野生の証明「虎とか狼とか」。以前、自らをそう例えたところ、無礼なことに、弟と「あいつ」は腹を抱えて笑っていた。
――だが。
「あいつ」の柔らかそうな肌に、噛みつきたいと思うことがよくある。そして、そこに舌を這わせたら、どんな味がするのか、とも。
噛んだり、舐めたり。それから、もっと酷いことも。内に秘めたそれらの願望からすると、とりあえず自分がケモノであることは間違いないようで――。
――大事にしたいけれど、滅茶苦茶にもしたい。
すやすやと健やかな寝息を立てている「あいつ」――小波 美奈子の頭を撫でながら、桜井 琥一は複雑な想いを持て余していた。
とある初夏の日曜日。桜井 琥一、琉夏兄弟の住処である海辺の家を、小波 美奈子が訪ねてきた。
美奈子は、現れたと思ったら――すぐ寝た。
こう説明すると、美奈子が破天荒過ぎるような誤解を招くから、補足するとすれば。そもそも琥一、琉夏、美奈子の三人は気のおけない幼なじみどうしで、だから兄弟は美奈子が自宅に遊びに来たとしても、とりたてて客としてもてなすとか、そういったことはしない。兄弟は普段どおり、好きなように振る舞い、美奈子のことはほったらかしだ。美奈子も心得たもので、彼らのことは気にせず、我が家にいるかのようにくつろぐ。
例えばさっさと琥一のベッドに潜り込み、昼寝を楽しむ――だとか。本日も、つまりそのパターンだ。
――いや、全くお構いもしねえ俺らも、悪いのかもしんねえけどよ……。
自分のベッドの上で熟睡している美奈子を見て、琥一は困惑するしかない。
そこらの女子が束になっても敵わないほどの美少女でありながら、無防備も無防備。自分の幼なじみは、異性に対する警戒心を、母親の腹の中に忘れて生まれてきたのだろうか。
あまりに、危なっかしい。
――だいたい、お前は一体、何をしに来たんだ……。
ともかく、こいつは女としてダメだ。なんとかしないと。
若干の怒りと、父性的な視点からくる危機感を抱きつつ、琥一はベッドに腰掛けた自分のすぐそばに横たわる、美奈子の頭を小突いた。
「美奈子。そろそろ起きろ。もう五時だぞ」
「……………」
美奈子はさっぱり目を覚まさない。
枕やタオルケット。自分のみすぼらしい寝具を頭の下に敷き、あるいは抱え込み、日向でぷくぷくと丸まる猫のように、あどけなく眠っている。
そんな幼なじみを起こすのは、忍びないような気もするが。
――いや、違うだろ。そんなお人好しな了見で、俺らが甘やかすから、こいつはいつまでもこうなんだ。
心を鬼にして、琥一は再度、美奈子の頭に触れた。
「ほら。送って行ってやるから」
「うう……う。もうちょっと……」
「ダメだ。外が暗くなる。オラ、起きろ」
痺れを切らした琥一は、枕にしがみつくようにして抵抗する美奈子の頬をびろーんと引っ張り、彼女を無理矢理起こした。
薄暗くなってきた道に自慢のバイクを走らせ、美奈子を送る。彼女の家に到着してから、門の前で琥一は尋ねた。
「お前、なんでいっつも俺のベッドで寝てんだ?」
「なんか居心地がいいから」
あっさりと答える美奈子を前に、琥一はため息を吐くしかない。
――人の気も知らないで。
ナリだけは幾分か大きくなったようだが、美奈子の内面は初めて会ったときの幼い少女のまま、少しも育っていないのだ。
それから、一ヶ月ほど経った頃の話だ。
「最近、美奈子、うちに来ないな」
琥一はマグカップを片手に、ぽつりとつぶやいた。取っ手ではなく、直接カップの側面を握る彼の中指は、そわそわと落ち着きなく揺れていた。琥一が、普段そういった落ち着きのない仕草をすることは珍しい。
「美奈子が来ない」。なんてことはない口調で言いつつも、彼がそれを相当気にしていることは明白だった。
「そう? そういえば、そうかな?」
対面のソファで雑誌を読んでいる琉夏は、紙面から目を離さないで答えた。
どうも興味がなさそうだ。――美奈子のことなのに。
常ならば、幼なじみの彼女のことについて熱心に語るのは、弟のほうのはずだ。それなのに、どうしたことだ。
