おにぎりと、ある二人の物語自分にとっては重めの任務でくたくたになって寮に戻った深夜一時。七海は猛烈に腹を空かせていた。もう麓のコンビニまで行く気力などない。しかしこの空腹を抱えて朝まで過ごせるだろうか。明日は座学があるからそれに備えてさっさと風呂を済ませて休みたいのに寝られるだろうか。
ぐぅ……。
悲しげに七海の胃は空っぽであることを主張する。買い置きのカップラーメンは先日灰原との試験勉強の折に消費してしまった。もしかしたら夕飯の残りが食堂に……ある訳ないか。
ぐるぐると考えているうちに気づけば七海は食堂に居た。何もないのはわかっている。それでももしかしたら……。疲れ切った頭はうまく回らないが一縷の望みを掛けて食堂の電気をつける。
一瞬眩しさに顔をしかめた七海があたりを見渡すと、いつも座っている席に何か置いてあるではないか。七海は吸い寄せられるようにふらふらとそれに近づく。
そこには七海の拳より大きなおにぎりが二つとウインナーが5本、皿に盛られてラップを掛けられ置いてあった。その横には即席みそ汁の元が置いてある。そしてノートの端を切って書かれたようなメモが置いてあった。
『七海へ。もしかしたらいらないかもしれないけどお腹すいてたら食べてください。お休み』
灰原だ。この元気のいい字は紛れもなく灰原の筆跡である。灰原には明日たくさん礼を言おう。今日はもう遅いので、自分もこれらをありがたく頂戴して休もう。
七海は即席みそ汁の元を汁椀に入れると電気ポットの元へ向かいお湯を注いだ。かつおの出汁と味噌の香りがふわりとあたりに立ち込める。具はわかめだけだったが、深夜に一人で帰ってきて温かいものを食べられる喜びの前ではそんなことは些細なことだった。
味噌を手早く割り箸(これも用意されていた)で溶くとみそ汁を一口すする。温かいものが口の中から食堂を通り、胃のほうへと落ちていくのがわかる。
ふう。ため息をつく七海は、ここでやっと自分が任務終わりからずっと緊張状態にあったことに気づいた。今日は一人の任務だったが何とかこなすことができた。学ぶことも悔しかったことも多かったが、何より精神的に疲れていた。
七海は一日を振り返りながらおにぎりに手を伸ばす。大きな口で一口かじると、海苔の風味が広がる。程よい塩気が疲れた体には嬉しかった。夢中で食べ進めていくと中から鮭フレークが出てきた。これは灰原が白米のとっておきの友として大切に食べているものだった。それが惜し気もなくおにぎりの中に入っている。さすが灰原のごはんの友である。とてもおいしい。
あっという間に一つ食べ終えてウインナーを食べると、もう一つのおにぎりを手に取る。先ほどは夢中で食べていたので気づかなかったが、おにぎりはずっしりと重い。きっと灰原が自分が食べる量を基準にして握ったのだろう。でも空腹でふらふらだった七海にはちょうどいい大きさだった。
今度の具は何だろう。おにぎりの具はメモに書かれていなかったのでわからないが、灰原だったら変なものは入れないだろうという信頼の元食べていく。
二つ目は梅干だった。これは恐らく灰原が実家の祖母からもらってきた梅干だろう。種は抜いてある。小さな気遣いが疲れ切った七海の心にしみわたる。
ああ、私は灰原と出会えてよかった。七海はなんだか涙まで出そうになっていた。
最後にみそ汁の残りを飲んで後片付けをすると一気に眠気が襲ってきた。張りつめていた糸のようなものがふつりと切れたような感覚だった。
早くシャワーを済ませて寝よう。報告書は明日、書けばいい。
帰宅が深夜というよりもほぼ明け方に近かった七海は手洗いうがいを済ますとダイニングに向かう。体の大きな二人が向かい合って座るのにちょうどいいダイニングテーブルには、灰原お手製のおにぎりが二つ置いてあった。
灰原が起きてくる。
「あ、七海お帰り」
「起こしてしまいましたか、すいません」
「ううん、たまたまだから気にしないで。それより良かったらこれ食べてよ」
灰原はおにぎりの乗った皿を見る。
「今日の具は何でしょうね」
「ふふ、なんだと思う?」
灰原は、お茶入れてくるね、と言ってキッチンへと消えていく。
その間にジャケットを脱いでネクタイを緩める。
灰原はほうじ茶が入ったカップを二つ持ってきた。
「灰原休まなくていいんですか?」
「僕今日これから早朝任務だから大丈夫だよ」
そう言いながら灰原は席に着く。七海は灰原の言葉に顔をしかめた。今日は少し休んだら二人で出かける予定だったのに。
「まあまあ七海、そんな顔しないで」
「そんな顔とは?」
「労働はクソっていう顔。七海意外と顔に出やすいから気を付けなよ」
「外ではそんなことないですよ」
「そう? じゃあ僕の前でだけなんだ。嬉しいな」
そういえば。七海が切り出す。
「高専時代に私が任務で遅くなるとあなた、おにぎり作ってくれていたでしょう? あれ、妙にみっしりしていて重かったんですが一体米を何合使ってたんですか?」
「あれはたぶん二合くらいかな。あ、今はもう少し控えめだけど足りなかった? 僕七海のおにぎりもおいしくて好きだったな。ふんわり握ってあって具がたくさん入ってるやつ!」
「二合……。いえ、今はこれで十分ですが、そうですか。二合……」
「でも七海残さず食べてくれたから僕すごく嬉しかったんだよ」
「私も灰原の食べっぷりは見ていて気持ちが良いので作った甲斐があるなと、いつも思っていたんです」
空が白んできた。
「ねえ七海、もう少し暖かくなったらおにぎり持って公園いかない? お互いがお互いのためにおにぎり作って、具はシークレット、食べるまでのお楽しみ! どうかな?」
「たまにはそういうのもいいですね」
「なんだか学生時代に戻ったみたいだよね。あ、僕も何か食べようかな」
そろそろ出る準部を始めなくちゃ、という灰原に、
「今度は私が料理作って待ってますから今日はこれで」
七海は棚から食パンを取り出す。
「えっ! いいの? これ七海がすごく楽しみにしてたやつじゃないの?」
申し訳ない、という様子で灰原は七海のほうを伺っている。
「また買えばいいことです。それよりもしっかりと食べて無事に帰ってきてくださいよ」
「ありがとう七海! 愛してる!」
七海はおにぎりを、灰原はきつね色に焼いた食パンにバターとジャムをたっぷり塗って、それぞれ口に運ぶ。
「なんだか幸せだな」
「どうしたんです急に」
「だって大好きな人と食卓を囲む幸せったらないじゃない?」
「それは確かにそうですね。私は幸せ者だ」
二人は幸せを噛みしめるように食事を終えると、七海は風呂へ、灰原は着替えに向かった。
今日もまた二人の生活が始まろうとしている。