【イルアズワンドロ周回遅れ】魔性 魔王様の側仕え、というのは大変名誉な仕事である。
王城勤めの官吏の仕事だって相当な倍率の試験を突破しなければならないし、その後も、小間使いから始まって、確実に信頼と実績を積み重ね、魔王様のお目に留まるような何かがなければ抜擢されない。
とはいえ、魔王様は先進的で、しかも気さくなお方なものだから、若い官吏を――そもそも現魔王様の体制ができあがってから、ほんの十年かそこらしか経っていないので、官吏のほとんどが若い、という話もあるけれど――どんどん取り立てては側仕えとして使い、王城全体の仕事の流れを覚えさせては他の部署へ送り出す、ということをしてくださるので、チャンスは多い。
――というわけでこの度、不肖わたくし、魔王様の側仕えに採用されました! やりました!
側仕え――公式には「魔王秘書室」――への登用は、出世街道ど真ん中、というのも勿論あるけれど、何よりも魔界中の憧れである魔王様と、その麗しき腹心、アスモデウス様の近くで働けるのだ。喜ばない者など、少なくともこの王城にはいないことだろう。
そんなわけで転属初日。魔王様の執務室の隣に設けられた秘書室の扉を開けると、そこには先輩秘書官と――十三冠の一角にして、魔王秘書室長、『麗し』の、アスモデウス様が、打ち合わせ中だった。
「ム……来たか、新人」
アスモデウス様の視線がこちらを向く。謁見室や会議の場などで、それなりの距離からお姿を見ることはあったけれど、こんなに近距離で、個人を認識された上でお声を掛けていただくなんて初めてのことで、その、視線だけがこちらを向いてから小さな卵形のお顔がこちらを向く様子、はらりと一房耳に掛けていた髪が散る様、それをまた耳にかけ直す手指の動き、手に持った書類を机の上に置く仕草の一つ一つがどれもこれも、洗練された舞踊でも見ているかのようで、思わず言葉を失う。
こら、挨拶、と先輩にどやされてからようやく我に返り、名前を告げて頭を下げた。
「期待しているぞ」
頭を下げている間に物凄く近くまで来ていたアスモデウス様に、ぽん、と肩を叩かれる。軽やかな、なんの含みもない、部下を労う上司の仕草、と、いうのは解っているのに、触れられた肩がはっと熱を持ったようで、心臓の鼓動が一拍飛ぶ。
いい匂いがする。花のような、熟れた果物のような、ふわりと軽やかなのに、微かに一筋ねっとりと首元に絡みついて残るような、けれどその残滓を追おうとすると跡形もなく消え失せてしまうような。
はわ、と、口から情けない動揺の声が漏れる。
すると。
バンッ、と、けたたましい音と共に、秘書室の扉が開いた。廊下に面した出入り口の方ではなく、魔王様の執務室へと続く通用口の方。
そんなところを、こんなやり方で開けるのは一人しかいない。
「アズくんっ!」
紛う方なき、魔王様まさにその人が、通用口からものすごい勢いでずかずかと入ってくる。そして、アスモデウス様の前に仁王立ちになった。
「魔王様――用事があるならお呼びください。魔王様がそう易々と動かれては、周囲に示しがつきません」
アスモデウス様は、従順に魔王様に従う者の顔をしながら、しかしどこか呆れを滲ませたような口調でそう言うと、ちらりとこちらに視線だけ向けた――「周囲」のいい例、ということなのだろう。
「アズくん呼び出すより、僕が来る方が早いでしょ。それより、アズくんがまた部下誑し込んでる気配がした!」
「――誑し……?」
魔王様が何を仰っているのか、その意図を掴みかねて、思わず言葉が口から漏れた。すると先輩は「あちゃあ」という表情を浮かべ、こちらに何故か憐憫の視線をくれる。
アスモデウス様は「そんなことしておりません」と呆れの滲みまくった溜め息とともに答えながら、魔王様の顔を正面から見据える。しかし魔王様の方は、丸め込まれたりするものかという強い意志の垣間見える眼差しでそれを受けてから、やおら、こちらへと視線を移した。こんな、なにが起きているのかもわからない言い争いの最中に突然魔王様と目があってしまい、一体どうすればいいのかわからず、咄嗟に角を隠して礼をした。
「……なるほど、それでか」
ほんの微かに、魔王様が口の中で呟くお声がした。何かに納得されたらしいけど、その意図はさっぱりわからない。頭を下げたままで横目に先輩の方を見てみると、私は関係ありません、みたいなつんと済ました顔で、魔王様に向けて軽く頭を下げるポーズで固まっている。感知しないつもりらしい。
そうしている間に、気づけば魔王様が目の前までやってきた。見えるのはその艶々としたお靴の先端だけだけれど。
「新人の子だね。そんなに畏まらなくて大丈夫だよ。顔を上げて」