琥一は少し苛立ちながら、カップの中身のコーヒーを啜った。
「……あいつ、忙しいのか?」
「えー? でも俺、先週、美奈子ちゃんと映画観に行ったよ?」
「!」
あっさりと返ってきた答えに、琥一は手にしたカップを落としそうになった。
そうか。だから琉夏は、美奈子の異変に気づかないのか。自分だけは構ってもらっているから。
それなのに琥一のほうは、最近美奈子の顔すらまともに見ていない。校内で会うこともなければ、一緒に帰ることもないし、デートの誘いすらなしのつぶてだ。そのうえ彼女は、ここWest Beachにも来なくなってしまって――。
「……ふーん。冷たくされてるんだ」
大まかな事情を察したのか、琉夏はニヤニヤと笑っている。
琥一は渋い顔で、マグカップを乱暴にテーブルに置いた。
「あれじゃない? 美奈子ちゃん、コウの部屋でお昼寝するのが好きだったから……。そんとき、お兄ちゃんがこっそりスカートめくってたのがバレたとか」
「誰がそんなことするか!」
不意に琉夏は、スッと表情を引き締めた。
「――ピンクだったよ」
「あ?」
「美奈子ちゃんのパ……」
とりあえず弟にヘッドロックを食らわせたが、琥一の胸の内は当然晴れなかった。
翌日、琥一は学園の裏庭をぶらぶらと歩いていた。
時は放課後。特に用もないので、家へ帰るつもりだった。
よく分からないまま、美奈子との接点を失った琥一の日常は、著しく精彩を欠いている。面白いことはないし、何にも興味が持てない。
この感じは――そうだ、美奈子と再会する前の、やさぐれていた中学時代によく似ていた。だからと言って、今更あの頃の荒れた生活に戻ろうとは思わないが、それにしてもなんだかモヤモヤする。
ちょっとだけ、ヨタ高の奴らをからかってやろうか。――などと、あまりよろしくないことを思いついた琥一は、少し先に見慣れた人影を認めて、足を止めた。
――美奈子。
自分を振り回す幼なじみの少女が、男と二人、校舎の影に佇んでいる。美奈子の前に立っているのは、眼鏡がよく似合う、長身の男だった。
彼のことは琥一もよく知っている。一つ年上の生徒会長。紺野だ。
――俺のことは放ったらかしで、違う男とはつるんでいるのか。
瞬間的にかっと頭に血が上ったが、すぐに思い直す。
別に自分が干渉すべきことではない。美奈子が誰といようと、誰を選ぼうと。
ただ――美奈子があんな細っこい、秀才面した野郎が好きだったとは知らなかった。
まあ美奈子には、自分のようにあまり褒められたものではない素行の男よりも、ああいった真面目なタイプのほうがいいのかもしれない。
そうやって必死に自らを納得させる琥一を――恋の神様は試しているのだろうか。
琥一が見ている前で、美奈子は紺野の胸元に顔を寄せた。
「!」
甘えるように、男の胸に擦り寄る美奈子――。
決定的なものを見てしまった。琥一の頭の中は真っ白になる。
だが。
このあと身の毛のよだつような甘いシーンが展開されるのかと、固唾を飲んで見守ったものの、なぜか実際にはそんなことにはならなかった。「オーケーだ!」何だと奇声を上げた紺野から、美奈子はすぐに離れてしまったのだ。
そして二言三言、二人は会話を交わしたようだが、結局、紺野は首を傾げながら、その場を去っていった。
「…………」
どうしたものか。
琥一が声をかけようか迷っていると、また別の男が現れ、美奈子の前に立った。
今度のは、「新名」という名の後輩だ。見た目はチャラいが、意外と礼儀正しいし気が利くから、琥一は彼のことを買っていた。
だがここでも、琥一の目を疑うようなことが起きる。
美奈子は新名の上着の襟を掴むと、先ほど紺野にしたのと同じように、すっと自らの体を寄せたのだ。
新名は一瞬固まっていたが、やがてぎくしゃくと腕を動かし、美奈子を抱き寄せようとした。
――あいつへの評価を変えないといけねえようだな。
琥一は、誰かに目撃されたら即座に通報されるような凶悪な顔をして、ポキポキと指を鳴らした。
