と俺は笑うのだろう。だってあの世界の事は今はもう微かな夢としか思い出せないものだったから。確かに過ごした記憶はここにある。あるのに俺の手元にそれを証明するものは何一つ残されていない。慣れないペンを握って書き記した賢者の書も、そのために出来てしまった利き手のペンだこも綺麗さっぱり無くなっていた。身に付けていたものは愚か、記憶すらも日に日に少しずつ抜け落ちてしまう。記憶すらもお前のものでは無い、と言われているようで恐ろしくて悲しくて、悔しくて、寂しい。
    18801