はい、と震える声で答えながら視線を上げると、魔王様は優しげな笑顔を浮かべていた。怒られる訳ではなさそうだと、内心少し緊張がゆるむ。……それでも、魔王様の御前であるというだけで、緊張の糸ははちきれんばかりだけれど。
「イルマ様――」
アスモデウス様が、色々と言いたげな色を滲ませて魔王様のお名前を呼んだ。今紹介しようと思って居たのに、とか、物事には手順というものが、とか、そんなようなことを言いたいのだろう。けれど魔王様はアスモデウス様の声は気にも留めない。
「この仕事をする上で一番大事なことを先に教えておくね」
魔王様直々にご指導くださるなどという光栄に、混乱しながらも背筋が伸びる。はいっと元気の良い返事だけは口から飛び出して行った。しかし。
「絶対アズくんに恋したらダメだよ。ついフラッと行きたくなっちゃうかもしれないけど」
続けて魔王様の口から出てきた言葉に、思わず、はあ、と、間抜けな返事が口から零れてしまう。しまった、魔王様の御前で、と気合いを入れ直すが、口から出ていった言葉は引っ込められない。アスモデウス様のため息が聞こえ、視界の端には先輩が顔を逸らして吹き出すのを我慢しているのが見えた。
「イルマ様……」
「そうは言うけどねアズくん、今まで何人がこの仕事を『恋の病』で辞めていったと思ってるの?! 後任探すのだって結構大変なんだからね!」
……「そうは言うけど」と魔王様は仰ったが、アスモデウス様は魔王様の名前を呼んだだけだ。確かに、窘めるような声色ではあったけど、詳細は一言も話していないのに、なぜ言わんとすることを理解できたのか。この距離で魔通信でもしているのだろうか……
それから、魔王様の側仕えが頻繁に入れ替わっているの、魔王様の方針だと思っていた――城中がそう思って居るだろう――が、もしや、そういう理由で頻繁に入れ替わっているだけ?
「もー、学生時代、誘惑学勉強しようとするアズくんの背中押すんじゃ無かった!」
「誰彼構わず誘惑などしません。自分の意思で使うか使わぬか決められなくては、技術とは呼べないでしょう」
「最近もう、素の仕草が全部一々色っぽいんだよ! 癖付いちゃってるでしょ! 目の毒!」
「…………」
アスモデウス様がついに「イルマ様」すら言わなくなった。その代わりに、額に手を当てて深いため息を吐く。
……たしかに、その額に当てられた手も、こう……ただべったりと当てるのではなくて、手首を直角に曲げ、人差し指と中指の先を優雅に反らせて、指先から手首までが艶めかしいラインを描いているし、残された小指と薬指も、計算されつくしたような角度で曲げられている。それに、はあ、とため息を吐いた拍子に揺れる長い髪、その隙間から見える項……と、魔王様から釘を刺されて尚、うっかりドキッとしてしまう。
ここで、気をつけます、と言ってしまったらアスモデウス様の不興を買うだろうか、しかし答えないでは魔王様に失礼だ、と二人の上司の意向の間で板挟みになりながら、二人の様子を伺って正解の返答を探す。
が。こちらのそんな必死の腹芸など知りもしないのだろう、アスモデウス様はすっとその指先を額から離し、顔を上げ、魔王様の元へつかつかと歩み寄る。――そのほんの数歩歩く時だって、ステージの上のモデルを彷彿とさせるような足取りで、魔王様が「素の仕草が一々全部色っぽい」と言っていた意味がよく分かる――
そして、魔王様のすぐ横まで来ると、その耳元にお顔を寄せて、耳打ちの姿勢になる。
「――誘惑術を使っていないときにも色香が漏れているのだとしたら、それはイルマ様のせいですからね――」
アスモデウス様は魔王様にだけ聞こえるように囁いたつもりなのだろうけれど、聞こえています……と、思ったのだけど。
「……! もうっ、アズくんたら!」
顔を真っ赤にして、こちらへ「とにかく、本当に気をつけてね!」と言い捨てるようにして、マントを翻して立ち去る魔王様の背中を呆然と見送っていると、不意にアスモデウス様がこちらを振り向いた。がちゃんばたんと通用口が開いて閉じる音がしてから、アスモデウス様の小さなくて真っ赤な口が動く。
「……魔王様はああ仰ったが、『恋の病』でこの仕事を辞めていくものの半分は魔王様への下心を咎められてだ。重々気をつけるように」
先ほどまで優しく穏やかだった様子のアスモデウス様の瞳が、一瞬細く鋭くなる。ワカリマシタと固い声で返事する以外、何が出来ただろう。
そうして、アスモデウス様も魔王様の後を追うように通用口から魔王様の執務室へと消えていったその後で、先輩が教えてくれた。
「この仕事をする上で、本当に一番大切なことは、あの二人の痴話喧嘩に巻き込まれないようにすることだ」
もう少し早く聞いておきたかった。