が、新名の胸に閉じ込められるより早く、美奈子は身を翻し、彼と距離を取った。
「ごめんね。どうもありがとう」
「あ、はあ……。あはは……」
笑顔で礼を言われれば、引っ込むしかない。男として、琥一も新名の気持ちはよく分かる。
こうして新名もふらふらした足取りで、退場していったのだった。
――それにしても。
紺野も新名も、わけが分からないといった様子だった。腑に落ちないのは、全てを目撃していた琥一も同じである。
今まで浮いた噂ひとつなかったくせに、いきなり二股とは。美奈子のそれは、メタルスライムを倒したあとのような、不自然なレベルアップの仕方である。
どうにも黙っていられなくて、琥一はとうとう美奈子の前に姿を現した。
「おい」
「!」
美奈子は琥一に気づくと、はっと身じろぎした。いつもだったら子犬のように尻尾を振って近寄ってくるのに、今日はかなり警戒しているようだ。
なぜ、そんな接し方をされないといけないのか。疑問が湧くが、琥一はひとまず置いておくことにした。
「お節介かもしれねえが、ああいうの、良くないんじゃねえのか?」
「ああいうのって?」
「だから……。複数の男を誘うような真似だよ」
「誘う?」
美奈子はきょとんとしている。何を責められているのか、本気で分からないようだ。
苛ついた琥一は、説教すべく、幼なじみに一歩近づいた。すると、美奈子は一歩下がる。
「……おい」
「こ、来ないで」
美奈子はなぜか怯えている。
――なんでだ。
不思議に思った琥一が更に一歩踏み出すと、今度は美奈子はささっと二歩下がった。
「お願い、来ないで!」
――そうだ。そもそもなんで俺は、一ヶ月近くも避けられてるんだ?
「俺はお前を怒らせるようなことを、何かしたか?」
琥一にしては気弱に問うた。美奈子は首を横に振る。
「コウくんは何もしてないよ……!」
「だったら、なんで……。」
自分が女子に嫌われる理由。それは色々思いつく。顔が怖いとか、声が大きいとか、乱暴者だとか。
そう、どうせなじられるなら、せめてそういった理由が良かった。しかし、美奈子が口にしたのは――。
「コウくん、匂いが……」
――多感な年頃の男子に、その指摘はあまりに酷というものではないだろうか。
「当分、側に来ないで!」
一方的に最後通牒を突きつけると、美奈子は脱兎の如く逃げ出した。
琥一は一人取り残される。
「…………………………」
驚いたあとに泣きたい気持ちになって、最後に噴き出してきたのは、烈火の如き怒りだ。
「~~~~~待て、コラあ!!」
駆け出した琥一は一気に加速し、美奈子の後を追った。
二人の差は既に数百メートルほど離れていた。美奈子は女子にしてはかなりの俊足である。が、所詮、精鋭ぞろいの体育祭のリレーで軽々一位を奪う、琥一の敵ではなかった。
走り出して数十秒ほどで、琥一は美奈子に追いつくと、肩を掴んだ。近くにあった体育倉庫の壁に、彼女の背中を押しつけ、お互い止まる。
美奈子はぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しているが、琥一はあまり体力を使った意識もなく、平然とした顔で彼女を見下ろした。ただし心中は、穏やかではないが。
「やっ、離して……!」
「言うに事欠いて、てめえ、人様をくせえだと!? こう見えても俺は毎日風呂入ってるし、歯も毎食後磨いてるし、服だってちゃんと洗濯してんだよ!」
自分のデオドラント対策に死角はないはず――と思いたいが、琥一だって不安要素はある。それは自分が肉食、お肉大好き男ということだ。もしも匂うとしたら、そのせいだろうか。
「…………」
少し考えたのち、琥一は美奈子の細い体を抱き寄せた。
「……そんなにくせえか?」
「~~~!!!!!!」
美奈子は琥一の胸の中でバタバタと暴れた。それでもぎゅっと押さえつけていると、やがてぱたんと彼女の腕が落ち、膝までも崩れた。
「あ……!」
まさか自分の体臭で、人を殺してしまったのか。
それほどなのか。
美奈子は足に力が入らないらしい。琥一は彼女を抱えるようにして、共に地面に座り込んだ。
「だ、大丈夫か!?」
「…………」
うつむいた美奈子の顔は、真っ赤だ。長い睫毛を伏せ、小さな唇をぎゅっと噛み締めている。
「保健室……!」
というか、そうだ。自分が――自分の匂いが原因で幼なじみを不調にさせているとしたら、離れたほうがいいのか。そう思い、琥一が美奈子を置いて立とうとしたところで、腕を掴まれた。
「……やだ」
「……?」
「もうやだ。分かんない……。私、おかしい」
美奈子の大きな瞳から、遂に涙が溢れ出す。琥一はどうしたらいいか分からず、オロオロと狼狽えた。
「私、コウくんがくさいなんて、一言も言ってない!」
「え? だって、お前……」
「私、コウくんの匂い、大好き……。だからいつも、ベッドを借りてたんだよ! コウくんの匂い、すごく安心できて、だから……。でも――」
美奈子はしゃくり上げながら、告白を続けた。
「最近、変……で。私、コウくんの匂いを嗅ぐと、体が熱くなって……」
「お前、それは……」
「ほかの男の人でもそうなるのかって思って、試してみたけど、そんなことなくて。変になるのは、コウくんの匂いだけで……」
なるほど、先ほどの裏庭での奇行は、ほかの男の匂いを嗅いで、自分が変化するかどうか試していたわけか。
あまりに突拍子もないが、美奈子がやることなら、まあ……と、琥一はしみじみ納得してしまった。
「私は、へ、変態…なんだ……!」
震える声で一気に言うと、美奈子は両手で顔を覆い、びいびい泣き出してしまった。
「………………」
どう返したらいいのか。琥一は首の後ろをさすった。
「美奈子は自分の匂いが好き」。照れくさいが、少なくとも不快では全くなかった。
聞いたことはあるが、眉唾な話だと思っていた。都市伝説みたいなものだと。
――フェロモン。異性を惹きつける謎の分泌物。
「それでお前、俺のこと避けてたのか」
「だって……。怖かったんだもん。自分でも何するか、分かんなくて。――コウくんの匂いを嗅ぐと、変なことしちゃいそうで……」
顔を上げた美奈子に潤んだ瞳で見詰められて、琥一の背にはぞくぞくと電流のような刺激が走った。
いつまで経っても子供なのだと呆れていた。だが、美奈子の体はいつの間にか成熟し、雄を求めている。そして彼女の言葉を信じるなら、誰でも良いわけではないという。
したたかに嗅ぎ分けているのだ。自分の全てを捧げてもいいと思う、雄を――。
「変態っつーか……動物だな」
「う……」
不満そうな美奈子に、琥一は笑いかける。
「お前、バンビって呼ばれてるんだろ? ぴったりじゃねえか」
「もう! 真剣に悩んでるのに!」
そう言って美奈子が振り上げた手を、琥一は掴み、素早く彼女に口づけた。
「……!」
相手が固まってしまったところに、もう一度、二度、琥一はキスを繰り返す。やがてとろんと蕩けるような表情になった彼女の唇をこじ開けると、舌を絡めた。
そういえばそもそも、キスというのも動物的な行為だ。餌を分け与えるための――。
琥一は、今はなにも持っていないから、ずっと抱え込んでいた美奈子への恋心を舌に乗せて、差し出すことにした。彼女もまたうっとりと、自分の想いを返してくれる。
こうして大虎と子鹿は、長い間、お互いを貪りあったのだった。
翌週の日曜日のことだ。
琥一がバイトから帰ってくると、自分の部屋のベッドがこんもりと膨らんでいる。
「またか……」
眠り姫が戻ってきた。
琥一は寝台の縁に腰掛け、横たわる美奈子の頭を撫でてやった。美奈子は「ふにゃ」と子供じみた吐息を漏らし、ゆっくりと瞼を開ける。
いつもどおりの――。
いや、違う。
姫君は起き上がると、瞳に期待の色を滲ませながら、着ていたシャツのボタンをおずおずと外し始めた。
食べて、と乞われれば、遠慮はしない。
笑う琥一の口元では、鋭い犬歯が光っていた。
~ 終 ~